望月峯太郎「ドラゴンヘッド」

恐怖の渚にて


はじめに
 道を歩くだけでもさまざまな情報が瞬時に脳で処理され続ける。視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚、五感は情報としてまず視床へ伝わり、そこに自己受容・からだの姿勢や動きの変化の感覚が加味されて、それぞれの感覚は複雑な過程を経て大脳皮質のそれぞれの感覚野に送られて、さらに処理される。その感覚には、形・色・動きといった具体的なものから、過去に経験した情報を元に発生する感情も含まれるようになる。感情をつかさどる重要な器官が扁桃体と海馬である。この二つを中心に脳は、送られた情報が危険なものかどうかを常に検討して体の動きと意識に影響を与える。車が来れば道の端に体を寄せるだろう、空き缶が落ちていれば蹴るなり拾うなりするだろう、その道が歩き馴れたものならば、私はそうした感覚をほとんど無意識におこなって気付いたら目的地に着いていたということもあるだろう、それでも脳は、逐一情報をその器官に一定期間保存し、必要ならば長期保存・永久保存すべく小脳へ送る、すなわち記憶である。そんな諸々の情報の中で、もっとも優先、保存される情動が、恐怖である。

第1章 闇
 この物語には様々な推測憶測深読みが出来得る設定が十分過ぎるほどに散らばっていて、本筋を見失いがちだが、要は少年が家に帰る話である。それだけである。「少年世紀末ストーリー」という冠が付いているらしいが、物語の骨格はSF小説「渚にて」を下敷きにした終末物である。つまりこの作品は、人類の終末期に遭遇した少年が家に帰りつくまでの道程を描いたロードムービーと言えよう。
 と、乱暴に作品の筋を記したわけだが、作品の主題が別にあるのはまた明白だ。恐怖である。単行本にして10冊分、連載期間約6年、これだけの間、終始一貫して本筋を脱線することなく主題を貫きとおした作者の力量と才能にまず驚嘆する。連載中から、私はこの作品の感想・評論などを雑誌やインターネット上で散見してきたけれども、なかなか「恐怖」という主題にふれた文章を読めなかった。この作品と関連のありそうな他の作品を揚げるのは簡単だが、肝心の「渚にて」と「人間以上」にふれた文章さえ一度しかない見ていない。そう言う私もこの作品をきっかけに上記の小説を読んだわけであり、偉そうなことは言えないが、これほどはっきりと作者が劇中で提示している物語のヒントを見過ごすわけにはいくまい。ということで、本文章は「渚にて」を時折参考にしながら、この作品を評して「竜頭蛇尾」と言われる理由や問題のラストシーン、そしてこの作品から私が感じた率直な意見を感情にまかせて書いて行く。
 真っ黒な頁が2頁続いて後に「パラ・・・パラ・・・」。先の展開が全く予想できない冒頭にもってこいの演出だ。主人公・テルが突然窮地に放りこまれて、あたふたしながらライターの明かりで照らし出された惨状に悲鳴を上げる。この第一話で、読者はもう物語に引きずり込まれることだろう。そして重要なのは、事故前にあった出来事を回想する場面でテルが読んでいる「渚にて」という小説である(ついでに、テルが聴いているCDは「BLOWUP」=「爆発」というタイトルである)。欧米でベストセラーとなり映画化もされたというこの小説は、作家ネビル・シュートが1957年に発表した。当時は冷戦まっただなか、核戦争の恐怖は絵空事ではなく身近な話題だった。それだけに、核戦争後の放射能によって滅び行く人類の穏やかな日々を描いたこの小説は、頭の中から恐怖が湧いてくるような気持ち悪さがあると私は思う。信じられないくらいに著者は人間を信じている。迫り来る放射能から逃げる人もわずかニ描かれるが、多くの人は残された時間を日常の一部として甘受してしまう。バニックもなにもない。それが不味い料理をずっと口の中に貯めておくような絶句する不安を呼び覚ます。それらは、「渚にて」の冒頭に引用されるT・S・エリオットの詩が象徴していた。この詩はそのまま「ドラゴンヘッド」の冒頭を飾るに相応しい。「このいやはての集いの場所に/われら ともどもに手さぐりつ/言葉もなくて/この潮満つる渚に集う・・・/かくて世の終わり来たりぬ/かくて世の終わり来たりぬ/かくて世の終わり来たりぬ/地軸くずれるとどろきもなく ただひそやかに」
 作者は、事故直後のテルの感情を詳細に描ききっている。泣き叫び、明かりを手にして少し落ち着くも事態を認識できずまた叫び、マグライトを見つけたときに至っては「助かった」とまで言っている。これから起こる闇との闘いに、テルはすでに負けているのだ。それだけ絶望的な気分にさせる真っ暗闇の中で、現実的に絶望してしまう状況に置かれた自分にまたも絶叫する。泣くだけ泣いて冷静に今後の行動を考えて、物語は前進し始める。
 アコとノブオ、二人の生存者の登場である。自分以外に生きている人を見つけてテルが喜ぶのもよくわかるし、初対面のノブオに饒舌な調子なのも興奮を表わしている。また、ノブオの性格・境遇を示す。最初、テルに一喝するものの途端に怯えてテルと目をあわさず会話する。言動からなんか危ない奴だなという印象を与える。実際にノブオは絶望的な状況を知って「死ぬんだ」と叫んでしまう。ノブオはいじめられっ子で常にびくびくしながら生活していたことがよくわかる。いじめが高じて被害妄想も顕著になったのだろう。ノブオが当初テルに対してどこか強がっていたのも、テルの号泣を遠くで聞いて、自分より弱そうだと思っていたからに過ぎない。ノブオにとって、この状況は学校内の状況とさして変わらないのかもしれない。いじめっ子の影に怯える日々が、闇の中になにかがいると妄想する引き金になるわけだ。
 さらにアコは劇中幾度も眠気に見舞われて、これまた普通ではない境遇を暗示させる。ノブオの狂態が際立っているために当初のアコは随分と弱弱しいような印象である。彼女もテル同様に嘆き泣いたが、やがて疲れたのか黙って時を過ごすことになる。いつ来るとも知れない救助を待つものの食料が尽きかけ、精神的な疲労は三人にストレスを与えて不安苛立ちが激する。ノブオは一人で勝手に行動しているために、テルとアコは形だけでも落ち着くべく「家」をつくる。「家に帰りたい」、目前の死を意識した時、二人はそう思った。
 これが、物語の発端となる。つまり家に帰るという意志だ。一方のノブオは妄想に馴れ、闇を怖がることなくあたりを徘徊するようになる。彼は二人と同じ意志を持たない。生き延びようとしているのかも定かでない。闇の世界に憑かれてしまった彼は、後に死の恐怖を忘却してしまう。
 そこに至るにはまだ起伏があるものの、ノブオの奇異な行動は読者の想像を受け付けない。けれどもその根本にいじめ体験があるのは明白だ。いじめられて劣等感にまみれてしまったのか、それとも劣等感に突けこまれていじめられたのか、このあたりはわからないが(後者かな?)、ノブオが「闇と友達になる」過程で思春期の男子の不安定な精神状態という特徴を踏まえながら、テルにノブオの心象を解説させてテルの危機的状況・この時点でテルは通気口の中で土砂の下敷きになり、さらに暗闇の中に感じる何かに絶望し、ノブオと同じようにテルは闇に恐怖しながらノブオとは違うことを暗に示して二人を瞬時に対比させる。つまり、(アコも含めて)ノブオはすぐに諦めてしまう傾向が強い。「死ぬんだ」「生きて出られない」という短絡的な言動の果てに、現実に馴れてしまうことを選択するわけだ。一方のテルは多少、楽観的と言えなくもないが、常に前進し諦めずに望みを捨てない。それだけに、闇に支配されそうになる二人の対比は顕著なのである。また、ノブオの単純さは友達になるか・やっつけるかという視野の狭さが示している。彼がテルと協調できない原因はここにある。テルはもうひとつの選択・脱出を探ろうとするのだが、ノブオはそれを理解できない。さらに、彼がミニラと呼ばれる生活指導の先生の死体を偶像としてしまうのも、いじめグループがミニラの前ではおとなしかったためで、彼にとって死と接したこの闇の世界には、学校生活となんら変わらない漫然とした諦念しかない(だから、すぐに諦める。)
 ノブオの人生は、少なくとも中学生時代は闇であり、いじめとどう折り合いをつけていくのか、それだけだったのだろう。彼がそれらにどういう結論を導いたのかは先に述べた通りで、だからといって彼だけが特別だったわけではない。修学旅行である。多くの生徒がこの後は受験という気持ちでいたことだろう。テルも反抗期にありがちな家族への反発・羞恥があり、アコも同様である。ところが三人は違う選択をする。何故だろうか?
 そもそも大惨事に見舞われる前のみんなは、生も死も意識していない。いじめを受けることによって毎日恐怖と接していたはずのノブオでさえ鈍感である(だからこそ、闇に馴れるのも早かったし、闇は危害を加えない分、いじめよりやさしいものかもしれない。)物語の後半で語られるアコの告白によって、唯一死を知っていたのが彼女だけであることがわかるものの、まだ意識は曖昧である。だが、アコの態度は右往左往している二人に対し、これまた落ち着いてというか受身というか、自ら行動することが少ないし、闇を怖がらない。これは過去に似たような体験をしているからだけど、我が身の危険に対する言動はノブオに近い。
 で、この三人のこうした違いを決定付ける理由は簡単である。彼らが思春期だから、に他ならない。テルとノブオはアコを意識し、アコはテルとノブオを意識している。異性に好感を与えたいというのが、無意識裡にあるわけだ。アコの態度が曖昧なのはそのためでもある。彼女にとってテルとノブオは両方なくてはならない・協力しなくてはならない相手であり、また一方と敵対しても、もう一方とは敵対しないように世渡りしている。ところがテルとノブオの行動の底にはアコに好かれたい心算があり、自然と対立するわけである。ノブオの破綻してしまった性格がこれを加速させたのは言うまでもない。 闇に支配されると言うこと。これはノブオが行動で示している。生活指導のミニラはノブオにとっても怖い存在であり、死体とはいえ、まだ彼にとって闇より威厳があった。ところが怒りに任せてミニラを殴っても反撃されない。以前にも、自分をいじめた男子の死体を、返り血を多量に浴びるほど殴打していることから、これが彼なりの恐怖の克服(やっつける)なのだ。ミニラさえ凌いだ彼にとってもっとも恐ろしいのは闇だけとなった。
 闇と友達になる、つまりいじめグループの友達になるということは、当然それなりの儀式が必要なのは想像に難くない。たとえば金銭の授与であったり、グループと一緒に誰かをいじめたり。ノブオは闇のご機嫌をとろうと両方してしまう。ミニラの死体を燃やし、アコに刃を向ける・・・非日常の事態にまるで対応できないのである。ノブオにはそこに至る様々な負の要素がそろっていたわけだが、テルとアコから離れて死体の中で寝起きしていたということも忘れてはならない。死体に囲まれているうちに芽生えた選民思想に加えて、自分は死なないと本気で思い込んでしまう。非日常であるべきことが日常のものとなってしまう。パニックとは、非日常の状況下で日常の行動を求めるのが原因で起こるとすれば、ノブオはまさにパニック状態だったわけだ。さらにまた、「家」を求めたテルとアコも同じかもしれない。混沌とした中で生きる術は、結局のところ生きる意志に他ならず、生きる意志をはっきりさせないノブオは闇に呑まれてしまう。テルが見た「闇」が何故笑っていたのか。それはノブオを取り込んだことではなく、生きているテルとアコの心に闇を孕ませたからだろうか――恐怖は生きるための本能である。死にゆくものに必要ない。

第2章 炎
 この作品の根幹は、第一章で述べた闇の中の恐怖との闘い・単行本一巻二巻であり、その後の展開はその繰り返しのようなものである。作者がこの作品を当初どれだけ書こうとしていたのかも不明瞭である。私は、テルが家に帰ると言ったときから、これは東京まで描かれそうだなと漠然と思っていたので、闇から脱出後の崩壊した世界のサバイバルを自然と読めた。けれども、タイトルである「ドラゴンヘッド」と中盤以降に登場する傷頭との関連は言うまでもないが、私には引っかかるものがあった。
 NHKの特番は私に様々な示唆を与えてくれるが、この作品を読む以前に「驚異の小宇宙 人体U・脳と心」という番組を見ている。このシリーズは、科学という観点から脳の仕組みを解説し、これまでの心理学とは一線を画す新たな心理学と呼べるような教養番組で、感情の発生メカニズムも科学的に分析する番組構成には驚きの連続だった。そんな中で私がもっとも印象深く記憶しているのが、恐怖である。扁桃体と海馬がどういう仕組みであるのか・どういう働きをしているのかを多くの資料映像を交えて解説しており、側頭部をなでながら本放送に加えて再放送まで見たほどだ。その中で、海馬という組織の重要な働きが記憶、ということを私は知った。番組では、記憶に必要な組織を病気により失ったイギリス人の青年が登場し、挫折と再生をミニドキュメンタリー風に伝えていた(彼の場合は海馬ではなく小脳に障害があったが、海馬を失っても同様の記憶障害がある)。
 傷頭は脳外科手術によって扁桃体と海馬を除去されている。傷頭が登場した時、私は同番組で放送された、同じようにそれら組織を除かれたサルの姿を思い出した。ヘビは多くの動物が先天的に怖がる動物でサルも(人間も)例外でなく、通常のサルにヘビのおもちゃを見せると飛びのける。だが、そのサルは違った、なんの反応も示さないのである。傷頭とまったく同じなので、作者はその番組を見たのだろうかと勘繰ったほどである。しかし、それはどうも違うらしい。劇中に登場する傷頭は、しっかりと記憶する力を備えているのである。後に東京で多数の傷頭が登場するが、やはり同じ描かれ方である。記憶には常に感情によるきっかけ・スイッチが必要不可欠であり、感情がないと記憶力をほとんど失うのである。(もっとも、そうなる前までの記憶はある。さて、以下余談。例のイギリス人の青年は、感情はあるものの記憶力を失い、取材で今さっき質問した内容を数秒後には忘れている場面も放映されている。記憶には二通りあって、頭の記憶と体の記憶がある。後者はいわゆる体で覚える、ということ。幼い頃野球をやった人なら、それから何年も野球をやっていなくてもボールの投げ方くらいは覚えているだろう。例の青年は体の記憶を頼って手工業の職人になるべく訓練していた。また番組の中でもうひとつ忘れられないのが、恐怖を制御する能力を失った少女である。人間には、本能が感じる恐怖(先天的)と理性が感じる恐怖(後天的)があって、脳内ではいつも本能と理性がせめぎあってどうにか精神を安定させているのだが、その少女は理性による制御を失い、あらゆるものに恐怖してしまう。少女が安心できるのは、わずかに母親と担当医だけで、取材中の彼女はつねに怯えていた。さらに衝撃的なのは、彼女が鏡に映った自分の姿に恐怖する映像である。つまり自分を認識できないのだ。恐怖は、それだけ人間を混乱させてしまう)。
 私たちが無意識に何かしているとき・つまり感情なく何かをしているときの出来事はほとんど記憶に残らない。深層心理とかいってあらゆる情報が記憶されるという話もあるが何ら根拠はない。 何が言いたいかというと、作者は脳について不勉強だということだ。致命的なものではないが、このタイトルがある以上私は傷頭の登場も予定済みだったと思いこんでいた。けれども、引っかかる何かが後にはっきりして違うのではと疑っている。今後作者がどの程度作品について語るのかわからないので確信はないし、もし違っていたらとんだ勘違い・大恥だが、少なくとも作者の脳についての知識は付け焼刃である。それとも知っていて描いたのだろうか・・・物語の都合上、やむなくそうしたのか・・・
 さて本題に戻ろう。この章の冒頭で述べたように、その後の展開は闇編の繰り返しである。
 テルとアコは同年代の少年たちに出会い、そしてすぐに別れて二人は廃墟の町で仁村ら自衛隊員と遭遇する、この炎編(私が勝手につけた副題である。作品を読んだ人ならわかるでしょ?)は、闇編におけるテルの役目をアコが、ノブオはテルが、アコは仁村がそれぞれ担う。テルはここで死に瀕してノブオの気持ちを痛感し、恐怖の正体というものに気付き始めるのだが、その代償はあまりに大きい。またアコは彼女なりにノブオを見殺しにしたことに罪悪を感じたのか、とにかくテル救出場面は劇的である。テルが闇から奇蹟的に生還したごとく彼女も奇蹟的にテルを救ってしまう。
 問題は仁村。彼を闇編におけるアコにたとえるには無理があるけれど、とにかく受身的である。彼の特徴に爪噛みがあるが、対した意味はなさそうである(一巻でノブオも爪噛みをしているが、この原因が不安への苛立ちであることは容易に推察できる)。というのも、彼が爪を噛む場面を眺めて感じたのは、単に暇だから・退屈で苛立っているだけ、と幼児的なのである。何か刺激を求めていながら、自分から行動することが少ない。また、彼が読んでいた「人間以上」という小説もよくわからない。作者としては後の展開の小道具として使えるかもしれないと保険をかけていたのかもしれない。思えば冒頭のテルが「渚にて」を読んでいるのも、その保険の一つと考えられなくもない。この辺はラストシーンの問題で述べることにしよう。
 そして岩田である。彼の役どころは平凡だが、忘れてはならない。そのために終盤の彼の死は私にとって衝撃だっただけでなく、この物語にとっても大きな損失になる。というのも、彼が平凡だからである。もちろんヘリの操縦という彼のみに与えられた技術はあるものの、性格的に普通である。この物語で当初唯一普通の人として描かれるテルも、成長を重ねて強くなっているから、さして成長しない目立たない登場人物・だけどどういうわけか物語の最後まで生き残る、という要素がこれにはないのである。「平凡」は重要な要素で、この作品に限らず、たとえば「ドラゴンヘッド」を語る上で引き合いに出される「漂流教室」を思い出してみても、たくさんの名も無きエキストラたちががんばって生き抜いている。同様に「AKIRA」では、冒頭から最後まで甲斐という脇役が目立たないながらも生き残っている。望月作品に共通した欠点がここにある、全ての登場人物に心血を注ぐあまりに平凡・普通という要素が失われて一部の読者を置き去りにしてしまうのだ。魅力的で憧れたり、そのばかさ加減に惹かれて熱中することはあっても、共感して感動を共有できる平凡さがないと、読者は辛い。短編ならついて行けようが、この作品は全10巻、・・・長いのである。闇編では、誰もが共感出来る人物として主人公・テルの普通の反応・感情がノブオと対蹠的で際立ち、同時にこの作品の中でもっとも読ませてくれる部分でもあった。それが浄水場から廃墟の町までの展開がだらけてしまうのは、テルとアコの平凡さだけで語られるからである。二人を助けた四人の少年たちが登場した時、誰もが彼らと協力して東京に向かうと思ったはずだ。ところがすぐに別れてしまい、「東京で会うかもね」というセリフまで無駄にしてしまう。それだけに岩田の存在は貴重な脇役である。だから、巧みなヘリの操縦で仁村とテルを救出する場面で、手柄をアコに一人占めされてしまうという目立たなさに私は共感したのである。やっとまともな脇役が出てきたなと安堵したし、彼の登場する場面はどことなく安心して読めたものである。
 正直言えば、私はロードムービーを観るような感覚でこの作品を読んでいたので(無意識に、である。今回再読して、初見をどういう思いで読んでいたのかを意識した時、まっさきにロードムービーだと感じた)、四人の少年たち同様に仁村たちとも別れると思っていた。ロードムービーは行く先々で出会う人々との束の間の交流を積み重ねて、主人公の成長やら感動やらを高めていく作りが基本だから、テルを中心にのみ物語は運ばれると思っていた。それだけにこの後の展開には意表を突かれた。闇編に続く盛り上がりを見せる、祭編(あるいは伊豆編)である。

第3章 祭
 伊豆を舞台にして、いよいよ大異変の一角があらわになる。これには大きな矛盾を孕んでいるが、解説はこの章の後半で述べるとして、まずこの作品の短所を、第5巻を例に検証する。何故そんなことをするかというと、この問題を消化できなかったがために最終巻における活字の流出という読者を萎えさせる失態と繋がるからである。
 結論から言うと、説明調のセリフが多すぎる点である。無駄なセリフも多いし、まるで漫画に自信のない作家が描いたと思わせるようなセリフの量である。いっそのこと小説を書いたほうが賢明だったとさえ思える。登場人物が少ないために、一人が過剰に喋る場面も多々ある。具体的に並べてみよう。まず6頁、ヘリが火災の波から逃れる場面である。画面の4分の3でその様子がはっきり描かれるのだが、喜んでいる仁村と岩田のセリフがどうにも不味い。「イヤッホー」などの絶叫は問題ない。しかし、「火災を抜けたぞッ!持ちこたえたッ!」は必要だろうか? 読み手にはヘリが窮地を脱したことがわかっているのに。また13頁では仁村が自分達がここにいる訳をくどくどと岩田に話している。彼ら自衛隊員が本隊から離れて単独行動をしているのはすでに4巻で説明済みだ。アコは瀕死のテルの看病に躍起であり、仁村は岩田に向かって話したのだが、岩田も承知している事を1頁費やして説明してしまう。これは後にアコやテルの「なぜ自衛隊員がこんなところにいるんだ?」というような質問に対して答える、という状況を設けるだけでよい。仁村は岩田の愚痴に対して次の頁の最初のコマ「そうかい・・・憶えとくぜ」と苦々しく言うだけで十分である。14頁最後のコマの岩田のセリフも多い。降りつづける灰で視界が悪く地面に町影すら見えないのは、絵で十分示されているにもかかわらず、視界の悪さを嘆いている。ここは「俺たちはどのへんを飛んでんだッ?」だけで事足りよう。岩田の多弁は不安や焦慮が入り混じって興奮しているとも考えたが、活断層を発見する場面はあまりにひどい。絵を見ればわかることをいちいち説明しているし、彼らを襲った異変にとんでもない原因があるのではないかと思わせぶりのセリフを仁村は吐く。20頁では黒雲に突っ込んで「うッわああッ!!灰の塊だッ!!」と、まるで必殺技の名称を叫びながら闘う格闘漫画のような調子である。いらない、少なくとも「灰の塊だ」は絶対いらない。また、27頁。場面がガソリンスタンドであることを読者は絵でわかっているのに岩田はまた言う、「折角ガソリンスタンドを見つけたのにな」
 当初はそれほど気にならなかったことだが、主人公を失ってたちまち物語にひずみが生じたのである。これまでの彼らのセリフもテルの内心の呟きの中で表現可能だったわけだが、中心点がないのでふらふらと物語が揺れているのだ。そういえばヘリ自体随分とガタガタいっているし迷走までしていることを合わせると、この不安定さがそのまま書き手の不安に影響したのだろうか・・・今後も彼らの説明調のセリフは多々見られるので、狙って描かれたものとは思えない。となると、やはり迷いがあったのかもしれない。結局この迷いが最後まで続いたとも読み取れることからさらに想像の範囲を広げれば、この物語はもともと闇編だけで終わる予定だったとも考えられるが、これについては後に詳しく語ろう。
 主人公が倒れて、この物語は壊れる。負の意味ではない。この祭編だけならば、物語性は一番富んでいるだろう、それでも闇編を焼き直したような展開だが、一様に描かれた死にたがる暴徒に傷頭の謎と内容も濃い。しかし、この作品全体から見ると異質である。もちろんテルがいないからである。徹頭徹尾テルの視点から物語が作られていれば、謎も謎のままでよいのである。ありきたりになってしまうが、人間一人のなんというちっぽけなことか、ということを素直に訴えかけやすいからだ。おばさんの家に運ばれたテルは混濁した意識下でトンネルの中の出来事を振り返るが、物語にとってはこの描写だけで十分だろう。暴徒との死闘にはテルを参加させるべきだった。もっとも、闇編の焼き直しと前述したことからわかるように、この編はアコにとっての闇編になる。炎編よりもはっきりとアコは恐怖を体験する。そしてテルがノブオを救えなかったことに後悔しつづけるのと同様に、アコは傷頭(菊地)を助けられなかったことで自分を責める。最終話を共に同じ気持ちで迎えるための試練・物語上の通過儀礼というわけだ。いや、実際伊豆の展開は面白く読めた。傷頭への違和感は2章で述べた通りだし、ロードムービーという思いから、ここで仁村と岩田が退場するのだろうか、と少し思いもした。ヘリを失ってどうやって東京へ向かおうか・・・と新展開も期待したが、そうはならなかった。
 それでも、傷頭の登場によってますます東京に何があるのかという期待が、劇的な展開を予感して物語にのめりこんだのは確かだ。この時点で最終話の東京の姿は用意されていたのだろう、いくつかの鍵を読者に見せて、あとはそれらへの好奇心を吸引力にどうやって東京までの道のりを描くかに腐心している。おそらくテル一人の視点だけでは、作者の主張が伝わらないと思ったのだろうが、それは読者をなめている。最終話への不満を多く読んだし、客観的に批評すれば物語として最後につまずいたといえる、私自身も拍子抜けした。それもこれも物語の角度を広げ過ぎたからだと考えられる。それが祭編(今更だが、祭というのは暴徒が行う死の儀式を指す。伊豆編と素直に言ってもいいけれどね。)の欠点となり、作品全体に与えた悪影響は計り知れない。面白く読めながら欠点と断じてしまうところに矛盾があるかもしれないが、それは全10巻をまとめて読むか、あるいは連載を追って読むかによって作品の読み方が異なるからである。面白いというのは、その場限りの面白さであり、全巻を通して読んだ時の口惜しさ、ここはもっと面白かったはずなんだが・・・という複雑な心境を汲んでほしい。では、その悪影響とは何かをこれから検証しよう。
 まず、おばさんの家の近くにある鳥居である。「木花咲耶姫命」=「コノハナノサクヤヒメ」、日本神話に登場する神である。富士山の神とされ、浅間神社に祭られている。この名は後に東京の地下王国の落書きの一つにも見られるが、作品にどういう意味を含ませようとしたのかはわからない。作者がなにかしら求めようとした跡かもしれない。この作品には未整理のまま放置された謎がこのように散らばっていて、期待を煽る結果になった。次に、島となった伊豆半島である。伊豆半島が島になるには、どれだけの海面が上昇すればいいのだろうか?
 さて、これは大変な事態である。伊豆に着く前に見つけた活断層から、富士に近い太平洋側の陸地は10メートル単位で陥没したか、あるいは逆側が隆起している。また、大津波の影響により内陸深くまで侵食されている可能性もある。災害の規模が規模だけに、特に津波の被害は甚大であろう。1960年、南米チリの太平洋岸沖で起きたマグニチュード9.5という歴史上最大の地震の余波は津波となって太平洋全域に被害を与え、日本でも142名の死者が出、約4000戸が被害を受けている。このことから、劇中の津波が太平洋の各地を襲ったと思われる。舞台は日本なので、世界がどれくらいの被害を受けているのか見当がつかず、めちゃくちゃになったのは日本だけではないか? という想像は大間違いなのである。そして海面の急激な上昇だ。これが一番とんでもない被害を及ぼす。陸地の陥没・津波の陸地浸食・岸壁の崩落などを加味しても、伊豆半島が島になるには100メートル単位で海面が上昇しなければならない。地図で確認する限り、200メートルは上昇しなければ無理ではないか? 具体的な数値ははっきりしないので、海面が100メートル上昇したと仮定した場合、世界はどうなってしまうだろうか? 海面が上昇する際には、やはり津波が起きやすい。まず沿岸部が水没したのは言うまでもなく、河川も大氾濫して内陸は洪水が多発、当然気象にも変化は及ぶし富士の大噴火による塵灰が各地の空を覆い、年単位で考えれば恐竜絶滅を引き起こした時と似た状況になって、生物はほとんどんど死滅するだろう。・・・
 このことから世界中が混乱しているだろうことは容易に想像できよう。人類はほんとに最悪の状況なのである。日本がもっとも被害を受けたのだが、世界各国はやがて来るだろう長い冬に食糧不足が衰退を加速させたに違いない。「渚にて」の舞台はオーストラリアである。北半球は4700個以上の核爆弾によって死滅、爆弾の直撃を食らわずとも放射線で間違い無くあらゆる生物は滅んだと推測されている。「ドラゴンヘッド」の世界と「渚にて」の世界が重なった瞬間である。前者は滅亡に立会い、後者は滅亡を見守っている。しかし、前者の滅亡の過程に矛盾を抱かないわけにはいかない、それは闇編でテルたちが閉じ込められたトンネルのことである。
 トンネルは5巻で仁村と岩田が推測している通りの場所だとすれば、おそらく牧ノ原トンネルか第1高尾山トンネルと思われる(他の場所だとしても、1巻の新幹線から火柱を目撃する場面を見ると、海らしきものが画面の下に描かれている。浜名湖か、駿河湾か、あるいは天竜川か大井川か。静岡県内であることは間違いなさそうである)。問題はそこの位置である。伊豆半島があれだけの被害を受けたのだから、静岡県の沿岸部も壊滅していると思う。津波の侵食も考えあわせれば、トンネルに津波の被害が及んだと考えられる。堅固に作られていることは当然だから破壊されることはないだろうが、浸水しても不思議ではない。闇編を振り返って、果たして海水をにおわす描写があっただろうか? 劇中で彼らを襲うのは熱気、そして火山活動を思わせる変動である。テルの入った通気口から溢れる水も海水のようではない(浄水場の水か、あるいは川が溢れたか)。海面上昇の影響も見られないし、実際ならば水没しているかもしれない。いくら閉じ込められたとはいえ、これは明らかに矛盾する、自家撞着なのだ。つまり、作者は物語を闇編だけで終わらせるつもりだった可能性が高いのである。どういう理由で連載が引き伸ばされたかわからないが、物語の中盤であっさりと構成が絡まってしまうのだ。無理やり続編を描いた挙句に失敗した数々のヒット作同様に、これも痛恨の失策を犯してしまった。あえて言い訳するならば、陸地が陥没したのは伊豆半島だけ、トンネルの辺りの地域は隆起した、といったところか。
 といいながら、やはり伊豆の死闘は面白い。

第4章 脳
 ある詩の一節を紹介しよう。「ひたむきな眼をして、かなたの死の王国へ/わたった人々が、よし/われらを覚えているとしても/地獄におちた、はげしい魂としてでなく/ただ、うつろな人間/剥製の人間としてであろう。」
 「渚にて」の冒頭で引用されたエリオットの詩は「うつろな人間たち」(原題:THE HOLLOW MEN)の一部から抜粋されたものである。全文は長文なのでここではその一部を引用するに留めるので興味のある方は調べてみるとよい。では、この詩を引用した理由だが、「ドラゴンヘッド」の世界と妙に交差するのである。偶然だと思うが、うつろな人間たちと聞いてすぐに東京の地下王国に住む恐怖ジャンキーの人々を思い出してしまった。もちろん「ドラゴンヘッド」を意識しながら読んだからだが。エリオットの詩は難解で抽象的で曖昧だという、実際に読んで納得した、「うつろな人間たち」も暗喩が多用されていてどうにでも解釈できそうである。だが、素人の私がいろいろ書くよりも専門家の解説を引用したほうが早いだろう、「現代文明の不毛と絶望を、追いつめられたさいごの姿で、つたえようとするもの」。驚いた、「ドラゴンヘッド」のラストシーンを思い出してしまった。同時に「渚にて」のラストシーンも思い出した。というわけで、この章ではテルやアコたちが最後に伝えたかったことなどを含めて、恐怖について考察していく。
 テルは恐怖について考察を重ねる。伊豆のおばさんは国語の教師という設定だけに語りが巧い。ひょっとしたら作者に一番近い人物かもしれないと憶測してしまう、おばさんが伊豆に残ったのも、作者がその後の展開に目処を立てたので必要なくなったからか、とつまらない深読みに及んでしまった。また、おばさんの立場は「渚にて」の登場人物にも一番近い。事態に冷めているくらい透徹で体格同様にしっかりと地に足をつけていて、人間を信じ、そして最後の場所は故郷で迎えたいという絶望の中で日常を淡々と生きる精神力の強さを実感する。それだけに「恐怖を克服しなければならない」というくだりは、物語の争点となる。これまでの体験から自分なりに考えてきた恐怖・ひいては生きることについて思索を巡らせたテルが、初めて他人に評されるからだ。単なるテル自身の満足にとどまらず、夫や娘を失っていながら地元の人々を弔うために自分の生を捧げて生きるおばさんがテルに諭すのだからその言葉は重く厚い。まず恐怖を受け入れること、これが第一歩だといい、テルは自信を得るのだ。いくらノブオの死を悔やんでも・自分を責めてもどうにもならない、とにかくこの現実を直視すること。考えなくてもいい、行動が伴わなくてもいいから、まず目を開いて見よ。
 そもそも恐怖とはどのような機能なのか。「はじめに」で触れたように恐怖は生命の危機を感知するために必要な本能である。しかし本能のままで生きることは社会を形成する人間にとって不自由この上なく、本能と相対する理性が恐怖を制御する。理性は知識や経験と洞察によって事態が生命に及ぼす危険度を判断して行動を決定し、行動すると共に意識に今の状態がまさに意識される。本能と理性の対立から意識へ移行する際に、恐怖の度合いが減少していくわけだ。つまり、私達の感情をもっとも左右しているものは恐怖なのである。そのため人間は生まれた直後から、さまざまな恐怖体験を重ねて理性に恐怖の知識を蓄えて行く。(余談だが、少年の凶悪事件の多発は幼少時の恐怖体験が不足しているのが原因のひとつだと思う。というのも、人間の脳は未発達の状態で生まれる、恐怖を感知する扁桃体も同様である。脳の栄養は知的体験であり、扁桃体の栄養は恐怖である。恐怖体験は人間の感情を豊かにするための試練であり、理性による本能の制御を学ぶ絶好の機会なのだ。もちろんそれらの体験は疑似体験であり、過剰な栄養の供給が与える悪影響は言うまでもない。また、そうした体験をした子供を孤立させてはならない、恐怖は感情の暴走であるから、しっかりと休息させる必要もあるのだ。暴走が進むと、扁桃体は逆に萎縮してしまうのである。)
 黒雲の中に入ってはっきりした地獄絵図に、テルたちは戦慄する。この時彼らを襲う恐怖は、未知に対する恐怖と、闇である。登場人物たちはここで饒舌になる。本能と理性が闘っている状態だ。本能の恐怖は、人間の行動を単純化しやすい。闘争/逃走反応と呼ばれ、文字通り怒って闘うか怯えて逃げるか、と二極化される。彼らが必死に事態を把握しようと独り言のように各々しゃべりつづけるのはどうにか理性が勝っているからであり、ちょっとした刺激でそれは闘争/逃走反応=混乱・パニックに変化してもおかしくない極限である。そうした中で、テルは必死にそれを見詰める。巨大な穴・闇を見詰める。それは、心の中に潜んでいた闇をテルが受け入れた瞬間である。また仁村は、最悪の事態を悟って無力を痛感している。絶望である。絶望状態は健康に悪いが、同時に驚くほど脳を活性化させる、脳にとっての火事場の馬鹿力と言えよう。諦める、という状態ではない、それは恐怖に脳が麻痺した現実拒否状態に他ならない。絶望とは、万策尽きた状態であり、そこに至るまで何も考えていなかったわけではないからだ。だから仁村は、事態について思いつく限りのことを語る。以前の説明調のセリフが少なければ、ここはもっと効果がある恐怖との闘いになっただろう。それでも、底の見えない闇の中を降下して行くヘリの孤独感は読むものさえ恐怖させる、想像するだけで恐ろしい。勇猛果敢な兵士も、真夜中の戦場、草原をたったひとりで渡ることは敵を前にするよりも恐ろしいという。
 そんな中で一人ほとんど喋らないのがアコである。彼女は怯えている。他の三人もそうだが、彼女はあまり声を出さずに堪えている。この状態は精神にとって非常に危うい。だからこそ彼女はテルの腕を握り締めた。恐怖を鎮める方法は簡単である、言葉をかける・そっと体に触れる、この二つで足りる。これだけで活動しっぱなしだった交感神経系(闘争/逃走反応)は静かになりはじめて、副交感神経系が精神を癒すようになる。扁桃体は、人間の声や親しい人の存在に強く反応する。テルがアコに触れられて自分の存在を確かめる描写は的を射ている、本物の人間の描写である。
 黒雲を抜けると、物語は佳境に入る。ちょうど8巻の冒頭に当たるところで、アコは東京に帰る自分の本心をテルに語る。ここでアコが眠気に襲われる理由がはっきりしてしまう。読者の心の隅に引っかかっていた疑問がどうにか氷解する。どうにかというのは、ここを斜め読みしてしまうとアコの両親はすでに死んでいる程度の情報しか残らないからだ。よく彼女のセリフを読み下せば簡単である、両親が死んで親戚のおじさんおばさんの家でやっかいになる子供の心苦しさ・居心地の悪さを想像してほしい。そもそもアコは東京に帰ること自体がストレスなのである、テルと行動を共にしながらも一歩一歩東京に近づくにつれて次第次第にストレスはたまっていっているのだ。1巻第1話で惨事直前の新幹線の中の場面、テルがCDを聴きながら通路を歩くところで、1コマアコの影が描かれていたのを思い出してほしい。女子生徒に呼びかけられたアコはこの時寝ているのだ。「また寝てる」と言われている。アコは伊豆を発つ前にテルと「まだ修学旅行みたい」と話してもいる。アコが恐怖に対して鈍感に見えるのは、無意識裡に東京に帰りたくないという強い思いがあり、このまま帰らなくてすむのではないか・このまま修学旅行が終わらなければいい、とテルとは正反対の期待が、怯えるべき闇をむしろ歓迎していたのではないか・・・いっそのこと死んだほうがましだ、というのがアコの本音かもしれず、壊れかけたデパートで彼女が苛立っている理由は無意識裡の葛藤が要因かもしれない。
 アコの心は東方の火柱によって決着がつけられる。仁村や岩田にとっては、現場で何が起こっているのか気になるところだろうが、テルにとっては家族の死を一層確信に近づけるのろしになる(「のろし」とはいい表現だ。どこかから引用したのか作者の独創かわからないが、このあたりのテルのモノローグは好きな場面である)。そして、アコにとっては帰る場所を決めるきっかけになる、テルの家が、闇編から求めたつづけた彼女の落ち着く場所に定まるわけである。
 さて、ここに至って仁村と岩田の役割が非常にか細くなってしまう。酒を飲む仁村、ヘリの点検にいそしむ岩田。テルとアコが東京へ向かうに当たって気持ちを引き締めている一方で彼らは何を考えていたのか。彼らが東京に行く理由の奥には、原隊に復帰していればよかったという本音があろう、特に岩田のその気持ちは仁村より強いはずだ。ところが、富士で発見した墜落したヘリの群によって、行き場を失うと同時にその気持ちまで消滅してしまう。残った思いは東京に何があるのか、という一念のみで、これも仁村より岩田が強く感じている好奇心である。岩田は平凡人よろしく現実的に対処し、劇中では、そのまともな言動がかえって特異な人物に見えてしまう、それほど他の三人が個性際だっている訳だが、平凡な役割が登場しつづけることによって物語に溶け込んでしまい、ただただかわいそうな印象が色濃くなってくる。その他大勢を描いていれば、岩田はその代表者として扱えたと思うのだが、登場人物の少なさが、結果的に各人物を個性的にしてしまった。出来れば原隊はどこかに不時着し何人か生存者がいて、彼らと再会する展開もありえたし、そうしておけば、後に登場する米軍の名も無き兵士の口を借りずに、岩田(又は他の自衛隊員)に直接あの場面を仕切らせることも出来たわけだ。それだけに彼の唐突な退場は私を突き飛ばした。また仁村は、岩田にSFや音楽に逃げる男だと評されていることからわかるように、デパートの中で酒を飲んでいる。舌噛み癖の幼児性に現実逃避、伊豆で暴れた彼も俄かに小さくなってしまった。結局、彼を支えていたものは拳銃に象徴される武器であって、思えばノブオのような感じがしないでもない、物事に真剣になることが出来ず、不真面目を装い、臆病なのに強気で、とても弱弱しくなってしまう。そもそも何かがあると仁村は真っ先にヘリに逃げ込んでいたではないか・・・なんだか彼の印象がずいぶんと変わってしまったが、こんな状態に子供も大人も関係なく、恐怖に翻弄されつづけた果てにすっかり疲弊したのだろう(その彼も最後の最後で自分なりの決着を見せてくれるのだが)。
  火柱、竜巻、洪水。テルはここでヘリに乗り遅れて孤立する。それでも生きていた彼の頭上を覆う雲に注目すると、これまでの重々しいけどふわふわしていた雲から、どす黒くうねる泥流の渦のように変わる。これは脳だろう、もう脳だと思うと脳にしか見えない。これはこれこれの象徴、あれはどこどこの象徴という話は正直嫌いだし、作者を度外視した憶測も慎みたいところだが、これだけは脳だという自信がある(でも作者は違うよってあっさり言いそうだよな・・・、ここは居直るしかあるまい。)。さらに、脳と考えれば東京の出来事も理解しやすいのである。これは地下王国の首領の言葉や傷頭の存在の意味に恐怖ジャンキーが問い掛けるものといった諸々をひとまとめに説明できてしまう、まさしく象徴なのである。
 地下王国の首領は恐怖についてベラベラと語る。彼の話を聞く限り、この異変に政府首脳が関与しているような気がしてくる。富士の大噴火が人為的に引き起こされたのではないか、という仁村の憶測が思い出されてしまう。真相はわからないが、自らを「探求者」と称するカルト集団は、私たちの未来の姿に他ならない。恐怖ジャンキーにまではいかなくとも多かれ少なかれ、私たちは常に恐怖を求めて生きている。事件のニュースを聞いては被害者が自分でないと安心し図々しくも事件について恥知らずな好奇心を剥き出しに被害者・加害者を忖度し、改めて自分が安全であることを実感している。たとえ目の前で交通事故が起きても、心底を流れる安心感が根拠のない優越感に半ば愉悦し、いずれどこかで「こんな事故を目撃した」と笑顔で語るに違いない。また、職場で高速道路を時速150キロで走ったことを自慢したり、学校で睡眠時間が少ないことを誇って見せたりするのも恐怖ジャンキーである。首領が言うように、恐怖とは唯一、生を実感させてくれる感情なのである。それを失った時、人はどうなってしまうのか? それを失った時、人は劇中の人々のようになるだろうか?
 安全な社会生活は人間が望んで作り上げてきた文明である。世にはびこる恐怖の源泉をひとつひとつ潰していき、人は快適な暮らしを保証された。恐怖のない社会である。明るく楽しく前向きで、みんな仲良く生きている・・・まるでSSRIを服用した人々だらけで、鬱は疎まれ、ひいては暗いことを忌避とし、闇のない光に満ちた世界・・・社会そのものが扁桃体と海馬を失った傷頭のごとき感情に乏しく無神経で、臆病者をあざ笑い、怖くないことが優れているとでも錯覚しているような気さえする。国家が地下に作った施設や用意していた食料は、究極の国民を作り出すための実験場になるはずだったのかもしれない、そんなセンセイたちの思惑は、予想外のものだったに違いない。恐怖を失って従順になるどころか、従順という意識さえ喪失して、ひたすら自己を傷付ける中毒患者になってしまったのだ。食料に含まれている薬・SSRI―EXは、実在する抗鬱剤SSRIの特別版といったものだろう、だから、例の食料は実際に作り得る可能性が充分あるのだ。今後、脳内麻薬の研究がますます発展すれば、本当に恐怖を失う薬が作られるかもしれない。傷頭は、そうした薬漬けになった人々の象徴(これは劇中でも言われていることだね)であり、同時に今この現実の社会の有様をも象徴している。
 かつて私は「バイオハザード」というテレビゲームに熱中したことがある。ゾンビから逃げながら目的目指して闘うゲームである。大ヒットしたこのゲームは、実際怖い。しかし、この怖さが安全の中で体験させられていることは言うまでもなく、私も中毒患者なのである。また、ジェットコースターが好きな人もいるだろう、バンジージャンプをやった人もいるだろう、ホラー映画が好きな人もいるだろう、みながみな、日常の快適さに飽き足らず恐怖を欲している。そこまでして、何故恐怖を味わおうとするのか・・・実は、恐怖の裏返しは快感なのである。恐怖を求めること、すなわち快感を求めていることなのだ。恐怖を感じると、脳の中ではそれを抑制する快感物質が分泌され、人々はそれに酔いしれる。そして恐怖から逃れられた時の感情は、快楽に他ならない。また、アルコールを飲む行為も前述したSSRIを服用するのも、まったく同じなのである。
 本能だけでなく理性さえ恐怖を感じるため、人間は動物の中でもっとも臆病な生き物になった。しかしそれは、人間を高度に発展させる原動力となり、臆病故に多くの病気を克服した。そうしたことをテルは、恐怖を失った傷頭の一人に指摘されて惑乱する、「恐怖は必要な感情だったんじゃないの?」

第5章 家
 どのように物語を締めくくるのかが終盤の読み方だったので、どこまでが面白いと思いながら読んでいたのかと考えると、9巻の半ばくらいまでだろうか。この作品を追った読者の中では、わりと最後まで興味深く読んだほうだと思いこんでいる。それでもわずかに期待していたラストシーンに拍子抜けしたと前述したが、つまらないとは感じなかった。結末はどうやら読者の「想像力」に委ねたらしいところが残念だ。最後のベタ6頁は、好きに考えてくれ、好きな色を付けてくれと投げたのか、あるいは最終巻は単に頁が足りなかったのでそうやってごまかしたのか知らない。拍子抜けしたのは「渚にて」も同様である。こちらを先に読んでいたのもあってか、「ドラゴンヘッド」のラストの肩透かしは「渚にて」ほどではないが、読後感のさまざまな余韻は「渚にて」に遠く及ばない。
 「渚にて」には圧倒される。自暴自棄になる者も当然現れるが、ほとんどの者が来るべきその日を前に自嘲するくらい冷めていて、淡々と自分が死んだ後のことを心配する。ある者は飼っている犬は一人で生きられるだろうかと考え、ある者は家畜の餌を心配し、ある者は庭が雑草にあらされることを心配し、その夫は芝刈機を現金を払って買い、ある者はとうに死んだだろう故郷の息子のためにオモチャを買っている。そして、この物語でもっとも衝撃な点は、主要な登場人物がことごとく例外なく自殺することである。洒落にならないくらい、あっさりと劇薬を口に含む。ここには、恐怖という感情が欠落している。生きるにしても死ぬにしても、絶望的に感情がない。それでもこの読後感はなんなのか? それは読者である私が恐怖を作品中で想像していたからである。登場人物たちの瑣末なやりとりひとつひとつに、なにかとんでもない意味があるのではないか? あと数週間で死ぬのだから、彼等はきっとなにかしでかすに違いない、ひとりくらいは逃げ延びていて、作品の最後で、「この本を書いたのは私です」と種を明かしてくれるのではないか・・・諸々の期待感が、ラストの海岸で愛する人の乗る潜水艦を見詰めながら人生を閉じて終わってしまうというそっけなさに呆然とした。本の表紙を度々眺めては、なんだったんだろうと自問しつつ、忍び寄る放射能よろしく不安感に蝕まれる錯覚に気付かされた。
 「ドラゴンヘッド」を読み終えたときは、そう言うものが全く無かった。当初は奔放に想像できる余地がたくさんあったものの、全てが劇中で説明されているために、想像力といわれても恐怖については想像の余地がないくらい語られているので、結局、劇中の世界がその後どうなったのかという一点にのみ想像の目が向けられるのである。そして明かされた新世界も、テルの想像したものなのか、それとも現実の姿なのかがはっきりせず、テルとアコの生死も定かでない。いや、多分世界は終わるだろう、テルとアコも死んだだろう、しかし、ひょっとしたら・・・という希望がわずかに残されているために、どうにも腑に落ちないのだ。
 東京にあらわれた火山は恐怖を失った世界に新たに出現した恐怖だろう、空の雲が脳のように描かれているということは、火山は扁桃体・海馬ということだろう。しかし、それ以上の想像がない。東京を脳にたとえて仁村とテルの争いは本能と理性の闘いといったところか。深読みは意味がないけれども私はそのように想像した。

あとがき
 書き漏らしたことをここで書こう。テルは読書が趣味らしいことが5巻でわかる、趣味とまでいかなくとも、彼は冒険小説の類を小さい頃から読んでいたらしい。車内で「渚にて」を読むのも読書好きだったからだろう。つまり、テルが生き続けようとした背景には、冒険小説などの影響がありそうなのだ。ということは、ラストを夢オチにしてしまう可能性もあったわけである・・・これが2章で述べた保険の意味である。また、トンネルの中で物語は終えるべきだとしたら、一体どのような結末が考えられるだろうかと想像すると、あのラストシーンが思い浮かんでしまった。いや、実際それしかないだろう、テルとアコが闇の中で事態を把握できないまま、恐怖や生死について既存のラストシーン同様なことを語り合ったような気がする。となると、3巻から10巻半ばまでの内容は、連載を引き伸ばすために苦心した結果と考えられよう。と言いながら仮にトンネルの中で物語が完結していたとしても、読者はわがままに無責任に(私も含めて)、結局彼等はどんな目にあったのかはっきりしないことに文句を言ったのかもしれないと思って、作家とは大変な商売ですな・・・と他人事ではいけないのでごめんなさいって結局謝るのであった。もうひとつ、「人間以上」との関わりもあったので追記しておこう。それは本文でも取り上げた地下王国の傷頭のセリフ「本来は恐怖って(中略)必要な感情だったんじゃないの・・・?」である、このセリフと似た文章が「人間以上」にあったので、ちょっと引用する、「恐怖は生き残るための本能であり、そういう意味での恐怖は、どこかに希望が存続していることから慰めとなるのだ。」さて。
 文章を書きながら、作品についての認識が変わり始めることが多々あり、「ドラゴンヘッド」もそうなった。中盤以降の展開について書くことなんてあるだろうかと危ぶんでいたが、それを救ったのがエリオットの詩だった。「うつろな人間たち」の内容と「ドラゴンヘッド」の世界が重なるなんて考えてもみなかっただけに、偶然の発見がここまで書き続けられる力となった、エリオットよ、あんたの詩はわけわからんが、とにかくありがとう。
 書く前はもっと恐怖についていろいろ書くつもりでいたが、文章中で述べている様に深読みするのが面倒になってしまった。東京の空を脳に、火山を扁桃体・海馬というたとえは書く前に気付いたことだったので書いてしまったが、正直言ってわからない・・・うーん、こんなのでいいのか? といつも通り臆病な私である。とりあえず、臆病者バンザーイ、恐怖バンザーイ。


主要参考文献
 望月峯太郎「ドラゴンヘッド」 全10巻 講談社 1995〜2000年
 ネビル・シュート「渚にて」 井上勇訳 創元SF文庫 1965年
 シオドア・スタージョン「人間以上」 矢野徹訳 ハヤカワ文庫 1978年
 ラッシュ・ドージアJr.「恐怖 心の闇に潜む幽霊」 桃井緑美子訳 角川春樹事務所 1999年
 安田一郎「感情の心理学 脳と情動」 青土社 1993年
 T・S・エリオット「世界詩人全集16 エリオット詩集」 西脇順三郎・上田保訳 新潮社 1968年

戻る