拝啓 手塚治虫様第17回

大阪は荒野を目指す




 今回も伊藤剛「テヅカ・イズ・デッド(2005 NTT出版)」(以下「テヅカ」と略す)を受けての話。予告したキャラクター化した言葉についてはまたの機会に考えることにした。
 キャラ/キャラクター論を考える上で見落とししがちなのが登場人物の服装である。「テヅカ」でいうキャラを想起するとき、多くはいつも同じ格好をしているのではなかろうか。「のび太」といって思い出される彼の姿は半袖半ズボンで服の色も決まりきっている。たまに柄入りの時もあるが、基本は変わらない。「ルフィー」にしてもそうだし、「コナン」も同様である。皆が萌えるキャラを並べても、それらは服装も一緒になった存在である。
 マンガ評論・特に少年誌青年誌では、キャラクターの服装についての言及がほとんどない。その数少ない例のいしかわじゅん氏は「漫画の時間(1995 晶文社)」の中で、今の時代を舞台にしているつもりなら服装も今のものを描く努力が必要だ(大意)と述べた上でこう付け加える、「洋服の柄を描くだけでも、この人物は何歳くらいで職業はなにで、収入はどのくらいあって、どこにいくところなのか」、それを考えることが演出であり表現なのだ、と説く。漫画家にとってはおそらく自明と思われるし、読者にとっても当たり前すぎることだから語られることもなかったのだろう。だからこそ注意して読むと、そこからキャラ/キャラクター論と繋がる議論が出来るのではないか。

起承転結は死んだ
 先のいしかわ氏の語る服装の重要性は、それが直接キャラクター性を喚起するからだろう。顔の造形だけでなく格好から人物像を推測するのは実際の生活でもありえるし、さして珍しい思考ではない。読者が初登場のキャラを見て、その描かれ方から何かを感じることも同様に当然の読み方である。特に顔や体型が記号然と描かれるのに対し、服装には凝った描写を施す作家も多くおり、この差が作家の個性であり、キュラクターのリアリティを支えている・あるいは故意に定型化することでキャラの自律を促す(あえて萌えを狙う)。
 萌え要素のひとつに服装があることは言うまでもないが、顔の描き方に一定の規則性がある以上、その組み合わせには限度がある(それは顔の描き分けに限度があることにも依拠している)。実在の人物をモデルにしても、執筆の都合上どこかで簡略化しなければならないし自分の腕に馴染ませる必要もあろう。「かわいい」と感じる顔の多くに共通する描かれ方があることも多くの人が指摘するとおりである。ではどこで変化を出すか。いしかわ氏も「漫画の時間」で語っている、「現代漫画が始まって以来、もうひと通りのストーリーのパターンは出てしまい、そう特別目新しいこともなくなった」、だからこそ服装などの部分で価値を見出すべきだ、と(この発言は1986年のものである。「テヅカ」で引用されたいがらしみきお氏の「物語は終わった」発言が思い出される)。制服にしろメイド服しろ、それらには顔ほどの規則性はない。キャラクターに作家の個性を生かすとしたら、そうした服装の描写においてだろう。
 さて、「テヅカ」はキャラ/キャラクター論のとっかかりとして「ぼのぼの」を引用する。はじめからキャラが自律した4コママンガとして論じられている。その中で、第一話の4コマを引用し、それがなされた要素を3つ挙げる。
  一 目、顔、体のある「人間のような」図像
  二 一人称と固有名による名指し
  三 コマの連続による運動の記述
 これらは同時に、4コママンガを成立させるための最小限の要素でもあると私は思う。伊藤氏は「ぼのぼの」を分析する過程で4コママンガの特殊性も見出していた。新聞の4コマから「ぼのぼの」まで、4コママンガがキャラを大事にしているのは、考えてみればもっともな話である(いしいひさいち氏のような例外もあるわけだけど)。なぜなら、コマの形が決まっているからだ。そこでは「フレームの不確定性」という問題なんぞ起こりようがない。フレームは正直すぎるくらい確定している。確定しすぎているもんだから、むしろフレーム・コマ枠なんてものに意識が及ばなくなるかもしれない、フレームなんて消滅しているのかもしれないとすれば、4コマがキャラに依存せざるをえないのもわかる気がする。コマ枠に縛られないキャラクターの描写がキャラの自律を促すのだとしたら、4コマという定型、あまりに定型なためにはじめからキャラクターはコマ枠を突き破っているのかもしれない。描く上での制約は数多くあるだろうけど、読み手にとってはキャラが重要なわけで、はじめからキャラの造形・キャラの名前・キャラの運動(言動)しか読まない。ぶっちゃけ起承転結なんか後付けの理屈に過ぎない(ぶっちゃけ過ぎ)。
 「ぼのぼの」がキャラの自律化を当初から達成していたと思われたのは、ぼのぼのが単に服を着ていない・いつも同じ姿だからである。これは同じく「テヅカ」で例証される原一雄「のらみみ」にも言える。「のらみみ」に登場するキャラの多くがいつも同じ格好をしているからこそ彼らはキャラ足りえている(「地帝国の怪人」の耳男がキャラを隠蔽できたのも変装が一因であると思う)。
 もちろん「ぼのぼの」のような動物たちや「のらみみ」のようなキャラたちとは違って、人間が主役の作品のほうが多いが、4コママンガの主人公たちを思い浮かべたとき、服装も同時に思い描けないだろうか(私はそうなんだけど、違うかな。まあ顔しか浮かばない例もあるだろうし、4コマで劇画並の緻密な服装描く人もいないし)。

キャラクターは服装に宿る
 4コマのキャラもいろいろと服を変えるが、それでもキャラとして自律する傾向がある。コマの中に閉じ込めても物語よりキャラが一人歩きしやすいことは、実作者が一番感じていることだと思う。たとえば小泉真理「ジンクホワイト」みたいのは極端な例かもしれないけど、キャラクター性を維持するためにいろいろ苦心しているのだろう。
 一方で服装に気を遣われている4コマも当然ある。ここでは、あずまきよひこ「あずまんが大王」を例にしてみよう。  「あずまんが大王(メディアワークスより全4巻)」は学校が舞台であるからして制服によって萌えやすい。そもそもキャラの造形がかわいく描かれているので、そうなりやすい。作者もインタビューで認めているが、それでも物語(この作品の場合はお笑い)に目を向けさせるための工夫が施される。それが服のシワである。
 おしぐちたかし氏とのインタビュー(「漫画魂 おしぐちたかしインタビュー集」2003 白夜書房)では、「巨乳に限らず服のシワを描くのは好きです。でも、4コマの場合あんまり描きこみ過ぎるとネタが死んでしまう場合があるので(中略)、服の方の情報量を増やしてみたりと細々調整してます」。伊藤剛氏とのインタビュー(青土社「ユリイカ 2006年1月号」)では「萌え系」への反発を明言し、一般層にも受け入れられるための方策として情報量を詰め込むよう努めているという。
 描き込むということは、それだけ情報が増えると言うことである。しかし、紙面やコマの大きさには限りがあるので、どの線を描きどの線を描かないか、という問題が生じる。ここが作家の腕の見せ所なわけだ(でもまあ一方で線を削りまくってわずかな情報であれもこれも描いてしまう作家もいるんだよな、それについては過去の回で述べたけど)。
 では「あずまんが大王」の服装を大阪というキャラを追うことでその変化を見ていく。
 大阪は本名がありながら登場からまもなく「大阪」というあだ名を付けられ、以後そう呼ばれ続けるキャラである。彼女には胸がない。だから服のシワが描けない。大阪の制服はほとんど平らのようで、トーンがべたっと貼ってあるだけだ。陰影もめったに付けられない。夏休みに入って私服で登場、水着姿も描かれるが、いずれも胸のふくらみは輪郭でわずかに描写されるだけで、シワはほとんどない。それでもたびたび描かれる私服にはいろいろ種類があり、これは他のキャラにも言えることだが、服装にはそれなりの配慮がありそうな感じである。まあ銘柄やらセンスやらは私にゃわからんが。でも大阪と言われて読者はおそらく制服姿・しかも胸のふくらみのないのっぺりとした体型と口半開きのぼーっとした表情を思い浮かべるだろう。少なくとも制服姿であることは間違いない。
 2巻に入ると陰影が付けられる。ふくらみはないが、胸から脇にかけてやお腹の辺りに縦の線が入ることが増える。少しは胸があるということを表現しているのだろう。3巻に至る頃には大阪の動作に応じてシワが描き分けられるところにまで行く。腕を伸ばしたり背伸びをすればシワは減り(あるいは全く描かれない)、屈めば当然シワは増える。腕の位置によって微妙に変化するシワの位置・量も計算されている。とう動けばどのようにシワが入るのかがわかっていると言うことだ。輪郭も変化する。真っ直ぐかそれに近かった服の線が歪曲される。3巻107頁「忠犬」の大阪の制服は1巻と比べると格段に細かく描かれている。これが「萌え系」の反発の表れと即断する自信はないけど、その可能性は高いだろう。そしてのっぺり服は、大阪のボケや奇妙な振る舞いを際立たせるための描写に比重を置いていくことになる。つまり、「描きこみ過ぎるとネタが死んでしまう」ことを避けているのである。こっちは榊を例にしたほうがわかりやすいか、榊は巨乳なんで服にシワもよく描かれるが、ネコがらみの描写ではシワが減って服も簡略されて描かれる傾向があり、さらに無表情になったときの彼女は服装まで無表情になりやすい。緻密に描かれる背景のあるコマ内のキャラが簡素に描かれているのも、情報量の制御ゆえだ。
 作者の意図とは無関係に読者は情報を読み取る。伊藤氏の同じインタビューであずま氏は「「あずまんが大王」で、一〇〇言っても一〇〇は伝わらないということを学んだ気がするんです」と告白する。それが過剰な描きこみ・情報量の詰め込みの動機となっている。一〇〇伝えるために一二〇、一五〇の情報を込めるみたいな感じか(この情報量はあくまで絵の情報であって、決してセリフの量を増やすという意味ではない、念のため)。大阪を萌えキャラとして捉える向きもあるが、キャラクターとしての成長を忘れてはならない。4巻165頁「私はだいぶしっかりしてきた」という台詞は1巻33頁の「しっかりせな……」を踏まえているのだから(あと、話としてわかりやすい例が割り箸か)。

 さてしかし、過剰な情報は一方で別な現象を促進するもする。写真のような背景、写実的な服装、これらは確かにキャラをキャラクター化させる・つまり人物像を想起でき人生を持つ登場人物としての土台の一部であるけれども、必要な情報のみが読者に伝わるほど作者の思い通りには行かない。多量の情報の中には作者さえ意図し得ない情報が紛れ込むこともある。私の例で言えば「MONSTER」16巻の一場面を語ったこれhttp://www.h2.dion.ne.jp/~hkm_yawa/eigateki/monster16.htmlのあらぬ考察がその典型である。作者にしてみればキャラクター性云々ではなく単に小道具をそれらしく描くためだけに過ぎなかった参考資料だろうレコードひとつの描写が、ここまでいらぬお世話を招くのである。
 作者が言わんとすることの絵の情報を自明な意味とすれば、これは作者さえ予期し得なかった絵の情報、いわゆる「鈍い意味」である(この用語は、ロラン・バルトが映画のテクストを分析する際に使ったものである)。
 次回は「鈍い意味」を中心に浅野いにお作品を例に考えたい。

参考文献 難波江和英・内田樹「現代思想のパフォーマンス」2004 光文社新書

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