よしながふみ「フラワー・オブ・ライフ」 終りのない文章

新書館ウィングス・コミックス全4巻




 仲間とのクリスマス会を終えた帰路、電車内で相沢は三国に語った。
「夏休みが明ける頃にはクラスの雰囲気になじんできて教室の中で息するのが楽になってきて やっと学校が楽しいなあって思えてくるのが今頃なんだ…」
 春になればクラス替えで別れてしまうかもしれない級友たち。だが彼女は、親友の山根と別のクラスになっても転校せずにこの学校にとどまってくれたことにただ感激してしまう。もちろん山根への心配り(父が単身赴任して寂しいかもしれない)も今度は忘れない。過去の失敗(甲子園古墳事件や花園姉ひきこもり発覚事件)を思い起こせば、彼女はこの一年で確かに成長したといえるだろう。
 花園、三国、真島とマン研の3人を中心に高校一年生の学園生活を群像劇スタイルで描いた、よしながふみ「フラワー・オブ・ライフ」は、各登場人物それぞれ等価に注がれる視線でもって彼等の成長をゆったりと描いた作品である。冒頭で触れた相沢という登場人物の心の成長が象徴するように、長じて振り返れば瑣末な事も、十代の彼等にとっては一大事であるという青春物の定番を押さえつつ、どの人物を中心に読んでもひと波乱ある濃密な物語が、とてつもなく充実した読後感を私に与えてくれた。なんかもう傑作!これすげー!とかいう押し付けがましい興奮ではなく、一生忘れない大事な物語みたいな、たまらなく愛しい感情をこの作品に抱いている。要は「フラワー・オブ・ライフ」大好き!っていう個人的な感情だ(以下「フラワー・オブ・ライフ」は「フラワー」と略す。本作は1話、2話の代わりに#1、#2となっている。文中の話数を表す記述もこれに従った。)。
 

目次
 1 相沢
 2 山根
 3 坂井
 4 磯西
 5 陣内
 6 辻
 7 尾崎
 8 花園
 9 三国
 10 武田
 11 真島
 12 よしながふみ(あとがき)


1 相沢朝香
 山根と親友であり読書仲間でもある彼女の初登場は、山根と登校中の姿である。教室で山根に借りた本をきちんと袋に入れて返し、読書好きであることが明示される。教室で本を読むことの自意識を知っている山根に彼女は嬉しそうな顔をする。後に語る「新学期はまだクラスに慣れるのに精いっぱいで休み時間なんてちゃんと友達と話してつつがなく過ごせるかなとか却って緊張しちゃって」と。その緊張が解けた初めてのクラスメイトだろう。山根に自分と同じ本好きな人がいてうれしいーと本音を漏らした次には軽く頬を赤らめちょっと冷や汗を飛ばすくらいに思い切った発言に違いなく、山根の同意に対する感激は、彼女にしてみればひとコマでは足りないくらいだ。
 しかし、緊張が解けた彼女は、ついつい要らぬ一言を言ってしまうようになる。花園の自己紹介を「可愛い名前」と山根に語ってしまうのはまだ序の口だ。すなわち甲子園古墳事件である。
 実際は真島海(主人公の一人にして真正(真性?)オタク。彼については後述)の無知と誤解が原因であり、彼女にはなんの罪はないと私は思っているし花園もそう言って彼女を励ますが、彼女が級友に語った「ウソをつかれた笑い話」・甲子園のマウンドは古墳であるという明らかな嘘話を高校生にもなって信じてしまう真島の滑稽さのほうが際立っている。よって、ここで注目すべきは、彼女が何故そこまでして真島に謝りたいのか、その理由を切々と語る意味にある。
 中学時代。文芸部の先輩の家にお邪魔した時に、面白そうだし先輩の強い薦めもあって読み始めたマンガが、最終巻になっても「つづく」で終わり、未完であることを知らずに最後まで読んでしまった彼女は先輩にゲラゲラ笑われる。いたずらともいじめとも言えぬこの一件で、ごめんねと言われることでどれほど気持ちが楽になるかということを(以下略)、ではなく、彼女は読書家であり、多くのマンガも読むことがここで明らかになる。2巻から登場する武田がノートに描いたマンガ「ルイジアナにひな菊咲いて」を読む機会を手に出来たのも、この話があってこそである。
 彼女は作品の面白さを陣内とともに滔々と語る。その語り口は、極めて少女漫画の感想を述べる少女そのものである。キャラクターの描かれ方・その振舞い方にすっかり感情移入し、キスシーンでときめいてしまう・まさに少女の妄想が果たされた充足感に溢れている(それに対し、歴史的な薀蓄に真っ先に反応し、キスシーンをエロいと言い切る花園は少年の感想として類型的に描写される。またここでほとんど発言をしない三国もお忘れなく。彼が何故ここで黙っていたのか? について考えれば、後に花園とマンガを合作する時の三国の言動に一層の説得力が加えられよう)。
 その後、勉強会の話で花園の姉・さくらがひきこもりであることが彼女の発言をきっかけに暴露される。花園のいい意味での無神経さに救われてたいした問題にならず、彼女一人が思い悩んでいただけという感じになるが、彼女の無神経な自分への嫌悪はそのうち大きなしっぺ返しが来るに違いないっていう不安に繋がっている。「ねーちゃんひきこもりだから」という花園に、引き攣る彼女と三国、平然とした風の山根の三人の構図が三人の性格を表している。
#16 4巻104頁
「もうすぐ終業式です」の前の2コマ

 文化祭直前で山根に武田のマンガを読ませたり、山根が率先してみんなのために行動する・たとえば雑談している時にジュースを買ってくると言う際に彼女も付いて行くなど、山根への気遣いが愛らしい。冒頭で引用したクリスマス会後の帰路の発言が、本作のタイトルの意味を絡めて考えれば、もっとも大きな見せ場であるけど、彼女個人に絞れば、次の春に来るだろう別れが、そのまま山根との別れを暗示している。もちろん、単にクラスが分かれる程度ならば、学園生活の一部に過ぎない。そこに、自分ではどうしようも出来ない事態・抗うことすら出来ない・傍観するしかない諦念・この歳にして諦念ってのもないか、若さへの不自由感(と言っても、本作に登場する大人たちもまたそれはそれで不自由な生き方に苦悩しているわけで)とでも言おうか、花園の白血病のようなどうしようもない感覚ほどではないが、彼女が山根の大人っぽさの真の理由を知った時が、山根との別れの時っていうのが劇的で、「もうすぐ終業式です」(#16)の前の2コマの彼女と山根の呆然としたような表情が印象深いし、ラストの彼女の笑顔が清々しい余韻を与えてくれる。

2 山根佳代(下の名前は推測)
#10 3巻9頁
「学級崩壊」。各キャラの動きに注目。

 クラス委員の山根さんは、どうしたって山根さんである。彼女の描写は真島海のように終盤まで徹底されている。一言で言えば無表情、何事にも動じない劇中で言うところの大人っぽい人である(もっとも、この大人然とした姿勢自体が、子どもっぽい発想なわけであるが)。例を挙げたらきりがないが、2、3挙げてみると、甲子園古墳事件で皆が大笑いしている場面でも、彼女は傍らで見守るように少し息を漏らす程度に留めている、それが彼女にとっての大笑いなのだろう。斉藤(女)が真島とキスしたことを思い出して悲鳴をあげて「学級崩壊」の場面でもゴキブリが現れたかとつられて悲鳴をあげる女子や乗じてはしゃぐ男子の中で、彼女は騒ぎに振り向きもせず微動だにしない。だからといって集団の中で孤立していないバランス感覚が素晴らしいのである(真島と違って器用ともいえる。)。
 相沢に転校するかもしれないと告げる終盤、相沢はようやく彼女の大人っぽさの理由を悟るわけだが、それは読者にとっても同じである。過去に何度も転校を繰り返し、その中でクラスの中に溶け込む術を学びつつ深く仲良くもしない。我を通さず人の意見も妨げない。甲子園古墳で真島の誕生会を画策している場面も見守るだけで、でも参加しないわけではなく、「この間はごめんね」と皆と一緒に言っている(一体どんな声なのかまるで想像できない……)。
 そんな彼女が我を通す数少ない出来事(たとえば文化祭の劇の脚本を書くなど)の最大事が、転校話なのである。相沢には割りと趣味等を明かしていたらしい彼女は、放課後、相沢に転校を告白する。ここでは彼女の落胆した表情がはっきりと描かれる。いくら大人っぽく振舞おうが親に依存している現在、親の意向には逆らえないという現実を突きつけられて彼女は漏らす、「早く大人になりたいな」と。小学生で4回、中学生で1回の転校経験がある彼女と、相沢のセリフとして引用した冒頭の言葉「夏休みが明ける頃にはクラスの雰囲気になじんできて教室の中で息するのが楽になってきて やっと学校が楽しいなあって思えてくるのが今頃なんだ…」。これを比較すれば、山根さんが、その楽しい時期すら満足に味わえなかったのが想像できる。次の春にはまた転校するかもしれない……。楽しくなって仲良くなった時、次に訪れる本当の別れは、単にクラスが別々になるかもしれないことを嘆いていた相沢の子どもっぽさとは段違いに忍耐を要する。
 彼女自身が子供っぽさを自覚する出来事は、3巻で坂井に本をほんのちょっと傷付けられた時である。多くの登場人物が大人とか子供といった区別にこだわらず過ごしているのに対し、彼女は自分が大人然であるべきことを目指し、実践している。これも真島と共通しているのだが、真島が周囲の愚民(ここでは同級生たち)と違う自分に陶酔している態度をとればとるほど、彼は周囲との壁を分厚くし閉じこもっていく事態に気付かないまま時をやり過ごしてしまい、結果的に破綻する(詳細は真島海の節で)。山根さんの態度も、真島のそれと似ている・とても危なっかしいものだった。
 この二人の対決(というほど大袈裟なものではないけど)は、花園がまだ入学する前の一挿話として描かれた。両者の違いは象徴的である。他人は知らず己が孤立するのは厭ない真島と、他人が孤立することを厭わず自分が孤立することは甘受する山根さん。しかし、転校して相沢と別れ、他の土地で再び孤立する自分を想像した時、彼女は受け入れられない感情を体験する。斉藤(女)の裏切りによって孤立することを受け入れられない自分の感情を知った真島。両者のその後の行動がいかに帰結したか。
 山根さんは、相沢という親友を得ることにより、わたしが孤立することを厭わない他人の存在を知ることになった。そのような観点で読むと、山根さんが一人になろうとするときに、隣の相沢が付き合おうとしたり困った表情をするのも、相沢にとっては相手にされていないような感覚だったのかもしれない。♯11は坂井の主観によって山根さんの人柄が浮き上がる話だけど、坂井の気持ちこそ、山根さんと親しくなろうとする相沢の気持ちそのものだったのである。

3 坂井亜弥
 というわけで、相沢のように山根と仲良くなりたかった坂井である。
 個人的に彼女の価値は「友情にも片思いってあるんだね」というセリフに尽きる。身なり正しく大人な態度の山根と親しくなりたい、憧れに近い感情を集約した一言である。「フラワー」の主要キャラが皆親友と呼べる相手がいる(あるいは真島と斉藤(女)のように対になる人物がいる)けれども、坂井には、前の席に座る子と話している場面が幾度か描かれているものの、結局その子の名前は不明のままで、彼氏とて同級生のようではなく、「いつものメンバー」・輪の中に入れなかった。
#1 1巻7頁
冒頭の教室内

 結論から言えば、坂井の活躍は武田隈子に奪われたと言ってよい。武田については後述するので重複するかもしれないが、武田は他のクラスメイトであり、真島が発見しなければ劇中に登場することなく埋もれていた。花園と三国が漫画の創作で意見が衝突し、いがみ合うのを見て「だからわたしは一人で描くの」と思う場面、坂井には、武田のような意志が設定されていなかった。また、各キャラには真島の性格の一部が反映されている。武田の場合は、一人でいることを厭わないがひとつあげられよう。相沢の場合は「甲子園古墳事件」で直接関わり、あまり深く考えない一言を漏らしてしまう面もある(真島の場合は過剰だが)。山根は前述の通り、表情を顔に表さない・大人然と振舞おうとする。坂井には、この真島成分が圧倒的に足りないわけだ。
 さてしかし、彼女の登場頻度は確かに他のキャラクターに比べて少ないけれども、♯1の場面・「遅刻の女王」と呼ばれるところと、山根さんと相沢の読書仲間のセリフがすれ違う様子から、当初はそれなりに重要な役どころを担わされていた可能性がある。少なくともこの1話目の場面は、坂井の唯一の見せ場となる♯11の布石であるわけで、当初から予定されていた挿話だからだ。相沢と山根が互いの本を持ち寄り手渡しする場面は、♯1以降♯11まで一度もない。いつも本を袋に入れて返す相沢の姿に至っては♯1だけなのだ。この1回は、坂井が彼氏に泣いて語るセリフのためだけとは言い過ぎかもしれないが、読者にとっては、そのたった1回の目撃が山根と相沢の本のやりとりを目撃する彼女の視線と重なるわけである。
 見せ場を用意されながらも、結局対して大きく取り扱われることなく消えていった坂井のことをたまには思い出したい。

4 磯西佳奈
 お菓子作りが得意な彼女に注目して読むと、いかにして尾崎に接近していったのかを観察できる。尾崎に告白させるまでに至る詳しい経緯は描かれていないが、親友の陣内を対比させつつ、一女子高校生が恋人を獲得するしたたかさを見てみよう。
 彼女が最初に注目されたのは♯2冒頭である。数学の授業で指名された問題を解けずに立ち尽くした彼女は、教師である小柳に叱責され半泣きしてしまう。小柳と斉藤(女)の教師同士の不倫関係を知る読者・ここでは花園は、彼のまともな授業態度と数学という教科に対する真摯な姿勢に驚くわけだが、磯西という存在を知らされた読者は、その後彼女がコマの中に描かれることに意識せざるを得なくなる。これは作品の特徴でもあるので改めて触れることでもないが、簡単に言うと、物語の中心人物はその前段階でちょっと姿を描かれて登場している。「甲子園古墳」事件の際、相沢の話を聞いてしまう真島も、その場にやってくる姿がコマの隅に描かれていた。
 彼女はこの回で斉藤(女)や陣内との会話から料理好きであることが明かされる。「甲子園古墳」のバカ話の最中で皆が食べるクッキーも彼女が作ったものであることから、彼女の趣味は、後に花園と三国が自作の合作漫画を誰かに読ませたいと思ったり、武田が隠し続けていた漫画を皆に読まれてしまってから、誰かに読まれることにそれなりの快感を覚えるなどの宿命みたいな観点から考えると、登場人物の中で物語の当初から自作の料理を振る舞い「おいしい」と評価されることに楽しみを見出す創作者魂が備わっていたと見ることも出来る。単に、漫画を発表するのと違い料理の方が敷居が低いという考えもあろうが、この回で彼女の料理が評価される場面が、花園が描いたイラストが皆に上手いと褒められる場面と交錯させていることから、それなりの意図はあったものと思われる。
 では、彼女はいかにして尾崎に接近していったのか、経過を見てみよう。
 当初、彼女自身はそれほど意識していなかったかもしれないが、尾崎と辻にはすでに射程内に入っていたことは描かれている。女子にモテる斉藤(女)先生に尾崎「俺たちの畑(女子生徒のこと)を荒らさないで欲しい」発言や、辻「磯西さんはかわいい」発言である。彼女の親友・陣内には彼氏がいることが早々に明かされていることから、二人の男子の視線のひとつが磯西に向かっているのは間違いない。だが、辻は後に花園の姉・さくらに一目惚れしてしまうわけで、この時点で彼女を狙う具体的な登場人物は尾崎になっていた。
 物語は、その辺をほのめかすどころか、ほとんど描かずに尾崎と磯西を接近させていたわけだから、セリフが多い本作において、この描写は、かなりさりげない印象を受ける。最初のツーショットは文化祭だろうが、この時はまだそんな気配はない。彼女が具体的な行動・ていうかフラグが立ったのは、3巻のクリスマス会である。
#13 3巻171頁
尾崎の「超ーうめえ」にすがりつく磯西

 辻を幹事に花園家で催されたこの会、彼にとってはさくらとの距離を縮める好機であるが、縮まったのは尾崎と磯西の距離だった。彼女は尾崎の隣に座った。単なる偶然かもしれないし、尾崎が彼女の隣に座ったのかもしれないが、いずれにしても、尾崎が彼女に接近しようとするかのような印象は描かれない。個人的な感覚に過ぎないけれども、尾崎に磯西が近づいたと考えるほうがしっくりくる。尾崎が持ってきたクリスマスツリー、大きなツリーを用意しようとしていた彼にとっては、こじんまりとした不本意なツリーである。それを「すっごいかわいい」と磯西が褒める。決定打は磯西の、これまた不本意な手作りケーキであろう。
 彼女にとって母のアイデアの元で急いで作ったあまり見栄えのよくないケーキである。自信のない作品だけに、皆の反応がおおいに気掛かりなところ。最初に一口食べた相沢「おいしい」、続いて尾崎「超ーうめえ」、相沢ではなく尾崎の応えにやたらと驚く磯西。尾崎にすがってしまうほどである。
 4巻に入って♯16冒頭、彼女は陣内に尾崎と付き合うことになったことを報告するわけだが、その後の彼女が陣内との関係に悩み始めるところから、己の中に潜む身勝手さに気付く描写で、彼女にも真島成分があったことがわかる。彼氏と別れたという陣内となんとなく距離を置いてしまう彼女は、のろけ話を武田とすることで、かえって陣内との距離を広げてしまい、武田と仲良くなっていく。少しずつ遠のいていく二人の距離は、尾崎と辻の関係と比較することで明確になる。「あたしは尾崎君しかいなくて女のコの友達が誰もいないのはイヤだよ」。
 磯西と陣内の距離感は、磯西自身が縮められないほどのものになりうる可能性を秘めていた。相沢は、陣内が先に一人で帰ったところから、彼女たちの変化に気付く。その変化は、相沢と山根の距離を無理やりどうしようもないほどに広げてしまう・山根の転校話によって補完される。相沢・山根と磯西・陣内の関係性は、どちらも進級後のクラス替えで同時に回復された。しかも尾崎と別のクラスになったことに全く触れない磯西の態度からも、彼女にとって本当に大事な物ってものが見えてくるのだ。

5 陣内詩織
 磯西が怒られて登場ならば、彼女は怒って登場である。二人とも親友でありながら、ほとんど対照的に描かれるのが面白い。一体どういう経緯を経て友達になったのか。まあ、そんなことは妄想に留めるとして、本編から見える両者の違いを見ていくと、最初の登場場面からしてすでに計算されていたことがうかがえるから恐ろしい。
 まず二人の違いをはっきりさせよう。茶髪でロングの磯西は料理が得意、黒髪でショートの陣内は家庭科の料理で片付けしか出来ないくらい苦手。尾崎といい仲になって付き合うことになる磯西、彼氏とは喧嘩ばかりで趣味も合わず別れた(ていうか振られた)陣内(二人とも男のほうから想いを・別れを告白されている)。武田と親密になっていく磯西、一人で帰ることが多くなる陣内……真島成分である。
 中学時代の三国は真島となんとなく親しくなるけれども、他に親しい友達が出来ると真島となんなとなく距離をとりはじめた。元から自己主張が激しく皆から避けられていた真島も、三国と一緒に下校する機会を避けるようになっていく。磯西と陣内の関係である。
 彼女は服装や小物類など、ファッションに詳しい一面を持っている。磯西と一緒に同じ物を見ても、彼女は瞬時にそのメーカー等を言い当てて詳しく解説してしまう。武田の買い物に磯西と付き添って新宿に繰り出す場面で、彼女は率先して服を選び、磯西は陣内の選んだ服に景気良く相槌を打って試着した武田を「かわいい」「やばい」と抽象的な言葉だけで、やはり二人は対照的である。そう、陣内はその手のマニアである可能性が極めて高いのだ。クリスマス会でも彼女は尾崎の小さなツリーの飾り付けに反応した磯西の言葉を解説するように「オーナメントの色が赤で統一してあるところ」と、それらく述べてしまうほどだ(「オーナメント」って何だよ! ……「飾り」でした)。さらに、ビンゴの景品の手帳を見て「クオバディスじゃん」と指摘もする。この時の磯西の反応も「かわいー」である。ちなみに、彼女はこの会でエムワークで買った(大きなお尻を隠せると喜んだ)ロングスカートを着ているものの、全身が描かれることはなく目立たないのが悲しい。
 というわけで、彼女が真島に近い登場人物であることが推測できた。これを花園・三国・真島の三人の関係と比較すると、それぞれ武田・磯西・陣内と対称できるかもしれない。漫画が描ける花園・武田、友人関係に悩む三国・磯西、孤独になる真島・陣内(「甲子園古墳」で真島に謝る皆の中に、彼女はいない。「誕生日おめでとう。ごめんなさい」と筆で書いた文字を残して。単なる描き忘れなんだろうか。バイトで忙しかったのだろうか)。だからといって、彼女は真島が陥ったカテゴライズ化には至らない。彼女は彼氏に振られることで陣内と距離を置く。磯西は陣内に気を遣って距離を置く。両者の思いやりは両者にとっていい方向には転がっていかないけれども、この気遣いこそが、実は子供じみた身勝手さなのではないか。つまり、彼女は磯西と尾崎の間に入ってはならない、という大義の下にぬくぬくとしていたのである。やがてバイトに忙しくなったとも後に推察されるが、お互いを想う行動に潜む自分勝手さは、陣内初登場時ですでに描かれていた。
 彼女はまくしたてる。彼氏と観た「アメリ」と「マトリックス」の感想の相違。自分は彼氏の好きな映画をつまらないと言いたいけど言わないのに、彼氏は彼女の好きな映画をけなす。でもそこが男のかわいいところと諭す斉藤(女)だが、これに反応するのは陣内を除く女子二人である。陣内からの相談事に対する返答でありながら、彼女の表情は描かれないのだ。ていうか、愚痴を聞いてもらいたかっただけかもしれないが。ともかく彼女は彼氏に気を遣っていることを訴える。これは別れた報告を磯西にする場面でも同様である。あれほど気を遣っていたのに・距離を置きたい時期だろうからと置いていたら、嫌いだと思われたと言われて振られてしまう。もちろん彼女は、自分の行為が彼の陣内と別れたい理由付けに利用されたのを悟っている。何故振られたのかと悩む彼女は、磯西が今日はゴメンと尾崎と帰ろうとするのを「一人になりたいからいいよ」と言ってしまう。
 彼氏の話をよく磯西にしていた彼女は、クラス替えで磯西と別クラスになってしまうものの、彼氏が出来た喜びを分かち合うべく磯西の元に駆け寄った。彼女は、自分ばかりが気を遣っていると思い込んでいたけれども、最後になってようやく磯西に多分に気を遣わせていたことに気付き、武田への心配りも忘れず、「ごめんね」と謝るのだった。

6 辻俊平
 彼について語るべき点は兄の存在である。
 花園家で行われた勉強会で発覚した花園姉・さくらのひきこもりに、彼は兄貴もそうだとあっさり語る。中学からすでに親友だった尾崎の反応から、兄のひきこもりが年単位であることがうかがえよう。彼がさくらに惹かれたのも、ひきこもりの兄を彼女に重ね合わせたから云々というようなもっともらしい言説も可能だけれど、むしろ兄の言動はさくらの描写によって示唆されていると考えるほうがしっくりくる。さくらは訊ねる、「妖精(ひきこもりのこと)は夜中に氷を作ったりしない?」「します、します」。ひとコマのやりとは言え、仕切り屋の彼の兄に対する思いは、さくらとの交流を通して明らかになっていく。勉強会後、兄なんか放っておいて構わない旨の発言をしていた、「いざとなったら家出りゃいーから」と。しかし、この時の彼の表情は描かれていない。さくらという妖精との出会いに浮かれる彼は、尾崎に「ひきこもりの兄」という現実を話題にされ、いい表情はしていないかもしれないが、これは、前節で触れた陣内初登場時に彼氏の愚痴に対する斉藤(女)の返答に陣内自身の表情が描かれていない点と共通している。
 表情を描かない演出の例としてわかりやすいのが、花園と三国が自作のマンガを巡って喧嘩した時の三国である(3巻♯12)。花園の勝手な作画に激高、どすっどすっと歩く後姿からも怒りが伝わってくる。三国の怒りはその前までのコマで描かれ、読者にはその顔が印象として残り続ける。それが帰宅した途端にどよっと落ち込んだ表情がアップで描かれた。怒りからそこまでの過程の表情をすっ飛ばして、いきなり落ち込んだ表情を描く、さらに三国自身の反省を加えることで、花園への怒りが自分自身に向けられる。感情の変化を極端に描くことで、表情の移り変わりを想像力に補完させるってのは別に特別な手法ではないけど、辻や陣内の例では、その直前の顔の印象を長期にわたって伏線のように保存しておく点で特殊である(ていうか、大概忘れてしまうけど)。陣内が彼氏について話す時の表情を追ってみると、怒り(#2)→落ち込む(#5)→振られて落ち込む・磯西に愚痴って泣く(#16)、というように散々な顔しか描かれていない。この効果は、ラストで新しい彼氏が出来たと報告する陣内の笑顔を引き立てた。
#13 3巻180頁
辻のひきこもり兄への配慮

 辻の場合はどうか。彼が兄と接する時の表情を追ってみると、無表情・不明(#7)→怒り(#13前編)→無表情(#13後編)である。クリスマス会の前、妄想に胸躍る彼の部屋の壁をドンと蹴るか叩くかした兄に、「人の幸せがそんなにねたましーのかよ」と彼は蹴り返した。その会が終わって、彼はタッパーに入れたケーキの残りを母に渡す、「みんなで食って 兄貴の分もあるから」
 最初の無表情は、関心がないといった感じであるが、会を経て、彼は何かしら悟ったかのような印象さえ与える無表情になっている。何を悟ったのか。#16で磯西と付き合うことになった尾崎から、さくらに告白しろと煽られると、会の様子から自分がさくらに相手にされていないことを悟ったことがわかる。尾崎と磯西という「人の幸せ」を目の当たりにした時、彼は兄と同じ思いを一瞬でも味わう。少々こじつけて言えば、告白せずに関係がなあなあなままでいる状態にひきこもったわけである。
 ひきこもり状態は、自分の価値観にどっぷりとはまって、尾崎ののろけ話を愚民と断ずる真島がまさにそうであろう。真島はまさに孤高の中に閉じこもっているわけだ。辻は恋愛面に関して真島成分を持っていたのである。彼は、同級生と付き合う尾崎とは事情が違うと言い訳をするものの、尾崎の無神経な言葉に反論しないのと同様、さくらに告白するのをためらい続けていた。最終話の告白は、実に成長した証なのである。
 そして、さくらに振られはしたものの、尾崎の本当に告白するなんて信じられない発言に、きっちりと言い返す力をも与えたのだ。

7 尾崎
 彼氏への不満を斉藤にぶちまける陣内に対し、斉藤はやんわりと返答する、「男って友達同士でもそゆとこ正直だしガキなのよ」と。この正直でガキな友達同士が尾崎と辻なわけだが、特に尾崎こそがその発言の対象に相応しい登場人物である。
 尾崎のがさつさは、磯西にはマヌケに見え、そこが彼女に好かれた点らしいけれども、辻にしてみれば、お前いい加減にしろよと言いたくなるほどのわがままっぷりだろう。
 各登場人物たちにとって大きな分岐点となる#13のクリスマス会。相沢や三国は、この時期が一番楽しいと噛み締め、辻は諦観し、磯西と尾崎は付き合うきっかけとなる。小さなツリーしか用意できなかった彼は辻に泣きつくと、山根が飾りつけはなんとかしよう助け舟を出す。彼は「ゴージャスなのは無理なのかあ……」と言ってしまう。さらに告白して玉砕するのも青春じゃんと辻を煽り、辻は「ホンッットにやな奴だ」と言われる始末であるが、彼は全く動じない。しつこいようだが、彼の辻に対する言動もまた真島的であり、真島成分を持っているわけである。
 けれども、友達に対してガキな反応を続ける彼は、結局下の名前が判明しないままラストを迎える。この作品でもっとも成長しなかったのは誰かと問われれば、私は迷わず彼の名を挙げるだろう。辻がさくらに告白したことを知らされた時に一瞬見せた真面目な表情が、かろうじて彼の成長をうかがわせる描写だし、その後辻を茶化すのも友達同士のふざけあいにもっていく彼の優しさなのだと妄想することも出来るけど、坂井よりも登場頻度が多い割りに、あまり印象のない登場人物である。

8 花園春太郎
 本編の主人公にしてもっとも多くの人々から気を遣われる登場人物である。その始まりが「俺 白血病でした」という宣言に拠るところが大きいのは言うまでもないし、彼がこの発言によって特別な存在として扱われるのも#3で斉藤(女)が解説してくれる通りだ、「自分が白血病だったって言った時から あんたは人間関係において そのヘビーな過去の分 みんなより強者の立場に立ったのよ」。
 彼にとって秘密を持たないこと・なんでも家族に話せる関係は普通のことだった。だが、彼の考える普通が必ずしも皆にとっても普通であるとは限らない。当たり前のことを指摘され、そこで彼は変わっただろうか?
 #1「体育も全然ふつーに出来るんで」
 #4「別にふつーのいたずらだよな」
 これは花園のセリフである。#3を挟んだものの、彼の「ふつー」が「普通」と峻別されたままであり、彼の存在はクラスメイトにとって依然として難病を克服した特別なものに変わりはないし、彼も変わってはいないのである。たとえば他の人のセリフでは、「普通」「ふつう」と書かれているあたり、花園にとっての「ふつー」が他と違うのは明らかである。だが、彼の無自覚なふつーは、実は誰かの考える普通と背中合わせであることが最終話で明かされた。真島である。
 前回(#17)で、自分は白血病の再発の可能性がまだある身体であることを知って号泣する件で彼は独白した、「普通の人よりも何十倍も何百倍も俺は死にやすいんじゃないか」。ここで初めて彼は「普通」と語る。彼にとっての、普通に生きることの困難さが如実に現れた瞬間であり、「ふつー」という文字には、彼の普通でない状態がすでに刻まれていた。さくらが弟から聞かされただろう普通という言葉も、さくらにとっては「ふつー」だったのである。だからこの言葉は劇中では花園しか使われない。いかに周囲と仲良くしていようと、いかに普通の高校生ライフであろうと、彼は「ふつー」の存在なのだ。
 そして、真島が斉藤の裏切りに接してカッターを取り出したとき、花園は「そんでどうすんの」と唐突に話しかけた。たまたま春休みの課題提出で居合わせた二人である。彼は真島に長広舌を振るった。真島の愚かさを、かつて斉藤(女)にそうされたように、切々と、他人を蔑視している真島がいかに普通のガキであるかを語る。この鬼気迫るセリフは、真島を「フツー」と揶揄することで成り立っている。「もともとお前はフツーなんだよ(中略)フツーのクソガキなんだよ」。彼は続ける、「フツーの何がいけないんだ」。ここで言う「フツー」は、真島が自分を特別視する姿そのものであり、自分の「ふつー」と裏表であったことが、文字通り明かされたわけだ。彼のふつーという意識が、己を普通であるとカテゴライズしていた。真島と同じだったのである。
 最終話は、各登場人物がそれぞれにどれほど成長したかを確認する以外に、自分は特別ではなく普通であることを思い知らされる話でもある。花園と三国の漫画の新人賞受賞は、十年に一度と言われる作品の投稿によって潰える。「僕程度じゃ10年に一度じゃないんだなあ」と三国は呟き落ち込む。辻はさくらにあっさりと振れらて人生にベタな青春の一頁を加える。告白されたさくらも、ひきこもるまでは男を切らしたことがなかったと言われながらも、「好きだ」と言われること(つまり過去のさくらには普通のことだったこと)が、これほど嬉しいものなのか・普通のことがいかに幸せなことだったのかと噛み締める。
 花園が今後も普通に暮らせる保障はどこにもない。彼はどう変化していくか。普通を獲得出来るかはわからないし、そもそも死んでいるかもしれない。「白血病だった」と過去形で話し続けられるかなんてわからない。だが彼は、金髪を黒髪にすることで、せめて形だけでも普通の高校生になろうと努めたに違いない。

9 三国翔太
 花園の親友となる三国。花園が普通に生きていたつもりが「ふつー」という花園自身の特別をうるさく訴えていたのとは対照的に、彼は、太っているという外見からして目立つが故に、目立たないように普通に生きることに腐心している、いわば普通に生きることの困難さを知っている登場人物である。彼がそのためにとった手段は、自己主張しない、という選択だった。
 中学時代、彼は真島と言う外見も言動も目立つ友達がいたわけだが、真島が周りからキモイ等と疎外されていたことも知っており、正にも負にも目立つことは孤立することを意味していた。だが、花園とマンガを製作することを通して、彼は表現するには自己主張しなければならない・目立つ覚悟をしなければならないと悟る。
 思えば前半の彼は、山根に近い立場だった。大騒ぎもせず言いたいことも言わないように努める。武田がマンガを皆で回し読みした時に感想をそれぞれ述べながら、彼だけはあまり物を言わない。花園の率直な感想に頷くだけだ。だが、普通でいることが何故これほど難しいことであるかのように描かれるのか。普通というか平凡というか、彼は太っているという劣等感を持ちながら、物語の最後まで痩せる努力なんて全くしない、むしろさらに太っている。
 坂井も太っていることに劣等感を持っている登場人物だった。#3の水泳の授業の挿話で、三国と一緒に太っていることに関して注視される坂井だが、彼女にもダイエットという発想はなかった。っていうか、そもそもこの物語の女の子たちは、あまり外見についての劣等感を語っていない。よく食べることが描かれはすれども、食事制限してどうこう言うことは全くない。
 本作品が扱っている思春期の少年少女たちの成長物語は、あくまで精神的なものでしかないからだし、肉体的な成長を描くことに眼目が置かれていない(背も伸びないし髪も伸びない。彼等はいつも同じ体型で同じ髪型だ)。いかにありがちな高校生の発想を描こうとも、そこはやっぱりマンガなのである。彼等はキャラクターに過ぎない。そんな冷めた視線がいつもどこかで維持されている。唯一体型の変化をわかりやすい形で描かれる三国は、花園が髪を黒くするのとあわせて、成長の証の象徴だろう。
 これはつまり、物語が心の変化をそうした外見的特長によって表現することに躊躇しているのかもしれない。最後の節で作者の言葉「絶対に誰かを傷つける表現方法」について触れるが、その辺の配慮であり、マンガ・ひいてはキャラクターを描くことへのこだわりだろうか。
 #12で自分が納得する作品を作るには、たとえ親友であろうと喧嘩覚悟で意見を言わなければならないことを知る。気心知れているからこそ、本音をぶつけられる。言い負かそうが言い負かされようが、笑って済ませられもしよう。だが、コミティアの原稿持込でプロの編集者と対峙した時、彼は主張することの反動を体験した。三国はまさにここで表現方法のあり方に懊悩するのである。

10 武田隈子
 もともとこの作品には第三者の語り部がいた。当初こそ大人しかったけれど、甲子園古墳事件の終盤から一気に捲し立てる。真島の解説だ。真島がどのような性格であるかを、小柳が斉藤に振舞うサプライズを交錯させつつ描くことで、真島が何を期待しているのかがわかってくる仕掛けであるが、ここに解説を加えることで、ちょっとしたおかしみが増している。何を考えているかわからないキャラクターと後に三国に指摘される真島だが、#4の時点で彼の一面はきっちりと描かれていた。そんな彼の人間性をより引き立てるために、彼女は得体の知れない存在として登場する。
 彼女の初期設定は真島と等しいほどである。教室の隅っこの席で窓際、みんなが気を遣って避けている……彼女はまさに対真島戦のために登場したといっても過言ではない。真島にはない・マンガを描く才能を持った彼女、花園が三国と共にマンガ製作に関して成長していき、表現することに苦悩するのとは違って、はじめからそれなりの物語を作れる彼女は、真島に発見されることで他人に褒められる・認められる喜びを体験した。
 もちろんここにも作者の周到なフィクションへの引き込みは働いている。身体的変化をほとんど描かないこと・そこまで行かずとも、陣内のようなファッションについてそれなりの知識がありながら、それは服装の変化に留めて髪型には留意しない・させないための、これはマンガのキャラであって今の時代をリアルに描いているんではないんだよ、というような釘をさすことを忘れない。そもそも1971年生まれの作者の学生時代に携帯電話なんて高校生にまで普及しているわけないでしょ。というわけで武田のありがちな設定なのである。
 「少女漫画のお約束」によって、武田はリアルから遠ざけられた。彼女の高校生とは思えぬ時代がかった言葉遣い「下種」とか「禍々しい」とか「ふにゃチン野郎」とかも可能になる。真島がそれだけ現実から程遠いことを武田を比すことで明らかにしているんだけど、そんな彼女でさえ物語が後半に入るとリアルを獲得していく(少なくとも私にはそう見えた)。
 今の時代の青春物で欠かせない小道具といったら、なんといっても携帯電話である。かつては自転車に乗って疾走とか、学校の屋上で何かにときめくとか、夜のプールとか、夕日の土手とか、最近彼氏が素っ気無いと思ったら実は彼女へのプレゼント買うためにバイトしてたとか、いろいろとあるんだけど、この作品にはそれらの欠片も描かれない(つまり、花園と三国が殴りあう番長マンガのパロディ(#12)がおかしいのは、そういう青春物の情景をちゃかしている面があるからだ)。「お約束」を描きながら、ホントのお約束は実は描いていなかった。そんな中で描かれた携帯電話で、彼女は磯西と会話し友好を深めていくのである。
 今年(2007年)公開された青春物で携帯電話が重要なキーアイテムになっていると言える映画を挙げてみると、「あしたの私のつくり方」「きみにしか聞こえない」「転校生 さよならあなた」なんてのが思い浮かぶ。今の時代の作品は、携帯の呪縛から逃れられないのかもしれない。武田も例外ではなかった、そもそも彼女がそれを持っているってこと自体に私は驚いたけれど、才能ある彼女を普通の女子高生・買い物を楽しんだりマックで談笑したりといった実際にそういう高校生が多いのかどうかはともかく、類型的な高校生としての武田の姿を描いていくことで、彼女は特別さを失っていき、「普通」に収斂されていった。

11 真島海
 本作品の最重要キャラにして本作品を語る上で欠かすことの出来ない存在が真島である。
 彼は、自分は特別であり普通ではないことにこだわるオタクであった。それだけなら良かったけれども、彼は、オタクの性癖のひとつともいえるカテゴライズ化によって自滅の危うきに接してしまった。
 陣内の節で言葉だけ出したけれども、ここで述べるカテゴライズ化とは、簡単に言えば、物事を何でもかんでもマッピングして「〇〇系」「〇〇主義」というように区分してしまうことを意味する。つまり、オタク故に彼は、マンガやアニメ等の作品のキャラクターやストーリーを恣意的に特定の・象徴的な・萌えとかツンデレというような言葉を設けて、手っ取り早くそれらを分けてしまう。この分ける作業のみに終始し、分けられたキャラクターを感情的に論じる。要は、それらが自分にとって好みかそうでないかという単純な話しに向かってしまう。武田の素顔を見たとき、彼だけが武田を素早く分類して「コスプレをさせたい」と強く思うのも、結局は、周囲の人々をもカテゴライズ・採集した昆虫で標本を作るような見くだした視線がためなのである。
 斉藤(女)との付き合いで彼の性癖はさらに詳細に描かれた。「失くした萌えには新しい萌えを」「俺はどっちかっていうとツンツンツンデレぐらいが好きなんだよ」……彼のこだわりは斉藤(女)の、彼にしてみれば裏切りとも取れる・一度別れたはずの小柳とまた付き合い始めていた行為を理解不能なものにする。斉藤と小柳は今別れてなければいけない、という決め付け。彼女は真島のそうしたなんでもかんでもマンガやアニメのキャラクターみたく区分してしまう思索を「あたしはあんたが勝手に作った筋書きのキャラクターとは違うのよ」と断ずる。いかにあるキャラクターをツンデレと設定したとしても、永久不変ではない、変化するのだ。ツンデレでい続ける保障なんてどにもない。
 斉藤(女)は、その言動だけ見れば、他の登場人物同様に身勝手な子供かもしれない。結局小柳と元に戻ることで、その思いを強くする読者もいるだろう。1巻から彼女が小柳との関係で悩む姿は描かれていたし、真島と天秤にかける自己陶酔する様も、醜いかもしれない。だが待って欲しい。彼女が最初に登場した時、多くの人が彼女を男だと思ったのではないか。花園と同一化した読者は、斉藤がホモであると思い込んでいた。それがあっさりと裏切られることをも経験している。終盤で真島が迎えた衝撃を、読者はコメディ描写の中で読んでいたのである。斉藤は男でなければいけないと思った読者なんていないだろう。彼女は胸がほとんどないオカマみたいな立ち居の女性なだけったのだ。
 人は成長し変化していくという当たり前のことを忘れ、このキャラはこうでなければいけない、という身勝手な感想は、さてしかし、当の斉藤によって、警告されていたのである。#1の国語の授業(1巻27頁)がそれである。斉藤は教科書を広げて語る、「人間を安易にカテゴライズしないでくれって事」。教材となった現代詩は、新川和江「わたしを束ねないで」である。
 作品の根幹を成していると思われるこの詩は、新川和江が37歳・1966年に発表した代表作である。高校を出てすぐに嫁ぎ、出産して母となる。そうした過程を経た上で、彼女は自分が女とか妻とか母といった座に据えつけられるのを厭い謳いあげたのが、「わたしを束ねないで」である。よしながふみの言説を追っていく上で随所に見ることが出来るフェミニズムかそれに近いものも感じられるだろう。「妻でなければいけない」「母でなければいけない」と、「斉藤と小柳は別れてなければいけない」を並べれば、いやさらに「斉藤はツンデレでなければいけない」「さくらはひきこもりでなければいけない」「坂井は遅刻の女王でなければいけない」「三国は太っていなければいけない」等など、「なければいけない」がいかに根拠のないものであるかがわかるだろう。
 これまで登場人物ごとに節を設けて語ってきたけれども、これもひとえにこの詩のおかげである。名前で区別するしかない。そしてキャラクターといえども内面は変わっていく。その変化を辿っていくことが作品を捉えることに繋がっていくと思う。もしこの作品を「〇〇系」「〇〇派」などと安易にカテゴライズしてしまったとしたら、たちどころに真島と同じ裏切りを体験するかもしれない。
 と言いながらも、彼が劇中で特別扱いされていたことは、その描かれ方を見ればわかる。教室の最後方・窓際の席というもっとも目立つとも言えるし目立たないとも言える隅っこの席である。授業中の景色等教室内を描く時、隅っこゆえに彼が描かれることはまずない。花園の自己紹介場面にしても、彼の姿は花園自身の姿に隠れて描かれない。では、彼はどのような時に描かれるか。
 たとえば教室内の風景を描く時、割合中心付近の席に座っている辻や尾崎、相沢、山根はよく描かれる。特に大きな意味があるわけではない。中心付近にいるせいか、みんなが集まりやすく輪の中心に居やすいというくらいか。真島の場合は、これもはっきりとしている。誰かが彼に注目してはじめて彼の姿が浮かび上がるのである。登場人物の誰かが彼に視線を向ける。そこにはアニメの設定資料集等の本を堂々と読む彼の姿が常にあった。彼のこの姿勢が崩れるきっかけは断言できないけれども、おそらく武田という好対照の登場であり、文化祭の劇で主役を演じた時が決定打となったのだろう。
 文化祭以降、物語は教室の外に舞台を移し始める。花園と三国のマンガ製作が文化祭をきっかけにコミケット、さらに出版社への持込と飛び出していくからだけど、武田が磯西・陣内と買い物をする、斉藤が真島とデートをするなどの挿話も挟むことで、みんなが学校外に世界を広げていくことがやんわりと描かれていった。真島もこの世界の拡大に普通に巻き込まれていたわけである。
 尾崎が磯西と付き合うことになって辻にのろける場面(#16)では、ついに教室内の彼の姿がクラスメイト共々と描かれる。ここで彼を注視しているのは読者しかいない。彼の自意識が作品外にまで訴えかけられた・普通にガキがはまりそうな選民意識であることは言うまでもない。彼の特別扱いはいつの間にか立ち消えていたのである。
 春休みの課題を提出にやってきたとき、彼は教室で一人だった。ここでは彼しかいない。いつも隅で黙々と本を読んでいた彼は、誰もいない教室で中心に居座る。物語が外へ外へと動きながらも、彼はひたすら内に内にひきこもろうとしていた。斉藤が彼を外へ連れ出していくら歩き回ろうと、彼の思考は内にしか向かっていなかった。だから小柳との復縁にも気付かない。
 正直な感想を言うと、彼がカッターを取り出したとき、自殺するんじゃないかと思った。「許さない」のは斉藤ではなく自分ではないのか? という直感があったからである。これは、#11で坂井が山根に嫌われたと思い、明日目が覚めずこのまま死んでしまえばいいと思うのと同じなのだ(まあつまり、真島が自殺・そこまでいかずとも自己嫌悪に陥っていたとすれば、坂井にも真島成分があったということになるんだよね。個人的にはもう少し彼女の話を読みたかった)。花園の登場で彼の殺意がどこに向けられたものなのかは曖昧になってしまう・普通に考えれば斉藤なんだけど。
 だが改めて真島の言動を追って本編を読み直してみると、彼は確かに「傍若無人」とキャラ紹介されているものの、三国への気遣いや斉藤を小柳から解放する一生徒らしい振る舞い、武田の創作意欲を煽る等、自分第一とはいいつつも、傍から見ればそれなりに他人への配慮を見せている。彼は人と比べてどうこう言う人物ではなく、他人に無関心な傾向が強かっただけに過ぎない。他人とは違うという優越感ではなく、関わるのが面倒・俺の邪魔さえしなければ他人なんかどうでもよいという感情だった。彼のこの言動を象徴するものが、眼鏡のブリッジを押さえる仕種である。以下に劇中で描かれたその仕種を列挙してみよう。
真島海・眼鏡を押さえる図を開く)
 熱心にオタク話をしたり、「五月蝿い」と邪険にしたり、彼が他人に邪魔されることを厭う様子がよくわかる。聞く耳を持たない。「甲子園古墳」にしても、彼は聞いた内容について「なるほど」と自己の世界に入り込んでしまう有様。基本的に人の話を聞かないことを表しているような仕種である。その彼が「愚民ども」と自分と比較したカテゴライズをしてしまう。彼にはマンガを描く才能も文章を書く才能もない。情報を集めてひけらかすのが彼の得意とするところである。そのためにはきついバイトも厭わない。そんな彼が初めて手にした「年上の女を手玉に取るそこら辺のフツーの高校生とは違う特別なオレ」、もちろんこれは彼の能力ではない。斉藤が真島に一方的に惚れ、小柳を捨てて彼の下に走ったからだが、彼はこれを己の才能だと勘違いする、それがこの愚民という言葉に込められていると思う。
 図11-12は花園の号泣後の姿である。「驚いた事にそのあと真島は10分間もそこにいた」、彼は彼のやり方で花園に配慮したと思われるわけだが、図11-7が斉藤の話に関係なく食べるだけ食べて去ろうとするのと比較すれば、彼がこの最終話で、他のキャラが少しずつ成長していったのとは違って、花園同様に一気に一段階大人になったことがわかる。
 図11-13は二年生担任が再び斉藤になることを知った時の姿である。真島は登場人物の中で、花園と並んでもっとも成長したと思えるキャラである。斉藤のあだ名「シゲ」は教師を意味するが、「滋」は斉藤自身を意味する(小柳は「シゲ」と「滋」の呼び名を使い分けている)。クラス替えで斉藤を見て「滋」と呟く、彼が斉藤をどう見るようになったのかをたった一言に収斂させてしまう素晴らしさ。彼はもう一生徒ではないし、特別に描く必要性もすでになくなった。物語の舞台・主人公格から、その他大勢の一人として斉藤を見詰め、彼自身の「フラワー・オブ・ライフ」を締めくくったのである(なんちて)。

12 よしながふみ
 本編にはナレーションがある。当初たどたどしいというか遠慮がちだったものの、コミケ関連の解説(#6)から、キャラへの突っ込み等、物語の牽引役を果たすほどの勢いとなる。物語の展開もそれに委ねられることが増え、物語を陰で支える登場人物の一人然となるほど目立っていった。誰の者でもない言葉、すなわち作者の言葉が作品の流れをつかさどっていくことで物語の主題と思しきものの輪郭は明瞭になり、読者の多くが各キャラの成長を捉えることも出来たのだろう。
 だからといって何でもかんでも劇中で解説されてはいない。むしろその外で、作者という「フラワー」の登場人物は作品やそれに関わるマンガについての言動を積極的に見えるほど発信していた。
「(前略)でも結局私、少女漫画って一様に言えるのはやっぱりマイノリティのためのものだなと思う。女の子って、もう女性っていうだけで経済的にも権力の担い手としても腕力の世界でもマイノリティだから、社会のなかで。で、そういう人の、たたかって勝ち取って一番になるっていうことが基本的にできない人たちが読む漫画だと思ってる。頑張ればなんとかできると、いくら少年漫画を読んでも思えないっていう人たちのために、その人たちがどうやって生きていくかっていうことを、それは恋愛だったり、友情だったり、っていう、それぞれの形で答えを少女漫画は提示している。」(「フリースタイル」vol.2(2005年秋) 「私たちの少女漫画 やまだないと よしながふみ 福田里香」の中のよしながの発言より)
 「フラワー」連載中の発言としてこれほど興味深いものはない。発言中の「女の子」「女性」をキャラの名前に置き換えてもいい。なんの力も持っていない高校生が、どうあがいたところで社会には敵わない。彼女の発言を受けて、やまだないとは「子供を産みたくないのよ」と語る。次のよしながの発言を、白血病の治療の影響で子供を作ることが出来ない花園を想起しながら読んでみる。
「産まなくていいって言ってほしいんですよね。べつに産みたくないっていうわけじゃないんだと思うんですけど、産まなくてもいいよ、あなたたちは子供を産むためだけに存在してるわけじゃないよ、って。とにかく少女漫画って、女の子を全面的に100%肯定するものだよね、どんな種類の漫画でも、あなたそのままでいいのよ、って。」
 「フラワー」が少女漫画であるかどうかはおいといて、これら連載中の発言と「わたしを束ねないで」という詩を考えれば、作者の「なければいけない」とカテゴライズされることに対する嫌悪というか否定は明らかである。
 と同時に、他人への気遣い・でも完全に分かり合えるわけではない、という当たり前のことだけど錯覚しがちな感覚は、特に花園と真島の終盤の描かれ方で顕著だが、その描き方・演出についても作者は配慮していた。この辺の感覚は、他人に気遣いすぎるあまりに無口だった三国を想起させる。
「やっぱり表現することの恐ろしさというか……特に漫画って非常に具体的な表現ですよね。(中略)それが具体的な表現である限り、絶対に誰かを傷つける表現方法なわけですよね。たとえば、たまたま私は女だから男女差別のことについてはある程度敏感で多少なりとも配慮ができると思いますけど、同じ配慮をほかのジャンルでできる自信はありませんし……。」(「「文藝」2007春号 特集恩田陸」中の恩田陸とよしながの対談より)
 かように作品の外でも多弁だった作者だが、最終話に至ってナレーションは姿を消す。解説も何も施されず、物語は花園のナレーションに置き換わって進行する。群像劇という様式で描かれていながらも、最後は花園が語り部として前面に登場し、物語を牽引するのである。突っ込みも解説も必要としなくなった登場人物たちは、作者の手を離れ、巣立っていった……というのは穿ちすぎだろうか。
 ラストシーンについてちょっと触れておこう。
 各登場人物に焦点を絞ってたらたらと述べてきたけれども、それぞれ皆は、当初持っていた特別さを失っていくことで登場回数が減らされていく。4巻(#14〜#18(最終話))から特にその様相が濃くなっていき、あれほど強烈なキャラクター性を輝かせていた武田でさえなりを潜めていき、最終的には真島でさえ物語の方向性にまでは逆らえずに退場した。ナレーションたる作者の声も無く、最後の見開き・桜の花びらが舞っているシーンは、それぞれのキャラがそれぞれの道に去っていったことを暗に描いた・旅立ちなのかもしれない。
「わたしを区切らないで
 ,(コンマ)や.(ピリオド) いくつかの段落
 そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
 こまめにけりをつけないでください わたしは終りのない文章
 川と同じに
 はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩」
 (新川和江「わたしを束ねないで」童話屋1997 「わたしを束ねないで」の最後の節)

(2007.8.13)

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