拝啓 手塚治虫様第12回

台詞を支える演出




 状況を何でもかんでも台詞で説明されるのってテンポが滞りやすくて、説得力に欠けてるし、作品として面白いという評価はほとんど得られないことが多いと思う、根拠はないけど。でも、そういう説明をしなきゃならない状況を描かなきゃならない時ってのが、物語の都合上必要になる場合があり、作り手の苦労は読者の想像外にあろう。テンポを崩してまで必要な物語の解説場面を作家はどうやって描いているのか、この辺を今回は考えてみた。

1 げんしけん再び
 前回の流れから「げんしけん」を採り上げる。説明するには当の聞き手が必要なわけで、つまり台詞をしゃべる状況には複数の登場人物がいる、当然だな。では何人その場にいるのかが、まずは重要になる。彼は誰に向かって話しているのか、その中の一人なのかみんななのか、そこをはっきりさせておかないと読者は状況を把握できないままに説明文を読むという苦痛を強いられる結果になる(いやまあね、長々とした解説を堂々と作風にしちゃった漫画も昔はあったんだよね、今じゃありえないけど)。
 4巻「げんしけん誕生」、扉の次の1コマ目、斑目の次のコマを大きくとって会議に参加している人数がはっきりする(4巻4頁も同様の演出になっている、こなれてきたんだろうな)。彼らの座る位置もはっきりさせる。最初の表情で、各人の会議に臨む姿勢もうかがえる。手堅い。まず背景がしっかりしてれば、その後の台詞がだらだらとしたものになっても、会議の内容に対するそれぞれの態度を観察したりと、今どうなってんのという混乱がないから読む側に台詞を読む余裕が出来る。会は話している者が中心となる傾向があるので、会長が名目上会を取り仕切っているとはいえ、会の中心にはならない。仲間(1名除く)がわいわい集まっているという雰囲気を机の上に散らかったスナック菓子やペットボトルのような雑多な感じで表現し、演出も素直に1コマ1コマ中心軸を変える。皆の注目を集めたものは基本的に正面から描かれやすく、皆の視線は彼に向かいながら言葉をつなぐことになる。
 深く考えるまでもないような単純な演出も、どこに誰がいるのか、会の中心・その時の中心は誰なのかを説明的台詞ではなく、演出でさりげなく伝えるってのは読者が思うほど簡単ではないようだ。1巻「円卓会議は踊る」の冒頭が、その難しさの表れである。おそらくここでの作者の狙いは、いきなり内容の濃い台詞をつなげることで、次第に部室内の各人の配置を明らかにしていこうという心算があったものと思われる。斑目が会議を宣言するところでようやく4人の配置が判明するが、その後まただらだらとした話し合いが始まって読んでいるほうまでだらだらしてしまう。また笹原への配慮のなさというか、微妙な無視っぶりを感じさせてしまうのも、いたたまれない。常に笹原以外のほうに向けて発言する斑目、笹原の影の薄さが強調されているのだが、先の「げんしけん誕生」と比べると、当時の笹原と同様の立場だろう春日部とは扱われ方が違う……というかね、はっきり言うと作者の構成力が上達した結果なんだけど、1巻の頃は話者が中心で聞き手への配慮が欠けている、演出が行き届いていない感じがするのである。1巻の会議で話についていけない笹原の表情の集約が1コマ(1巻93頁4コマ目)に対し、春日部はほとんど周囲のものと一緒に表情が描かれ、会議への蔑み・無理解さってものが他と比較されることで表現されているのである。圧倒的な言葉の量にたじろぐ状況を、画面いっぱいの台詞で表現した連載当初に比べると、絵で表現しようというか上手くいえないけど演出・構成力で表現してしまうまでになっているということである。
 そんなオタク臭に満ちた空間にやってくる訪問者、1巻の円卓会議中に春日部がドアを開けて入ってくる。ここ、ドアノブのアップがあってガチャコンと擬音まで入って、素人くさい演出であるが、4巻だともうない。音だけで入れて次のコマには人物が登場したり、コマ数を省いて簡略化している。読んでる方としては、ドア開いたってだけの情報なんかつまらないからね、読みやすくなってるし、1コマの情報量が安定しているからたわいないコマにも読む意識が向かいやすいんだよね(この安定感の積み重ねがあるからこそ、「愛すべき娘たち」のような空白を読ませるという高等技術も可能になるのだろう)。

2 中心は誰か
 さてしかし、そんなもどかしい上達なんてことをしない、はじめから上手い作家もいるわけで、浦沢直樹である。
 複数の人物が登場する場合、まずそのうちの一人のアップから入って、何か台詞を言い、続く場面でその場にいる全員を描くという手法が定型化している(多少の差はあるけど、だいたい同じ)。円卓会議つながりで13巻の「円卓の会議」を例にしてみる。
 48頁で万丈目が登場し、次の49頁で部屋全体が描かれる。この構図がまた上手くてね、読者の視線・意識の流れを阻害せずに誘導しているのでびっくり。49頁だけ見ても、1コマ目、円卓を囲む幹部たちよりも目立つ位置に一つの空席、次のコマで空席のアップ、このアングルは空席の正面に座る万丈目のものだが、これも前のコマで彼が発言しているのを受けてのこと。台詞は万丈目に、視線は空席に、このふたつを次のコマでまとめて読者の意識を乖離させないような構成をとる。3コマ目でまた場面が飛びつつも、空席に関わる台詞で意識をつないで、次のコマの人物は、3コマ目の人物のほぼ正面に位置し、最後のコマで顔を上げて、3コマ目の人物の後ろにある写真にみなが目を向ける。つまりこの1頁だけで、全体を描写した後を続けてコマを追っていた読者は知らずに全体を見渡す結果になっている。平面を俯瞰させ、個々の描写で空間を作り上げているといった感じ。円卓の上を空席から万丈目、続けて万丈目から見て左手の男、その男の正面の男と、少なくとも読者の思考は卓上を巡っている。
 続けて物語はともだち∴ネ後をどうするのかという話し合いに入る。ここでの中心人物は万丈目である。これは読者も劇中の人物も認めるところで、では彼は中心としてどう描写されているのかに注目すると、まず絵を見ると、他の人物が横顔だったり、どこかに顔を向けた顔が描かれることに対し、彼だけは正面の顔が描かれ続けている。この場の中心たる彼の描写自体が中心に相応しい描かれ方をしているのである。そして台詞は、他が誰かに向けた言葉・誰かを意識した言葉なのに対し、彼だけは特定の誰かではなく、その場の全員に語りかける言葉なのである。で、これだけなら作者の技量なら当然の演出だけど、表面上は対等な立場である幹部たちにとって、事実上中心的存在である彼が次の後継者ではないかと探られると、万丈目の斜め後ろからの構図で彼の顔が描かれるのである。このかわしかたが素晴らしいと思った。この構図自体に、彼はその意志がないと語らせているのである(ほんとかよ……)。
 その後は13号の登場によって急展開し、ある男に注目が集まり長広舌を振るうが正面の顔があまり描かれない、こんな描写をされた人物って、浦沢漫画ではだいたい殺されるんだよな。
 「げんしけん」のようなおしゃべりの光景というと、4人の女子高生がドーナツショップで世間話をする「終わりの始まり」の回が適当だろう。テレビニュースが気になって仕方ない小泉、彼氏の浮気疑惑を相談するトモコ、それに付き合い他二人。小泉の感情に近い読者としても、ニュースで伝えられる先の円卓会議の出席者の訃報は気になるところだが、誰もが中心にならないしなろうとしない4人の描写に先ほどのような一貫性は乏しい。この場の中心らしいトモコの話題にもなんとなく付き合っているだけで真剣さがない、123頁5、6コマ目の横からの構図が4人の心情のいい加減さ・まとまりのなさを表しているが、弛緩しかけた読者の意識が、それまで小泉からの視点として描かれたテレビを誰かの視点ではない・正面から描くことで4人の傍流でしかなかったニュースの言葉が突然本流になだれ込んできて意識をかき乱す。不安を与えることで緊迫感を読者に勝手に育てさせてしまうってのがいつもの浦沢流で、続きを読ませる力ってのがすごいね。その後のトモコと小泉が遭遇する事件は、すでに報道の一部のような扱いになってて、つまりこのニュースキャスターの正面顔が描かれた時点で、すでに物語の中心はテレビニュースになっていたということ。だからこそラストの報道場面が生きてくるし、説明的台詞の見本とも言えるニュースの言葉が、リアルな台詞となって読者に読まれるのである。

 さて、長台詞や説明・解説も状況の演出次第でリアルに迫ってくるんじゃないかと思って考えてみたんだが、これはもっと多くの場面を分析する必要があるかもしれん。今回は試しにやってみただけなんで、よくわからん。なので台詞についての考察はまだ続く。

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