拝啓 手塚治虫様第4回



第四回
 漫画上の物語がなにで成り立っているかって考えると、表現と内容がある。表現とはつまり絵とコマがその代表で、これに背景描写とか台詞の位置が絡んでくるだろう。内容はストーリーそのもの。正直、ナラトロジーの受け売りなんだけど、とても単純な構図でわかりやすい。ストーリーは物語って意味だろって野暮なこと言わない。物語っていうのはあくまで「語り」なんだ。やっぱり物語について考えるにはストーリーだけを考えてたんじゃ駄目だなって今更のように思う。

岩明均「雄弁なる無表情」
 岩明均という作家は非常に理知的である。「雪の峠」の感想で触れたが、物語の作り方からして論理的である。岩明氏の最近の仕事は歴史作品に限定されているが、その予兆は彼自身が寄生獣10巻のあとがきで書いている、「まず「出来事」が存在し、次にそれに対峙する「登場人物」たちを配置してゆく」と。氏にとって、自ら作り上げた物語の出来事も、歴史上の出来事も同じ視点らしいのである。
 漫画は元来キャラクター性の濃い分野であることは誰もが認めるところだろう。そこにストーリーを乗っけて話を展開しようというのだから、そもそもかなり無理がありそうだ。それは歪みとなって作品に大小さまざまな傷(前回述べた世界観の曖昧さに対する読者の反応であったり)を残す結果となりやすく、むしろ端っから物語性を意識させない作品(ギャグ漫画・萌え漫画等)のほうにこそ漫画における物語性がありそうに思えてしまう。岩明氏は性格的な理由で「出来事」から物語を考えると同文で告白している。これは非常にまれな物語作りではなかろうか、いや、きっと他にもそういう考えの元で作品を描いている漫画家はいるだろう(福本伸行「カイジ」もひょっとしたらまず出来事としてのネタと仕掛けがあって、そこに人物を配置していく方法かもしれない。また推理物などもそうだろう。あるいは少女漫画もひょっとしたら出来事が先かな、と直感するけど違うんだろうな)。だが、人気漫画をざっと列挙するだけでそれらがいかにキャラクターに依存した物語であるかを実感できるはずだ。前回触れた「最終兵器彼女」の物語ものがたりした作品でさえ、着想はキャラクターが先だった。「「登場人物」があり、それを引き立てるために「出来事」を考えてゆく」と岩明氏が述べた言葉こそが、最も一般的な漫画の作劇術であり、多くの読者が求める漫画なのだろう。
 では、出来事が先に作られた物語とはどういうことか、具体的に考えると実に簡単である。出来事を逆からたどるだけなのだ。「ヘウレーカ」を例にすると、結末として「シラクサ陥落」という史実があり、「アルキメデスの殺害」がそれに付随する。ローマ軍が制圧に手間取った原因・抵抗勢力としてアメキメデスの機械がそこから浮かび、ではなぜ陥落したかというと内通者がいたからとなる。内通者がシラクサを裏切るきっかけとして内通者の憎しみを生む出来事(肉親なり近親者が殺されるなど)があればその動機が明確になる。以上の事柄で登場人物は決定する。まず内通者となった者、その近親(作品では彼女)、ローマ軍司令官、シラクサの指導者、そしてアルキメデス。次に出来事を成立させる条件として登場人物の設定が決まっていく。内通者とローマ軍司令官が接触できる条件として、彼女の名前がそこから決まり、内通者の立場(この場合はローマ人でもシラクサ市民でもない異端者。誰の味方にもなりえるし誰の敵にもなりえる曖昧な存在)も決まる。
 もちろん私の妄想であるが、結末、つまり物語の終わりを明確にすることによってそこから様々な設定が決定していく。当然、伏線も生まれやすい。作家なら誰でも物語のはじめと終わりを想定しているだろうが、連載でそれを全うさせるのはかなり至難である。不意の打ち切りや休刊、人気低迷による設定の変更などの外的要因によって作家の意志が頓挫する現場を雑誌で少しは見てきたわけで、岩明氏は非常に恵まれている。では、そんな環境を得る事ができたきっかけである奇跡的な作品「寄生獣」はどうなのかと、「あとがき」を読むと当初三回の連載が書き継がれて10巻にまで及んだことがわかる。連載開始時点で10巻の終わりは当然想定されていない。にもかかわらずいまだ絶賛され続ける伏線の妙とそれを支える物語の厚みはなんだろうか。これもやはり出来事が物語の中心に据えられているからなのだ。この作品にとって幸運だったことは、出来事を引き立てるために登場人物の設定が決められていったということになる。私の「ヘウレーカ」設定の妄想と同じ様な作業を行えば、「寄生獣」の面白さの一因が垣間見られると思う。
 さてしかし、当の「寄生獣」が生まれたきっかけも、最初は作者のネタ(右手が勝手に動き出して騒動になる)だったという点を考えると、登場人物の設定が出来事の設定より先ということになるが、岩明氏はそれら人物の設定を筆致でほとんど消している、まあこれはこの人の個性なんだが。つまり無表情である。実際に読めば泣いたり笑ったり怒ったりしているんだけど、その印象はきわめて無表情、これに尽きる。すなわち能面なんですな、この顔は。これはいつか指摘しようと思ってたことなんだけど、能面であるが故に様々な表情を読み手に感じさせることが出来る。顔の傾きや影のつけ方でいろんな表情を生み出してしまう。記号としての表情よりも、こちらのほうが数段読者の想像力を刺激してくれる。また、その無表情を引き立てる背景も「描いている」。これも背景を細かく描く時間がないってだけかもしれないが、岩明氏の作品の背景は薄い、描かないときもある、それで会話のみで数コマ進行する。だからこそ人物の台詞と造形に視線が集中しやすい、結果、背景に読むリズムを邪魔されず、作品の隙間を想像力で補完するのだ(人物がどこで何をしようとしているのかは最初にちゃんと描いて示すわけで、背景を描いてないわけじゃない)。これはどの漫画でも大事な点だと感じる、背景をこまかーく描く作家もいるけど、邪魔なときがあるんだ。風景だけのコマがポンと挟まれていれば、その前後の展開からいろいろ想像できる(というか、読むという行為自体が想像力を要するわけで)けれど、なんかリアリティを勘違いしている、即物的で嫌なんだ、どうせリアルを求めるなら感情面・心理面にしてほしいね。
 だからといって背景を無視するわけではない。背景を描くことによって、作品の世界がどうなっているのかを読者に自然と示すことが出来る。登場人物の環境が明確にもなる、出来事の周辺さえ書き示すことが出来る。でも邪魔になるときがある。この葛藤は、風景を描きたがる作家にとって非常に辛い立場を強いる、貞本義行である。

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