映画の感想2006

「ホテル・ルワンダ」



監督・脚本・製作:テリー・ジョージ
脚本・共同製作総指揮:ケア・ピアソン  製作:A・キットマン・ホー
音楽:アンドレア・グレア、ルパート・グレッグソン−ウイリアム、アフロ・ケルト・サウンド・システム
美術:トニー・バロウ、ジョニー・ブリート  撮影:ロベール・フレース 特別顧問:ポール・ルセサバギナ
主演:ドン・チードル ソフィー・オコネドー ホアキン・フェニックス デズモンド・デュペ デイヴィット・オハラ カーラ・シーモア ファナ・モコエナ ハキーム・ケイ=カジーム トニー・ギゴロギ ニック・ノルティ


 霧の中、車で川沿いの道を走ると俄かに悪路となって上下に激しく揺れ始める。ひょっとして道からはずれたのではないか、このままでは川に落ちるぞ、と運転手に止めさせて降りると、足元覚束なく彼はしりもちをつく。その手肌の感触は、アスファルトでも土でもなかった。人間だった。車は、路上に散乱する死体の上を走っていたのである。
 映画「ホテル・ルワンダ」の一場面である。1994年に起きたルワンダの内乱は、推定100万人の虐殺を招いた。二つの作られた民族の対立は長年喧伝され、隣人が隣人を殺すという信じ難い結果に至る。映画は、そこに立ち会った一人の男性の視点を貫く。だから、前述のようなグロテスクさを煽る場面は少ない。いつ殺されてもおかしくない絶望的な状況の中で、武器を持たずに生き続ける彼の姿は、大虐殺の現場に立たされた私たちを想起させ、戸惑わせる。劇中に登場したジャーナリストは、虐殺の映像を世界に発信するが、これで世界が私たちを救ってくれる・関心を寄せてくれると喜ぶ主人公をよそに素っ気なくこう言う、「世界の人々はこの映像を見て、“怖いね”と言うだけで、ディナーを続ける」と。だが、この映画はディナーを続けさせてはくれない。私たちはいやおうなく現場を体験するのである。
 主人公は、高級ホテルの支配人ポール・ルセサバギナ。冒頭から政情不安がラジオによって放送される中、彼はホテルマンとしての職務を全うせんと日々働いていた。政府を掌握するフツ族とツチ族の対立も楽観視していた(現在のルワンダでは「〜族」という区別そのものが禁止されているという)。だが、大統領の暗殺を発端に政府軍・フツ族が反乱軍を含むツチ族の虐殺を開始し、数日のうちにポールの周囲もたちまち騒乱に巻き込まれる。遠くの銃声や悲鳴は、一夜明けると死体となった隣人として曝け出された。
 ポールはヒーローではない。いや、白人の経営するホテルで支配人にまでなれたことが、彼の有能さを物語っているかもしれない。けれども、虐殺を目の当たりにしたとき、彼は迷わず家族の救出を考える。家族を救うために行動する。隣人たちがポールがフツ族であり有名なホテルの支配人というのを頼って集まってはくるが、当初彼は少し迷惑そうな表情さえ見せる。ツチ族を殺せ・さもなくばお前が死ねと脅されると、軍人に金を渡して家族(妻はツチ族)を助ける。残された隣人たちを見て、彼はさらに金を出して結果皆をホテルに宿泊という名目の上で避難させる。ホテルでの彼の振る舞いは一貫してホテルマンとして、宿泊者を守るための態度をとる。正義感とかなんかそういうものに突き動かされている印象は薄い。そういうのははぎ落とされている。彼は一個人として、今現在の立場から出来うる最善の行動を考え実行しているのである。だから、彼はヒーローとしてではなく、支配人として「仕事をしろ」と部下に命ずる。仕事とはもちろん、宿泊者のために働く、という意味だ。ホテルにすがってくる人々は、みな宿泊者として受け入れられ、その数は最終的に1200人を超えた。
 あとは国連や諸国の救援を待つばかりと思っていたものの、やって来た西側の兵士たちは、ルワンダ国内に残る白人の国外退去の支援が目的だった。国内に残るは、わずか300人の国連の平和維持軍のみ。そのうちホテルの警備は4人。ツチ族の引渡しを求める政府軍に対して、ポールはどう対応するのか。絶望的な状況から物語は加速し始める。余所見はさせない。
 さて、以下は是非とも劇場で確認してほしいのであらすじは省くが、正直、かなり複雑な余韻が私を包んでいる。虐殺の恐怖とラストの歓喜が一緒くたに渦巻いている。誰もが行うだろう言動を振舞わせることでポールへの感情移入を促され、私がポールの立場だったら彼のように振舞えるだろうか、という疑念と常に向き合わされた。私はポールと感情を共有する一方で、とてもこんな環境は絶えられないという恐怖・というよりも自分自身への惨めさが先立ってきたのである。政府軍、ほとんど暴徒と化したフツ族の民兵、平和維持軍、ヨーロッパの親会社、そして避難してきた人々、これらを相手に職務を遂行する彼の姿は、私を卑小にした。私は彼のように他人を守るための行動を起こせるだろうか……
 いっそ冒頭で引用した場面みたいのが連続していたほうが、まだ他所の世界の出来事として、「アフリカのどっかの国で起きた虐殺を描いた映画だって」と菓子を食べながら言えるだろう。なぜなら、虐殺された死体の映像は初めこそインパクトを与えるものの、すぐに慣れてしまうからである。簡単に慣れてしまうんだ、刺激も減るし印象も薄くなっていく。たくさんの人が殺されたらしいという情報しか持ってないポールは路上の無数の死体に戦慄したのは間違いない。だが、いや、だからこそ私はそれ以上に、死体の上を車が走っていたことに慄いた、打ちのめされた。この後、劇中でポールはネクタイが上手く結べず、憤りとも恐怖ともつかない表情で着かけたワイシャツを破り脱いで泣き崩れる。彼がこうなった理由はいろいろ想像できる、観客一人ひとりの思いが、この時の彼の気持ちなのだろう。ああ、彼も苦しんでいるんだ……この場面は私にとって救いだった。
 そもそも、二つの民族に違いはない。定義されているものの、あくまで植民地時代に統治国(ベルギー)が勝手に線引きした基準に過ぎず、両者を分かつものは、身分証明書の「フツ族」「ツチ族」の印字だけだ。よって兵士たちも身分証明書の提示を一人ひとりに求め、民族を区別している有様なのである。支配層と被支配層の積年の差別教育も加わり、彼らは憎悪をたぎらせた。このような事態は、たとえばボスニア・ヘルツェゴビナでの子供たちへの教育を想起させる。激しい内乱の後、民族ごとに教室は分かたれ、それぞれの民族教育を施すのである。なんだかいずれこの国でまた憎しみの連鎖が起こりそうで怖い。
 ルワンダの大虐殺の報に接したとき、私は人が簡単に人を殺すことに愕然とした。だが、人は殺しあう生き物だということよりも、ポールのように人は助け合う生き物だということを信じたい。

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