拝啓 手塚治虫様第10回 動く空間



 駄目、私には漫画史の流れを俯瞰するほどの力がない。だから「童夢」と「ドラゴンボール」の比較は専門家に任せる、というか、もうすでに誰かやってるかもしれないので、ここからは再び原点に返って知覚ってところから漫画の絵の面白さを考えていきたい。
 今回からやっと具体的な作品を例にマンガ的記号とかリアルさとかを考察していく。まずは大友克洋の「童夢」。

物体と影
 夏目房之介氏は「手塚治虫の冒険」で「大友克洋は、いわば戦後マンガが達成してきた修辞法を打ち消し、解体したあげくに、物語ってものを、自分の修辞法でもう一度読みかえてつくりあげる。」と述べている。修辞法ってのは漫画的記号のこと。つまり大友はそれまでの記号をぶっ壊したってことだ。大友によって再構築された新しい表現は濫用され模倣され、今では当たり前の技法にまでなっていったらしい。では、その新しさに読者はどう対応していったのかってのが気になる。それまでの読みなれた記号がないわけだから、これは何を表現しているのかってのがわからないと、物語の意味が通じなくなってしまう。だから従来の記号を用いつつ、リアルな表現を画面に突っ込んでいったのではなかろうかと思うのである。「童夢」(あるいはその前の「Fire−ball」)がどれほどの衝撃だったのかは私は当時を知らないんだけど、映画的とかリアルとか言われて絶賛されたこの作品の運動表現を自分なりに分析してみた。
 まずは地面に映る影。これがしつこいくらい描かれてある。人の影はその形として黒く塗られたり線で描かれたり、今その人物がどこに立っているか・どういう状態なのかが、人物の重心をしっかり捉えることで表現されている。とりあえず手元にある漫画をパラパラっと開いてみて、影がどう描かれているか見てみよう。結構さらっと描かれてあるでしょ。線でぐしゃぐしゃと描くだけとか、スクリーントーンを適当に貼るとか。同じ場所に立っているのに、影があったりなかったり。普通に読むのに邪魔なんだろうし、人物が影に埋もれてしまうからなんだろうけど。もちろん大友だって全部きっちり描いているわけじゃない。ではどういう状況できっちり描いているか。
 44頁2コマ目、小石が浮かぶ。擬音も効果線もないけど、浮かんで静止したって感じだね。他の漫画家だったら、「ふわっ」なんて吹き出しを付けるかもしれない。でも浮いた、浮いているのはわかる。なんでわかるかっていうと、小石の下の黒い丸・つまり影だね。これだけで宙に浮いているってのが知覚できるわけ。ためしに影を指で隠してみると、地面の上に転がっているように見える。たいしたことじゃないように思えるかもしれないけど、重要なのである。絵画と違って線で描写されることが多い漫画で、如何に単純な線で多くを表現するかってのが、コマにどれだけの情報を込められるか、というところにかかわってくる。多くの人が指摘する動線の排除、つまり動きを伝える単純な記号を描かず、どう動きを視覚的に表現するか、そのひとつの拠りどころが物体の影なのである。続く4コマ目でもいい、悦子の顔の横にある小石、これも左肩に小石の影があるからそこにあることがわかるけど、影がなかったえらいことになる、悦子の頬になんかくっついているように見えてしまうのだ。影があるかないかでこの違い、地味だけど無視できないのである(「Fire−ball」でも鉛筆を机の上で浮かす場面があるよね、あそこでも鉛筆の影があって、動線を排することで、その場に静止したまま浮いているっていう感じを表現している)。
 これに留まらず宙にあるものにはよく影が描かれる。飛び散ったコンクリートの破片の影とか、チョウさんが持ってた杖がバラバラにされて宙に浮くところとか、最後の超能力合戦はそれ以外に小石とか葉っぱが浮かんで高速移動するけど、それらにも影がある。60頁のボールにも影がある。こうまで細かく影が描けるっていうのは、作家の頭の中に現在の場面のどこに何があるかどう動いているか・フレームの外の状態も含めて、環境全部を映像として理解しているからだと思うんである。だからどの構図からでも何でも描けてしまう。常に映像がぐるんぐるん回っているんだろうね。だから動線なんてもんも必要としなかったのである。

周囲を動かす
 いきなり飛躍しちゃったけど、「童夢」読めばわかるように、流線の類はあるよね。どこに線があるか、これが重要なのである。腕が動いたからといって腕に動線をつけない、走ったからって身体に動線をつけない、さっきの小石の場面(44頁)を振り返ると、3コマ目で小石がヒュンッって移動する。線は小石を囲むようにある、奥のほうから手前に移動したかのように錯覚させる線だね、実際そう見える。錯覚というか錯視というか、ちょっと意味が違うかもしれないけど、大友の運動表現・躍動感の源泉は、この物体の周囲にある集中線にあるのだ。
 コマに描かれたものをカメラに映ったものとにたとえるとわかりやすい。背景真っ白な場所で小石を透明な糸で吊るして浮かんだ状態にして、手ぶれしないカメラで小石を撮る。カメラを小石に近づけたり遠ざけたり、構図も自在、カメラの動きも自由。傍から見ればアホみたいだけど、映像だけを見れば、さてどうだろう。停止中の電車に乗っていて、向かいの窓から見える電車が動き始めたのに、自分が乗っている電車が動いたと錯覚することってあるけど、画面の中の小石も動いて見えるかもしれない。そこにビュンビュンなんて飛ぶことを想起させる効果音が入ったら、または背景を被せて動かしたら、もうカメラが動いているなんて画面からでは判断できないかもしれない。向かいの電車と同時にプラットホームまで一緒の方向に動いちゃったら、自分の乗った電車が動いていると思い込んでしまうだろう。
 動線による表現は描いた物自体を動かすって感じになるけど、それを囲む空間全体を動かしてしまっても同様の効果以上のものが得られるという映像感覚が映画的という印象を与えたのかもしれない。105頁で吉川がガラス割る場面、2コマ目より4コマ目で画面を広げてガラスの破片を細かく描きつつの左側の動線で勢いまで表現している。しかも「ガシャン」という擬音の上にガラスの破片があることで、動線の効果もあって、音が画面から読者側に伝わってくるというよりも建物の外から中に破片と一緒に飛んでいくような感覚まで受けてしまう。113頁の5,6コマ目は悦子が瞬間移動した場面だが、どちらも同じ構図・同じ配置で5コマ目の悦子が6コマ目で描かれていない。で、6コマ目の下に効果線があって、これが微妙な空気の揺れを表している。これも錯覚の一種と捉えることが出来て、ただ消えたから描かないってだけじゃないのだ、下の奥行き感を煽る描線があって初めて成立する瞬間移動なのである(と思う)。同じ頁の1コマ目もそうだね、これも奥行き感を過剰に煽る集中線が効果的である。
 「童夢」は背景も上手いこと出来ていて、高層団地なのである、まるで図形なんだ、実際にそのような効果を利用した描写もある。おまけに団地内の歩道、正方形のパネルを敷き詰めた地面で、これがまた図形と化して後の悦子とチョウさんの高速移動を補っていもいる。すごいね。118頁5コマ目のスピード感・急降下、集中線とともに図形化した建物で広い屋上から団地の敷地内に吸い込まれていくような描写。122頁1、5コマ目も集中線が密度濃く引かれている、周囲の建物でまたまた奥行き感を煽ると、123頁では歩道をちょっと歪めるほどだ。ここまで煽ると2コマ目ではもう線がいらないくらいに読者は奥行き感を容易に獲得できる、視線移動も利用したチョウさんの移動だね。こういう例は他にもいくらでもあるので具体例はこの辺にしておこう。

やっぱ文法に戻るの?
 こういうことが出来たのは、人物や物体を正確に描写できたからなんだけど、では他の絵の上手い漫画家はどうなんだろうかってことなのだ。あなたにとって画力がある漫画家の作品で空間を動かした例はあるかな? やっぱり腕動かしたら、周囲に効果線付けて、その上さらに腕の軌道・流線を描いているんじゃないかな。となると、ただ効果線を描けばいいって訳じゃない難しさかあるんだろう。何よりも奥行きを感じさせる舞台装置が必要かもしれない。
 さてしかし、描写だけではない。これはBSマンガ夜話の「童夢」の回でも言われていたことだし他でも散々言及されているけど、省略の妙を無視できない。一連の動作のどこを描きどこを描かないか、この編集作業があってこその動線の排除、となると、そこに知覚がどう絡んでくるかだ。少女漫画を愛好していた伊藤かずえ氏は前述の番組の中で、「いきなり、こう飛んでたりしません? コマが」と読みにくかったと語る。で、訓練しないと(漫画の文法になれないと)読めない・成熟した読者がすでにいたといった感じで、もうすでにマンガ文法の存在を暗に語っている。
 でも、認知心理学から考えると、動きって割と単純に知覚してしまうんだ。たとえば踏み切りのような赤灯が交互に点滅する場面を想像して、交互に点滅する速さが一定の速度を超えると、一つの赤い点があっちこっちに動いて見えるようになる。もちろん頭の中では二つの点が点滅しているだけってわかっているんだけど。あるいは身体の主要な関節に豆電球を付けた人が暗闇に立ってる、静止したままだと、いくつかの点が光っているだけに見える。ところが人が動くと、各光点をひと塊として人が動いたと認識してしまうのである(性別まで認識できるというから人の認知能力の不思議さに驚く)。これがマンガの文法とどう関わるかなんてまだわからないし、関係ないかもしれないけど、ある程度省略されても始点と終点が描かれればどう動いたか簡単に認知出来ちゃうんじゃないかってことなんである。まあでも、実際に読みにくいって声を聞くと、やっぱり文法ってどのくらい影響しているのかなってのも気にはなる。
 ということで次回は省略の妙を探っていく予定。対象作品は、どうしようかね、最近だと富沢ひとし? まあまた考えるべ。
主要参考文献
大友克洋「童夢」双葉社 1983
夏目房之介「手塚治虫の冒険」筑摩書房 1995
ドナルド・D・ホフマン「視覚の文法」紀伊国屋書店 2003 原淳子・望月弘子訳
NHK DVD「BSマンガ夜話「童夢」(1996年放送)」 NHKソフトウェア 2003

戻る