「電波男」

三才ブックス

本田透



 1995年、地下鉄サリン事件などを発端に強制捜査され解体されたオウム真理教を取材するマスコミの思考停止の様子とその報道を鵜呑みにしてオウム信者をやみくもに叩く市民達の姿は、数年後、森達也氏によって「A」「A2」という二本のドキュメンタリー映画として完成・上映され、鑑賞者を戦慄させた。そこで淡々と映される正義は我にありといった態の住民達の罵詈雑言・警察が行う不当逮捕の様子・そしてマスコミの情報操作に私は確信したのだ、この国はおっかねー、この国は信用できねー、と。同じ年、阪神淡路大震災によってひとりの若者が行き場を失い現実世界をさまよっていた、若者の名は本田透。オタクたる彼は恋愛に狂奔する同世代の人々から蔑まれ嘲られ、マスコミからは変人・犯罪者予備軍扱いされ、数年後、本田氏はオタクを憚らず一冊の本を上梓する、「電波男」である。そこで書かれた一文字一行は読者を戦慄させ、私は確信したのだ、やっぱりこの国はおっかねー、この国は信用できねー、と。
 「電波男」で散々書かれた「二次元>(越えられない壁)>三次元」を見るにつけ、私はさらに一人の人物を思い出す、坂口尚である。
 坂口尚は初めての長編漫画「石の花」において、中盤以降ほとんどありえないような「戦争漫画」を描いて読者・というかこの場合は私個人なんだけど、私の価値観というか、ぼんやりと描いていた私の人生ってものを打ち砕いてしまった。「石の花じゃないけど、石の花」という冒頭の台詞が、実は現実を合点せず想像力の翼を広げて理想の世界へ羽ばたくんだ、というフンベルバルディング先生の訴えに通じ、私の中にもわだかまっていた世間の無理解な侮蔑・嘲笑に何故堪えなきゃならないんだ・殊更オタクあるいはマニアであることを隠さなきゃならないんだ、という思考停止状態を解放させるきっかけになり、人生の軌道修正(脱線とも言う)を果たすことが出来た。つまり、現実は甘くないだの現実を直視しろだのというのは、三次元の世界でしか通用しない戯言なのだ、むしろ理想の追求こそ茨の道という事実に戦慄したものだ。
 「電波男」については各所でいろいろな感想が書かれているが、私はもう思いっきり違った方面からこの本を読み進め、衝撃を受け、そういえば地下鉄サリン事件から10年だなとか「A」でもまた観るかとか、坂口尚が亡くなって10年か現実は10年経ってますます劣化してるなーとか、いろいろと思いを巡らせた。乱暴に単純化すれば、本書の三次元を現実、二次元を理想と読み替えれば、ものすごく納得がいく。「ただの絵に何萌えてんの」とかいう輩だって、ポストイナまで連れてって鍾乳洞を見せれば「まるで花のようだわ、石でできた花」とか言うかもしれないのに、自分に興味がないもの・理解できないものに対するおぞましいほどの拒絶反応とその表情に何度傷ついてきたことか。「SF映画? あんなの現実じゃないじゃん」とか無邪気に言うんだからたまらないんだよ、じゃあお前は原一男や森達也のドキュメンタリーを一生観てろボケって言ったところで誰それ?でお仕舞いだからね。とにかく考えてくれない。せめてもの想像もしてくれない。それは本田氏が遭遇した女の一言「こんな女、現実にいるわけないじゃない」には到底及ばない衝撃かもしれないけど、周囲に理解されない趣味を持ったがゆえの苦悩というものは誰だって少しはあると思うのに、平気でその趣味を否定するようなことを言ってしまう無神経さに腹が立つし切なくもなる。
 本書の負け犬女の振る舞いって、氏の指摘どおりマスコミなんかに侵された人たちなんだよね。オウム出てけと叫ぶ住民運動と同じで、話し合いすらしない、理解しようともしない、ただ門の前で「出てけー」とシュプレヒコールして去っていく。出て行っても、その先でやっぱり出てけと言われるから、居場所がない。居場所が欲しけりゃ脱退しろって言うけどさ、これは現実逃避ではないのだ、理想を目指す道なのだよ、住民達に言い寄られた信者は、麻原の顔写真を踏めと言われて戸惑う。それは麻原を崇拝しているからではない、彼は言うのだ、「私は誰の写真も踏めません」。……あんたはオウムを擁護するわけ? だなんて世迷いごとをよもや言うまいな、無差別テロ・殺人、あんなもん許すわけないだろう、当たり前のことだろう、テレビのテロップよろしく括弧書きで注釈しなけりゃ意味わかんないのか? 一人の人として彼(その彼というのは一人のオタクに置き換えてもいい)を見た時の、大人しくて優しい心なんだよ、それまで踏みにじることなんて出来ない。でも、足蹴にするどころか執拗に追いまわして、こっちから遠のこうとしているのに駆け寄ってきていちいち唾をかけていく奴がいるんだよ! 最近の映画だと「カナリア」だろ。カルト教団が起こした事件から2ヶ月後、保護されていた教団の子供達の一人である光一は脱走して祖父が引き取った妹を取り戻すべく旅にでる。でも、光一にとっての本当の拠り所は母親なのだ、でも母は教団幹部の一員として全国指名手配されていた……その光一が現実に立ち向かう武器は、教団で受けた教義と途中で拾ったドライバーだけなんだよ。光一は途中でレズのカップルや元教団信者と出会う(彼らもまた周囲に理解されない世界を抱く人々なのだ)、現実と折り合いを付けて生きていくことの難しさを知る。でも光一は走るんだ、現実がままなんないなら、自分が現実になっちまえ! とばかりに彼は走るんだ、そして彼は銀色に輝く理想の道を得るんだ。
 だいぶ話が錯綜しているが、要は本田氏(をはじめとするオタク諸氏)は思い出の風が駆け巡っている存在≠ノ限りなく近いということだ。いや、ちょっと待て、そりゃなんだ、ていうかそもそも話し繋がってないじゃんとか誤読も行くところまで行ったなとかいう前に、とにかく坂口尚の「VERSION」を読もう。この作品は、生物学オタクの博士が死を悟って自分の存在を、我素という知識を得ることで増殖する生命体(オタクの暗喩)の中に封印するも、ファザコンの娘が覗き趣味の男と共に父を探すという物語で、我素の心の中に潜り込みぐちゃぐちゃになった知識の欠片をかき分け進んだその先で、オタクが真に求めていたものを知る、という衝撃のラストが待っている。我素が求めていたものってすなわち本田氏が求めていたものなんだ。
 ……というのは半分冗談だけど、一度立ち止まって、自分の価値観・思想というものを洗い直してみてはいかがだろうかと。「ただの絵じゃないか」と言う人だって、小さな頃は想像力があって、空に浮かぶ雲に動物や花を見つけただろうし、「ただの作り話じゃないか」という人だって、小さな頃は想像力があって、御伽噺や童話にわくわくどきどきしたもんだろう。なんで長じてしまうとそれを捨ててしまうのか、失ってしまうのか。なんでそういうものを哂う側に回ろうとするのか。この三次元と二次元を隔てる壁が憎くて仕方がない。ていうか、誰がこんな壁作ったんだよ、そもそも、その壁って奴はなんなんだろう。隔てる必要なんてあるんだろうか。区別するつもりなんてこちらにはないのに、あちらは勝手に壁を作ってしまうんだから声も届かないし風も止まっちゃう。まあ私にも結構複雑な過去があるってことですけどね、そんなのはどうでもいいので置いといて、みんな少しでいいから優しくなろうよ。ほんのちょっとでもいいからさ。それが想像力でしょ、それが現実だの理想だの三次元だの二次元だのという壁を崩していく力になると思う。
「これは石の花じゃない! 花に見ているのは ぼくたちのまなざしなんだよ!」

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