拝啓 手塚治虫様 小休止

映画「眠り姫」が描く欠落した世界とプンプンのベトナム戦争




 前回のドラゴンボールの世界観の話とはなんのつながりもなく、今回は先日観た映画についての話をしつつマンガを読むということについてちょっと考えたいので覚え書。
 山本直樹を敬愛してやまない映画監督・七里圭の最新作「眠り姫」が11月17日(2007年)に渋谷ユーロスペースにて公開初日を迎えた。私は山本直樹作品をほとんど読んだことがないので、今回の鑑賞は、某映画感想サイトで絶賛されていたのを契機としたに過ぎない。  映画は生まれて初めて観るスタイルだった。役者がほとんど登場しないのである。この映画を語る上で避けて通れないだろう主題が、登場人物どころか、ほとんど人が登場しない風景景色によって構成された映像と音楽によって紡がれる朗読映画とても言おうか、ラジオドラマを想起せしめる、人の顔が欠落している世界である。パンフの諸解説や監督自身の言葉を総合すると、それらは小説のような映画と言えるかも知れないし、私もそう感じた。
 つぐみや西島秀俊といった実力ある役者の声が、山本直樹原作の「眠り姫」の物語を作る(私は原作は未読)。「眠り姫」そのものが内田百閧フ「山高帽子」を下敷きにしているので、監督によれば、「眠り姫」からセリフだけを抜き出した結果、映画のセリフそのものが「山高帽子」みたいになったという。「眠り姫」が生かされている箇所は登場人物の設定である。
 正直、かなり眠気に襲われる気がしたんだが、そんなことなく最後まで集中してみることが出来たのに驚いたんだけど(唯一眠気が来たシーンがエンドロールだったので本編はばっちし観た)、とにかく顔が映されないし、映ったとしてもぼやけてて表情が全く見えない。喫茶店で会話をするシーンにしても、無人の喫茶店内が映されるだけだ。自然、意識は音に注がれ、想像力が喚起される。衣擦れとかカップとスプーンが触れる音とか、会話以外に人物が何か動いた時に生ずる音と、一通り会話が終わった後に流れる心象風景なのかどうか判然としない映像と音楽が、今彼等が何を考え何を思っているのかという思索を煽ってくる。
 上映後に行われたトークセッション内の監督の言葉を借りれば、「絶世の美女」と小説で書けば、読者は各々の美女を思い描くだろう。でも映画は必ず映さなければならない、絶世の美女と思える役者を映さなければならない。これが不自由だと言う。確かに、各人にとっての絶世の美女に差はある。だから、小説のようなことが映画で出来ないか(初日ということで劇場に駆けつけた俳優の山本浩司(つぐみが演じた主人公の恋人役)も登壇し、声だけなのでいくらでもかっこいい男を想像してください、というような事を話して笑いを取っていた。)、それでいて舞台みたいなライブ感のあるものが作れないか。「眠り姫」は2年前に一度2日限定で劇場公開されている。その時の音楽が、生演奏だったのである(今回の映画音楽もその時演奏していた侘美秀俊主催の「カッセ・レゾナント」である)。
 これはマンガにも言えるよなと、上映後の話を聞きパンフを読んで強く思った。
 マンガは音も彩色もない欠落した条件下の中で世界を作ろうとする。ライブ感も掲載誌で連載を追うことに例えられるかもしれない。
 さてしかし、独自の世界観を作ろうとする作品が多い中で、既成の世界観を流用し、あえて欠落させた作品もある。これについてはいずれこの不定期更新の拝啓手塚で書こうと思ってたので、「眠り姫」の鑑賞はいいきっかけになった。
 というわけで、この欠落した感覚を逆手に取ったマンガがすぐに思い出された。浅野いにお「おやすみプンプン」と西島大介「デイエンビエンフー」である。両者の作品に物語上の共通点は見当たらないが、キャラクターの造形において両者は同じような欠落を描く。無いものを描くというのも変だけど、まず「おやすみプンプン」から見ていこう。
 「おやすみプンプン」は一見して主人公プンプンの造形の奇妙奇天烈な様に驚く。他のキャラクターが写実的に描かれ、背景にはいつもの浅野作品と同様に写真が流用された現実的な世界が広がっている。キャラクター達の変人さはあるにしても、そこで描かれている日常は私たちの住む世界と地続きである。だから現実世界の物理法則や倫理観(これは変人キャラクターが多いのでちょっとゆがんでいるかもしれんが)なども通用しそうだ。で、プンプン、名前からしてバカにしているんだけど、造形がヒヨコのような身体と線のような・ていうか実際に一本線で描かれた手足がにょきっと生えているような、実にふざけたキャラクターなのである。で、周囲は「ねぇ、プンプン」と呼びかけ共に遊び授業を受けている小学生なのだから、プンプンの姿を不審がっている読者のほうがおかしいのではないかと思ってしまうほど、ごく普通の子供として描写される。そして、プンプンの言葉は友達の反応やナレーションによって処理され、しゃべっていることを明示するフキダシがない。
 写実性とフキダシの両方を欠如した存在がプンプンである。これがどのような効果を読者に与えるのかは、一人ひとりの想像力に委ねられていると言える。「眠り姫」で何の前触れもなく挿入される朝焼けの景色や無人の町並みが次第に主人公の心象風景のような錯覚をもたらしたのと似たような効果が、プンプンを見つめる読者の眼差しに兆すかもしれず、物語の行方よりもプンプンの存在そのものの行方が気になってくる。
 一方の西島大介「ディエンビエンフー」は、ベトナム戦争という歴史的事実を前面に押し出してくる。キャラクターの行動も歴史の影響下にある。ところが、その造形はおよそ写実的ではない。キャラクターは一見単純な線で描かれ、米兵を殺戮しまくる女の子に至ってはどこぞの忍者マンガかよってくらいの身のこなしである。殺されて手足バラバラになった死体から流れる血も飛び散る内臓も、ただそれとわかる形が描かれるだけで、気持ち悪さや残酷さ凄惨さを煽るような絵ではない。物語はベトナム戦争が強力な重石となってキャラクターたちを制御していると思いきや、キャラクターはそれを逆に利用して好き勝手に暴れているかのような印象さえある。この物語は、はなっから写実性を放棄しているのである。もし読者がそれを感じたとすれば、読者一人ひとりの戦争観・ひいてはベトナム戦争に関する知識ということになろう。結局、想像力次第なのである。
 だからと言って「眠り姫」がつまらないという人を想像力がないと詰め寄るつもりはない。爆睡しちまったというひとだっているかもしれない(上映後のトークセッションを聞かずにさっさと帰った人たちもいたので、つまらないという感想も出てくるのは間違いない)。ここで重要なのは、もとから何かが欠落したマンガや映画を見てそれなりの・面白いもつまらないも含めた感想が出てきた背景に、想像力が深く関与している点である。
 想像力は何に喚起されたのか。作者が仕掛けたのか、それともマンガ(や小説とか映画とか)を読む行為そのものが引き金になっているのか。両方の相乗効果なのか。何が描かれているのかではなく、何が描かれなかったのかに注意をひきつけたさせたことでキャラクターの現在の姿や思考を必死に想像させた「眠り姫」に、なんだかマンガを読むことについて少し学んだ気がした。
(2007.11.20)
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