拝啓 手塚治虫様第5回



第五回
「理想は全コマ背景があって、フキダシがないもの。」とかつて語ったことのある貞本義行氏が描く「新世紀エヴァンゲリオン」は、多くの読者が作品のあらすじを知っている中で展開される物語という観点からして歴史物と捉えることが出来る。自然と読者の視点もアニメと比較することによって成り立っているきらいがある。正直言うと、私がアニメを見たのは単行本がすでに四巻まで出たところだった。つまり展開はほとんど知らない状態で読んでいたのである。アニメの影響は大きく、現在ではキャラクターの台詞に声優の声を当てながら読んでしまうが、四巻まではそれもなく漫画を漫画として読んでいた。
 当時は風景に対する見識もなく漫然と読んでいたが、引用した言葉があるインタビュー記事(1999年「季刊コミッカーズ秋号」に掲載)を最近読み、また風景から作品について語る機会が増えたこともあって、私が風景といえば必ず引き合いに出した坂口尚ではなく今回はあえて貞本氏の描く風景から物語との関係を探って生きたいと思う。

貞本義行「背景が伝えしもの」
 アニメを知らなかったころの私にとってもっとも印象深い場面は、各話の扉絵である。特に第16話は強烈だった。「捨てられた記憶」と題された扉の中央で小雨の中しゃがみこんでぼろい傘を差した幼少のシンジがいる場所が不法投棄されただろうゴミの山なのである。そして手前に描かれた自転車がその回を物語る上で欠かせない道具となる。扉絵が作品の象徴となっているのである。
 場所は川岸である、遠くに橋があり土手が見え、その向こうにマンションらしい建物がちらほらとある。雨の量にしては異常に厚そうな雲が覆いかぶさり、じめじめした感じと同時に閉塞感を生む。その根本は広々とした場所にもかかわらず縮こまって座る少年の姿である。川べりは風景にとって境界線として描かれやすい。川の向こう側とこちら側で世界の違いを端的に示せることが出来るし、画面を横切る川が景色に起伏をもたらし、世界を際立たせる。少年は当の境界線からどちらの世界も見渡せる位置にいながらじっと正面を見つめているだけである。だがこの暗い描写によって景色ではなく少年の存在が心象風景として際立ってくるのである。
 貞本氏の描く風景は、例が示すように登場人物を際立たせることに卓越であるが、それはイラストに限定されていた。だが漫画を描き続けることによって氏の背景の表現力は向上している。わかりやすい例が、4巻143頁と8巻124頁である。同じ場所で、4巻がシンジとアスカ、8巻がシンジとレイの会話が行われる。4巻の例では、書き込みが多く陰影がはっきりと描かれている。背景は背景、人物は人物として描き分けられている(1巻2巻の頃だとこの区別がより際立っていて時折妙に人物が浮いたコマもあったが、4巻の時点でその融合と際立たせ方が巧みになってきている)。また人物の心理も台詞に負っている。これはアニメの台本をもとにネームが作られているためだろうか。あとひとつ、言葉にするのが難しくてもどかしいが、心理と背景まで分離しているとでも言おうか、貞本氏はアシスタントへの指示が的確らしく人物と背景の描線に差がないよう描かせているので気付きにくいけど、つまり会話が背景によって一層際立つにまで至っていないのである。一方8巻の例は、まず背景からして洗練されていることがわかる。書き込みを減らしながらも舞台にあるものを生かした演出が施されているのだ。水に手をつけて過去のシンジとの触れ合いを思い出すレイ、手から伝わるものがこの場所で会話が行われることによって際立った。水面に陽光が映えている雰囲気も人物の背景に薄いトーンを貼ることで会話中に盛り込まれている、127頁5コマ目ではそのきらめきがレイの心象風景と重なった錯覚を読者に与えてもいる。インタビューで読みやすさと背景の処理の仕方の間でゆれていた作者が得たひとつの答えかもしれない。
 さて、このように背景の心象化とでも言える表現は、物語においてどんな効果があり得るかと考えるとき、漫画特有のものがありそうだと感じられないだろうか。読者の想像力を自然と引き出しながら物語を読み取ることを阻害しない背景、小説なら細かな舞台描写であろう、映画ならBGMだろう。どれも作品の流れを妨げてはならない(もちろん、故意に読者の思考を途絶させて他の何かを表現する手法もあるわけで、一括りに出来ないんだが)。映画のBGMのような背景が理想といえば理想といえる、鑑賞中は全く気にならなかった音楽が、エンドロールでようやくその存在に気付かされる、そして気にも留めなかったはずの音楽をあらためてサントラなどで聴くことによって映画の様々な情景が浮かび上がる。漫画の背景もかくあるべきかと思う。
 漫画において個性といえば、人物の造形でありストーリーのもっていき方が取り上げられやすいが、背景だけを取り上げて、これは誰が描いた?と問われても難しい。物語の構成要素は表現とストーリーだと受け売りながら前回書いたが、背景描写は両方にまたがる重要な要素だと考える。雰囲気とか空気感とか、読者の主観によるところが大きい感覚をいかに作者の思う方向にもっていくか。さらに魅力あるストーリーを際立たせる背景。これをないがしろにした写真を加工した背景や全てアシスタントまかせの景色からは物語は浮かび上がらないはずだ、リアリティも感じられない。もしそれらがなくとも物語性があると感じたら、それこそ漫画に物語性が薄いことを自ら認める発言になりはしないか。尤も、ストーリーへのこだわりは多くの作家に見られるわけで、さてしかし、それが必ずしも作家の目指す面白さになるとは限らない。
 連載前から物語の流れを固めながらも、人気なく足掻きもがいた結果、自ら物語を破壊することでしか連載を維持できなくなった作品もある。個性ある表現力を持ちながら物語の一要素でしかないストーリーにこだわるあまりに自滅していった漫☆画太郎の「地獄甲子園」である。

  戻る