拝啓 手塚治虫様第6回



第六回
 「地獄甲子園」は打ち切られた作品である。そのため物語は途中で中断している。にもかかわらず映画化されるほどの人気というか力がみなぎっている作品である。ギャグ漫画だから、の一言では済ませられない苦労を画太郎氏はインタビューで漏らしていた、人気なく非難の声もなく全くもって無反応の結果、作者はありとあらゆる手を尽くして読者の声を手にせんとばかりに物語をあっちこっちに揺さぶり結局当初予定していた試合は一回裏の途中で終わったまま、じいさんの死で物語は唐突に終劇を迎える。
 読者の感想を引き出したいがために物語の流れを変えた挙句の打ち切り。悲惨だね。幸いにも画太郎氏は現在出版社を変え原作者を得、伸び伸びとやっているようだが、少年ジャンプというか集英社の特性もあるんだろうけど、人気のない作品に対する仕打ちが信じがたいほどいい加減だと認識させられる。途中で本編と関係ない話が紛れ込むのだ、人気作なら作者にそんな無謀にことさせないだろうし、読者も期待しない、物語の続きが読みたいのだから。でも「地獄甲子園」は本筋から離れた番外編やら女子高生の話やらが出てきてしまう。人気を得るよりもまず読者の声が聞きたくていろいろと話を転がすものの効果なく、一度失った物語の流れは変えられず最終回に至る、ほんとに悲惨だ。
 さて、物語としては確実に破綻していながらも現在もなお版を重ねている単行本、そして映画化、本作品からは物語の一体何が見えてくるのだろうか。

漫☆画太郎「地獄甲子園」
 漫☆画太郎といえば連続コピーである。「地獄甲子園」1巻36頁3コマ目ではコピーして貼った跡まで見える。画太郎氏はこれらをギャグとして応用している。同じ構図・同じ描写・同じ絵、台詞を替えただけで物語を前進させる。漫画における物語がいかに台詞に拠っているか、ということを知らず語っている。そして読者も知らずそれを受け入れている。なぜだろうか。そもそも漫画(いや、漫画に限った話ではないが)を読むということ、つまりコマをひとつひとつ読んでいくことに作者も読者も疑わずに承知している前提がある、それが時間の経過である。
 次のコマから次のコマに移行するときに多くの約束事が含まれていたのである。読み始めた瞬間から物語の終わりを期待する読者と、終わりまで描こうとする作者の意識が合致しているためだが、これって当たり前すぎてばかばかしい事実なんだけど、1コマ目と2コマ目の因果関係をどうしてこうも無批判に受け入れてきたのかってことが不思議である。なんの説明もないのに1コマ目の状況から2コマ目の事態を把握し、3コマ目でまた2コマ目の状況を踏まえて……という作業から物語が浮かび上がる。だがしかし、コマの間にそのような因果関係があることを誰も説明していない(昔の漫画だとコマに番号がふってあり読む順番を読者に教えていたんだが、今ではそのような必要がないほどに漫画のリテラシーを多くの人が持っている)。デタラメな場面がコマとして並ばれてあったとしても、読者はなにかを読み取る、読み取ろうとする。
 たとえば1コマ目で学校の外観が描かれ、2コマ目で教室内の人々が描かれたする。わざわざ2コマ目の教室が1コマ目の学校の中にあるという説明などなくても、舞台が1コマ目の学校の教室内に移行したことがわかる。街の景色があってそこに雨が降っている、次のコマで傘をさした人が出てきたら、先のコマの雨が原因だとわかる。漫画のコマを繋いでいるものが読者のこのような意識なのである。
 因果性と継起性の混同が物語の原動力だと指摘したのはロラン・バルトだが、漫画の物語性を考えると、実によくこの言葉の意味がわかる。特に詳しい指摘がなくても、2つのコマが並んでそこに何かつながりがありそうだと直感すれば、そこから物語が生まれる、これが因果性。だがよくよく考えると、漫画のコマは継起性・つまり時間を順に追ってコマが並べられているという暗黙の了解事項に気付かないだろうか。単に時間の経過を追って述べたにもかかわらず、そこになんらかの因果関係を見出してしまう、歴史が物語といわれる所以だが、漫画はその混同を意識的に表現に取り入れているのである。
 「地獄甲子園」1巻62頁から65頁は画太郎氏の作風の特徴として紹介される(らしい)が、この連続コピーをなぜ読者は読めるのかと考えてみた。62頁は(1)番長がボールを投げる、(2)十兵衛がボールをよけるの3セットである。各セットが異なって描かれているので、この頁全体がひとつの流れ、十兵衛が番長の投げるボールを3回かわした、という物語となる。63頁の頭からこの3セットが再び描かれる。全く一緒のコピーでだが、さて、ここで因果性と継起性の混同がある。3セット目の(2)から1セット目の(1)が描写されたにもかかわらず、読者はここで番長が投げた「四球目」を十兵衛が「四たび」よけた、と読む。「1回目」の場面がまた描かれたと思いつつも、読者は四回目を意識し、これが5回6回7回と続き、とにかく十兵衛は番長のボールをよけまくったというところに落ち着き、次の展開へ進むわけだが、なぜ読者はここで、場面が「1回目」に時間が戻った、と読まないのだろうか。映像で言えばリプレイである。昔、ジャッキー・チェンの映画を見たときにジャッキー自ら危険なスタントに臨んだアクションシーンはリプレイされて、スローにしたり構図変えたりして、とにかく繰り返し同じ場面が流されてアクションの迫力と同時にどんなアクションもやっちまうジャッキーのすごさが伝えられた。でもこれを見て、ジャッキーが何度も同じところで何度もアクションをした、とは見ない。当のアクションは物語の中では一度っきりで、それを強調するためのリプレイだと知っていた。だが漫画だとコマ間の継起性が刷り込まれているために次の時間を読む。時間を勝手に動かしているのである、誰かに指示されたわけでもないのに。
 物語性に濃い薄いがあるとすれば、この劇中時間と頁数の関係を調べてみると何かあるかもしれない(あるいは何もないかもしれない)。昔と今の漫画の時間の経過の描き方の相違、読者が感じる時間の流れの意識の変化などなど。よく言われるが、雑誌で読むと間延びした感じだった作品が単行本で読むとすっきりまとまっている、という感想なんかも時間と関係ありそうだし。
 さてしかし、読者のそんな意識を知ってか知らずか、時間に焦点を当てたかの名作SFがあるではないか、藤子・F・不二雄「T・Pぼん」である。

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