拝啓 手塚治虫様第9回 記号とリアルの間



リアルって何さ
 作品の中にあるいろんな情報のどれを選び取るか・読み取るかの差が、物語の読解と理解に影響を与えているかもしれない。でも、読みながらそんなことを意識することはまずない。人間の身体ってもんは実によく出来ているので、そんな些細な感覚は意識させずに処理してしまう。
 私たちは絵をどのように知覚しているかについては、前回「直接知覚」という言葉で触れたけれども、考え方として大勢を占めるのが間接的な知覚である。従来の考え方・私たちが普通に思う世界の認識、つまり、感じたものを脳で処理(計算)し、経験則や知識などの情報で思考(推論)し、物の姿を理解するという理論である。実はこの方が受け入れやすいので、直接知覚は結構非難の的になることもあるらしい。そりゃやっぱり、知らないものは知らないままだし、初めて見た物はわけわかんないし、知識が知覚に影響を及ぼしているのもそうだろう。知らない言葉を見たときのわけわからなさも、言葉の意味を知れば、文字の形と同様に意味もたちどころに理解できる。この文字を見ても多くの人が「THA CAT」と認識したと思うけど、よくよく見れば「H」と「A」は同じ形だとわかる。でも、文脈によって同じ形の物が意味を変えてしまう。知識が知覚に影響を与える例である。
 漫画を記号の集合と捉える考え方も、要は文脈の影響によるところが大きいことは言うまでもない。ひとつの汗が、周囲の状況・物語の展開によって焦りだったり冷や汗だったり呆れだったり、いろいろと意味を変えてしまう。大塚英志氏は「教養としての<まんが・アニメ>」(講談社現代新書 2001)で、手塚治虫が自らの漫画を記号的と述べたことから論を展開し、「記号的表現とはつまりは非リアリズム的な表現である」と書き、記号的な絵でリアル(たとえば人の死とか)を表現した手塚を再評価している。
 確かに記号的な表現なんだと思う、漫画ってもんは。それじゃあ、どこからが記号(非現実的な描写)でどこからがリアル(現実的な描写)なのかってのが引っかかってくる。この辺を無自覚に受け入れてしまうのはいかがなものか、と私は思うわけで、でもそれはきっと簡単に線引きできる代物じゃないだろう。
 躍動的な馬の描写で知られるジェリコー(1791-1824)という画家がいる。この人の「エプソムの競馬(1821)」という作品を観てほしい。……馬の走り方が変でしょ。はっきり言って漫画みたいでしょ。ていうか、絶対冗談だよ、これ。でも、ジェリコーという人は、たとえば死体を描くにしても実際に死体が腐乱していく様子を観察しちゃうくらい研究熱心な人みたいで、馬の絵だってこれ以外にもたくさんある。カメラやビデオ撮影により、今でこそ馬の走り方がこの絵とは違うってことはあっさり証明できるし、誰にでも認知されているけど、この絵は記号じゃないんだよね。走り方はともかく、競馬の迫力ってものがこの絵にはある……かな? ごめん、正直言うとちょっと笑っちゃった。写実的な絵らしいけど。少なくとも当時は写実的な絵だったようだが、今見るとやはり漫画だよなー(ジェリコーはロマン主義の画家。この絵はナンだけど、他の馬の絵はものすごい迫力がみなぎっているぞ)。
 何が言いたいかっていうと、リアルな表現はリアルな描写を必要としないってことなんである。あたり前のことだけど。「エプソムの競馬」の馬は筋肉質で力強そうだ、ともかく疾走感は画面から伝わってくる。でも当時の人々は走る姿の異様さには全然気付かなかったのかな、知らなかったから無理もないのか。でも、これって漫画作品にも言えるだろう。丁寧な絵、綺麗な絵、緻密な絵、だけど間が抜けていることに気付かない読者。それって結局漫画を読みなれていないからか? それもないとは言い難い。実際、信じられないくらい話を理解できないバカもいる。なんでその程度の物語も読み取れないんだ?

リアルの記号化?
 初めて読んだ漫画ってなにか。私はっていうと、「ドラえもん」かな。そこで他のサイトを読んで回った。全部で86。サンプルの数としては貧弱だけど、「ドラえもん」が15人と最も多かった。他に手塚作品、「ときめきトゥナイト」「ベルサイユのばら」など。ここで、ひょっとしたら最初に読んだ漫画の影響が、その人の漫画の好みを左右しているんではないかと直感したわけ。事実、86人のうち、今でも初めて読んだ漫画(あるいはその作者)が好きだ、と明言していたサイトが36人いた。……まあ、なんの価値もないんだけど、数百人規模で統計学加味してアンケートとれば、なんか見えてくるかもしれない。
 さてしかし、現実な話すると、鉄腕アトムのテレビ放映が1963年、その近辺生まれの人からこっち、漫画よりアニメを先に見たって人が増えたことは間違いないと思う。私もドラえもんを見たのはアニメが先か漫画が先かわからない。アニメが先だとすると、漫画の読み方にも何かしら影響あるんじゃなかろうかって思うのである。確かに何かあるだろう、台詞の声を黙読するにしても、知らず知らず誰かの声を当てていたり、音もアニメらしい効果音を想像してたり。しかも私にとってアニメ絵って妙に小綺麗なんだよな。とてもじゃないが、岡崎京子作品はアニメ化出来ないだろう、読む人によっては汚ねー絵って捨てられるかもしれないし、上手いと感じられる眼力さえないかもしれない。絵心なしの素人の私でさえ、上手いなーって思えるんだが。岡崎京子の漫画って記号的のようでいて記号的でない、でも突き詰めていくと記号的な表現になる。この境界線がどこかってのが難しい。
 夏目房之介氏は「漫画魂」(白夜書房 2003)で、その著者おしぐちたかし氏との対談で大友克洋の超能力の表現(壁に円形の凹みが出来るとこ)がアニメや映画で記号化されたという発言を受けて語る、「大友克洋さん自体は記号ではなかったんですよ。反記号の運動を彼はやっていたわけだから。あの丸いへこみだってリアルだった。だけど、それが鳥山明さんとかによって記号化されていくんだよね。」
 リアルな表現もやがて記号化していくってことなのかな。記号ねぇ……やはりそこにいくのかな。
 とりあえず、「童夢」と「ドラゴンボール」を誰か比べてみて……はいはい自分でやりますよ。といわけで次回は記号化の過程を考える(全然自信ねー。ほんとに出来るんかよ………)

参考文献
ロバート・L・ソルソ「脳は絵をどのように理解するか」新曜社 1997 鈴木光太郎・小林哲生共訳
大塚英志・ササキバラゴウ「教養としての<まんが・アニメ>」講談社現代新書 2001
おしぐちたかし「漫画魂(スピリット) おしぐちたかしインタビュー集」白夜書房 2003

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