拝啓 手塚治虫様第3回



第三回
 高橋しんといえば「最終兵器彼女」だが、この作品、アニメ化もされただけあって熱狂的なファンがいる。一方で、くそつまらない漫画だと一蹴する人々もいる。この差、著しい。だがしかし、両者ともに考えたことがあって、それこそ物語の隙間を埋める作業に他ならなかったのだから興味深いのだ。舞台背景の考察である。
 両者がそれについてあれこれ議論したり、持論を述べたり、あるいは恋愛漫画だと割り切っていたりして、妄想の果てに両者まったく同じ結論になりながら「だから面白い、リアリティがある」「だからつまらない、リアリティがない」という結語が待っていた。同じ事を考えていながら作品の感想が極端に違うって一体なんだろう。実際に読めば、作品の背景が非常に曖昧なまま話が進むことに誰でも気付く。しかも、何かをほのめかしつつ明瞭にしない。高橋氏は主人公を中心に世界を語らせようとしている、だから主人公とその周辺の事情がすべてであり、それ以外の出来事は私たちが世界を漠然と捉えているように模糊模糊したまま放置している感がある。このあたりを、ある人は現実の個人もそんなもんだと得心して生身の人間を登場人物たちに感じ、ある人は世界観の不明瞭さに憤ってしまう。
 根本的に、読者は物語を読みたがっている。読む行為自体が面白い物語を希求しているなによりの証である。だからこそ作品で描かれなかった事情を想像する。読書経験や漫画経験の蓄積(物語のリテラシーとでもいうのかな)がなくとも、なぜそうなったのかと考える。これは自然な行為だろう。さてしかし、ここで思い出すべきは高橋氏がこの作品をどう作っていったかである。単行本のあとがきやインタビューを含めて、かなり物語を意識した発言が目立つ。なにか伝えたいものがあって、それを物語に託している。そして実際に多くの読者は作者の言葉を劇中から受け取ったはずだ、それは恋愛に関する諸々のことに違いない。だから作者の意図は成功したといえよう。では物語性という観点から考察すると、本作品はどう評価できるだろうか。
 本旨に入る前に確認したい。それは物語性の有無と面白さの関係である。これは、はっきり言うと関係ない、最初の回で書いたように物語性と独創性を混同しないようにしたい。どんなにつまらなくとも、作品の筋はあるのだから。そして筋がなくとも、面白いと思える作品が個々人にひとつはあるだろうから(ないとしたら、その読者は書き手が表現したことをただ受動的に読むだけの想像力なき態度といえる。また、漫画に限らす好きな絵や音楽があろう、そこに物語がなくとも心惹かれるものは誰にだってある)。

高橋しん「物語のカケラ」
 受動的な読者と能動的な読者の二種類がいる。前者が作品で書かれていることをそのまま受け取ってしまう人である。こういう人が書いた感想なり批評(もっとも、そんな人に何かを評論する気なんてないが)は、あらすじを述べるにとどまりがちである。一言二言泣いたとか感動したとかみんなにお薦めとか言っておしまいだし、価値観は人それぞれといって逃げを打ち、つまらないとすぐに捨ててしまう。後者は考える、なぜ主人公はそうしたのか、そうなったのか、これからどうなるのか、テーマは何か、つまらないと感じても考える。「最終兵器彼女」の長所とも短所とも言える点が、前者を意識した作劇術にある。それがエンターテイメントを意識しているということだ。つまり、わかりやすい演出で物語を表現したのである。これは新作「きみのカケラ」で顕著だが、説明調の台詞が意図せず増えてしまう結果になる。状況説明する登場人物たち、これが物語をテンポよく読みたい者にとって憤るほどの障害となってしまい、そこにリアリティ(この場合だと、現実味ある台詞のやり取り)を感じない。だが娯楽作品にとって肝要な点を考えると、やむを得ない演出とも言える、哀しいが。これは漫画の知識がある者とない者の差なのかもしれない(漫画のリテラシーとでも言うのか、調べたらマンガリテラシーって使う人がいた)。高橋氏ならずとも、多くの読者に自分の作品を読んでほしいと願うならば、表現は平易に傾き、パロディ化を嫌う。少しでもわからない読者がいると思えるならば、台詞を増やしてでも状況を細かく伝えようとする。そして実際に「最終兵器彼女」は多くの読者に登場人物の心情を悟らせることが出来た、中には泣いた人もいた。ところが、これこそが、漫画における物語性の喪失につながりかねない事態なのではなかろうか。
 物語を漫画で表現するとき、多くの漫画家は映画的手法を参考にすることがある。作家自らそれについて言及することもある。表現が飛躍した結果も映画の影響だろう。だからといって、映画のような物語を描こうとする作家がどのくらいいるだろうか。まずもって自覚しなければならない点が、漫画は読書するということである。一冊の読書に費やされる時間は千差万別であり、映画のように一定の時間を拘束されることはない。同じ本を30分で読み終えた人も一時間で読み終えた人も、どちらも面白いという感想にたどり着ける、それが読書のユニークな点だろう。しかし、1巻あとがきで高橋氏は書く、「たとえば映画を楽しむみたいに読んでもらおう」。実はここに作者の隠れた示威がある。
 最終巻である7巻の長いあとがきにも通じるが、作品の読み方・楽しみ方を読者に示唆するっていかがなものだろうか。連載中にも物語の設定が広く世界にまで及ばないように意識している(各種インタビュー記事からそれが読める)し、二人の恋の話であることを一読してわかる努力も劇中から垣間見られた。自分が読者だった時代を忘れているんじゃないだろうかと生意気言いたくなるくらいに、読者の想像を作者が強制しているように思えてならないのだ。最後のあとがきも言い訳ではないかと捉えてしまう自分がいて嫌になるが、作者自身も世界観の甘さを自覚していたからこそ、二人の話であることを強調したのだろう。どう読もうが自由であるはずなのに、物語を伝えたい一心が高じて読者の物語を読み取る行為を阻害したのである、これが一部の読者を憤慨させた根本ではなかろうか。
 つまり、作品を読む上で「世界観はどうでもいい」という態度は「価値観は人それぞれ」という態度と同様に自らの思考を閉じてしまった愚考だと断言したい。もちろん、どうでもいいと言いつつ他人の世界観を否定しないならば問題ないが、本作品では、作者自身からして世界観はどうでもいいという態度なのである。それについて考えることは野暮なことだと自分で言っているのである、正直、信じられない。好きなように考えれ、と読者を放置してくれない。考えるなと言っているに等しい。いや、それは言いすぎだが、そう感じてならない。本が出るたびに描き直し書き足し、単行本それ自体をひとつの娯楽物と意識していた作者が各巻にあとがきを書く……1巻「シュウジとちせに引きずられて」、3巻「「シュウジ」と「ちせ」に付き合って下さるとうれしい」、4巻「ちせとシュウジの恋に最後までおつきあいください」、5巻「この話はシュウジとちせの物語です」、6巻「最後まで二人の恋を見てあげてください」、7巻「シュウジとちせのお話は、これで終わりです」
 はじめから決められていた物語を描くとき、それにこだわるあまりに説明調の台詞が増えたり、知らず知らず読者に読む姿勢を強いたりして、物語を読み取る行為をないがしろしてしまう例を今回考えてみた。そこから見えてきたことは、漫画で物語を表現・演出することの困難さであり、実践した時の悲劇だろう。読者の思考は自由だ、それを踏まえた上で物語をどう伝えるかが作家の腕の見せ所と言えるかもしれない。では、すでに決められた物語・歴史を描くとき、作家はどんな顔をするのだろうか、岩明均である。


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