拝啓 手塚治虫様第8回 マンガ文法なんてホントにあるのか?



きっかけ
http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20040315
http://d.hatena.ne.jp/AYS/20040314
 3月中頃にマンガ文法について考えるシンポジウムが行われたようだ。いつくかの漫画をサンプルとして被験者に読んでもらい、台詞と絵がどう読まれているかを、読む時間によって検証してみようという試みである。
 個人的には、漫画の研究ってまだこんな初期段階なのかよ、と呆れつつも、この程度なら自分にも出来るじゃんという浅はかな余裕も生まれた。もちろん被験者を集める元手自体ないし、こういう研究はやっぱりプロに任せるのが正しい。けど、そうやって待ってても誰もしてくんないので、結局自分の経験則と付け焼刃の知識で考えるしかないということになった。そんな中途半端な状態で書くなよという突っ込みを覚悟しつつ、こういう研究が行われたということは、いずれ誰かが(夏目房之介氏なんかを中心に)どとーんと発表してしまうだろうと思うと、研究(というかまったくの素人推論だけど)は先に言ったモン勝ちだなという不毛が芽生え、こうして今からたらたらと考えてみようというわけである。
 で、専門書は数冊しか読んでいないけど収穫がなかったわけではないので、そういうのも自分なりに咀嚼して援用できればやってみて、無理なら所詮素人考えと逃げを打ち、お気楽にやってみるので読むほうもいい加減に読んでいただければありがたい。では参ります、マンガ文法なんてホントにあるのか? 

漫画の原体験を思い出してみる
 個人的な話からしよう。小学生の頃よく読んでいた漫画は週刊少年ジャンプである。他に夢中になった漫画は藤子不二雄とちばあきお。これらを思い出してみるに、私は最初どうやって漫画を読んでいたんだろうか。実は全く思い出せない。少女漫画も実は同様である。私はとにかく少女漫画の絵が苦手だってので敬遠していたが、幸いなのか不幸なのか妹が「りぼん」の愛読者でたまに雑誌を買ってきては、私も少し見せてもらっていたのである。だから絵は嫌いつつも読んでいた。私と同様の経験をしている人は他にもいるだろうから、そういう人は思い出してほしい。少年漫画と少女漫画で特に読み方の違いを意識していたかっていうこと。
 私は全くもって意識した記憶がない。普通に読めていた。「BSマンガ夜話」などでとかく言及されるそれら二つの文法の違いというものについて、実はちょっと懐疑的なのである(でも言ってることはもっともだと思うし、長じて少女漫画を読むと、少年漫画とは何か違うなとも感じていたから、特に考えなかったけど)。それはお前が小さい頃に少女漫画を読んでいたから、文法の違いに気付きにくいんだよ、というようなことを言われるかもしれない。または、君は小さい頃すでに少女漫画のリテラシーを得ていたのだよ、とも言われるかもしれない。まあ確かにそうかもしれない。……と認めてしまっからといってこの論は終わらない。実はここから始まる。
 昔よく読んだ漫画を今読み返してみると、当時気付かなかったいろいろな描き込みに気付かされる。こんなに面白かったっけとか、なんでこんなつまらんもんに夢中だったんだろうかとか。もっと突っ込んで、この漫画は実はすげぇー技術で描かれていたんだなとか、物語破綻しまくってんなとか。
 この差はなんだろうか。知識が増えたから、漫画をいろいろ読んだから、という理由が挙げられよう。私もそうだと考えていた。リテラシーとかスキーマとか、それらしい用語を使って論を展開することも可能である。記号論を持ち出してくる手もあるし、マンガ文法を語る上で漫画的記号の意味は無視できないのもわかる。頭ではわかってはいるが、小さかった頃のバカで間抜けでうんざりするほど単純だった自分が、そんな知識もなくてどうして漫画を楽しく読めていたのかのがどうしてもわからない。それは漫画というメディアの性質上から考えるとわかるのかもしれない。絵、というものが言葉をまだ理解しない子供にとって印象を強く与えるからだろう、という素人考えも出来うる。でも、違うんだよなー、なにかしっくりこないのである。

「見る」と「読む」の間
 漫画を見る、漫画を読む、どちらも使われる言葉である。感情的には読んでほしいけど、読むよりもまず、見るということのほうが先にあるという事実は否定できない。そこで数冊の本を読んだ。脳と目の情報処理の仕方とか、ざっと読んだ。……わからねぇ。
 当初、漫画に物語性はないんじゃないの? という思い付きから書き始めた。で、物語を構築しているのは読者個人個人だ、という自明に遠回りして辿り着いた。「見る」という行為も、二次元の網膜に刺激された二次元情報が脳内で三次元情報に変換され個人の記憶とか能力とかの網をくぐって意味を付され、何かを見た・見ていると意識されるらしい。だから物理的にありえない物(不可能図形とか)が目に映っても、三次元処理されてしまうので錯視という現象も生まれた。基本は三次元なんである。で、やはり目に映ったものも個人によって構築されている、だから同じものを見ても人によってちょっと違う、それで見た目の好みの差も生まれるんだ、なるほどねーと膝を打つ。脳と視覚の科学的な法則は解明されつつある、問題はその後の「読む」までに至る過程である。
 経験や知識が見た物に意味を与える、というのはわかりやすい。直感的にそうだろうとも思う。
 たとえば、萌え絵と呼ばれるものがものがある。簡単に言えば、かわいいとか愛らしいとか、そんな感じの絵だろう。で、そういうものには個人差が非常に大きくて、同じ絵に萌える人萌えない人がいる。同じ漫画でも、キャラクターの萌え具合にはばらつきが生じる。見た目の好みの問題とした場合、人によって意味に相違があるってことになる。それはその人の人間観とか体験とか今まで読んだ漫画の差が根っこにあるからだろうか。元は同じ絵に、こうも好き嫌いが生まれるってのも面白いけど訳がわからない。以前書いたけど、同じ漫画を読んで面白いつまらないという両極端な感想が出てくるというのも人の読解力や嗜好に基づいている、というのと同じだろうか。面白いという感想でも、どこが面白かったかは千差万別だし、結局は人それぞれでおしまいなのかよ。この様々な現象の原因が、「見付ける」という行為の力の差ではないだろうか。つまり読解力と一般に言われる能力である。そうなってしまうと、バカには理解できない作品というものが出てきてしまうが、正直そういう話になるかもしれない。けど、子供の頃面白かった懐かしの漫画を今読んで新たに発見があるとすれば、それこそ読解力の賜物ではないだろうか。

何を「見付ける」のか
 作家が描いたものを、見る。文法とか読み方とか知らなくても、見る。そこから描かれたものの意味を見付ける。ひょっとしたら作家が意想外のことまで見付けてしまうかもしれない。見付けた情報を礎に脳が処理し、読む、そして理解する、これはこういう物語なんだと知る。
 コマの中に椅子が描かれる。この椅子は座れる。誰か座ると思う。主人公の立場になってみる、主人公が極端に太っていたら、壊れるから座れない。小さすぎたら、高すぎて座れない。「座れる」「座れない」が見たあとの見付けたことである、この情報は直接知覚ともいうんだけど、作家の意図にかかわらず、ある物体を見たとき、その物体の物理的性質以外の性質も同時に認識されている、ということである。つまり、その椅子はある人には座れてこういう人には座れない、という情報をはじめから持っているということ。椅子と主人公の関係から座れる座れないを考えて判断すると意識されるかもしれないが、その意識以前にすでに脳はそれらの情報を知覚しているのである。意識したとしたら、それは情報処理の過程を追認したに過ぎない。
 知覚されるのは性質だけではない、動きもある。二つのコマに椅子が同じ構図で描かれている。2コマ目が1コマ目より大きく描かれていたとすると、椅子に近付く・近付いた知覚される。また同時に、近付いた者がその椅子を見ているだろうとも知覚される、見ているものが大きくなる小さくなるで遠近感を獲得している視覚の働きに依拠しているからであり、漫画的演出とか映画的手法とは関係ないと思う。

マンガ文法は妄想なのか
 「見る」から「読む」において、今のところマンガ文法は関係ない(当然ながら、右から左に・右上から左下にコマを見るという基本的な読み方は読者側に要求される最低限の規則なので、コマの位置関係までは説明しない)。ではここにフキダシを被せてみるとどうなるだろうか。台詞の内容は言葉として理解されよう。文法が影響しそうなのがその形である。
 フキダシの形によって語感の強弱などが表現されていると知ったのはすでに漫画を読み始めたあとだった。驚かなかったと思う、直感的に知っていたと思う。同じ場面をフキダシの形を変えて印象の差を探ることも出来るだろうけど、それは意味を知った者だけに通じる理論ではないか。漫画を初めて読んだ時、何故そんなことも知らなかったのに台詞を読めたのだろうか。「イスだ!」という台詞だとしよう。登場人物の顔はないから表情からは何もわからない。その言葉にはどんな感情があるか。フキダシの形で類推するか? 意識しないだろ、普通。小さい頃、どのように語感の違いを獲得して言ったかって考えると、普通のフキダシの形を基準にしていたのかもしれない。いつもと違う形だ、と無意識で判断し、そこから文法を蓄積していった、読み慣れていったと素直に考えられる。あるいは、「!」に着目してもいい。フキダシの形とは関係なく、感嘆符には先天的に人の感情を左右する要素があるかもしれない。そもそも「!」を見た時点で、多くの人が語感の強いフキダシを想像したと思う。でも直接知覚という理論(「アフォーダンス理論」という。もっと難しい理論だし、反論も多い理論。乱暴に言えば、情報は全て脳で処理されるという従来の考え方に対し、情報は環境の中にあり脳はそれを発見しているという考え。創始者はギブソンという人。)を引っ張り出すと、その形自体にすでに語感を表す性質があって、読者はそれを見付けたのだ、という考え方も出来てしまう。
 私がこの理論に着目したのが、脳は情報を発見している、という考え方が漫画を読む行為そのものではないかと思ったからである(理論が真理かどうかは専門家に任せておこう)。というのも、作家が絵を描く行為は、物体が物理的に持っている情報や作家が物体に対して感じている情報を表出することではないかなーと弱弱しく感じたからである。だから当然同じ物も作家によって描写が異なる、作家が物体から得た情報量の差と感じた事の差異が、絵の個性や画風の差につながっていくような気がする。
 苦手だった少女漫画に読みなれていく、私の経験則から考えると、それは少女漫画の多くが共有するだろうある種の情報を抽出できなかった・見付けるのに苦労する絵が多く描かれていたからではないかとも思えた。読み進めていく上で慣れたという事が、実は情報の抽出の仕方を獲得した結果ではないか。マンガリテラシーの言い替えじゃない、少女漫画特有の文法を理解し始めたからじゃない。元から描かれていた情報を、見付けられるようになっただけではないか。
 つまり、漫画にはすでに多くの情報が描かれていて、読者をそれらを見付けることで物語を理解していくのではないか。文法とか読み方を語る前に、見るという根源的な知覚によって獲得できる情報が漫画を読む行為を支えているのではないか。なんだか当たり前すぎて嫌になるけど、結局のところ、そこに落ち着いてしまうのである。

 次回からは具体的な作品を例に考察を進める。読者は何を見て、何を見つけるのか。情報はすでに描かれているのか、それとも脳の中で構築されるのか。文法や記号はどれだけ知覚に影響を与えているのか。コマの配置と視線運動の関係も含め、いろいろ探っていきたい。

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