拝啓 手塚治虫様第14回

想像する台詞




わかりやすさの表と裏
 漫画ってやっぱり絵だよな。台詞とかスートリーとかも重要なのはわかるけど、どうしたって絵が描けなければ物語は生まれないと思う。前回は志村貴子の作品を例に、少ない描写・台詞でいかに多くを語らせるか、どれだけの情報を読み取ることが出来るのかを考えたわけだが、今回は台詞が全くない場面を読者はいかにして情報を・物語を読んでいるのかってことを考えていく。そのためには、第8回で少し触れたアフォーダンス理論っていうのにご登場願うわけなんだけれど、これについてちょっと復習しておく。
 アフォーダンス理論って実は私たちの身近にもいろいろと応用されている理論なんであるよ。たとえば外出先で用を足そうとトイレ探すとして、みつけた先がどっちが男子トイレ・女子トイレかなんて説明なくてもわかる。学校でこのマークが男子とかなんて学ぶ必要もない。初めて見る記号であっても、直感でどちらなのか察しがついてしまう。これは、その記号そのものに性別を区別する情報があるからで、私たちはそれを発見しているのである。経験や知識の差を問わず、誰もが見つけやすい情報をデザインしているのだ。あるいはテレビゲームも例にできる。説明書を読まずともわかる操作感ってものがあるだろう。見ただけで何を意味しているのか説明がなくとも感覚で理解できるし、適当にいじくっていくうちにある程度の操作を覚えてしまうというのもあるだろう。この明示性が肝なのである。
 漫画においてはどうなのかというと、漫画的記号とか漫画文法とかマンガリテラシーとか、そういった角度からの分析ではなく、描かれた物自体に含まれているさまざまな情報を読者が発見することで意味を読み取っていくのではないか。読書経験は関係ない。少女漫画が読みにくいというならば、それは読み慣れていないのではなく、描かれた情報を発見できなかったに過ぎない。もし読み慣れたと思うならば、情報を発見し、その術を心得たからだろう(逆に言うと、読みにくい漫画は明示的でないってことになるんだけど、読者に読み取ろうという意思がなければ、見つかる情報も見つからないだろう)。同じものを読んでも、そこから出てくる感想に差が出るのは、見つけた情報の量・種類などに個人差がある結果なのである。情報を頭の中で整理し物語にする・理解するってのには知性だか教養だかが必要だけど、漫画で描かれた物語を理解するってのは、内容が明示的であればあるほど、多くの読者に情報のみならず作者が込めた感情・意思ってものまでをも見つけさせてしまうのだ。
 だが時としてこのわかりやすい描写が、台詞や説明書きに委ねられてしまう場合がある。言葉による情報は絵よりも強力で恣意的だ。
 彼女は背中に寄り添った。彼の耳元で囁いた。
 この二つの短文だけで、読者は様々な想像をするだろう。二つの文につながりがあるかないかという枠を超えて、とっくに物語が出来上がっているはずだ。設定はともかく、女性が男性の背中に寄り添って小さな声で何かを言った、という状況だ。「囁いた」を「告白した」とすれば、二人の関係にまで想像が及ぶだろうし、「好きです、と言った」となれば、よりわかりやすかろう。「囁いた」「告白した」「好きです、と言った」の3つ、後者ほど明示的ではあるし、物語の輪郭も瞭然となる。二つの文の関係性も具体的になる。だが一方で、何を言ったかという想像は消されていき、二つの文章を叙述たらしめる関係性に柔軟性がなくなる(次に続く状況が限定されやすい)。つまり、わかりやすい情報は多様な解釈を妨げ、作者から読者への情報伝達を一方的なものにしてしまい、読者は作品から漏れる情報をただ受け取るだけになってしまうのである。見つけるという行為そのものがおろそかになってしまうのだ。これは物語にとってひじょーに由々しき問題だろう。ひとつの作品に一度そんな癖がつけば、読者はもう考えて読んでくれないから、ちょっと説明が足りなくなるともうつまらないと判断されることになりかねない(物語をわかりやすくする傍らで小ネタをばらまいて気付いた読者だけが楽しめる作品もあるわけで、どっちが優れているという話じゃないよ)。
 要はバランスが大事なんだけど、どこまで読者に委ねるかが、これまた作家にとって難しいところとなってくるわけで、ところがそんなのとは無関係に描きたいものを描いて、それが演出として印象深い結果を残し続けている作家がいるんだから、描きたい絵を持っている作家は説明的な台詞も解説も必要としない力があるのだろう。

エレノアは恋を囁く(参照作品は森薫「エマ」1〜5巻 エンターブレイン ビームコミックス)
 森薫には、描きたい絵がある。そのためにはどんな状況が必要か、またそこからどんな物語が考えられるかを計算し、やり遂げている作家である。同時にそれは弱点も生み出した。擬音の表現力の乏しさである。絵を優先するあまりに画面からあふれてくるような音の表現力が弱いのだ。
 「エマ」で描写される町並み・人ごみは驚くほど静かに描かれている。2巻180頁から描かれる駅構内の混雑は森氏にしては珍しいほど擬音が描き込まれているが、どれも「ガヤガヤ」「ワアワア」と単調なもので、主人公エマが会話を始めると周囲の騒がしさは途端に消されてしまう(喧騒を台詞の量・細かさで表現することが多いことも一因)。3巻65頁から67頁の群集もやっぱりガヤガヤで、ここの中心人物ウィリアムが喧騒から離れて他の部屋に移ってハキムと二人っきりになっても、外の騒々しさと室内の静けさの対比が弱い印象がある。
 全体的に地味なのである。おまけにそれほどこだわりがない。だから字体は質素だし、言い方を変えれば単純だし、音を使った演出も弱い(音を使った演出のわかりやすい例がドアの開閉音である。ドアをあける所・閉める所を描かずとも、室内のコマに「ガチャ」とか「バタン」という擬音を描くだけで、誰かがやってきた・出て行ったという状況が伝えられる。つまり、その擬音が必要となる状況を一度描けば、以後は状況そのものを描かずとも擬音をたとえばコマの隅っこに描くことで、今何が起こったのか・これから起こり得ることを想起させることが出来る。「エマ」では5巻179頁1コマ目の「コンコン」がそれである)。
 さてしかし、音も台詞も意識して排した描写になると、森氏はたちまち活気に満ちてくる(と私は勝手に思っている)。第1話からそれを読むことが出来る。1巻26頁から28頁、台詞は「!」のみ。手袋を忘れたウィリアムを追って走るエマ、彼女の姿を確認して素知らぬ顔で歩き始めるウィリアム。「ジョーンズさん、忘れ物ですよ」「これはうっかり、ありがとうございます」「どういたしまして」「そこまでお話でもしませんか」「いえ、そんな」「ちょっとだけでも……」「……ちょっとだけなら」「やった」という妄想めいた台詞などない。しかし私にそんな妄想が出来たのも、絵があったからこそである。漫画的記号が云々という話はいらない(それで解説も出来得るんだけど、それらの記号を除いても、最低限の動作が描かれているので二人がどんな会話をしているかは推理できる)。それまでの状況を踏まえつつ、二人の動きから、会話を想像できるって点が面白いのである。「ちょっとだけ」の部分で多くの人がするだろう仕草を描くことで、読者にもそのような意味の情報を見つけやすくしているのである。
 彼女は背中に寄り添った。彼の耳元で囁いた。
 という前節の短文が4巻のエレノアの告白場面であることは「エマ」読者ならわかると思う。4巻49・50頁である。床に落ちた何かを拾おうと身をかがめたウィリアムの背中に手を触れ、そっと身を寄せると、彼女は口を彼の耳元に近づけて何かを囁く。具体的な言葉はないが、何を言ったのか、意味は理解できる。この意味が大切なのである。台詞が優先すると、どうしてもその言葉に思考が引きずられてしまい、言葉の辞書的な意味に傾いたり、こんな台詞なんて言わないよと興醒めしてしまう人もいるやも知れず、いずれにしても、そこで描かれた二人の姿の意味は二の次になりやすい。
 また、台詞のない状況・なくても不自然ではない場面を設定している点も見逃してはならない。ウィリアムとエレノアを二人っきりにするための状況作りから始まり、静かでもいい場所・むしろ静かであるべき場所を用意し、エレノアが慌てて身支度したために観劇中に時計を落とすというあってもおかしくない現象を準備した上で、エレノアの表情を存分に描いているのである。
 台詞のない場面には客観性という効能もある。モノローグを多用して劇中の登場人物に読者の感情を近付かせるのとは反対に、読者を鑑賞者にまで遠のかせ、登場人物の言動を見守る立場にしてしまう。ここではエレノアのかわいらしい表情と戸惑うウィリアムを読者は観劇しているという按配である。5巻のエマとウィリアムの抱擁場面はこの立場をさらに推し進め、読者はその他大勢の登場人物に溶け込み、各々がターシャのような・アデーレのような・ハンスのような反応を見せているのである。5巻91頁と141頁を比べると、作者の意識の違いがわかるだろう。91頁は、走るエマにハンスが巻き込まれるという形になり、彼らの行動を説明するためにコマは並べられる。141頁は、エマは見られる対象であり、周囲の人々のエマを見詰める視線がひとコマひとコマを成している。
 というわけで、森薫「エマ」の2場面を中心に考えてみたのだけれど、言葉に拠らない絵で演出された描写がいろんな情報を秘めていて、その中からどんな情報を見つけても意味が伝わってしまう・物語が理解できるってのに素直に驚く。いくら説明的な台詞・描写を投入しようとも、物語の全てを読者に理解させることなんて不可能である、作者は全てを語りつくせないのだ。だからこそ最低限伝えたい情報を絵や台詞に込め、読者はそれ読み取り、推論によって物語を構築していく。次回からは、物語論についてもう少し突っ込んで考察していこうと思う。

戻る