拝啓 手塚治虫様第18回

ソラニンは小粒でもぴりりと毒素




 背景に写真を加工した画像が使われる作品が増えた。そういうことを積極的に行っている漫画家もいる。最近に始まったことではないけれど、劇画に限らず実在の風景が画面に収まっているというのが、なんだかしっくりこない。だからといって、そこで描かれるキャラクターたちは浮いてはいない、作家の腕にもよるが、違和感なく現実っぽい景色の中に存在している。
 写真あるいは写真をトレースした背景は確かに物語が今この世界で動いている感覚を味わえる。映画やテレビドラマで言えば、見知ったロケ場所で撮影された映像を見たときの妙な興奮にも似ている。
 現実を取り込んだ虚構が、そこにある。それは現実っぽいけど、やっぱり虚構である。現実が見たければロケ現場なり撮影場所なり、描かれた場所に実際に行ってみればいい。現実だから虚構の登場人物がそこにいなくてもがっかりなんてしない。むしろ作品世界に触れているような錯覚さえ感じることだろう。
 さて、マンガにおける背景の話は少ない。というのも、マンガの主要構成たる絵にコマやセリフを追究するあまりに周辺の話題はあえて棚上げされているからである。第5回で私は「写真を加工した背景や全てアシスタントまかせの景色からは物語は浮かび上がらないはずだ、リアリティも感じられない」とあっさり書いているが、言いすぎたなと反省している。でもやはりアシが描くにしても、作者の考える背景の情報が完全に描かれるわけではない。まあ最低限見てわかる情報が描かれてあればそれでいいわけなんだけど。要は作者の指導・指示次第なわけで。しかし、写真の類に意想外の情報が紛れ込んでしまい、後々の執筆に際して問題を生じかねない事態もある。
 浅野いにお「ソラニン」にその例を見よう。

隠蔽された背景
 浅野いにおは背景に写真を用いる。個人的にはかなり大胆だなーという印象があるが、作画の線の細さと、登場人物が纏う衣装の精緻な描写に、小道具の質感ある筆致が写真によく融合してて、かなりの現実っぽさを醸している。だがしかし、それら背景はあくまでも背景に過ぎない。トーンよろしく流用されることにより、書割化しているからである。舞台背景の裏側にもあるだろう景色が、全く見えてこないのである。舞台を見知っている人以外にとっては、ただの書割と同等の価値しかない。見知っている作者には当然わかっているわけだが、そんな思いまで線に宿っていない。これは決して個人的な印象ではなく、写真の背景と手描きの背景の大きな差、越えられない壁を明瞭にしてしまった結果なのだ。
 結論から言うと、その背景に人気がないからである。
 「ソラニン」(小学館 ヤングサンデーコミックス)は20代前半の若者たちを音楽を通して描く青春物語である。参考にされただろう音楽や主人公たちの周囲を取り巻く社会状況や身の上等が細かに計算されていることをうかがわせる作品だ。私はそっち方面には疎いので作者が意識している音楽やファッションはてんでわかんないけど、風景に関してはちょっと一家言あるんで突っ込んでいきたい。
 で、たとえば1巻98頁6コマ目(これを(1)とする)。一部加工されてはいるが、実在する場所の写真である。ここには店の前でコーヒーを飲んで寛いでいるらしい客たちも同時に写されている。手描きではない。100頁4コマ目も同じ構図(2)、102頁1コマ目(3)も同様の構図である。コマの大きさが違うのでわかりにくい面もあるが、3コマとも背景には同じ写真が使われている。この場面は芽衣子とアイの二人がその店で会話をしているところだ。当然時間は経過する。時間が移れば人も動く。写真には人が写っている。同じ写真なので、人が動かない写真をそのまま使うわけにはいかない。となると、人を隠す必要がある。写真の全景はおそらく(3)だろう。突風が吹いて鬘が飛んでいく描写にごまかされてはならない、その背後には(1)と(2)が隠されている。遮っているものは何か。ふきだしと、芽衣子の元同僚二人である。元同僚の存在は微妙に芽衣子の心理に影響しているが、彼らが描かれた理由のひとつは(1)と(2)の隠蔽なのである。いやもちろんこれは重箱の隅を突付いているに過ぎない。でも、(3)だけ見ても強風にもかかわらず影響を受けない背後の人々の不気味さが際立ってしまう。この風は同僚の後方で話している芽衣子の髪をなびかせているのに、周囲の人々の無関係さ。これは一体なんだろうか。役者の髪の毛・服が風になびいているのに微動だにしないCGの背景(特に木々)を思い出す(そういう映画があったんだよ)。
 もちろん、この隠蔽は作者の腕によって、重めの話をしている二人の会話の雰囲気に変化を与える結果となっている。二人の元同僚という情報を加えることで、背景に潜んでいる実は動かない景色という情報を消し去っているのだ。
 だが、消し去れない例もある。ほんとはそのコマをスキャンして図として引用するのが適当なんだけど、「ソラニン」1巻を持っている方だけでもチェックよろしく。

洗濯物と伸びない影
 中表紙となる1頁目の団地らしき写真(今度はこれを(1)とする)。これが幾度も流用されることになる。ここには何があるだろうか。正面の一室のベランダに洗濯物が干してある。これが作者を悩ますことになる。
 26頁1コマ目(2)。103頁4コマ目(3)。127頁2コマ目(4)。これらの背景は全て(1)である。洗濯物も干しっぱなしである。(2)では土手下に伸びる階段の影と芽衣子や手前で野球をする子供たちの影の伸びる方向がもう違っている。(3)は影の向きを変えてある、時間が意識されている。浅野氏の背景の変化の付け方が影の付け方と空のトーンの変化で表現されている(夜になるとこれに部屋から漏れる明かりが加わる。トーンを削るように加工してんのかな)。同じ場所・同じ角度の写真を流用するための工夫だろう(たまに忘れるか、あるいは問題ないと判断しているようだが)。(4)は夜の場面だが、洗濯物を隠すように手前に主人公たちが描かれるが階段の影は(1)のままだ。(1)は昼前の時間帯か、洗濯物を干す家庭の少なさから朝方か夕方か。寒い時期なら少ないこともあるかな。
 168頁1コマ目と176頁1コマ目になるともう投げてるとしか思えない背景である。無人、車もない、音もない、現実の写真にはその時の空気も篭っているかもしれないが、同じ景色でもモノクロは情報がかなり削がれてしまう。その削がれたままの情報が、背景として貼られてあるのだ。当然影もそのまま。主人公たちの過ごした時間が表現されていない。
 写真の流用で意識しなければならない点の一つがカラーとモノクロの情報量の差なのである。たとえば、あずまきよひこ「よつばと!」の第一話が好例である。よつばの髪の色は緑である。だが第一話で、どこかに行ってしまったよつばを捜すために、よつばの目印として挙げられるのが「変な奴」なのだ。緑の髪の毛ではない。これはカラーで描かれていればありえないだろう話である、少なくとも「緑色の髪」のほうが目印として目立つと思う人がいてもおかしくない。モノクロだからこそ描ける話であり、カラーとの情報の差を理解しているからこそ描ける物語なのである。
 さてしかし、そんなこと言っても「ソラニン」の面白さは変わらないよ、面白いよという反応もあるだろう。というか、私は面白かったんだよね、これ。だから背景なんてどうでもいい、登場人物の立ち位置がわかればそれでOKみたいな意識もある。でもそうしたとき、じゃあ背景ってなんだろうという思いがないわけでもない。
 これがもし映画ならどうだろう、アニメならありえるか。舞台でもありえよう。そもそも舞台の背景は観客に約束事としてもらうことにより成立している面がある。アニメで許容できるのは、アニメ製作には金がかかるとか、忙しくて背景書いてらんない事情があるんだろうとか擁護しつつ、でもまあ今がどこでどういう状況なのかわかればいいのかね。で、やはり映画である。マンガと映画の親和性はよく指摘されることだが、背景のみを考えれば、マンガはむしろ舞台演出やアニメに近いということになる。映画は背景も動いている、風でありたまたま通り過ぎる車であり、エキストラたちの演技であり、空に雲に太陽、いろんなものがつまっている。マンガの背景の情報量が映画と比べていかに乏しいものであるか説明するまでもない。

映画的手法から遠く離れて
 こういう流れになると、では背景も記号的なのかという話になってしまうかもしれない。流用している時点で既に記号化していると言えるだろうけど、浅野いにおは記号的に写真背景を用いたとは思えない。あくまで結果的にそのように見ているに過ぎない。それは単に執筆時間がないための苦肉の策であり(浅野氏にとって「ソラニン」は初めての週刊連載である)、作者なりのこだわりがあるのだろう。
 さてしかし、もう一度「ソラニン」の背景を眺めてみると、またほかの弊害があぶりだされる。簡単に言えば、不自由という点である。視点や構図が一方的なのだ。
 「隠された背景」で例に挙げた背景は、店の概観の写真である。これを流用するために構図が限定される。でもそれだけでは店の中で会話をしている二人の表情を描けないので、顔に寄った絵が入る。さて、ここで背景はそれまでの写真ぽさがたちまち消えてしまう。描線を整えることでごまかしてはいる。背景の描ける余白を狭くしたり、スクリーントーンで雰囲気を出そうとしたり。たとえば1巻99頁下段の背景は手描きだが、その街灯は写真と比べるとあまりに稚拙に見えてしまう。「洗濯物」の団地でもいい。ここも構図は固定されている。さらに拡大縮小による画像の劣化をおそれてか、大きさもほぼ一定である。当然コマの大きさは写真に拠ってしまう。人物の大きさも限定される。だから表情をクローズアップする場合は、やっぱり背景にトーンを貼るなどの細工が施される。
 映画的手法については諸評論家がいろいろ語ってきたことであり、素人にしてもなんとなく映画っぽいなという意識を抱く画面構成があるけれども、舞台的手法についての考察となると私は知らない。歌舞伎だの能だのなんて引っ張り出す必要はないけど、当てずっぽうで言えば、マンガというメディアは映画の演出を採り入れていったというよりも、なにかを物語り表現する行為そのものに各メディアと共通している演出ってのがあって、それがたまたま映画的・映画の技法と似ていただけなんじゃないかと思えなくもない。「ソラニン」は時間的制約がためか、背景をトーン化して流用した結果、舞台のような場面がいくつも出来上がってしまった。でも読者はそれをさして意識せず、主人公たちの言動に20代若者の生々しさを感じている。ますます舞台っぽいよなー。
 スポーツ報道写真とでもいうのか、プロの世界では選手の動きを捉える上で大事な要素が二つある、躍動感と重量感、これをいかにして焼き付けられるかに腕が問われる。たとえば走っている選手を撮ろうとするとき、腕や足の筋肉の隆々さを強調すれば、力強さは表現できる代わりに速さは損なわれる。逆に速さを捉えようとすれば、筋肉の逞しさが損なわれる。両者を両立して描くことは至難である(たとえば「スラムダンク」の絵が止まって見えるというのは、作者が人物の表情や汗や肉体の描写に重きを置いている故であろう。どちらも描いて見せた大友克洋の凄さがあらためてわかるな)。マンガの場合も作者がどちらを優先して描いているか見ればわかる。浅野氏は初期連作「素晴らしい世界」ではどっちつかずで、意識せず動きのある描写には流線やぶれた線で速度を表そうとしている。「ソラニン」では一貫して表情を捉えることに力点を置く。流線はほとんどない。そのために骨格から服のシワまで微細に描くことで、どちらに動くのかどこへ動くのかをわかる絵が中心となる。
 だからといって、写真的手法みたいな、そういうのがあればだけど、それとの関連性で語る気はない。舞台との類似点と同じように、たまたま共通項があったに過ぎないと思う。映画と同じような技法をいくつも作品中から見つけて列挙したところで、だから何? でおしまいにしたい。マンガがより影響を受けているメディアは、何にかも変え難くマンガなのであるから。

 で、今回は「鈍い意味」と絡めようとしたらとんでもない方向に話が流れていってしまったわけだが、「ソラニン」の背景を分析することで、マンガ表現には他のさまざまなメディアとの共通点があるらしいということが見えてきた。映画が中心だったそれだけど、当然映画だけではないわけである。何かを物語るということは、そんだけいろんな表現が駆使されている。読み手も難なくそれを受け入れるだけの懐の深さがある。
 というわけで、そろそろ物語という言葉について、きっちりと分別をつけなきゃならないだろう。物語はナラティブとストーリーに分けて考えられる。あ、この説明はかなーり大雑把だから、あまり信用しないように。詳しいことはナラトロジーについて調べるなり検索するなり本買って読むなりして。そんでストーリーっていうのはナラティブの一部になる。ナラティブはストーリーを含むキャラクターとか世界観とか、物語を語る上で欠くことのできない全ての要素・それこそ作品が書かれた時代や発表された時代も何もかも含む場合もある。作者の人生とか書いてた時の状況とかまで含むかも。ストーリーは厳密に言うとプロットやエピソードの塊ということになる。キャラクターは含まないのね。だから、このマンガは絵は下手だけどストーリーはいいっていうのもありなわけ。どちらも重要だという話はナラティブの話なのね。自分でも区別して考えるのは難しいんだけど、今回の「ソラニン」について言えば、私は「ソラニン」のナラティブには不満も多いが、ストーリーは好きということか、使い方間違ってるかな、まあいいや。
 次回こそは「鈍い意味」を絡めながら、また物語論とも正面向き合って、相田裕「GUNSLINGER GIRL」について考えてみる。

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