「テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ」

NTT出版

伊藤剛



1 「マンガはつまらなくなった」と語る人々
 力作って感じ。面白かった。手塚治虫の死を契機に夏目房之介氏らがマンガ表現論を確立していくのと同時に、他の評論家のマンガがつまらなくなったという印象論が台頭してくる。つまらないと言ってしまう根拠は何か、それはあまりにも広大になりすぎたマンガの裾野を見渡せないことを起因にする理解不足あるいは思考の拒絶があるからではないかと問い、今まで無視されてきた「ガンガン系」の作品からのヒット作「鋼の錬金術師」があれほど売れながらもマイナー扱いされる現実(少なくとも年配の評論家はそうらしい)を例に、そもそもメジャー/マイナーという区分自体がすでに意味を成さない時期に来ているというか過ぎている・ひいては少年マンガ/少女マンガというジャンル分けさえも曖昧になっているマンガの成熟した状況を歓迎しつつ、自分の視野にない分野をなかったものとして論を進める先行のマンガ評論を憂い、それが世間の認識になってしまうことへの憤りが文章の端々に見られ、いわゆる「萌え」・他の言い方をするならばアニメ絵みたいなものに先行世代が拒絶反応を起こしているからではないかと推理する。その上で、「ガンガン系」のような今まで強く語られてこなかった方面にも目を向けなければ、いつまでも「つまらない」「手塚治虫がどうのこうの」という言説から抜け出せない・前に進めないぞと主張しているのかな。
 そこでまず、ひとりでは到底見渡す事など不可能になったマンガの広がりを受け入れ、この辺の作品群はわからないことを素直に認め、自分がつまらないからマンガはつまらなくなったとか飛躍しないで、それでも楽しんで読んでいる人たちがいることを無視せず、多様な読みに寛大になってよと提案する。多様な読みとは、単につまらない・面白いという人から同人誌作って熱を入れる人たちと幅広く含まれ、それらを包含したマンガ評論を試みようという野心もある。そんなことできるんかいな……という不安があったけど、1990年代を中心に「つまらない」と訴える評論家の文章を引用しながら今現在のマンガをあまり読んでいない評論家の実態を浮き彫りにすることで、マンガ評論の停滞を自明にしてしまう。もちろん、そんな外野の声とは無関係に90年代もマンガは進化し続けるわけで、でもそういう声は確かに雑誌とかで読んではいるし、「テヅカ・イデ・デッド」(以下「テヅカ」と省略する)の中でも引用されている「'98コミックランキング みんなのマンガ」は私も持ってて、ちょっと見てみる。
 冒頭は石ノ森章太郎の死、スラムダンク連載終了、復刻ブーム、ガロ分裂、じゃりんこチエ連載終了、エヴァンゲリオン大化け、もののけ姫大ヒットなど、マンガはちょっと暗い話題でアニメが好調みたいな雰囲気にすでになってる。真ん中辺には「マンガは冬の時代を迎えたか。」とでかでかと載ってて、マンガ雑誌の編集長10人へのインタビューがある。マンガは衰退期に入ったと言うビッグゴールド編集長がその中でかなり哀れである。マンガの評論を確立すべきと語り、「マンガを日本映画と同じ危機的状況にしたくない」と。廃刊したわけが何となくわかる。「テヅカ」でも引用されている少年ガンガン編集長はゲームの影響でマンガ読者は減っているのではと言う問い掛けに「業界がいうほどの影響はないです」とかなり冷静(あるいは楽観的?)。マンガ雑誌相関図ってのもあって、少年ガンガンは当時17.5万部を刷って「子供向けでもマニア向け」と一言添えられている。また、「テヅカ」で批判される高山秀男氏の文章は今読むと何言ってんだこいつという印象があった。特に少女マンガの危機ってのはなあ(発行部数だけ見れば確かに危機と感じられるものがあるかも知れんけど)。「NANA」の大ヒットをこの人はどう思っているんだろう。結果的に少年ガンガン編集長の言葉・予言と言うほど大げさなもんじゃないけど、漫画原作映画のヒットも手伝って、他メディアとの融合はこれからも進むんだろうな。マンガからクラシックCDも出るくらいだし。

2 システムって何?
 「テヅカ」は全5章から成り立ってて、1が1章の内容で「つまらない言説」の紹介みたいな感じ。2章は、いがらしみきお「ぼのぼの」を手掛かりに、具体的に「つまらない言説」の問題点を探っていく過程から作者と読者の関係を考察し、マンガ評論の大きな可能性を示唆する。
 この章は私にはわからなかった。最後に伊藤氏自身の「ヒカルの碁」のレビューを引用してマンガ評論はひとつの作品から広げていくことも出来ることを示したところで、なんとなくわかったけど、「トータルなシステム論的スキーマ」ってなんだろう。この章にはたくさんの図が出てきて、作者と読者の間・周辺にあるさまざまな内因外因を具象化しているんだけど、なんかごちゃごちゃしてるのが多いような。本文を補足する上でわかりやすい図もあったけどね。「スキーマ」「スキーム」についても一言欲しかったところ。単に「図、図表」という意味なのか、心理学用語のものなのか、わかんなくて理解を妨げた。多分図の意味だろうけど、普通に図とか図式とかって書いて欲しかった。
 以下の章の肝となるマンガの三要素も提示される。「キャラ」「コマ構造」「言葉」がそれで、伊藤氏は現在のマンガの読まれ方はコマの並びに準ずるのではなく、コマの中に描かれた「キャラ」を見「言葉」を読むことでコマとコマを結んでいると言う(キャラは言葉に置き換えることも出来る)。
 そういう考え方もあるのか。私なんか単にコマが並んでれば、それでマンガは成り立つと思ってたけど、少なくとも現在・現在って所を伊藤氏は強調していたので、これから変化していく可能性もあるってことなのかな。でもマンガをマンガ足らしめる最小限の要素として例示された「ぼのぼの」はわかりやすかった。特に「キャラ」を重視していて、これは「萌え」にも通じているだろう。
 ゲームやアニメの隆盛をもってマンガを衰退したというような論調がありながらも、アニメ化され関連グッズを販売し、アニメの影響を受けてさらに作風を変化させ、他メディアの影響を受け入れてなお連載を続ける「ぼのぼの」に、マンガの表現が進化していく象徴を見たのかもしれない。個人的な例では「ドラゴンボール」だよな、やっぱり。アニメの設定がマンガの中に入り込んだし(悟空の父とか)、アニメの放映を考慮した元で連載が続けられたっけ(雑誌の掲載前あるいは下書きのペン入れ前にネームをアニメ制作会社に見せて、連載に追いつかない程度の放映がかろうじて維持されていたらしい。まあアニメオリジナルの話も合間合間に入れて、ごまかしてたところもあったけど)。読者にとっても他メディアを意識して読むことはあるよね。アニメ化されたマンガを読むのが一番分かりやすいけど、セリフを声優の声を想像して読んでしまうってのだ。漫画原作映画を見るときは逆にマンガのキャラに似てるとか似てないとか、セリフが原作通りとか違うとかって見方をすることがあるし。つまりひとつの作品からいろんな事が語りえるってことかな。
 でもやっぱりシステムって何となく嫌い。研究者とか学者とかってモデル化がほんとに好きだよね。話を整理するにはいいんだろうけど、どうせ図式化するなら数学みたいにシンプルなものを目指して欲しい。

3 「キャラ」と「キャラクター」
 3章からは先の三要素についての詳細な分析になる。まずは「キャラ」。「キャラクター」ではなく何故「キャラ」なのかが重点で、乱暴に言えば「萌え」ということである。ひとつの物語世界に縛られない図像・造形である。ドラえもんがぬいぐるみになったりゲームになったり、パロディになったりするのもキャラ度が強いからということかな。「のらみみ」が「キャラの自律化」を言い表すのにふさわしい作品として紹介されている。「のらみみ」に登場するキャラたちはどういう存在なのかは明確でない。キャラは小学生の子供のいる家に居候し、子供が小学校を卒業すると居候生活を終え、他の居候先を探す。出自とかはわからない。とにかくキャラという存在で、そこにいるんだから仕方ない、そういう物語世界なのである。読者もその存在に異議を挟まない、そういう作品であることを承知しているからだ。キャラたちは居候を繰り返し、それなりの経験も積んでいくが、だからといって彼らの人生というかキャラ生というか、そういうものが読者の現実生活に立ち入ってくる気配は全くない。あくまでも「のらみみ」という作品の中でしか通用しない世界観だが、キャラは幾人もの小学生と子供時代を共有する、というのが、ひとつの世界に縛られない存在であるわけで、なんか複雑だな。伊藤氏は「のらみみ」についてこんなことは書いてないけどね。ただ、作品世界と読者の現実世界をつなぐものがドラえもんを代表とするキャラに感情移入した「記憶」実体験であり、それこそが「キャラの自律化」の顕れである、という。
 その論を推し進める上でこの本の白眉とも言える考察が手塚治虫「地底国の怪人」に登場する耳男のキャラクター論である。要約はこうだ。耳男は知性を与えられ二本足で歩けるようになったウサギである。かわいいウサギだ、つまり登場時は「キャラ」(萌え)である。耳男は自分は人間だと主張するが、周囲は認めない。それでも主人公の少年たちと行動して活躍していくうちに耳男の内面が描かれ肉付けされていく。だが中盤で失敗を犯して放逐されてしまう、ヤッパリきみはタダのウサギだよ、と。耳男は変装して少年の係わる事件を解決する大活躍をするも重傷を負う。偶然変装が解かれていくと耳男であることが知れるが、耳男は死んでしまう、「ほくは人間だねぇ……」。ウサギだったり変装して姿を変えたりとキャラ然として描かれていた耳男が、ラストシーンで「人間」となる。つまり「キャラクター」になる、かわいいウサギだった耳男は、死の衝撃も手伝って物語の初めから人間であっかのような錯覚を読者にもたらすのだ。……なんか要約されてないような気もするが、「キャラクター」は「キャラ」と違ってもっと限定されている。現実的な存在で、具体的には宮本大人氏の文章を引用して定義されているけど、簡単に言えばキャラクターはリアルってことだと思う。耳男はウサギだから毛に覆われているし、そういうことを指摘される場面もあるけど、簡略された耳男の造詣・線で描かれた耳男は写実的ではない。いかにもマンガっぽい姿だ。だからキャラクターとして描かれていたら変装してもウサギだとばれても不思議じゃないんだけど、キャラとして描いているんでそこはOKみたいな読者との共犯関係というか不文律があるわけ。で、読者も自覚なしで「キャラ」と「キャラクター」を区別しているという。ここも乱暴に言えば、とりあえず虚構だからなんでもありな存在・許容できるのが「キャラ」で、現実に存在するものと比べたりして「こんな奴実際にいるわけないじゃん」とか「現実にいそうだよね、いるかもしんない」という存在が「キャラクター」ということ。読者は区別したり混同したりして読み進めるので多様な感想も生まれ、多様な解釈も出てくると。
 でもわからない部分もあって、まあそれは私の教養不足が原因なんだけど、「リアリティ」とか「モダン」「ポストモダン」とかって言葉が次章から強く出てきて、説明ほしかったな。「動物化するポストモダン」を意識してるみたいで、私はこれ読んだことないのでわかんないのである。これに限らないけど、なんというか、読者にマンガ評論の歴史や現状を教養として要求している節があるんだよね。まさに先行世代のマンガ研究者に向けて書かれた挑戦状みたいな感じなのである(だから本のタイトルもああなんだろうけど)。世代論には強く踏み込まないけど、伊藤氏(30代後半)より下の世代は置いてけぼり感があるかもしれない。ひとりで頑張って突っ走っててよ、と冷める人もいるかもしんない。

4 やっかいな「新宝島」
 4章はコマ構造と映画的についての考察が中心だ。竹内オサム「マンガ表現学入門」の不備を洗って映画的ということについて分析し、コマ構成・コマ展開・コマわり(ネーム)・コマ構造とコマの定義も提案する。  私は竹内氏のその本の感想でだいぶあれこれ文句書いたけど、あれは今のマンガを明らかに嫌悪している・バカににしている文章があちこちにあったことへの怒りがあったんだよな。手塚治虫「新宝島」を神格化しすぎてるのも嫌だったけど、伊藤氏はその辺を指摘してくれるんじゃないかと期待していたのが、「新宝島」は2種類あるってことね、そこから2種類を混同した話が出るかなーと思ってたけどなかったので書く。  評論家はほとんど混同しないけど、「新宝島」はオリジナル版(「テヅカ」では「いわゆる西上版」とある)とリメイク版(全集にあるのがこっち。全編描き直されている)があるわけね。池田哲晶「手塚治虫完全解体新書」(集英社・2002)で両者が比較されてるんだけど、よくマンガ評論で引用される冒頭の車の疾走場面、オリジナル版は2頁だけどリメイク版は5頁にわたって描かれている。「テヅカ」では2000年に行われた竹熊健太郎氏と東浩紀氏の対談から引用して今もなお残る手塚神話の一例を紹介する。「主人公のピート君が車を運転して山道を下りて港に行くシーンが、数頁に渡ってあるんです」という竹熊氏の言、私はこれリメイク版のことじゃないの? と思うんだ。さらにそれを受けた東氏は「これはほとんど絵コンテですね」と。やっぱりリメイク版の話をしていると思うんだよね。でも、どうも当時描かれたものが忠実に再現されていると思っているからなんだろうけど、違うんだよな。「絵コンテ」みたいのってまさにリメイク版の方だし。
 これは前々から思ってたんだけど、書き直しがあるってのが手塚マンガを語る難しさでもあって、ジャングル大帝も書き直されて全然タッチが違うものになってる例がある(この違いについては夏目氏が詳細に分析している)し、他にも一部書き直しが当たり前にあるし、話そのものを変えてしまった例(火の鳥太陽編とか望郷編)もあって、今この人が語っている手塚作品はどの版のことなんだろうってことに注意しなきゃいけないんだよね。しかも手塚は年を二歳ごまかしてたでしょ、だから手塚自身の発言もその辺を考慮しないといけないわけ。特にデビュー前の話はそうでね、この解説は二歳の差を承知で書いたのか、気をつけないとつじつまが合わない場合がある(手塚の生前に行われた手塚治虫展みたいので、子供の頃の落書きを展示したものがあって、そこにフクちゃんの似顔絵があったんだけど、展示された解説文の年齢(落書きに書かれた本人の歳だったかも)とフクちゃん連載開始年のズレに気付き、手塚が二歳年齢を偽っていたことを知った人もいるらしい)。  「映画的」というのも、何も同一化技法だけではないよね。なかとんショットとか何々アップとかカメラワークみたいなのもあるし、映画で用いられた技法をマンガで表現するってことで、簡単な話だと思うんだけど、マンガ表現の歴史という観点からだと、表現の変遷は大事だからおろそかに出来ないってことなんだろう。この映画とマンガについては、秋田孝宏「「コマ」から「フィルム」へ―マンガとマンガ映画」が勉強になるね。読みやすいし小難しい用語も出てこないし出てきても解説が行き届いているし、かなり面白かったから、こっち読んだほうがいい。だからといってこの4章の内容が駄目だってことじゃなくて、コマの定義をしっかりしようというのが、あーもっともだ、と思ったんである。これは評論家の方々が集まって是非とも統一してほしい用語だな。コマ割りと言って、それが頁でコマを分割しただけのものを言うのか、ネームのことを言うのか、人それぞれ解釈に差があって、そこからいらぬ誤解が生じてもつまらないもんな。

5 時は流れない、それは積み重なる
 と言ってみたかっただけなんで深い意味はない。
 5章の題はついに「テヅカ・イズ・デッド」、クライマックスである。手塚を起源とすることで成り立ってきたマンガ評論だが、それは表現史も含まれている。手塚の作品群を時代を追っていけば、自然と戦後マンガの歴史について触れられるし、表現の変化を眺めることも出来てしまう。でも手塚が死んで16年、いつまで手塚にすがり付いているのか、いい加減前に進んで行こうぜ先輩諸氏、というのが大雑把な内容である。もちろん手塚作品をきっかけにさまざまな表現についての分析が行われたのも事実だ、そこは否定しないし、それだけ手塚の存在は巨大だというのもよくわかっている。手塚から離れた分析をしても、手塚がマンガ表現を貪欲に吸収していたので、結局手塚に回収されてしまう。その重力は今もなおマンガ評論に影響している。
 そうかわかったぞ、伊藤氏は、シャアになりたいんだ! 
「先行のマンガ評論家は手塚治虫という地球に魂を引かれた人々の集まりで、手塚を食い潰そうとしているのだ! 読者は長い間、この手塚というゆりかごの上で戯れてきた。しかし時は既に、読者を手塚から巣立たせる時が来たのだ。その期に到ってなぜ評論家同士が戦い、手塚作品を汚染しなくてはならないのだ! 手塚を自然のゆりかごの中に戻し、読者はマンガの宇宙で自立しなくては、手塚は一漫画家では無くなるのだ!……今、誰もがこの美しい手塚作品を残したいと考えている。ならば自分の欲求を満たす為だけに、手塚に寄生虫のようにへばりついていて良い訳が無い!」(ティターンズは、たとえば竹内オサムと読み替えて想像しておくれ……すいません冗談です。)
 多様な読みが出来ることを前提にしたマンガの分析という試みにはかなりの説得力がある。というか多分「テヅカ」が土台になっていくかもしれない。浦沢直樹の限界を示唆したのも面白かった、「PLUTO」のことね。「キャラクター」しか描けない浦沢氏が「キャラ」としての原作鉄腕アトムをどう描くのかが楽しみだ。本来進歩として捉えられた劇画が、マンガ表現においてはかえって足枷になることもあるという指摘、それにもかかわらずアトムを描こうとする浦沢氏が限界を突破すれば、マンガ表現に大きな変化をもたらすかもしれない。  また「キャラ」と「キャラクター」の区別も「GUNSLINGER GIRL」を例に再確認される。劇中の少女に萌える人、残酷だと非難する人、「キャラ」と「キャラクター」がここでも認識されているわけだ。本の中では触れられてないけど、これは物語論についての分析にも援用できそうな気がする。物語(ナラティブ)はストーリーとはっきり区別されている。どう違うのかは私もはっきり説明できないんだけど、「ストーリー」は言わば「キャラ」で、「ナラティブ」は「キャラクター」ということだけにしておいて、また後で考える。
 マンガにも歴史があるけど、マンガ評論にも歴史はある、当然だわな。反映論だったり自分語りだったり表現論だってり印象批評だったり、いろいろあるけど、マンガのジャンル分けが難しくなってきたように、マンガ評論もさまざまな要素を受け入れていくべきなんだろう。「テヅカ」ではその例が引用されている。個々の作品からでもマンガ全体について言及できるし、逆も出来よう。いろんな可能性があるんだから、手塚治虫に拘泥していると停滞したままだよということね。手塚を知らない人にとっては、俺はもともと手塚なんかにこだわっていないと言うかもしれない。でも、手塚っていうのは、マンガ評論家にとっては言わばキャラなんだよ、評論家は萌えてるんだ、手塚治虫に。だから「テヅカ」は、ある人にとっては「フジコ・F」かもしれない、「オオトモ」かもしれない、または「トリヤマ」かもしれないし「ウラサワ」かもしれないのだ。

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