拝啓 手塚治虫様第16回

動物化する絶望先生




フレームという実体の崩壊
 前回を受けて今回も伊藤剛「テヅカ・イズ・デッド」(以下「テヅカ」と略す)を端緒に、だらだら考察していく。
 「キャラ/キャラクター」論ほどではないが、これまでなんとなくわかってはいたけど言語化出来なかったコマの多層構造、特に少女漫画におけるそれをマンガ全般にまで広げた「フレームの不確定性」論に注目したい。乱暴に単純化すると、これはキャラ論と分けて考えがたいことなんだけど、物語の安定さがある。丁寧で四角四面にきっちりしたコマ割の中のキャラはキャラクターとみなされやすく、その分ストーリーが際立ちやすくなる。一方コマに縛られずに紙面いっぱいに描かれるキャラ・少女漫画のようにいくつものコマを縦断して描かれるキャラは、ストーリーよりもキャラが際立ちやすくなってくる。キャラをコマの中で・ひいては紙面の中でどのように描くかが、キャラの立ち具合を支配しているともいえる。これは少年漫画の例だと、日常会話の場面はおとなしいコマ割がアクション場面になるとコマの形・コマ枠がいびつになり、コマ枠から飛び出したキャラが描かれるようになる、というのを想起するだけでも、その違いが理解されやすいだろう。前者がストーリー・この場合は登場人物の会話を読ませるためのコマ割であり、後者がキャラの躍動感を見せるためのコマ割ということになる。フレーム=コマとは言い切れないし、フレーム=紙面(一頁あるいは見開き全体)とも言い切れない、これが「フレームの不確定性」のおおざっぱな説明である。
 またもうひとつ、今回のだらだら考で押さえておきたい点が、東浩紀「動物化するポストモダン」(以下「動ポス」と略す)という本である。「テヅカ」の基礎の一つともなっているこの著作は、オタクがどうのこうの萌えがどうのこうのという記述に注目が集まりがちであるが、私が個人的に共感したのが1995年をポストモダンのひとつの区切りと書かれてある点である(あ、違ってたらゴメン)。95年以降を「動物の時代」とし、その契機となったのがオウム事件というわけだ。世界的には89年の冷戦終結がそれらしいのだが、この95年という年は確かに特異である。それはいろんな事件が起きたとかいうのとは別に、手塚の死(89年)から緩やかにはじまっていたマンガを巡る言説の変化である。社会的には89年の宮崎勤事件(幼女連続殺害事件。約一年にわたって4人の幼女を拉致し殺害した。事件の異常性猟奇性が話題となり、またオタクという言葉が認知された事件でもあった)なんだろうね、でも手塚の死っていうのはファンにとっては別の意味でショックのことがあって、それが他でも書いてるけど生年の詐称なんである。手塚生前の本には手塚の生年は大正15年(1926年)となっているけど、没後すぐに昭和3年(1928年)になっているんだよ。だから手塚の自伝マンガも実は虚構ではないか・事実を基にしたフィクションではないかという疑念が出てきたのである、少なくとも私には、それらは虚構として読むべきだという意識のほうが強くなった。また手塚の死によって手塚作品の本格的な論証が進んだのも事実で、夏目房之介氏の仕事をはじめ、多くの人々が手塚マンガとはなんだったのか多面的に考察し、表現論を押し進めた。
 映画でも衝撃的な作品が公開される、94年の「全身小説家」だ。これは小説家井上光晴のドキュメンタリー映画だけど、取材中に取材対象である井上が死んでしまうんだ。けど映画はそこで終わらない、むしろここからがメインであるかのように、井上が生前語っていた自分史が実は嘘であることを友人知人の証言を通して暴いていくのである。つまり、自分の人生そのものを小説化していたのだ。どこまでが事実でどこまでが虚構なのか、わけわかんない。そしてオウム事件で劇場化していくニュース報道が、事実と虚構の区別を曖昧にしていってしまう。「大きな物語」の凋落から始まった混沌が95年で決定的になったということなのかな。でも、その観点で95年を振り返ると、私には、確かに阪神・淡路大震災やオウム事件も大きかったけど、その年の3月から月一で12回にわたって放送されたNHKスペシャル「映像の世紀」シリーズが大きかった。これによって、なんだか20世紀は虚構みたいな感覚が強まった。もちろん衝撃的な映像にびっくりすることもあるけど、歴史が映像作品としてパッケージされた瞬間に、「映像の世紀」はフィクションになってしまった感があって、つまり何が言いたいのかというと、95年あたりから、世の中全てが虚構じみてきたっていうことなのである。当時連載中だった望月峯太郎「ドラゴンヘッド」が現実の事件と共鳴しているかのような錯覚を与えもした。
 で、「大きな物語」の凋落とは、また自分でも扱えない言葉を引用してしまったのだが、要は大前提がないってことなのかね。昔だったら、悪の組織っていうだけで、なんとなくよかったんだ、ソ連とかなんかそういうのが裏にいたとかいう設定で誤魔化せたから。でも今そういうのでリアリティを醸そうとすると、どうなるだろうか。北朝鮮? テロ組織? 「一八世紀末より二〇世紀半ばまで、近代国家では、成員をひとつにまとめあげるためのさまざまなシステムが整備され、その働きを前提として社会が運営されてきた。そのシステムはたとえば、思想的には人間や理性の理念として、政治的には国民国家や革命のイデオロギーとして、経済的には生産の優位として現れてきた。「大きな物語」とはそれらシステムの総称である」と「動ポス」から引用したほうが早かったな。ポストモダンとは大きな物語の終焉だということのようだ。
 さて、これと「フレームの不確定性」がどう関係あるのかというと、実は結びついてしまうような気がするんである。そのための具体例として、前回の予告どおり久米田康治「さよなら絶望先生」を読んでみようと思う。

キャラ化するデータベース
 「フレームの不確定性」はコマを超えたキャラクターの振る舞いである。間白は本来コマとコマの間という意味が強かったが、それを無視するかのように複数のコマにまたがって描かれるキャラクターや、間白・コマ枠に肘をついたり手をついたりし、まるで間白が机か何かのような印象を読者に与えるなどの例がわかりやすいだろう。久米田康治「さよなら絶望先生」(以下「絶望先生」と略す)では、毎回複数のキャラが紙面いっぱいに全身描かれてコマをまたがって登場する。これに限れば、この作品だけではない。1巻89頁や2巻38頁に見られるようなコマ枠に手をつくキャラクターたちも、他のマンガで見つけることが出来るだろう。では、「絶望先生」の特異性とは何か。それが、「大きな物語」みたいなものの虚構化(ネタ化)である。
 従来語られてきたコマの多層構造は、キャラクターの心理(モノローグなど)・コマ枠を無視して描かれるキャラクター・コマの中で描かれる描写と3層に大きく分けることが出来る。これによって少女マンガの特徴があぶりだされた。モノローグを控えることで、これらの少女マンガ的技法を取り込んだ少年・青年マンガは表現力を増したわけだが、一方でキャラクターの立たせ方がパターン化する。コマ枠を突き破るか否かのバランスによって、ストーリーとキャラクターのせめぎあい始まり、結果として「フレームの不確定性」を加速させることになる。これがどのような効果をもたらしたのかは今は置いといて、言葉によるところが大きいモノローグによる心理描写を排したために、台詞の負担が増した。結果、説明調の台詞が時にギャグに転用されることになる。必殺技叫びながらパンチ、シュート名叫びながらボールを蹴る、とかね。まぁ大した検証もしてないので話半分で読んでほしいんだけど、モノローグに代表される心理描写は、キャラクターが今どのような状態なのか立場なのかを読者に簡潔に伝えるためには欠かせないんだよな。それは少女マンガを読むとよくわかる。もちろん人物の表情や仕草で何かを伝えようという描写もあるけど、言葉が、読者の現実の感情を捉えることが多々あるのね、言葉の呪縛っていうのかな。それが現実世界のわたしと虚構の少女を繋ぐのである。だから虚構に現実的な感情を抱けるし、キャラクターの言動に笑ったり怒ったり出来るわけね。必殺技が具体的にどんなものなのかはわからくても、なんかすげぇ名前だし敵が吹っ飛ばされているから、きっととてつもなく強力な技なんだろうと理解してしまうのと同じようなもんだ。(ちょい補足すると、心理描写は、劇画においては緻密な描写による演出へ向かうことになる。精緻な表情の人物や、写真のような町並みの景色が、キャラクターたちの心理を代弁していく。映画の影響もあるだろうけど、モノローグを発達させる傍らで、劇画のような心理描写が本流になっていく。)
 で、こういうのを利用しているのがギャグマンガということになる。パロディとかよくあるでしょ。多くが、そういう描写に反応する読者つまり自分自身を端から見て笑っているっていう構図があって、それが可能なのは、マンガの世界を虚構だと脳裡の隅っこで理解しているからなんだね。だからギャグ要素としてひとつ挙げられるのが、現在のネタ化というか時事ネタということになる。鮮度が命と言われるのもよくわかる。流行物や話題の物をネタにする、これはモノローグの替わりと言ってもいい。ギャグ物の場合モノローグの主は読者である、ネタへの突っ込みだ。マンガだから虚構だから、という前提があるから時事ネタに笑える。
 マンガを読む上で知らず知らず意識している「これはマンガである」っていう前提が、「大きな物語」の代替物というと、なんかそれらしいが、自分でもよくわからんことは言うもんじゃないな。野球マンガと意識されたらなら野球が前提になるし、恋愛マンガと意識したらなら恋愛が前提になるし、何々マンガと捉える意識は無視できないだろう。そういう読者側の意識が土台となって不確定なフレームを支えているのかもしれない。では「絶望先生」は何々マンガと意識するだろうか。読んでいく上で気付く時事ネタや風刺は、そのまま連載時あるいは単行本出版時の世相を意識させる。例を挙げるまでもないだろうけど、2巻5頁の七夕の短冊の願い事それぞれが久米田康治氏のフィルターを通して昇華された現在・というかネタにすると面白いだろう現在である。
 さて、そういう目で「絶望先生」を読むようになると、前述した多層構造のさらに背後に、作品世界とは関係なく、今現在の現実世界がほの見えてこないだろうか。いや、実際にあるのである、背景に。ストーリーとは無関係に存在することがままあるのである。それらのいくつかはキャラクターたちに関与するが、ただの張り紙であったり看板であったり、多くは背景のまま、気付いた読者だけ気付く現実世界との繋がりがあるのだ。これにより、日々移ろう世相をそのまんま労せずして作品世界に浸透させることが出来、わざわざ作品の細かな設定を考える必要がなくなる。すなわち、「絶望先生」は常に背後に「大きな物語」のような現実世界・「動ポス」でいうところの「データベース」を抱えているわけである。これにより、明らかな虚構として読んでいながらも、現実とのささやかな繋がりがあるために、どこかに現実的な・いわゆる今を読んでいるというリアリティめいたものを読者は感じているのである。(余談っぽいけど、作者の独り言や言い訳は、間白の中に手書きされることがほとんどであった、あるいはあとがきで説明するとか。もちろん「絶望先生」にもあとがきはあるが、間白にあるべきだろう作者の言葉さえも背景に封じ込められている(2巻では、おそらく編集者が付けただろう脚注「セリフと後ろに飛んでいる物は、一切関係ありません。」という断りが間白にあるくらい)。2巻22頁の「作家いじり禁止 編集」という貼り紙がその典型である。今現在とは、作者の今の境遇も含まれている。これにより、作品の背景には「作者」という読者が創造するキャラクター(作者像)さえ潜むことになる。)
 具体例を見る。2巻35頁は、先生がコマ枠に手をついているが、一方で机としても描写されている。コマ枠と机が同化しているようだ。また、先生はコマを跨いで覆いかぶさっているように見えながらも、コマの中のキャラクターとも応答しているようにも見える(3コマ目のコマから飛び出した生徒の手の効果だろう)。象徴としての大きな絵ではなく、一頁全体がもうひとつのコマのような働きをしている。頁内には6コマあるが、そこに混ざり合うようにして7コマ目の先生があるわけだ。不確定性どころか、コマと紙面が融合していると言ってもいい。そして、この頁にもネタが転がっている。「神技 クボヅカ」という貼り紙、「無罪 M・J」という賞状、わかる人にはわかるネタが潜んでいるのだ。キャラクターの背後に、ストーリーとは無関係に存在しているそれらを「データベース」の一部と考えるのは飛躍だろうか。飛躍だというならば、44・45頁の「宇宙の心理」を見てほしい。この絵は、まさしく久米田フィルターを通して抽出された「データベース」である。バカバカしいけど真理っぽいこの絵はキャラ化した「データベース」なのだ。
 作者フィルターを通されて描かれた虚構は、さらに読者のフィルターを通過することになる。例えば私の場合、2巻81頁の記事「えらいこっちゃえらいこっちゃ」に反応する、これは手塚のブラック・ジャックだ、と。すると91頁「キリコ。」「本間血腫」にはさらに過敏に反応することになり、話の面白さとは関係ないところでおかしさを感じていながらも、話自体がおかしいような印象を抱くのである。
 さてしかし、「絶望先生」は単行本1巻と2巻で大きな差が生じている。1巻までは地味なコマ割で余白もあって丁寧な印象が強い。だが2巻の途中から、断ち切りが激増するのである。これはまあ憶測に過ぎないが、キャラクターを前面に押し出そうとした結果なんだろう。やってることは一緒なのに、余白があるかないかで話しの勢いが違うような気がするが、気のせいかな。でも、話がきちんとまとまっているのは、最後のコマがほとんど断ち切りではないからである。どんなにキャラクターが暴れまわってもオチへ収束させるために小さなコマに押し込める力技もまた作者の魅力である。

 1995年は鳥山明「ドラゴンボール」の連載が終了した年である。強さのインフレなどが強調されることもあるが、それに比例するように作品世界もインフレしていく。当初は悟空とその周辺の話だったが、天下一武道会から話の規模が広がり始め、ピッコロの登場で作品世界に歴史が生まれて神まで登場し、サイヤ人から宇宙規模に膨れながらも、なお止まらずに異世界・果てはパラレルワールドまで登場し、世界は収拾がつかないほどの広がりを見せ、作者さえ制御できないくらい膨張していった。長期連載の弊害という面からも考察できるが、作品を続けていくためには、常に作品にとっての「大きな物語」あるいはそれに近い土台(前提)が必要だ、世界観と言い換えてもいい。「ドラゴンボール」は強くなっていくための土台として世界を広げた結果、その大きさを維持できずに瓦解してしまった。「テヅカ」では1986年とされるマンガの切断線、これは手塚没年をそれにしたくないための強引な主張に思えなくもないというか私は感じた。「テヅカ」の「物語の終わり(物語にすべきネタは全て出尽くした、という意味での終わり)」は確かに80年代から進行していただろうが、個人的には1989年から1995年の間で緩やかに「物語の終わり」による害がマンガ界を侵食していったと思う。無限に広がった「ドラゴンボール」世界の、悟空の個人的な利用による閉幕は、マンガにとっての大きな物語の終焉を象徴してはいないだろうか(象徴してませんかそうですか、すんません)。

 ところで次回は、前回のキャラクター化した言葉をさらに突っ込んで考えつつ、今回のフレームの不確定性も絡めて・絡めればの話だが、あずまきよひこ作品を例にだらだら書いてみる。

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