拝啓 手塚治虫様第7回



第七回
 「T・Pぼん」。面白すぎて物語論どころじゃなかったけど、落ち着いて読み直して時間がどう描かれているかを考え、読者が時間をどう捉えているかをも推理したい。で、物語性との関連が希薄になりそうだが、前回のとおり、因果性と継起性の混同ってのは物語を進める上で非常に有効な手段なのである。書き手自身が混同しているってところもあるんだが、コマを順番に読んでいくことで時間が経過しているというバカみたいな常識を皆が疑問に感じないところに時間旅行物の盲点がある。
 藤子Fは「ぼん」に限らずいろいろなもので時間旅行を扱っているので今更ここでそれについて詳しく書くことはないので論点を明確にしよう。盲点ってのはすなわち読者の時間と主人公の時間のふたつの経過の混同である。読者時間は読者が感じる劇中の時間の経過、主人公の時間は劇中に主人公が体験する時間のこと。「ぼん」では「消されてたまるか」の回でまず時間の巻き戻しがある、主人公ぼんが友達ともみあっている(1)、友達がバランス崩してベランダから落ちて死んでしまう(2)が、これをぼんの最初のパートナーとなるリームが時間を巻き戻してもみ合う前の時間に戻す(3)。この時、読者時間とぼんの体験した時間は一致しているから、ぼんは先ほど確かに友達が落ちたのに今またなんで彼と談笑しているのか訳がわかってない(4)。つまり時間が巻き戻される前の出来事を記憶している。このときの時間は(3)→(1)→(2)→(3)→(4)となるが、実際に読むと(1)〜(4)と順番に経過しているのは自明である。(3)が二度あるけど、あまり感じない。なぜなら(3)がもみ合う少し前ともみ合うもうちょっと前の二つの時間に分割できるからである。これが時間の混同である。(3)の出来事を読者自身が二つに分割しているって言ったほうがいいか。
 これは次の回「見らないT・P」でさらにはっきりする。ぼん11時起床、あわてて学校へ(1)、学校になぜか自分がいて混乱(2)、もう一人の自分と交代して授業へ(3)、下校、家にはリームがいて今日の8時に飛んで寝ている自分を起こそうとするが起きないので自分が学校へ行く(4)、授業中(5)にもう一人の自分がやって来た(6)ので交代し帰宅(7)。この流れ、過去の自分と会うって時点で時間がだいぶ交錯している、(4)→(5)→(1)→(2)=(6)→(3)=(7)となるが実際はやはり(1)〜(7)のに読める。なんでだろうかって当然そういう順番で描かれているから。時間は過去に行ったり未来に行ったりしても、主人公が体験している時間が読者の時間にそのまんま反映されているということだ。だから時間の混乱が起きない。これが時間の経過に沿って描かれていたらどうだろうか。
 登校時間が近づいても起きないぼん、8時頃リームとぼんが出現、ぼんは寝ているぼんを起こそうとするも起きないのでぼんが学校へ行って授業を受ける、11時にぼん起床し慌てて登校、教室をのぞくとぼんがいる。ぼんが校庭で待ってろというのでそうするぼん、ぼんはトイレへ行くといって教室を出て校庭へ行ってぼんと会う。ぼんは教室へ、ぼんは帰宅。帰宅したぼんはリームと事故の救出に出動(8)。下校したぼんは切り株のリームと会いタイムボートに乗って消える(9)。ぼんはリームとタイムボートに乗って現れて家に帰って寝る(10)。
 ぼんぼんと誰に主体があるのかわからんが、注目は(9)である。矛盾しそうな展開を自ら避けて読んでいるのだ。(6)から家に戻ったぼん、この時間は昼前後、リームやブヨヨンと雑談後に(8)となって(10)に至るが、任務を終えて帰った時刻はいつか? 明確にされていないにもかかわらず、読者はぼんが切り株の近くでリームと別れている場面も手伝って下校時刻頃だと勝手に解釈し、物語もそのように進んでオチに至る。これは藤子Fの作劇術の賜物でもあるのだが、実際の時間がはっきりしていない場合、読者は継起性の慣習に従って順繰りに時間が経過しているものとみなしていると思われる。だから混乱なく物語を読み進められる。実際は(9)が先に描かれ(8)→(10)と物語が進むので、時間の逆転に気付きにくいのだ。これにはもうひとつの力・因果性が影響している。
 前回は継起性が因果性の混同を引き起こす場合について書いた。今回は因果性が継起性を混同させる場合を考えてみたわけ。すなわち、物語がいつの時間に進行したか曖昧のままだと、劇中時間と読書時間を混同し、かつ読者のほうで時間を勝手に進めてしまうのである、因果性が強力に働いているために継起性が自然と揺り動かされるともいえよう。原因と結果は必ず原因が先ってことだ、だから結果は物語の発端の後だと読者は必ず読むのだ。「武蔵野の先人たち」の回でもそれがはっきり読める。父親と散歩中のぼん(1)→仕事のため過去へ(2)→父親が散歩から帰った頃に現在に戻る(3)→再び過去へ(4)→現在に戻ると居間でくつろいでいる父(5)。(1)→(3)→(5)の現在の時間軸が自然と経過している。主人公はどの時間にも戻ることが出来るのだが、どういうわけか読者は現在の流れを受け入れる。因果性に混乱をきたさないような配慮が書き手によって構成された結果、読み手の継起性が促されたのである。こうした混同というものは時間旅行に限らない。その例が「十字軍の少年騎士」の回だろう。
 この回で秀逸な点が回想場面の挿入法である。時間を混乱させずに主人公の時間を読者に体験させつつ過去の出来事を描いているのだ。少年騎士がなぜ砂漠を独りで歩く結果になったのか? 原因を描くことで特別に「これは過去の出来事を回想してます」という注釈なしでもそれは過去の出来事だと解釈させるわけ。おまけにこの回は過去や未来への移動がないのだ、冒頭からすでに十字軍の時代に主人公は来ている。回想する場面も以前なら過去へさかのぼって原因となった現場を直接見る(主人公に見せる)のだが、それもない。
 漫画に限らないが普段劇中の時間ってあまり気にしないで読んでることが多い。長期連載作品だと、自分がいつの間にか主人公の年齢超えてたことに驚くこともあろうが、そうしたところでフィクションだからと割り切って読むことが出来る。読者側でも、わざわざ混乱してしまうような読み方を構築しないってことだ。そう、構築してると思うんです、読者は。書き手の意志とは無関係に。絵で物語を作ろうとすればなおさらだろう、読者は様々な解釈を好き勝手にしてしまう。それを防ぐには説明過剰ともいえる語りや台詞を投入するしかないのか? バラエティ番組のように終始ナレーションがあり、CM前の煽りがあり、CM後の過度な説明があり、些細なことも解説してほしいのか? 幸いなことに漫画はそこまで堕ちてはいない、堕ちないだろう。というのも原則として台詞を一つ一つ読むという行為がそこにあるからである。ふきだしの中の台詞を読む、とは、すなわちその言葉を発した存在に一瞬とはいえ視点が移されるからである、独白の連続なのだ、だから「そのとき!彼はこう言った!」などという語りは必要ない。
 漫画の特異点が、この人称の混在でもある。TPぼんは基本的に歴史の傍観者であるが、「十字軍の少年騎士」の回のように少年騎士の視点から回想場面が始まり、終わると主人公の視点に移っていながらも読者は視点の唐突な変更を容易に受け入れられる。また、めまぐるしいほどの台詞のやりとりがあろうとも、読者は順番にそれを読み込んで人物の感情思考を理解する。ここで、すべてを知っている読者が登場する……否、ほとんど知っているというべきか、ぼんのように圧縮学習で周辺知識を得ている部外者として作品世界を読むとは、読者もまた登場人物の一人として作品を読んでいる、というか、あらゆる人物の台詞やナレーション全てが読者の私小説と化してしまう。傍観者然とした読者の存在。そして、物語は読者が構築しているのではないか? というところから派生してみた漫画に物語性はない、という指摘は、私自身あまり納得してはいないからやっかいだ。漫画系サイトに限らず、映画系サイトなども巡回しているのだが、なんというか信じがたいほどストーリーを理解していない人が多い(自戒を込めて……)、というかね、もうほんとに読んだのかよ観たのかよって文句言いたくなるような見落としがあるわけ。でも「面白い」という感想が出てくる。見落とさなかった読者も面白いと感じたとして、両者の違いはなんだろうかっ考えると、結局個々人が物語を構築している結果としか思えなくなってくる。物語は読者のもの、作者がいくら物語性を盛り込んだとしても。特に漫画のような「絵」が物語の面白さにかかわるメディアだとそれが顕著だと思うんである。「絵」、結局ここに行くわけですよ、物語性の肝は。
 というわけで次回からは、漫画において読むという行為よりも先立つ、見るという行為から漫画の物語性について考えてみたい。それによって、いかに絵が物語にとって重要なのかが見えてくるだろう。従来、物語の二大要素のひとつにすぎないストーリーについて批評されることが多かった「漫画について語る」という行為も、視覚や認知心理学の点から考察すると、物を見たときに私たちが何を感じ何を読み何を思うのかということがわかってくるはずだ。


追記:物語の解釈を拒む理由とおっさんの戯言 BSマンガ夜話「弥次喜多inDEEP」の回を見て
 今期放送(2003年5月)で最も見ごたえがある回だった。世代の差による解釈の相違と物語への取り組み方の変化が見えて実に面白かった。特に夏目氏が言う解釈を拒む訳が興味深い。
 夏目氏は「風と木の詩」の回でも青年時に西洋かぶれに拒絶反応していたことを吐露したが、この回の解釈をしないしたくない・寓意をことさらに避けるというこだわりと共に考えると氏の漫画批評に対する姿勢がほの見えよう。私が言うまでもなく夏目漱石の孫たる氏である、誰もがまずもって漱石の孫としての房之介を想像するだろうし、氏自身幼年期からそのような外圧に耐え続けたと思われる、近年になって「じっちゃんの名にかけて」と自らを茶化すほどに寛容にはなっているが、氏の根っこには漱石の孫と自分が想定されることへの反発があっただろうし、俺は俺だよという思いは人一倍強いに違いない。絵解き・解釈を拒む、というか私には嫌っているようにも見えたが、そのあたりは達観したのかもしれず、作品の世界観を解説するくだりは普通の評論家みたいなこともこなしてしまうプロの姿勢を感じた。いしかわ氏は安保闘争とちらっといったが、夏目氏は青年期になっても漱石の孫というところから自分が評価されることに対する反発が自ずと既成概念への反発に移行し、それが従来の漫画批評として蔓延していた絵解き解釈への強烈な嫌悪感を生んだといえなくもない。瓜生吉則氏はすでに「マンガを語ることの<現在>」で、評論家による従来の漫画語りがもっぱらそのまま現在の社会状況に置き換えられて論じられることに懐疑的であった夏目氏の言説を指摘し、当時(つまり番組で夏目氏が言う1968、9年)から70年代にかけてプロパガンダになりかけた表現への反動は、そうした評論家の身勝手な批評も影響していたのではないかと勝手に思うし、夏目氏は自身の経歴も加わって必要以上にそれらへの憎悪があったのではないか。私の妄想だけどね。
 でも、今なおそんなメッセージ色の強い作品が自称評論家筋・ぶっちゃけネット書評やってる人たちに評価されている現状がなんともつまらん。絵解き分析大好き、私もついやっちゃうけど。だからこそ岡田氏の指摘、解釈を避けることへのアンチテーゼっていうのは世代の差を超えた議論の足がかりになりえたと思う。番組は「よくわからない」で終わってしまったが、解釈を拒む物語を書くことの難しさと解釈を許すあるいは好きに想像しれという物語を書くことの気恥ずかしさ、両方がなんとなくだけどわかる。いや、番組を見ていた20代30代の人たちはわかったんじゃないかな、感覚的に。というのも、うちらって解釈しない漫画も解釈する漫画も両方読んでいるわけだ。夏目氏らの世代が恥ずかしいと思う寓意的物語はその上の世代が書いているわけで、その代表たる宮崎駿の作品が夜話で語られないのも、許諾がおりないって事情があるのかもしれないが、それよりも寓意を恥ずかしげもなく書けてしまう人への憎悪というかなんというか、そういうのがあるのかもしれんけど、うちらの世代はナウシカを普通に読めるしカムイ伝も読めるし、ジャンプ全盛期の時代も読んでいるし、弥次喜多inDEEPだって読めちゃう。なんでもありってな状況を疑いなく真っ直ぐに浴びまくったんだよな。だから解釈することへの抵抗が少ないし、解釈しないことにも抵抗が少ない、いろんなものをごった煮で面白いと感じる感性がある。ところが今だ夏目氏もびっくりな低迷を続けるネット書評の現状がさびしい。どうにかならんものか。せっかくいろいろと楽しく読んでいるのに、いざ書評となると前述どおりの評論家受けのよい作品に限定されがちなのだ(結局、言葉に強く訴えた作品ほど評価しやすいってのがあるんだろうが)。そもそも漫画は絵じゃないよという発想がおかしい。絵はこんなだけど読んでみて面白いよ考えさせられるよ、と言われてもその作品への評価なんてほとんど変わらないよ、この絵だめだって感じたらもう駄目、私が手塚の絵に嫌悪感持ってたら、そりゃ数作品は読んだだろうけど、普通には読めなくなってた。少女漫画の評価が好例だろう、にもかかわらず、ストーリーが大事とお題目のように唱える。悪いがそれは見当違いだ。絵が下手な漫画家ならそれなりに巧いと思える演出を施すもんだし、絵に自信ある漫画家なら大ゴマビシバシ使って派手にやろうし、脚本命な漫画家なら台詞と人物の配置に神経注ぐだろう。見せ方ってものはいろいろあるのに、それを感じられずに表面だけをなめまわしておしまい。なんだか漫画喫茶に必死に通って漫画を評論している人みたいだ。こういう人にとって漫画の表現はうろ覚えになっちまうし、引用すら出来ないから咀嚼した物語の評価にとどまるんだよ、それに気付かないで評論だって。わらっちまうよ、ってゆうか日本アルゼンチンに惨敗じゃん、それくらい無様をさらしているんだよ、漫画喫茶の読書なんて。単に「読んだ」という事実がほしくて読んでいるだけなんじゃないか、それで評しようとするんだから、失笑。感想にとどめてくれ、で、面白かったら買ってくれよ。
 それはさておき、「ファイブスター物語」の回を見て思ったんだが、書きたいもの・というか己を表現できるものがたまたま漫画だった、という漫画家がいるだろうとは予想できた。永野氏は永野氏で漫画以外の文献にも目を通し、それでも表現できる媒体が漫画な訳だ。そこから私的に飛躍すると、信じがたいほどの読解力のなさと絵解き志向の批評を見るに、世の中には受け入れられる媒体が漫画しかないんじゃないの?もっと突っ込んで、他人の表現・伝えたいものを感じられないんじゃないのかってそれはテレビばっか見てて、それが標準になってスポイルされた人たちのことだけど、漫画しか読めない・活字読めない・映画観たって話飲み込めない、話題といえば携帯だけ、もう最悪の極み。だから面白いものは、作り手が視聴者をバカにするくらいわかりやすーいテレビ番組があふれている。
 これも世代の差、なんだろうか……、きっとそうだろうな、彼らには彼らの感性があって、おっさんにはわからない何かすげえーもんがあるに違いない……そして彼らがきっとおっさんたちにも理解できる表現で面白いもんを伝えてくれるに違いない……ネットで書評書いてる若い皆さん、期待してまっせ。
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