「創生日記」


 宇宙は何故生まれたのか。どのように生まれたのか。そして生物はいかようにして生まれたのか。宇宙論に興味を抱いてこの方、その疑問は度々不眠を招き、白昼そぞろにぼんやりしては無意味ではないかと思えることに没入した。それに関する本も読んだ。わけのわからない数式に惑乱しつつも、あの瞬間・ビッグバンの世界を必死になって空想した。妄想したと言うべきか。想像ではない、なにせ視覚的に表現できない世界なのだ、知識と情報と感性の貧しさを恨みながら文章からあーでもないこーでもないと、半分あの世に足を突っ込んだような胸にうごめく嘔吐感に焦燥し、はるかな未来に慰めてもらう、今日の不可能は明日可能になる、というツィオルコフスキーの言葉を信じ、きっといつか人間自身が高度に発達した科学力で宇宙の起源をシミュレーションし実験室で本物の宇宙を作ってしまうに違いないと。そして、それこそが真のパラレルワールドの誕生に違いない。
 ひょっとしたら、この宇宙自体が、そのようにして創られたのかもしれない・・・となると何ものかの意志が働いたというわけか? 一体それはどんな意志だろう。もしそれが科学者だとしたら、その科学者は何を思うだろうか、自分が造物主であることに何を感じるだろうか。
 人間がこの宇宙を創ったのではないか? という根拠のない妄想が私にはある。実際「そんなばかな」と反駁されれば「そうですね」と引き下がるしかない。突拍子もない妄想をいつ頃意識したのか振り返ると、やはり幾多の宇宙論に関する本に啓発された結果に違いない。本の著者たちは、一見冷静に宇宙の謎を解き明かそうとしているものの、無意識裡にあるいは半ば意識していたとも思えるくらいに何かを胸の底に抱いて持論を主張し、反論に食い下がる。強い信念には全く根拠がなく、学者たちの独善は迷いなく冥界を暴走していた。次第に単なる言葉遊び、というより数式遊びのように観測結果と数学をひねって真理らしいものを語っている彼等は、神にでもなろうというのか? 私が胸に感じた嘔吐感は、科学者が胸に抱いていた何かの前段階だったと思える。すなわち、無に意味を与えようとする行為に他ならない。
 いや、実際無に意味はなかった。この宇宙が生まれたのは神の意志・・・否、加味という少年の意志によって創られたからである。なんということだろうか、答えはここにあったのだ。世界中の学者先生連中の研究は徒労に終わった。全ては解決された。宇宙は藤子・F・不二雄が創ったのだ、ありがとう!

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