拝啓 手塚治虫様第1回



 最近の漫画は物語性が薄いと嘆く人がいるらしい。具体的にどう薄いのか知らないし、物語性が濃いだの薄いだのという考え方がよくわからない。昨年(2002年)秋にOHPで提起された「物語問題に関する整理」を眺めながら、漫画における物語性って何やろなーと思うこと重なり、それでもそれを棚上げして漫画を読んでいたけれども、どうもすっきりしない。私自身、感想文を書くという行為から漫画の読み方考え方は変遷しているが、物語性に関しては、みんなの知ってる大前提として、とりあえずなんとなく「どこかにある」と漠としたものながら漫画について書いてきた。
 物語性に関しては、岡崎京子「リバーズ・エッジ」の感想で私自身が思い切ったことを言っている。「岡崎京子は物語を描 いていないのではないか?」と。ほとんど直感だったが、最近、漫画という表現自体に物語を包む力がないのではないかと思い始めた。岡崎京子の研究本「オカザキズム」内で私の直感を補完するような文章があり、これは岡崎作品を読む人にとって無意識裡の共通認識なのかもしれないとも思う。
 漫画に物語はない。と言うのは、いかにか哲学とサブカルにかぶれた学生みたいな言説で嫌なんだが、こう考え始めるとなかなか払拭できなくて困った。そもそも、物語の定義からしてはっきりしていないというのに、何を根拠にこんな迷妄をほざいているのか。2月9日は手塚治虫の命日ということで、毎年この時期は手塚作品を読んだり考えたりしているけど、ストーリー漫画を一大分野に膨張する礎を築いた手塚氏に失礼ではないかとも思う自分がいる一方で、手塚の影響からなんとしても逃れたいという未熟な自分もいまだにいて、ひじょーに複雑である。ところが、手塚氏が今の作品読んで何を言うだろうかって考えると、やっぱ普通に嫉妬すると想像するんですよ、なんでかって、やっぱり漫画に何かあるからなんだ。でもそれは物語ではないと思う、技術だったり、表現力だったり。決して自身のアイデアの方が劣っているとは認めない。でもね、手塚ファンの私が言うのもなんだけど、手塚漫画ってどうみても古いんだ。絵柄は古いかもしれないけど、手塚作品の「スートリー性」は素晴らしいと力説するファンもいるだろう、しかし、どう読んでも漫画は絵が決めてだと思う。じゃあ、物語性は無視かよ、というわけではない。ていうか、物語を構成する要素ってなんだろうか。やっぱり漫画と物語の関係性について黒白を決すべきではなかろうか。とあえずでもいいので。

手塚治虫「スターシステムの功罪」
 手塚作品の特徴だ。違う作品に同じ造形のキャラクターが出る、そう出演するのね。役者然と。キャラクターを作品から分離して一人歩きさせる。で、これってとても好意的に評価される傾向があるんだけど、手塚ファンでない人にとってはどうなんだろうか。たとえば、手塚漫画にはロックという名優がいる。ファンならば彼の出演作を列挙し同時に彼の人物像を各々想像するに違いないだろう。私もそうだ。特に「バンパイヤ」の冷血さはしびれたもんだ。だが、そうしたキャラの背景を知らない読み手にとって彼はどう映るだろうか。知らない役者の演技を見る、その時に抱く役者の印象は、容貌であり口調であり、ドラマの中の役割・設定だ。先入観はない。
 朝寝坊してパンをくわえながら家を駆け出る少女が登校途上曲がり角で少年とぶつかり諍いするも慌てて学校に走って遅刻せずに始業に間に合うと担任と一緒にそのときの少年が入ってきて実は転校生で実はよく見るとかっこよくて実は成績優秀で。さて、これから少女と少年が恋愛関係に発展していくことは容易に想像できようか。もし出来るならば、それはこの設定をお約束・陳腐なよくある話と知っているからである。一方出来ないならば、都合良過ぎ・新鮮で面白そうなどと予想できない反応が期待できる、物語に対する先入観はない。スターシステムは、キャラクターの細かな設定を簡略化し、描かずとも読者が持っている先入観を利用した手法といえる。ロックに影のある性格を読み取ったとしたら、それは過去にそういう作品を読んだからであり、作品それ自体がロックをそう描いたからではない。民放のテレビドラマがその典型である。まず、キャスティングありき。世間が抱くタレントへの印象を大いに利用し、役柄の設定さえタレントの雰囲気に合わせ、そこから台本を作る。そうして出来上がったドラマを人々はなんて語るか、役名は無視され、タレントの名でドラマの内容が語られる。当然、台本つまり物語自体がタレントのものになっていく。スターシステムの成れの果てといえよう。(手塚作品はまず先にアイデアありき、だったのでそんなことにはならなかったが)
 ある作家の作品を読み続けていけば次にどのような展開があるかは、作家の癖を自然と読み抜いた読者ならばいくつか想像できると思う。長編漫画といえども読者は次の面白い展開を予想する。常に一定以上の先入観(あるいは期待)を抱いて本を読んでいるわけだ。そうした蓄積は、読者にとって物語を解きほぐす知識となる。前述の少女と少年の邂逅から恋愛への流れを初めて読む者にとっても、過去の蓄積が新鮮さを決定付けようし、ロックに抱く印象さえロックを知らずとも絵から設定を推測するだろう。手塚漫画の絵を古いといったのも私自身にそうした蓄積があり私にとっての新鮮な絵があるからである。つまり、物語の所在は書き手にあるのではなく、読み手にあるのではなかろうか、というのが「漫画に物語はない」という所以である。
 漫画を読んだことがない人にとっても経験という本人の蓄積があり、それが小説や映画に接したときに読解力として発揮される。作り手も同様に蓄積がある。漫画に限らず現在、多くの作品は手塚氏のスターシステムのように蓄積された物語という枠組みをシステム化しているといえる。もっと平たく言えば、物語のパロディ化だ。みんな知ってるよくある話も、登場人物の配し方に設定を凝らし背景を彩り小道具を散りばめることにより斬新な話にすりかえられる、同じ骨格の人物に様々に化粧を凝らしていろいろな顔にしてしまうわけだ。こう書くとあらゆる作品に物語はないという意味に捉えられてしまうけど、いや実は自分でもよくわからない、物語ということに関して言えばあらゆる作品にそれはあるといえる。お約束の展開だろうが王道だろうが陳腐だろうが、物語は厳然とある。つまらない理由は物語性が薄いとかくだらないとかではなく、独創性がないからである。この辺を勘違いしないようにしたい。それでもなお、漫画という表現はとても特殊である故に物語を持っていないのではないのか、としつこく考えてみると、漫画は幸いテレビドラマの惨状には至っていない。なぜなら作者間でタレントの共有化が行われていないからだ、自明の理なわけだが、そうしたことを積極的にぶち破り、物語を作らないことを自覚し腐心した作家がいた、冒頭で触れた岡崎京子である。


  戻る