拝啓 手塚治虫様第13回

言葉のない台詞




 第11回の冒頭でも少し触れたけど、冗長な台詞が多い・それは漫画に限らずドラマでも映画でもそうなんだけど、結局台詞で説明してしまうことの理由なき嫌悪ってものは、やっぱり読むという行為よりも見ることのほうが先に来て、そこから得られる情報が読みに与える影響が大きいことを生来知っているというか学習しているからかもしれない。映画にはこれに聴覚が加わるから、余計に台詞を解釈して意味を読むという行為は、映画を鑑賞する姿勢を阻害しているかも、なんて思う。漫画だと、絵の情報量が物語の出来を決めてしまうんじゃないかとも最近考えている。認知心理学の分野はまだまだ未発達だけど、いずれ私たちが漫画を読んだときに起きる脳の変化も解明されるんじゃないかな、そのとき重要なのは絵だってことになると容易に予測できる。だから、台詞や説明書きってのは絵の情報を先導したり補完する役目・あくまで二番手であってほしいという欲がある。ある作品の名言録みたいな本もあるにはあるけど、あれはもう勘違いもいいところでしょ。台詞だけ読んで楽しい? 漫画に限らないけど、台詞ってそのときそのキャラクター(映画だったら役者)がそのとき言うから心に残るんであって、台詞だけ抜き出しても、意味ないんだけどね、真面目な話。まあでも、話芸みたくなってればそれはそれで面白いんだけど。で、今回は、そんな名言もクソもない台詞のない場面について考えてみる。

志村貴子の饒舌さ
 説明しにくい作品だよなー、「放浪息子」。「敷居の住人」の感想書いたときも思ったんだけど、この人のリズム感ってものをどうやって言葉にしていくかってのがとてもしんどいんだが、ぐたぐだと理屈を付けるよりも実際に読んで見たほうが早いので、「放浪息子」2巻。私はこの作品の主人公・修一の姉が好きなんで、まずその姉・まほを中心に読んでみよう。
 2巻の姉は修一の女装趣味に気付いて、さあどうしようという展開が見られる。最初に修一の女装に疑いを抱く場面・52頁。作者はトントンと話を進める一方で何か考え事をしている人物についてはコマを費やす傾向があって、ここも1頁6コマ使って台詞のないまま姉の心理描写をやっている。おそらく妄想しているだろう最初の2コマからそのまま眠りにつこうかという矢先に飛び込んだひらめき、3コマ目でやや目が開いて4コマ目で「すっごいこわいこと考え」てベッドから落ちる。この説明不要の展開を読者に理解させる所以が前頁までのフリである。瀬谷という男子に好きだといわれて舞い上がったのも束の間、家にいたという女性(修一が女装した姿)が気になるといわれて、訳がわからなくなる姉、仕舞いには母に八つ当たりして(話しそれるけど、ここのくだりもまた上手いんだよ。親と会話しているんだけど、合間に母がアイスクリーム持ってきて食べるんだよな、で、父も食べるらしくて姉同様の皿に盛られたアイスを前にしてて、姉が母にバカって言って自室に戻るコマでは空の皿が二つあるんだよ。会話の時間経過のさばき方に惚れる。またこの父の笑顔も何気に好き、まあそれは置いといて)床について誰に聞かせるでもなく独り言をつらつらと。それを聞いて自分が女性に見えたことを知る修一、顔赤くして、この流れで52頁に行くんだけど、ここまでの集積で、姉と弟が同じことなんだけど違う方向に思いを巡らせていることになる。姉も顔を赤くしてるし。ところがその結果生じた感情が姉弟でまた大きく異なっている、53頁の姉の横顔。これが52頁5コマ目と同じなのだ。でも、ちょっと変化があって、弟のセーラー服姿を妄想した最初の顔が、次は実際に弟を見ながら想像してみる顔。これもまた何気ないけど上手いんだ。最初は頁の外側向いてるでしょ、それが次は頁の内側に向いている。ほら、4コマ目の構図から起き上がるとしたら向きが逆のはずでしょ、でも違う、そっぽを向けることで姉の視線がそっぽを向く、この段階では妄想というかまだ具体的な想像図ではないのである、多分ね、他の作家だったらもっとわかりやすい描写を挟むかもしれない。巧拙ではなく、これは作家の感性としか言いようがなくてもどかしいんだけど、例えば横の麻衣子ちゃんのポスターに弟の姿を重ねるとか、姉が想像したセーラー服姿の弟を描いちゃうとか。さっきの親との会話のテンポのよさに比べると、ここでがくりと時間経過の速度が落ちている。何故かって、物語全体にとって、この2頁は今後の姉弟関係を決定付けるかもしれない契機なわけで、重要なんだ。だから時間かけて描いているし、これで修一が女装していることがばれてしまうのではないかという緊張が読者側に生まれる。そうすると、次の話・ユキさん家でケーキ作る場面も修一のようにドキドキしてしまうという効果を得られる。しかも第1話のぼくの夢が具体性を帯びてくる話でもあり、修一が見た夢が現実味を増し作品としても無視できない挿話となっている。
 次が143頁。ここもまるっきり台詞がない。修一とよしのと二人の大人の友達こと椎名とユキの4人が喫茶店で会話しているところに、佐々さんの足が描かれて椎名の顔に擬音ドン、少し驚いた風の修一とよしのに椎名、4コマ。唐突に現れた誰かが前に踏み出した足、まあこれでこちら側に向かっているってのがわかるんだから漫画って不思議なんだけど、ガラスに額をつける音に椎名の顔のみの2コマ目が重要で、とくにこの音ね、このオノマトペ一つに込められた意味がすごいのである。
 基本的に作者の作品は台詞が少なく白い画面が多く(それをごまかすかのようにスクリーントーンやベタ塗っているけれども)、情報が少ないように思えるんだけど、確かに1コマのみを取り上げると情報は少ないから、結果的に他の漫画のような過剰な情報・見落としかねないほどの量はないんだけど、その少なさを周辺のコマ・あるいはもっと前から後からの展開でその1コマの情報量を相互に補完し、結果的に他の漫画同様の情報量を持つに至るという非常にややこしい作劇スタイルなので、読みやすい反面意味がわかんないという事態を招きやすい。で、先の143頁を例に採り上げると、3・4コマ目で音の正体が判明することで、1コマ目は誰かの歩く足という情報に佐々さんの足・喫茶店にいるところを佐々さんと千葉さんが見つけた・近付くというようないくつかの意味が加わり、2コマ目は椎名を中心に据えたことで3、4コマの修一とよしのの表情が読み流され、また椎名が音のほうに振り向くことを促し(もし2コマ目にユキも描かれていれば、ユキの振り向く顔も描かれただろう、けどここで見せたかったのは佐々さんと千葉さんであって、ユキまで描くスペースがなかったのか技量がなかったのか、まあ省エネといえば省エネだな。またはガラス越しなんでユキの顔まで佐々さんは確認できなかったのかもしれない)、少なくともここに書かれただけの情報が一気に噴出してくるのである。
 つまり、1コマに10の情報があるとして、凡庸な作家は10全てを描こうとして過剰な描き込みや説明長の台詞を投入してしまうのに対し、志村氏は他のコマと情報を共有・補完させることで1コマに10の情報を読者に読ませているのである、多分(もっとも、個人的には次の次の頁で手をつないで歩くよしのと佐々さんがかわいかったりするわけで、結局そっちが目当てかよ)。

 とまあ今回は「放浪息子」2巻の52頁と143頁を例に台詞のないところにどんだけの情報があったのか、台詞がなくても前後の情報でかなり多くの情報を込めて描くことが出来る実例を見てきたわけだが、次回はもっと突っ込んでさらに台詞が少ない場面を他の漫画で分析してみよう。てかこれ、物語論からどんどん離れていくような気がしないでもない……

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