漆原友紀「蟲師」長文感想

狩房文庫異譚

」講談社アフタヌーンKC 全10巻



※本稿は、2008年の冬コミで頒布した同人誌をweb公開用に一部訂正した文章である。

目次
 序文
 1 瞳の向こう キャラクターの目と涙
   足元を動かす「天辺の糸」/拡散する意識「隠り江」/生きる涙「旅をする沼」/目に映る水「鏡が淵」/水の息吹「水碧む」
 2 水の流れる風の吹かれる 「蟲師」の風景
   蟲は居る「雨がくる虹がたつ」/蟲の季節「雪の下」/永遠の影「残り紅」/音の風「錆の鳴く聲」/赤い流れ「囀る貝」
 3 白い跳躍 余白・コマの活用
   間白の抑圧/間白の解放「筆の海」/マンガの時間 アニメの時間「虚繭取り」/間白からの跳躍「日照る雨」「眼福眼禍」/対話とライン いくつかの例を
 あとがき 鉦と鈴


序文


 「蟲師」はアフタヌーンシーズン増刊及び月刊アフタヌーン誌で1999年から2008年の約10年間にわたって連載された作品である。作者の漆原友紀は同作品で1998年に四季大賞を受賞してプロデビューした。
 蟲と呼ばれる異界の存在が現世に引き起こす様々な厄災。蟲師とは、それらを退治・駆除することを主な生業とする。主人公・ギンコは、一人の蟲師として各地をめぐり、いくつもの人々・事件に遭遇し、作品は、彼や周囲の人々を自然溢れる風景と蟲の世界を背景にしつつ、人の生き様を淡々と・そして静かに描写していく、一話完結を基調とする連作である。
 2005年にはアニメ化、2007年には実写映画化された。
 さて、作品の紹介は簡単に留め、以降は私の個人的な感想群となる。
 「蟲師」は私がリアルタイムで追った作品である。個人的に好みの絵であり、蟲という不思議な存在と懐かしい昔話に触れているような安心感に、一話一話がしっかりとまとまった短編として紡がれていく物語形式が、私の趣味にぴったりとはまったと思われる。基本的にどこから読んでも破綻なく各話を鑑賞することができ、独立した挿話として十分に楽しめるのが魅力だ。
 特に蟲の存在とギンコの素っ気無い性格設定が飽きない。どちらも感傷的になりすぎず、感情に訴える演出もせず、ただそこに居る、という描写をこつこつと積み上げていくことで、小さな蟲の存在感を大きくして見せる表現力に長けていると思う。それを支えているのが、作品の「空気」である。
 アニメ「蟲師」の監督の長M博史は、「蟲師」アニメ化に当たっての企画書で次のように宣言した。
「原作にふんだんに盛り込まれていながら漫画のコマの中に収まりきらないモノ、「空気」。その「空気」の濃さ薄さ、温度や匂いなどを表現することができなければ、漫画以外の媒体に連れ出すことなど無意味だ、と感じました。」
 「蟲師」に流れている空気とは、そもそもなんだろうか。地をそろそろと這う蟲、森の中の木々の静けさ、棚田を耕作する人々の表情、ふっと空を見上げるギンコ。言葉にすればいくつも引き出すことができる「蟲師」の空気感だけど、それらはどのようにして作品の世界に根付いているのだろうか。本稿で少しでもそれが紐解くことができれば、幸いである。
注:本稿で引用した画像・動画は、マンガは全て講談社アフタヌーンKC「蟲師」から、アニメは株式会社マーベラスエンターテイメント他から販売されたDVDから、それぞれ引用している。


1 瞳の向こう キャラクターの目と涙


 「蟲師」を読む上で誰もが引き寄せられると思われる描写がキャラクターの目であり、涙である。多くのキャラクターが目で訴え、語り、涙を流した。それら目と涙を中心に、キャラクターがどのように描かれているのか観察してみたい。

足元を動かす「天辺の糸」
 まず手始めに「天辺の糸」のキャラクターであるフキから語るのがわかりやすいだろう。アニメ版でも意識されているが、フキを見極める最初のポイントが目である。
 下図のとおり、彼女の目には二通りの描写が存在している。アニメ版はよりはっきりと区別されていることがわかるだろう。白い点あるいは光がある人間としての目と、のっぺりと薄黒く塗りつぶされた目だ。後者の目のとき、フキは蟲のような体質になっているために、あやふやな存在として描かれる。当然一般の人からは見えない。

蟲に憑かれ記憶を失ったフキ(マンガ版) 記憶を取り戻したフキ(マンガ版)
  左図:蟲に憑かれ記憶を失ったフキ   右図:記憶を取り戻したフキ

蟲に憑かれ記憶を失ったフキ(アニメ版) 記憶を取り戻したフキ(アニメ版)
アニメ版のフキの表情。目の描写の違いはマンガよりはっきりとしており、記憶を取り戻した瞬間、目にハイライト(白い丸の光)が入る。

 「天辺の糸」は、蟲質の身体になってしまったフキと彼女を愛する清志郎の物語の一面があり、見えないフキが彼の心とでも言おうか、それによって人間質の身体を取り戻したフキが最後に描かれるわけだが、そもそも「蟲師」は派手な見えをきることなく抑制された描写が多いからフキの目の違いというものが大きく意識されていないので、フキが見えないという描写自体も強調されることがない。彼女の姿は、どちらの体質であろうと関係なく平等に描かれ続けた。
 フキの姿が見える見えないという視点を物語はもっと広い認識のものとし、挿話の1テーマに絡めてまで展開させていく。清志郎は星を眺める趣味を持ち、小さな望遠鏡を携え、よく夜空に筒を向けた。それに伴うように子守をするフキが脇に登場し、もともと蟲が見えていたフキが見るもの・蟲と、彼が毎晩のように眺めているもの・星が対比された。この二つは、「蟲師」にしばしば登場した光脈筋(簡単に言えば、蟲が蟲以前の状態で泳いでいる光を放つ大きな流れのこと)と、天の川を対称した「似て非なるもの」という場面が一等わかりやすい。同時にこれは、地面と空との対比でもある。
 この例のように「蟲師」は常に小さな対比を物語の隅々にまで配置している。蟲は、人でもなく空想でもなく、現(うつつ)でもなく幻でもなく、曖昧な存在としてただそこに漂っている、という設定によるところが大きい。どちらでもない蟲に関わった人々が、最終的にどちらに着地するのか、というストーリーラインがあり、蟲師であるギンコは、その狭間で彼等を見守る、というスタイルが基本だ。「天辺の糸」では、そうした対比の間で揺れているフキの姿を、宙に浮く、という文字通りのあやふやな描写によって表現してしまう。
 フキのそうした姿を描写する上で、前述どおり目の描写で説明したりはしないのがこの作品の面白いところである。あくまでもキャラクターの言動に焦点を当てることで、キャラクターの感情をその時の背景ともどもに語らせる演出が散りばめられる。ここでは、フキの履く草履が、実は最も大きなポイントだったのである。
 草履の描写は当然足元を描くことで意味を持ってくるだろう。だが、草履が印象付けられる最初の場面は、フキが天辺草という蟲によってはるか高みに跳ね上げられてしまうところだった。落ちてくる草履によって、彼女が宙に消えたしまったと清志郎に感じさせる。前頁では下辺のコマを断ち切って、フキが地面に立っている力を強調し、次頁でいきなり上辺のコマ枠を断ち切ることによる上方(天)への開放というコマの力学だけでフキが上空に舞い上がったことを表現してしまう。そして、残された草履に何が起きたのかを語らせる。
草履1
 草履を失ったフキはギンコに助けられるわけだが、蟲質の彼女の意識はまず足元を捉える。ギンコの後をなんとなくついていく彼女はもちろん裸足だ。そして人間質の身体に戻れた彼女は、無事に清志郎と共に暮らす算段を見つけようとするわけだが、次第に蟲質を帯び始めて体が浮くようになっていき、突風によって彼女は宙に舞い上がってしまった。この時のフキは草履を履いたままであるが、これが最後に効いてくる。
草履2
 実際にフキが消えてしまったのは家の中であり裸足であるが、足元を強調されるのは柱にくくられた縄である。草履による人間としての自然な執着が、フキの足を縄で縛って抑え込もうとする清志郎の執着に置き換わり反発するようにフキは姿を消したわけだ。もちろん裸足であることが蟲質に近づいていく兆しであり、宙に消えることを連想もさせる。
 清志郎の献身により、最後の頁の前頁でフキはその姿を現した。足元からの描写だ。浮き上がった彼女が、下図で舞い降りたかのように描くことで、フキが草履を履いて彼の元に戻ってきたことを見事に活写している。
草履3

拡散する意識「隠り江」
 「隠(こも)り江」のきっかけも、やはり目である。
 病弱なゆらは、スミという仲の良いかつての女中と心を通わせることができた。だが、その現象は、「かいろぎ」という人の意識に巣食う蟲による賜物だった。ギンコによって、それをしすぎると意識を蟲に乗っ取られると忠告されるものの、ゆらは、スミとの交流を断とうとはしなかった。
 交流中のゆらは意識を半ば失った状態となり、光を失った黒目となる。冒頭でそのぼーっとした彼女を描き、後半では、彼女の意識にもぐりこんだモノローグを中心とした展開を押し通す。つまり、客観的な描写が次第にゆらの意識に取り込まれて主観的な描写に移行していくのである。まさしく物語の構造そのものが「かいろぎ」に乗っ取られたかのようではないか。
 ゆらの暮らす村は、ベネチアよろしく道路ならぬ水路 によって人々は家々を行きかっている(あとがきで作者 は柳川を意識して描いたと語っている)。意識の交流もギンコは水路に例えて説明し、村の景色と人を繋ぐ意識が相似される。その水路を伝って、小船に乗ったゆらは、実際にスミに逢いに行こうと行動を起こした。だが、元から病に伏せがちの彼女は、小船の中で倒れてしまったのである。
 「天辺の糸」で清志郎がフキの足を縄で縛って蟲質を制御しようとしたように、本編ではゆらの父親が彼女の日常を抑制しようと働きかける。身体の弱い娘を想うあまりの行き過ぎた行動なわけだが、ゆらが親しんだスミを、娘のためと遠ざけたのも父親だった。外出もままならない彼女が、唯一心を許せるスミと心を繋ごうと「かいろぎ」に頼ろうとするのも無理のないことだった。
 胸の苦しみに意識が朦朧としてくるゆらは、父の言いつけ・ギンコの苦言を受け入れ、ゆらに意識を飛ばそうとはしなかった。結果、ゆらは意識をほとんど失ってしまう。以降の描写は、極めてあいまいな描写が数頁にわたって続きことになる。確かなものはゆらの言葉だけ。ベタのないトーンか線か、薄闇のような薄明のような世界が広がり始める。
 ゆらが蟲質を帯びている描写は前述のとおりである。よって、読者はゆらがそういう目をしている時に見ている景色を体験している。ゆらの一人称によって、彼女が今見ている・感じている村の様子が霧に包まれたかのようにあやふやに表現された。水面に映った自分の顔を通り過ぎていく「かいろぎ」が居る。「妙なものが泳いでいる」というゆらの独白、その流れに沿って小船は運ばれる。その先はゆらにも読者にもわからない。画然と整理された村の水路の中をさまよっていく小船の描写は断ち切りを少なめにした整ったコマ割で綴られた。
 そして見開きの広い世界である。水路の先にあるものが何なのかは判然としていない。川か海か、ゆらが感じた広さが意識の拡散を同時にもたらしたことで、彼女の声が村中の人々に届く結果になった。誰かはわからないけど、どこかで助けを求めている女の子がいる。
水路の先の景色
見開きで描かれたゆらが感じている水路の世界。本のノドによる歪みまでも利用したかのような、吸い込まれていく感覚がある。

 作画は線を重ねていくスタイルである。一本の線で輪郭を作っていく絵に生じる力強さに欠けるものの、繊細さというか、細い線の束ねることによって世界を彩っていく基調がある。線の多寡によって、世界の濃度を調節しているとでも言おうか。ゆらの意識内描写は、少ない線でかろうじて輪郭が読み取れる、か細い世界である。そして、線そのものも途切れ途切れになって、点の集合のようにまでなっていく。トーンによる世界の再現が曖昧さをより強調している。黒く束ねた線(実体)が解きほぐれ細い線になっていき、やがて線そのものが実体を失っていく。ゆらの意識は、線によって演出されていた。ただ言葉だけが、写植による「助けて」というくっきりと黒い文字だけが、彼女の実体を支えている。
 曖昧な線が実体を持った黒っぽい画面へ。ゆらの声を聞いた人々が発信源を求めて水路にやってくる。だが、ゆらはどこに居るのかわからない。
 ゆらを見つけたのは、スミだった。  本編では、ゆらの意識だけが描かれ続けていた。実際にはスミもゆらに向けて意識を伝えることができるし、そのような説明もなされる。スミも「かいろぎ」に侵されている可能性があり、ギンコから薬ももらって飲む場面もある。これにより、ゆらの意識は誰にも共有されていないかのような状況が設定された。読者が迷い込まれたゆらの意識は、閉ざされた、出口のない世界、だが「かいろぎ」だけが出口の先にある蟲の世界を知っている。小船がそこに向かうのは必然だった。ゆらの抵抗はコマの中の景色として描写される。「助けて」と語る場面で、視線が広くはない方に向けられた。苦しさにもがきつつも、身体を反転させて動かしたのだろう。コマ枠できっちりと囲うことで、広い世界と対比された。そして、次の下のコマの左半分を断ち切りにすることで、彼女の言葉が拡散していった印象をめくり効果に連動させる。
 夜中の出来事だった。薄暗いトーンと黒い水面により夜の世界とゆらの意識・白い世界との対比もあったわけだ。小さな対比を繰り返し、最後にスミの意識内が描写されることで、両者の心が真に水路を通じて繋がっていることを余韻に交えた。

生きる涙「旅をする沼」
 白と黒の対比はマンガがそれを礎とすることからも、もっとも簡素ではっきりとした得意な表現である。緑色の髪の毛という説明があっても、実際に描かれるのは、それっぽい表現が用いられた黒である。「旅をする沼」でギンコが遭遇した少女の髪の毛は濃緑に染められているが、彼女の髪は、黒とトーンを混ぜ合わせたような、時折ツヤとしての白を光らせたそれっぽい線で束ねられている。少女の目は、人間と変わらない。「生き沼」という液状の蟲に取り込まれた彼女だが、描写自体は人と同じなのだ。では、彼女を人と知らしめる描写は何に委ねられているのだろうか。とりあえず本編の筋を追ってみたい。
 漁村に向かう道すがら、山中で度々ギンコは沼に出会う。移動する沼。そこには、緑色の髪をした少女が居ついていた。彼女も沼と一緒に移動していたのだ。漁村の友人である医師・化野(あだしの)の居を訪ねたギンコは、少女をどうにかして救いたいという思いにより、化野とともに少女を助ける方策を練った。沼の目的地は海である。村人の協力の下、ギンコは少女を包んだ緑色の沼を河口で待つのだった……
 沼は、ギンコの説明によると「水蠱(すいこ)」という蟲の成れの果てだという。本来井戸などの人のそばに居るのだが、何かをきっかけに地下水脈をたどって海に向かって移動し始める。一方の少女は、水害の絶えないある村から生贄として川に奉げられ、一度死んだも同然の境遇だった。川を下る水蟲に偶然飲み込まれた彼女は蟲質を帯び、水中でも呼吸できるようになっていた。緑色の髪の毛は、その象徴というわけだ。「旅をする沼」は「蟲師」の5話目であり、まだ蟲と人との描き分けが定まっては居ない初期がために、目の違いが意識されていなかったのかもしれないが、デビュー作となった「瞼の光」が目に巣食う蟲の話であることは偶然ではあるまい。作者のキャラクターに対する意識というものが目を焦点にしている証左だろう(もっとも、キャラクターにとって目の描写が重視されるのは「蟲師」に限らず他のマンガ作品で多く確認できる。アニメ版はその辺をよく汲んでおり、原作でははっきりしないキャラクターの目の描かれ方に、かなり気を遣っている印象がある)。
 つまり、この挿話でもキャラクターの目は重要になってくる。結論から言ってしまえば、涙、である。
 アニメ批評を中心とした同人誌「汎用サーチライト」第四号に、「蟲師」についての論考がある、長田祥一「汗と涙の存在論」である。アニメ版でキャラクターがよく流す涙というものに着目し、そこから「蟲師」で何が描かれているのかという論が展開されている。 「(萌えアニメと蟲師を比較しつつ)美少女の涙がすぐさまその場面の感傷性を表すのに対して、『蟲師』の涙は感傷性よりもまず涙そのものの物質性を強く表すものとしてある。あるいは『蟲師』に固有の感傷性があるにしても、我々はあくまでも物質性を経由したものとしてそれを感受するのだと言っていいだろう。」
 ということは原作たるマンガも当然涙がよく描かれているわけだと思い至った。そして実際、キャラクターたちは実に多くの涙を流していたのである(長田の同論によるとアニメ版では全26話中22話に涙の描写があるという)。
 引用した文章で言う「感傷性」と「物質性」は、マンガ同様にアニメ版も非常に抑えた演出で淡々と事柄を描き続けていることに基づいているのだろう。アニメ版についての評価は、私が見聞きしたところ、原作の雰囲気を損なわず忠実にアニメ化された稀有の傑作とまとめられそうだ。実際に私もアニメ版は素晴らしいと思う。マンガとは違ったメディアでありながら、「蟲師」の批評をリアルに見せられているような感じさえある。
 では、感傷に訴えない演出によって導かれた涙の物質性とは具体的になんだろうか。「旅をする沼」はその例である。
 少女は、村人たちの捕獲網をくぐり、生き沼と共に海に沈んだ。長らく暇だった村は、生き沼の死骸を食べに集まった魚たちによって俄かに活気付く。大漁に湧く漁師たちは、間もなく海の中から少女を引き上げる。
 少女は、水蠱の影響で寒天状になってはいたが、静養によって体温を取り戻すのだった。
旅をする沼 涙
 上図は、目が覚めて泣きはじめる少女を見開きで追ったものである。
 唐突に泣く少女の涙の理由はわからない。ここでは、彼女の涙がただ流れている・感情的なものは不明である。そして目を覆ってしまうと、彼女は生き沼が死んでいく様子と自分が生きたいと思う本心を語り始めた。「悲しかった」というセリフがあるものの、涙に被せられることはない。そして「会えてよかったな」というギンコのセリフに少女の目と涙が再び現れる。
 物質性としての涙に、死からくる悲しみの解説を加えることで感傷性が味付けされるわけだが、セリフと涙の描写をずらして描いているので、彼女が「悲しい」と語る時の表情は一切わからない。そもそも顔の半分を手で隠しているし。この辺が抑圧された感情表現なんであるが、悲しみから引き起こされたと容易に推察できる涙に、ギンコの「よかったな」というセリフを加えることで、涙に喜びという表情まで与えてしまった。
 涙に言葉を添えてしまうことで感傷性だけに読者の注意が向けられるのを避けるかのように、コマと絵と言葉は互いにすれ違い、少女の表情に明確な意味を付加しない配慮がなされているのである。
 物質としての涙。これにより、少女の目からあふれたものが、単なる涙ではなく、生き沼の一部としての水と考えるのは穿ちすぎだろうか。沼から涙への変容。少女もまた、生き沼の子孫の一人なのだ。

目に映る水「鏡が淵」
 だからといって、感傷性を表した目が描かれていないわけではない。「鏡が淵」の真澄は、水鏡という蟲に憑かれてしまったがために、次第に衰弱していくのだが、ギンコから蟲を退ける方策を知り、その時が来るまで静養するものの、自分はこのままいなくなってもいいというような後ろ向きの思考に陥っていく。
 水鏡は、動物の影を乗っ取り、実体から生気を奪って実像を帯びていき、最後に実体そのものに乗り移り、それを繰り返しながら水場を求めて移動していく蟲である。真澄は、好きな男性にあっさりと振られたことがきっかけでひどく落ち込み、自分の存在価値にすっかり自信を失っていた。水鏡に実体を奪われるぞという忠告を受けても、むしろそれで構わないという態度をとってしまう。しかし、蟲質になることがどのような意味を持ってしまうのかをギンコは丁寧に説明し、その存在の寂しさを訴えるのだった。
 真澄の目は多くが輝きを失った目として描写される。彼女の心情をそのまま写し取ったかのような、生気のない眼差しである。彼女のふさがった気持ちは蟲のせいだけではないことが明白だ。だが、ギンコの説得によって生きていく気力を取り戻した彼女の目には、うっすらと輝きが戻る。そして、水鏡とのその時が来た時、彼女の目は、迷いなく未来を見詰めていた。
 水鏡の撃退はあっけないほど簡単である。実体に乗り移ろうとする時を見計らって、鏡を差し出して水鏡そのものを映ずればいいだけだ。身体は弱っていくけれども、手鏡を差し出せば事足りる。真澄は彼からもらった手鏡を大事にしており、彼にそれを磨いでもらうのをいつも楽しみにしていたわけだが、別れたことを認めたくない彼女は、さび付いた鏡を、磨きなさいと両親に叱られても聞かないのである。
鏡が淵 涙
 上図は、ようやく彼との別離を認めて生きていくことを決めた彼女が鏡を磨ぐ場面である。ここでも涙があふれているが、セリフは一切ない。回想場面で彼から暗に別れたいという意味の言葉を突きつけられた時にも、彼女は涙を見せないし、そもそも表情が描かれておらず、彼から渡された手鏡に焦点が当てられたコマだけが描かれた(上図五コマ目の真澄の背後にいるのが水鏡という蟲)。
 涙によって過去を洗い流す・そして彼との過去を磨ぎ落とす。そんな暗喩があると思しき図の場面を経て、しかし彼女は光の反射に目を輝かせて外に飛び出してしまう。彼との逢引の連絡手段に手鏡の光の反射を利用していたからだ。だが、光はカラスが巣に集めた光物に過ぎなかった。なだれ崩れる彼女。迫る水鏡。
 「旅をする沼」の少女が生きていくことを強く意識した自分の死が、ここでは真澄自身の危機に置き換わった。
 気を失った彼女の近くには、すでに水鏡が居た。それは彼女とそっくりの姿で、真澄に触れようと手を伸ばしていた。ただ一つの違いが、目だった。瞳が鏡として水鏡を映じたのである。
 真澄にとってもギンコにとっても意想外の結果だったわけだが、ただ目を見開いていればいい、という単純さこそがキャラクターの力でもある。目の白いハイライトの有無によって蟲質の身体と人の身体を区別するというのは、確かに単純かもしれないが、「鏡が淵」では、たとえ蟲質でなくても、蟲のような意識で居る人自体がすでに蟲質であることに気付かせてくれる。繰り返すが、蟲は曖昧な存在であるから、気力を失った真澄も生きているのか死んでいるのか判然としない精神状態・曖昧な存在ということになろう(補足すると、写真撮影のキャッチライトと同じ意識があるんだろう。目の中にライトのような光が入るように撮影することで、表情が活き活きとしてくるというのだから、マンガのキャラクターも目の描写を意識して当然なのかもしれない)。
 曖昧、ということを光を失った目で表現するとはどういうことか。ギンコの目についてここで考察してみよう。
 ギンコの目は他のキャラクターと違う描写が施されている。青緑っぽい色の瞳ゆえに、黒とも白ともつかない曖昧な色だ。けれども、「蟲師」世界のキャラクターにとって、この目は曖昧なものでは決してない。黒とも白ともつかない色、さてしかし、劇中のギンコはカラーでは縁の濃い瞳だが、モノクロでは白目で描かれる傾向がかなり強い。連載初期から白目で描かれることが多く、実際には濃緑の瞳孔なのだから、トーンを貼るなり黒丸で塗りつぶすなりという描き方もありえるのだが(「蟲師」の実質第一話である「瞼の光」のギンコの目は、そのような描かれ方をされている)、白い瞳孔であるということは、ギンコの境遇から来ていることが連載が進むにつれて理解されていく。
 「棘(おどろ)のみち」に登場する薬袋(みない)一族の宿命を継ぐ男・クマドは、魂の代用として蟲を身内に侵された蟲師である。彼は、ギンコの危機に際し、自らの魂である蟲を放ってギンコを襲った蟲を退けている。この時、クマドの目は魂の抜けた描写として、まったき白目になった。普段の彼は黒目である。蟲質の身体として感情の起伏に乏しい目と、人に戻った時の魂の抜けた身体の目が両極端に描き分けられているわけだが、もちろんギンコの目が魂の抜け殻だというわけではない。  ギンコの白目は、演出上、彼自身の表情を抑制する働きとして機能しているわけだが(黒目だと蟲に侵されている・曖昧な存在として読者に認識されてしまうためだろうか)、「蟲師」世界の中でつじつまの合う説明を試みるならば、あれは光の反射が焼きついたと捉えるのが個人的にいいと思っている。ギンコがギンコになった謂れを描いた「眇の魚」で、彼が最初に見たものが月の光であり、続けて太陽の光を受けて目を意識することから、私は勝手にそう解釈している。
 いずれにしても、白目である故に、ギンコの目は真澄と違って何かが反射するという物質性の描写の説得力に欠けることになる。その代わりに彼の目には、人々の心だけでなく蟲のさびしいという感傷性が映されている。

水の息吹「水碧む」
 雨蠱(うこ)という蟲に寄生された少年・湧太とその母の物語が「水碧む」である。この挿話もやはり目から語るべきだろう。
 湧太は雨蠱の影響で水をよく欲し泳ぎが上手く、手には水掻き様の膜がある。言葉は未発達で体温は異常に低く、周囲からは奇異の目を向けられていた。それでも母は子を愛し、子は母に優しかった。ギンコの登場によって二人の関係に変化が生じる。いや、元からこの結末から逃れることはできなかっただろうけれども、ギンコは雨蠱の寄生による身体の変調を抑える薬を母に渡し、薬が切れた頃にまた来ると去っていく。そして、次に現れた時、母子の暮らす村は、長い雨に見舞われていた。
 蟲に寄生された又は影響を受けた者とその近親者の話は、「蟲師」でもっともよく描かれる挿話である。家族の者が訪ねてきた蟲師に子や兄弟、親の異常を訴えて症状の原因に蟲の存在を知る。近親者は、蟲質の者を異質な存在と考え、世間体から彼の者を世間から遠ざけるなり、症状そのものを隠そうとしたり、何かと抑圧してくる。想うあまりに過剰な世話を焼いてかえって彼の者の言動を制限してしまうこともあろう。
 それゆえに彼の者を失った悲しみを読者は自然と受け入れることができる。人との出会いや別離は、誰もが経験したことのある、もっとも感情移入しやすい出来事なのだから、この作品で多く描かれる涙に説得力があるのも道理だろう。大仰な演出もせず、すうっと流れ落ちる水滴。それがわが子の死であるならば、誰も疑わずにその感情を受け入れる。「水碧む」の少年の母は、まず、少年が助かったことに涙する。
 雨蠱を身体から抜くには大水による川の氾濫が必要だった。雨蠱はその性質上、濁流に乗って海に向かうからだった。村の長雨を聞いて駆けつけたギンコは、大水を期待してのことだったのである。川に行きたいと言う少年を抱きかかえて、母は大雨をやり過ごそうとする。少年の目からハイライトが消えた。代わりに彼の目には、違う光が宿るようになる。蟲の記憶である。
 外の景色を映す目は、一度白目になる。嵐を見詰める少年が見ているものは、母が今まさに体験している風雨ではない。物語の前半で描かれた少年が見た夢である。川底から次第に水面に上がっていく。薄暗いところから、明るい外の世界へ。それは、赤子が生まれた時の記憶とも読めるし、母が溺れたときに経験した記憶かもしれない。厳密には後者だが、前者の意味を込めると、雨蠱が宿って生まれた少年という存在が際立ってくるだろう。少年にとって、この嵐は夢が現実になった瞬間だったわけである。少年に「雨 こわかったね」「もう こわくないよ」と慰められて泣く母。この雨が、今の雨なのか、おぼれた時の川の水なのかは判然としない。
 母は少年をまっすぐに見据えている。目が活き活きとし始めた。少年も母を見詰めた、母同様に活き活きとし始める。だが間もなく、少年は蒸発してしまうのである。太陽に焦点を当てることで、熱さで消えていく身体のもろさが演出された。母の目からは、たちまち気力が失われていく。少年の着物を抱きしめて再び泣く彼女の姿は、もう消えてしまった子の体温を必死に搾り出そうとしているかのように儚い。
 光を失った母の目には、けれども光が完全に失われたわけではない。普段の生活では陰気な表情をしてしまうかもしれない、夫は子が生まれる前に亡くなっているし、子の特殊さから村人からも距離を置き気味だった。だが、雨が降ってきたとき、母の目に光が宿る。それは単に、雨水が目に映っているだけかもしれないが、少年が蟲とともに蒸気となって世界中の水となって拡散した今となっては、雨こそが存在を実感させてくれる、少年の体温なのだ。
水碧む 母子


2 水の流れる風の吹かれる 「蟲師」の風景


 「蟲師」の空気感を語る上で外せない要素が風景である。山野を渡り歩き、町から町へ、村から村へと旅を続けるギンコにとって、風景は人の存在を思い出させてくれる大きな揺りかごであり、人の温もりを懐かしむただっ広い廃屋である。ここでは、いくつかの風景を辿りながら、「蟲師」の自然を味わいたい。

蟲は居る「雨がくる虹がたつ」
 この挿話は蟲が登場しない珍しい回である。虹蛇と呼ばれる蟲は出てくるけれど、自然現象に近いナガレモノと呼ばれ、正確には蟲とはまた違った存在である(他に「日照る雨」もナガレモノの話で、蟲は登場しない)。人の目に虹として普通に見ることができるし、蟲師でなければ見ることができない特別な存在でもないわけだ。その虹蛇を追う虹郎(こうろう)と行動を共にすることにしたギンコ。二人は、偽の虹を求めて旅を続ける。
 この挿話の肝は、虹郎が橋大工であるという点だ。空の橋としての虹と、川に架けられた橋が対比されているのは言うまでもない。
 風景にとって橋はどのような意味があるだろうか。いや、その前に風景そのものについての私見を簡単に述べておく必要があるだろう。
 「風景」が発見されたのは近代とか何とか……その辺の話は全然わからないが、とにかく「風景」は人が見つけたものである。ただ今見ている物体が風景ではなく、風景と意識することによって風景が立ち上がる。一般的には遠近感によるところが大きく、山の重畳にしろ、木々の繁茂にしろ、近くから遠くのものに向かっていく視線がそこにはある。物と物の境目が幾重にも積まれることで、風景は成立していく。何もない平原や海原にも、たとえば雲という積み重なりがあるし、雲がなくとも、私たちは自分の身体の境目(例えば手であり足であり、また私たちの視界は常に鼻を捉えている)を目の前にかざすことで、風景を作り出してしまう。
 境目こそが風景の源泉である。
 しかし、境目は常に曖昧だ。河口で川と海の境目にきっちりと線を引くことは困難だろう。川岸にしても、流れる水・ゆれる水を制御することはできず、絶えず波打つ水際に対して線を引くことは出来ない。山の稜線にしても、遠くからは霞み、霧や雲に隠され、稜線に近づけば近づくほど、遠くからの輪郭とは違う凸凹の地面が露になるだろう。風景の境目とは蟲の世界同様に曖昧なのである(屁理屈みたいだけど、一応、中村良夫「風景学入門」(1982 中公新書)という本の内容を参考にして書いた)。
 虹は、風景の中でも曖昧さの中で際立った存在だろう。はっきりしない輪郭、周囲の山々とは明らかに違う色彩、限られた時間だけ浮き上がってくる現象。蟲そのもののような自然である。虹郎が虹に魅せられたのを、蟲に憑かれたからと説明しても通じてしまいそうな、あやふやな物体が、どうして橋と通じようか。
 虹郎が育った村にとって、橋は暴れ川を封じるために無くてはならない建築物だった。代々、橋大工の家系であるが故に、その川を鎮める橋を架けることは宿願だ。けれども、どんなに頑丈な橋を作っても、川は容赦なく橋を流し潰してしまう。
 橋は、風景にとって遠近感を際立たせる一つの優れた境目である。曖昧な川と岸を人工的な線によって強引に区切っていく。だが、人はただの線ではなく、弧という美的な線を、あるいは吊り橋という線の集合を築いた。曖昧な世界の通り道として、橋という風景が成立した。つまり、元々風景にとって異物だった物体を風景の中でどのように溶け込ませるかという工夫・人の想いが凝らされることで、橋は風景の一員になったのである。まあしかし、そんなことをせずとも、長い年月のうちに建築物というものは周囲の景色に馴染んでいってしまうもので、風景の懐はかなり広いんだけど。
 似ているようで似ていない両極端な性質を持った虹と橋を、この挿話では、交互に描いていくことで、暗に対比させつつ摺り寄せていく。その手つきは、虹郎やギンコの旅の目的とリンクし、目的がはっきりしない二人の旅・引いては人生そのものの目的にまで敷衍していくと、虹郎が何故虹蛇を追っているのかが鮮明になった。
 氾濫の度に壊される橋の大工だった。他にいくつもの橋を作ってきただろうけれども、やっかいな暴れ川の橋の建築は、壊されては作りの繰り返しだったろう。目的はなんだろうか。もし壊れない橋が完成したなら、彼等はその橋における大工仕事を半ば失うことになる。父を継いだ兄は優秀で、壊されてもさらに頑丈な橋を作ったと虹郎は語るわけだが、虹郎が虹蛇を見つけて、さて、この先の目的をどうしようかと悩んだ時、彼はギンコの旅を思いつつ悟ったのである。「また 流れるだけだよな」と。
 目的もなく理由もなく、ただ流れていく虹蛇というナガレモノと自分が実は大した違いがなかった。この発見は、橋は岸から岸を渡していなければならない、という目的を失わせしめることに繋がる。川の氾濫は、川面を緩やかな境目から激しい境目、境目すら識別できないほどの乱れを加える。すると、風景を律していたはずの橋が、しばしば川に飲まれることになる。橋と川との境目が失われるにもかかわらず、頑固に際立とうとする橋が壊れるのは、むしろ自然なことだ。嵐は視界を澱ませ、境界を霞ませ、世界を混沌なものに変えてしまう。ラストのナレーションによって伝えられた橋は、その混沌さを柔軟に受け入れた、川とも橋ともつかない誰の目にも見える蟲なのである。

蟲の季節「雪の下」
 嵐が境目をかき乱すなら、雪はそれを覆い隠して全てを曖昧にしてしまう自然現象である。様々な季節が描かれた「蟲師」の中で、この「雪の下」という挿話は、曖昧なものの中にはどんな風景があるのかを思いめぐらせてくれた。
 どんなに汚い街も、雪が積もると様相が一変してしまうが、汚いものは、ただ消えたわけではない。雪を掘り起こせば容易に顔を出すし、雪が解ければ、その汚さは以前よりひどくなっているかもしれない。風景にとって雪は、一時の明媚をもたらしてくれるけれども、常に汚物を懐に抱えているような不安をも感じさせる不思議な存在だ。「雪の下」は、タイトルから想起できるとおりに、雪深い村を舞台にした、男の話である。面白い雪があるという噂を聞いたギンコが例によってここに立ち寄ったところから始まる。
 この挿話で隠されているものは、蟲である。常雪蟲に憑かれた青年トキは、寒さを感じない身体になってしまう。人に触れただけで体温を熱く感じ、手足は凍傷を起こしかけているにも関わらず、彼は雪の中を草履を履いて魚を捕りにいくほどである。このままでは本当に凍傷になってしまうというギンコの忠告は聞き入れられなかった。幼馴染のタエは心配でたまらず、このままではトキはトキの妹と同じ道を辿ってしまうのではないかと不安がるのである。
 村には湖がある。湖と岸の境目もまた雪に覆い隠され、湖そのものも氷に覆われて姿を一部消してしまう。トキの妹は、湖面を覆い始めた薄い氷の上に乗ってしまったために、氷が割れ、溺れ死んでしまった。雪の下に隠された本物の風景に足をつかまれて引きずりこまれた妹の死に、トキは現実を受け止められずにいるのだった。そして彼自身、蟲によって身体の周りに常に雪が舞っている不思議な状態に陥る。彼の家は、他の家と違ってより一層厚い雪に覆われていた。
 雪景色は美しいかもしれない。けれども、雪がもたらす災いを思い浮かべれば、それが遠くから傍観している者ののんきな感想であることは否めないだろう。雪崩はもちろん、大雪による交通の遮断、そして水面を隠して人を待つ薄い氷。その下には、まだ妹が眠っているとトキは言う。タエは彼を思いとどめようとするけれども叶わない。トキは、湖面に舟を出して漁を行う途中、厚い氷に舳先が乗り上げた影響で揺れた船上でバランスを崩し、湖の中に落ちてしまった……。まるで隠れていた蟲に引きずり込まれるかのように。
 トキは舟上で溶けない雪を見ていた。風景を変じさせる雪が、湖中も空中と同じようにして降っていく。奇妙な景色の原因は、もちろん彼自身に憑いた蟲である。湖底に沈んだ彼は、そこから何を見るのだろうか。
 やがて雪は止み、湖は氷で完全に覆われると静寂が村を包んでいった。一面真っ白な湖上を見詰めるタエとギンコ。しかし、この挿話でギンコが果たした役割はとても小さなものである。狂言回しとしてトキとタエを見守る態度を貫き、蟲を除こうとするわけでもない。治療法がわからなかったのだろうか、ギンコは、身体を暖めろとは言うものの、薬等の処方にまでは至らず、じっと村の中の雪を観察している程度だった。
 これほど傍観者然としたギンコも珍しいだろう。全てが曖昧な世界の中で、人も蟲も一緒くたに存在しているような白い空間は、ラストのナレーションを引用するまでもなく、多くの異形のモノが雪に潜んで輪郭を露にしようと見計らっている。常雪蟲は、水にも溶けないことによって、はじめて姿を現した。人の身体を凍えさせていくはずの蟲が、かえって湖底のトキを寒さから救ってしまうのだから面白い。そこでは、人と蟲の間に境界線を引いていく蟲師の役目は不要なのだ。雪の世界を背景にした挿話は、偶然にもそのようなものが目立っている。「柔らかい角」では、人の手の温もりが蟲への特効薬だった。「錆の鳴く声」は人の声が、「春と嘯く」では春までの永い眠り、「雪の下」の人の体温。そして、それら人の力を一掃するかのような「冬の底」。風景は人の主観によって成立するが、もし蟲に主観というものがあるならば、この曖昧なままの雪景色は、人の嗜みである風景を喰らって蟲の世界に変える好機かもしれない。
 さて、この挿話で対比されるものは、実に悲しい物語である。人肌を熱いと厭うのも、本当に蟲が原因だったのかわからなくなるほどである。すなわち、死んでいく妹の体温とタエの体温である。二人とも氷点下の水中に身を躍らし、トキに引き上げられたのだが、妹は次第に冷たくなっていき、タエは生きている徴として熱を発し続けた。彼の体温は、妹の死から冷たいままだったのかもしれず、蟲はそのきっかけに過ぎなかった。
 もっと厳しくなっていくという村の冬からギンコは足早に去っていく。いつもなら蟲が寄ってくるからと説明する彼も、ここではもっと雪が濃くなっていくからという含意の言葉を残した。雪は、蟲師の目をもくらますほどに、うすぼんやりとしている。

永遠の影「残り紅」
 ある映画の撮影の裏話。夕焼けの明度が求められたシーンで、実際の撮影時間は明け方だった、といようなことを聞いたことがある。風景が含む曖昧さとは別の意味で、朝も夕も似たような曖昧な時間である。その時間に出来る影も同様にぼやけた輪郭を地面に落とすものである。けれども、だんだんと濃くなっていく朝の影に対し、だんだん薄くなっていき仕舞いには消えてしまう夕方の影は、どこか不安だ。「残り紅」は、そんな不安な心を長年にわたって抱き続けている老夫婦の、ささやかな応報譚である。
 いきなりこの挿話の主題と私が考えるものに触れるが、夕方(ギンコが言ういわゆる大禍時(おおまがどき))が永遠に続く世界に囚われた影は、「鏡が淵」の水鏡のように寂しい存在である。老婦であるみかげも影だった時間の一人ぼっちを知っているし、そんな彼女と連れ添う陽吉も、みかげの境遇を知っているからこそ、互いに助け合って幸せな日々を送っていた。
 冒頭で対比される二人の女性の表情に注目すると、村から突如消えてしまった陽吉の幼馴染のアカネが、夕方になってみんなが家に帰ってしまう中、まだ遊び足らないのか、彼女は目を伏せつつ落ち込んだような顔を見せる。いつまでも遊んでいたいのか、影踏みにはこの時間の影の長さがもってこいなのだろうか、それとも畑から戻ってくる父を待っているのか。一方のみかげ、冒頭では、少女と老婦が同一人物か別人かもわからない描写であるが、帰らなくちゃと呟いて山の中に入っていくみかげは、残るアカネと対照的だ。止まっていた時間が動き始めたみかげと、止まった世界に吸い込まれたアカネが、ここで描かれていた。
 大禍時は「逢魔時」とも書くように、妖怪の類が出現し始める時刻である。「蟲師」が妖怪譚と異なる点は、暗闇の怖さをあまり描写しない点だろうか。蟲は昼夜問わず、妖怪とは異なる存在だからだろう。だから、暗くなっていくから寂しいのではなく、暗くもならず明るくもならない、まさに曖昧な時間そのものが、囚われた人の周りに漂い続けている恐ろしさがある。この戦慄をより具体化した「香る闇」を思い出す。
 「香る闇」は、ある時間を永遠に生き続けている男の話である。男は幾度も人生の様々な出来事に既視感を抱きつつも成長し老いていき、やがて蟲のせいでまた少年の頃に戻る。時間に囚われてしまった男は何度もギンコとすれ違い、その度に同じ話をした。手塚治虫「火の鳥 異形編」よろしく、生も死もない境目を失った時間の流れが風景のようにただ読者の前に差し出される。
 一方の「残り紅」は、いつまでも動かない時間の中に閉じ込められる。閉じ込められた影の感情は、みかげの記憶の中にあった。彼女は、アカネの影を踏んだ時を思い出し、アカネの人生を奪ったと泣き崩れる。鬼の子じゃないか、と村人に気味悪がられたけれども、確かに彼女は影踏みの鬼として、どれほどの長い時間だろうか、人の影を追っていたのである。
 みかげの回想場面から、彼女は元々海に近い村で暮らしていたことが知れる。誰も居ない砂浜にひとつだけ太陽の方向に伸びている人型の影があった。みかげは、その影の主と入れ替わったのだろう。そして、長い長い道のりだったに違いない、陽吉とアカネが暮らす山深い村の中にまでさ迷い歩き、アカネの影を見つけたのだ。
 しかし、物語はそうした劇的な要素を抑え、単調とも思える対話によって真相を明らかにしていく。ギンコと陽吉の対話、陽吉とみかげの対話が、ここでの主要な場面だろう。前者の会話は、夜の風景を基調とした背景の中で、回想場面による転調でストーリーにめりはりを与えつつ、アカネに何が起きたのかを詳らかにしていく。後者の対話では、逆にじっくりと二人の距離感に配慮しつつ、淡々としたコマ割によってみかげの真意を明かしていった。風景と回想場面という緩衝材がない状態で、この場面はいかにして描かれているのか考えてみよう。
 山中で蹲って泣いている彼女を見つけた陽吉とギンコ。薄暗い闇の中で、ほんのりと輝いていた灯火が彼女の位置を知らせた。陽吉はそばに駆け寄って話しかける。みかげは、アカネの影として見知らぬ土地で暮らしてきたが、それでも義父や陽吉に出会えて幸せだったと答えた。だが、陽吉とみかげを引き合わせたのは、明かりだった。「残り紅」のキーワードである夕方(大禍時)、影踏み、止まった時間といった要素がここにはない。夜であり、だから影も描かれず、夕方から夜に至る時間の経過がある。みかげが囚われていたのはアカネの人生だった。自分のようでいて自分でない。さみしいさみしいと思っていた大禍時の感覚を、彼女は現在もなお感じ続けていた。泣く彼女の表情は、カメラワークを意識した演出によって彼女の表情は角度を変えつつぐるりと回っていく。
残り紅の一場面
落ち着いたコマの中にもうかがえる映像的コマ構成。みかげの顔の周囲をカメラが回るように彼女の表情を捉える。そして、陽吉の視線の先(1コマ目→2コマ目、4コマ目→5コマ目、6コマ目、8コマ目で目の前に浮かんだアカネは目を閉じて見ず)には、常にみかげがいた。

 沈む太陽が冒頭でぼんやりと描かれ、以降はほとんど夜の場面として、空の余白に月が描かれる。全体的に薄暗い色調のなかで、月の光もぼんやりとしていた。不確かな存在だったみかげを、陽吉は手を握って帰ろうと呟き、ぼんやりとした世界から、確かな家の明かりへと向かうのだった。

音の風「錆の鳴く聲」
「野錆」という蟲を引き寄せてしまう不可思議な声を持ってしまったがために、親をはじめとした村の人たちが蟲によって身体の自由を失っていく。唄が好きだったという少女・しげは、自分の声の恐ろしさを知ってから、誰とも口を利かずに寡黙な日々を送る決意を親とともにした。同時にそれは、奇病の原因が自分であることを告白する行為でもあった。村人から疎まれながら、彼女は壮絶な孤独の中で、身内から噴出する声と格闘するのだった。
 風景にとって音は欠かせない要素ではあるけれども、なかなか言葉で説明することが困難であるし、マンガも例外ではない。
 この挿話がアニメ化された時、原作既読者の多くが関心を持ったところが、しげの声をどう表現するかだったろう。言葉だけでは、聞きなれない物哀しい声、美しいけど奇妙な声と説明を尽くしても届かない音は、結局のところ読者一人ひとりが想像する声が、しげの声になっていくしかない。
 アニメ版は元からハスキー声の声優を起用する。原作のあとがきに、しげの声は当初UAのイメージだったと書かれているが、果たして、実際に視聴した方々はこの声にどのような感想を抱いただろうか。しげの声を担当したのは五十嵐浩子という声優の方である(他に「ヒャッコ」や劇場版「NARUTO〜大激突!幻の地底遺跡だってばよ〜」に出演している)。2ちゃんねるアニメ板で放映当時の蟲師スレを読んでみると、やはり想像していた声と違った、という書き込みが散見される。だからと言って演技経験に乏しいUAを実際に起用して上手くいった保証はない。それでも大きな非難の書き込みはないので、少し枯れた声に機械処理を施したらしい、微妙にしわがれた低音が混じっているような・あーもー言葉で説明するのはホントに難しいのだけれども、とにかく大きな外れではない声質としてスレ内では評価されている印象を受けた。
 アニメ「蟲師」の企画から制作、完成までの模様をスタッフとのインタビューを交えて編集された「蟲師 〜連綴〜 二〇〇四〇七〇九―二〇〇六〇八〇八」には、全26話に監督はじめスタッフたちの言葉が寄せられている。原作者として漆原もこれに加わり、短文ではあるが、作者の感想をうかがうことができる。「錆の鳴く聲」の感想を一部引用しよう。
漆原友紀「しげの声が見事にハマっています。声優さんの独特の声を活かして、少しの手を加えているため、ちゃんと生の声だけど不思議な声になっていると思います」
五十嵐浩子「元々ハスキーなのですが、よりイメージに近づけるために収録前にたくさん叫びました」
 アニメ版のしげの叫び声は、言葉の不鮮明で風のような音として視聴者に届けられた。作者の言うとおりに不思議な声が、村々にこだました。山間から吹き込んでくる海風のように。
 山間から見える海。村の構造が音を語る上で重要でもあった。音、というよりも風というべきか。写真からでは伝わらない音も、風は木々の揺れや人々の表情・仕種からその強さを察することが出来る。この挿話は、風の描写にしげの声を乗せる演出により、彼女の声が確かに村中に響いたことを実感させたのである。
 まず、村は雪景色でとても静かな印象をもたらす背景を連ねていく。それと対比させる形で、村を囲む山々での場面を描いていくと、村に居る時のキャラクターと山に居る時のキャラクターの描写に違いがあることがわかってくる。着物の張り具合、髪の毛の乱れ具合、それらが、山には風が吹いているという状況説明になる。もちろん実際の村にだって風は吹いているだろうが、描写の比較を強調するために、おとなしい場面を重ねた。左図は、しげの比較である。村と山で髪の毛のなびき方に大きな違いがあるのがわかるだろう。他のキャラクターも同様である。

海風 村の中
右図が村の中のしげ。左図が村を囲む山のひとつ登ったときのしげ。左のほうが髪の毛がやや乱れている。

 そして、彼女の声は、山から村に吹き降ろされる風のイメージ(そのための前振りとして、ギンコが、村に届く海風の潮の匂いが届く場所のあることを突き止める場面がある)となって、見開きで描かれたのだ。
 アニメ版は、原作の「美しい声」をエンディング曲に唄として被せることで余韻を強めた。彼女の錆付いたような叫び声・でも決して澱んでいない透き通った静謐さを湛える歌声は……と、いくら美辞麗句を連ねても、この声の魅力を私は表現出来ないなぁ。

赤い流れ「囀る貝」
 砂浜は、私たちが風景を身近に感じることが出来るもっとも適した場所である。山の稜線から見渡す境目からの景色には敵わないだろうけれど、海と陸の境目、これほど曖昧な境目を裸足で歩くことが出来るのは、ここくらいのものである。ひと時とて同じ表情をしない波打ち際、砂浜という固体ともなんともつかない地面は、人と蟲が交じり合う場所でもある。
「蟲師」には、海を舞台にした挿話もいくつかある。山を舞台にした挿話同様に、秩序というものが蟲によって推し量れる。山にはヌシという統制者が存在するが、海の場合は、漁師の長年の勘であり、蟲師の観察眼が海の気分を読んだ。
 ギンコは、砂浜に打ち上げられた多数の貝の中に、ヤドカリドリまたはサエズリガイという蟲が潜んでいることを発見した。海に危険が迫ると、貝の中に避難し、危機をやり過ごす習性があるという。漁村になんらかの災いが近いうちに来ることを、ギンコは村人たちに伝え回った。
 十年前のサメの被害で妻を失った男・砂吉は、娘のミナとともに村から外れた場所で暮らしていた。その時のことを責め続け、村の者と関わろうとせず、何よりも自分を強く責めた彼は、自分の身は自分で守ると頑なに村との共存を避け続けた。まるで危機が去ったことを知らず貝に潜んだままのヤドカリドリのように、彼は閉じこもっていた。
 だが、遊び盛りのミナはそうもいかない。村の子どもたちと交流し、友達になりそうな子も居た。ある日、ミナは砂浜で拾った貝を耳に当てる、波の音が聞こえると村の子に教えられたからだ。だが、その貝に隠れていた蟲の影響で彼女は口を利けなくなってしまったのである……
 海の広がりがこの挿話では赤潮という異変で描写された。細く短い線を幾重にも引き、交差させ、うねりや赤潮の流れ、わずかに月の明かりを反射する水面などを描写した。画面の上には水平線、その上に雲、月が輝いている。これは村人が見た景観であるが、果たして風景だろうか。
 風景には人の息吹が求められる。未開拓の原生林や荒廃した土地の風光が殺風景なのは、人の文化が加わっていないからだ。私たちが自然豊かと感じる山々の多くがそこに住む人々が代々行ってきた間伐の結果であり、作者が棚田に心動かされるのも、一体どうやって耕したのか、どんなに狭いところにでも米を作り、少しでも石高を上げようとする昔の人々の執念が、棚田の景色には詰まっている。川にしても山にしても、それらは誰もいない場所としてではなく、そこに誰かが居るという安心感が必要である。山奥の森の中に突如現れた人工物に感動するのは、景色に人を感じるからだ。たとえば橋が代表的だろう。誰かが架けた吊り橋が、急流の川をはるかに見下ろす高さにあったときの驚嘆と感動である。あるいは道。どこまでも延びていく道、夜道を照らし続ける灯火……。
 ここでは、養殖で村を潤そうと気を張り続ける網元が登場する。十年前のあの事件の現場に遭遇した人物でもあり、砂吉にはいまだに許されていない。事故の時の真っ赤に染まった海と、赤潮が見事に重なった。どうしようもないと呟く網元。いけすに腹を浮かべる魚たち。無常にも風景は、魚の死体によって遠近感が強調され、同時に赤潮の被害の規模が明示された。人の息吹が込められた海のいけすの風景はことごとく、作者の極めて冷徹な筆によって、悲劇に赤く塗り替えられてしまったのだ。
 危機を伝えた囀る蟲が去ると、代わりに子どもたちの笑い声が砂浜にこだました。その声が響く限り、海には風景が絶えず作られ続けるだろう。


3 白い跳躍 余白・コマの活用


「蟲師」で描かれた風景を支えている演出・表現を探っていくと、「余白」というものに行き着く。
 コマとコマの間、ページの端とコマの間、コマ枠とキャラクターの間……そして目の中の白い光・ハイライトも含め、そうしたマンガの文法(というものがあるとして)を制御しているページとコマそのものが、マンガの表現を抑圧しているかのような窮屈さを「蟲師」を読み通して強く意識した。もちろん他の作品でも、そうした不自由さみたいなものは感じることはあるけれども、「蟲師」がそもそもあやふやな世界を描く上で必要としていたはずの、あやふやな表現・具体的な言葉にするのは困難だが、あやふやなコマ割とでも呼ぼうか、そうしたものを必要としていたような気がしないでもない。アニメ版が称賛されたのは、マンガについて回るコマという枷から解放され、音、映像といった表現を駆使してテレビの枠を超えた感情を視聴者に伝えようとした熱意の賜物かもしれない。
 「蟲師」は、非常に淡々としているので、そんな表現の制約にもがいているような演出はあまり意識されないけれども、それでも後半以降、コマ割・余白の枷から逸脱しようとする動きを見て取れる。

間白の抑圧
 新聞連載の四コママンガは、広い紙面の隅にいつもある。四つのコマが他のいろんな活字の記事とかとは異世界の存在として、ぽつんとある。それを見て読者は、四コママンガを認識する。コマ枠があるから、すぐに「あっ、マンガだ」と見つけられる。マンガを読まない人だって、それが枠に囲まれた他の記事とは違う何かだってわかる。実にありがたい。では、広い紙面の中にある四コマにとって、余白はなんだろうか。周辺の白いところだけか。とりあえず視界に入る面か。それとも紙面全体か。
 連載がまとめられて単行本になった時、読者はそこでようやく安定した余白を手に入れる。周囲の記事に惑わされることなく、コマだけを見つめることが出来る。……という心理があるとすれば、新聞記事も余白の一部と考えられないことはない、というのはちょっと無理があるかもしれないから、雑誌でもいいだろう。雑誌のページの余白にはコミックの広告や編集者や読者または作者のコメントが入ることだってある。でも単行本化されたときには消えている。作品とは無関係のそれらが余白にあるということは、余白は作品と無関係と判断されていることになるのだろうか。もしそうであるならば、単行本化したときに今度は違う広告でも入れればいいだろう。刷り直すたびに広告入れておけば広告費頂けて大もうけ! なんてことにはならない。つまり余白も作品の一部ということなのだろうか。
 余白に何かがあろうが、当然のように読者はコマを追ってマンガを読んだと思っている。いや実際そうなんだけど、個人的に雑誌掲載時と単行本化された時、同じ作品なのに印象が違うってことがある。たとえば手塚治虫の作品は死後に雑誌が出たことがしばしばあったし、復刻されることもあって、先に単行本を読んでから雑誌を読むなんて機会に遭遇したことがある。雑誌には当然広告があるんだが、単行本と印象が違った。目移りする、そりゃ広告だから。だからコマを追うことに集中する。集中すればするほど、紙面周辺の余白は気にならなくなっていく。それでも時折広告が目に入る。
 「コマ割まんがの父」と呼ばれるロドルフ・テプフェール(1799―1846)の作品「М(ムッシュー)・ヴィユ・ボワ」を読む機会があった。読んでみると、当然だがすでにコマ割が存在し、コマによって物語を動かしていく手法がとられていた。絵物語とも違う、明らかに次のコマへの意識を考慮したストーリーが作られている。角丸の四角が一ページに二つ三つ、くっついて横に並んでいた。そして一ページという大きさの制約の上でコマが構成されていた。
 間白がない、というか、線を間白として捉えれば、一ページの中でコマは一定の間隔で並んでいるということになるだろう。これは、今のマンガでも同様である。多くの作家は、それぞれ差はあれど、ほとんど固定された間白をとってコマを並べている。縦と横で幅に差を設けて、横に読みやすくするコマ構成を採る作家も居る。漆原友紀のコマ構成も、横に並んだコマの間白は狭く、縦に並ぶコマの間白は広いので、横に読むことに重きを置いているコマ割と言えるかもしれない。
「間白という言葉でコマの隙間をとらえなおすと、面白いことがわかってきます。コマ構成全体をコマの隙間、空白の側からみなおすことができるのです。」(夏目房之介「マンガはなぜ面白いのか」NHKライブラリー1997)
 夏目の指摘によって浮上した間白は、しかし、間白と呼ばれる以前から存在していたわけで、昔の手塚マンガを引用するまでもなく、壁と見立ててぶつかったり突き破ったりと、コマとコマの隙間にも意味があった。間白への関心は、コマの中のキャラクターにとっても、読者にとっても、平面世界のお遊びであることが前提で、上下左右からの接触が主であったけれども、さらに発展して、間白にぶらさがったキャラクターが登場すると、間白によって隠れされた腕が、俄かに画面を立体化したのである。奥行きの獲得である。
 また、少女マンガの内面描写の進化を中心に、コマの多層構造も生まれてくる。これももう一つの奥行きの獲得である。ときにレイヤー構造とも呼ばれるそれは、キャラクターの様々な側面を1ページの中で描いてしまう表現である。
 私たちが日常で絵なり写真なりで物体を見るとき、物の陰になったり人の陰になったりして見えない部分があったとしても、物体がその奥にあると解釈する当然の働きがある、陰になっている部分で切断されているとは思わない。間白によって切られた物体が描かれていたとしても・コマごとに分断されていても、繋がっているように見えれば、それはひとつの物体として解釈されるのは、やはり当然である。物体を遮るものと陰になった部分にも、空間を感じるのだ。これは、消失点による遠近法を待たず、私たちが平面から感じることができる立体的な視覚である。錯視の例を出すまでもなく、私たちの視覚は元からあらゆるものを・たとえ平面に描かれていると理解していても立体視する傾向が強いからだ。
 そもそもマンガで描かれているものが平面的だと誰が決めたのだろう。元は立体だった建物や人物をモデルに絵を描くにしろ、あるいは本という形態を考えれば、マンガは二次元である、という約束事にあまりに拘泥しすぎではなかろうか。
 日本のアフォーダンス理論の第一人者(と思われる)佐々木正人氏の著書「レイアウトの法則 アートとアフォーダンス」(春秋社2003)で、ブックデザイナーの鈴木一誌氏は佐々木との対談でこう語る。長いが引用する。
「(前略)あらゆる長方形は実際の現場では長方形にしか 見えていない。同じように本のページも台形でしか見られない。真正面から見続けることは不可能だし、ページがたわみ、見る人間も揺れています。しかし、ページをレイアウトとして受けとる時にはきちんとした長方形に変貌する。子どもがバタバタ振る本はまさに立体物(引用者注・この前の話で、読書という行為を知らない赤子に本を渡すと、そのようなことをして本を弄ぶという。そこから本を見開いて読むという行為にまで発展するには、どれほど知恵の獲得が必要なのだろうか)ですし、本として見えている立体的な世界では本は常に歪んでいる。それがレイアウト、あるいは「たたずまい」として意識された瞬間に、空間は、殺され、厚みを失って、幾何学的な長方形となり、観念上、縮小・拡大が可能なものになる。と同時に、時間が捨象される。次にテクスト内容に入っていくと、いま、平面になって時間が消えたのに、テクストの連なりということで再度、時間が仮構され、時間の中によび戻される。」
 鈴木は小説や辞典などのレイアウトを手掛けているデザイナーだが、この発言をマンガに置き換えると、私たちがマンガで描かれているものをあまりに平面化しすぎていることに気付かされやしないだろうか。立体的なものを紙面に描く過程で平面化され、本になって読者が読むとき、それらは再び立体化され、イメージされる。あるいは、漫画家が環境から得た情報をペンを通して線やベタ・トーンによって刻んで紙に貼り付けていく。本は、読者にそれを解凍させる媒体であって、読者一人ひとりの頭の中でそれらの情報が獲得される(もちろん全ての情報が解きほぐされるとは限らない。これが読解に差をもたらし、感想に個人差を作る)。
 そういう営みがあるにも関わらず、「コマ」「間白」と名付けることで、その隙間は、たちまち平面に帰してしまった。少なくとも平面化した感がある。「多層化」という言葉により、平面が重なっているという感覚も生じる(夏目はこれをアニメのセル画にたとえてもいる)。立体化される可能性を秘めた画面は、マンガが平面であることを殊更強調してしまったがために、隠蔽されてしまったのである。
 マンガの呪縛とも言える間白は、当然のことながら、作家がそれぞれ克服して独自の表現に向かっていく原動力だ。少女漫画を中心に、平面化しようとする分析にあらがうかのように、コマは次第に自由に羽ばたき始めた。
「フィラメント」の雪の冠の一場面
漆原友紀作品集「フィラメント」収載の「雪の冠」の一場面
 上図は「蟲師」連載前の漆原の作品「雪の冠」の一場面である。コマ枠が消失した少女漫画的と言える技法を駆使した、奔放なコマ構成によって物語が紡がれている(ここで言う少女漫画的とは、コマ枠に囚われない演出、という程度の意味で定義とかはない。少年漫画的あるいは青年漫画的と言えば、逆にコマをきっちりと組み上げた演出、という意味である。便宜上そう述べるだけなので、深い考えはない)。コマを重ねたり、コマ枠がほとんどなかったり、読みやすさを犠牲にしても伝えたい表現があったのだろう。初期作品に目立つ傾向である。
 少女漫画的表現は、「蟲師」初期に少し見られたものの連載が進むに連れて消滅していく。掲載誌が青年マンガを中心にしていた影響もあったのだろうか。コマ割は四角四面になる傾向が強まり、無意味な断ち切りも減った。効果的な演出を狙ったコマが並べられ、キャラクターの感情の方向、間、視線の行方、予感、そうしたものまでもがコマによって演出されていく。

間白の解放「筆の海」
 間白の効果的な使い方の一例として、時間の経過・場所の転換が挙げられる。下図のような例は5巻くらいまで、特に最初の頃に散見される真っ白なコマである。本来、間白によって調整されるべきコマの間隔が、コマ枠のない描写を差し挟んだために、間白をコマにして時間を作ったわけである。
間白の一例・「やまねむる」より
2巻「やまねむる」より
 白いコマであるというのが重要である。これが黒いコマだとまた意味が変わってくるのだが、その辺の話は前号(オフ版第四号「あずまんが大王」の回)で述べたので省略するが、ともかく白い間によって時間と場所の移動が読者に察せられる表現となっている。ただ、これは私がそのような表現を読み慣れているから理解できる、と考えられなくもないので、では、具体的に白い間と黒い間の例を比べて「蟲師」における間の作り方を調べてみよう(オフ版第四号を読んでいない方のために簡単に説明しよう。読んだ方は読み飛ばして欲しい。これは、私の持論でもあるマンガ情報論と仮に呼んでいる表現分析である。認知科学の一領域であるアフォーダンス理論と、あずまきよひこの情報の制御による背景の緻密化の話と、高野文子のエッセイの言葉「黒は速く、白はゆっくり」とを混ぜ合わせた考え方である。従来のマンガ理論はリテラシーとかマンガ文法なんかにより、マンガを読み解くにはそれなりの教養や技術が必要だと考えられているし、私もそれを否定する気はない。だが、そんなことを知らずとも、読者はマンガから共感を得、感情移入し、一人ひとりがキャラクターを思い描き、物語を理解していくし、誰もが子どもの頃に体験していたはずだ。原点を思い起こせば、マンガを読解するのに何も予備知識なんて要らなかったはずである。だとすれば、マンガを読む行為そのもの・読まれるマンガそのものの両方に最初から何かがあるのではないか。それは、マンガなのだから、黒と白によるコントロールに違いない。黒は速く白はゆっくりを鍵に、描かれている絵そのものから読者は何を読み取っているのか。きっと情報を読み取っているのだ。情報は黒と白に宿っているんだ。という連想という飛躍が礎であり、黒と白にそれぞれ違う質の情報を仮定し、いろいろと傍証してみようというわけである)。
右足に蟲を宿す淡幽を描いた挿話・2巻「筆の海」より
右足に蟲を宿す淡幽を描いた挿話・2巻「筆の海」より
 上図は、ギンコと淡幽が初めて対話した過去の場面である。枠のない遠景に白いコマを挟んで、「ガコン」と扉を開けるコマに二人は移動する。アニメ版と比べると、白いコマが間白であることがよく理解できるのではなかろうか。
 アニメ版は、原作とほぼ同じ場面を忠実に再現しつつ、映像として繋がりを保つための演出は最低限に留めているが、このシーンは、暗転することで場面移動を表現している。暗転し、少しの間を置いてから淡幽のセリフを被せ、少しずつ明るくなると、地下への扉が開いて画面が明るくなる。
 アニメスタッフは、白いコマを暗転と解釈した。他の場面でも、白いコマを暗転させるシーンがいくつか見られるので、マンガ表現と映像表現には、白と黒に何か大きな差があるのかもしれない。
 直感的に考えられるのは時間の経過だろう。アニメは、動かない絵を写し続けても時間が流れていく。そこに音楽を流せば、動きの一切ないはずのそのシーンは途端にアニメ的になるだろう。暗転もただ暗くなるわけではなく、音を重ねたり、セリフを被らせたり、あるいは暗転直前までの大きな音をぱっと消して、暗転後にまた大きな音を流すことで何かしらの効果も期待できる。次のシーンから次のシーンへの間白として、暗転は機能していた。
淡幽に呼びかけるたま アニメ版
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淡幽に呼びかけるたま マンガ版
「お嬢さん」と淡幽に呼びかける付き人・たま
 あるいは上図のシーン。アニメ版から見ていくと、淡幽の後ろに大きな空間を作っている。「お嬢さん」という淡幽の付き人・たまの大声が彼女に聞こえるシーンである。空間によって、声が彼女の後方から聞こえたことが察せられるわけだ。枠の大きさがある程度限定されている映像における余白の効果的な演出である。原作ではこれがどう描かれているかと言うと、コマ構成で淡幽の後ろから声が聞こえたことを演出していた。原作が伝えようとした意図を、アニメは見事に再現している。
 アニメ版は基本的に映画と同じ16:9とテレビ画面よりも横に長い。キャラクターの顔をアップで捉えたとしても、顔の左右に大きな空白が出来やすい。テレビ画面ならば伝わるアップによる迫力も、横長の画面ではその効果も減じてしまう。結果的にアニメも原作同様にキャラクターの言動を抑えた印象を与えたことになる。画面の空白を余白として効果的な演出を試みたアニメ版を追っていくことで、マンガの間白が他メディアへどう変換されるのかを観察出来る点において、原作に忠実な映像化とはどういうことかについての模範解答を私たちは得たわけだ。
淡幽のアップ
コマを少しだけ下げて間を取る演出は「蟲師」でよく見られる手法である。
 次にこの例を見てみよう。上頁の図は同じく「筆の海」からの引用だが、ギンコのセリフの次のコマの上が他よりも広く空けられ、下に向かっていくような印象を与える配置になっている。「それが」というフキダシがその空間に飛び出している。枠こそないが、この空白はコマと捉えることができよう。一瞬の間だろうか、それとも普通に読み進めてしまうだろうか。いずれにしても、淡幽の「決して下手をしたりはしない」と「それが」の間としての物理的な余白がコマを下方に押し出しているような感じにより、コマ全体が下向きに動いている。もちろん断ち切りによってコマ枠の左辺と下辺が消えている影響もあるわけだが、模範解答はどう描いたかというと。
上図の3コマ目のアニメ版。淡幽のアップを捉えた1枚。
淡幽のアップ アニメ版
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 アニメ版は、読者個人が体感する間を決めなければならない。ギンコのセリフ「危険な遊びを……」と次の淡幽のセリフ「決して〜」の間が約一秒、「決して〜」と「それが」の間が約2秒、「それが」の次のセリフとの間が約1秒という体感時間がある。正確な時間にコンマ数秒の差はあるものの、「それが」のセリフにそれまでのテンポとは違う間が取られているのは明らかである。この微妙な間が、図の白い間だろう。そして淡幽の表情のアップのシーンでは、ゆっくりとカメラを下げていくように、彼女の顔が上に移動していく。左の余白がここでもまた生かされている。断ち切りの効果が、余白という限られた空間に変換されている。

マンガの時間アニメの時間「虚繭取り」
 暗転と間の取り方だけ見ても両者は別の演出・表現によっているわけだが、どちらも時間と移動が重要である。マンガならば読者の視線の移動でありアニメならカメラを見立てた画面の動きになろう。マンガの白いコマがあるように、画面を真っ白にすることで場面の変化をもたらす演出もある。字面だけを見れば暗転ならぬ明転というわけだが、舞台・芝居の一演出として用いられるそれは、本来幕を降ろして・照明を消して行われる舞台の模様替えみたいな暗転・観客に隠された幕裏に対して、明転は幕を降ろさずに観客に全てが見える状態でそれらを行う演出なので、画面が真っ白すなわち明転というわけではなく、やはり暗転と同じと捉えたほうが無難だろう。ということで、「虚繭(うろまゆ)取り」のアニメ版の一例を見てみる。
虚繭取り・間白01
図3−1
 まずマンガは図3−1のとおりである。一コマ目は紙面の右上が断ち切られ、少女の横顔とフキダシが入る。背景は上から下へグラデーションがかかり、コマの下ほど白くなる。次のコマは枠が消滅し、ページ全体に少女の感情を広げるような余韻を与えつつ、フキダシの位置は上の白い部分に重なっている。下のコマで少女の成長した顔のアップが入り、ギンコとの対話に続いていく。右上のコマは前頁から続いている彼女の回想場面である。つまり、枠のないコマは、回想から今に戻る境目・曖昧な場面ということになろう。
 アニメ版は、少女の下方が白くなっていることを受けて、次のコマの背景の白さで画面をつなげたと思われる。
上図の1、2、3コマ目のアニメ版
上図の1、2、3コマ目のアニメ版
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 少女の表情を捉えたカメラを少しずつ上げていく。あわせてやや俯けていた顔を上げて正面に向ける。背景は室内の様子が知れるほど精密に描かれ、マンガのような無地のような薄暗い背景ではない。黒から白のグラデーションは、次の白い画面に変換したと思える。少女の顔は唐突に消えて画面は真っ白になり、間を置いて、家屋の映像が白い画面の中からゆっくりと現れた。
 「私 絶対」から次のセリフの間には、約4秒という長い間が置かれる。その間に画面が白くなり、家屋が鮮明になっていく、フェードアウト・フェードインが施された。そして「緒ちゃんの事 連れ戻す」の声が入り、次の女のアップに画面は暗転を挟まず転じる。
 全体で約14秒が図3−1の1コマ目〜3コマ目の映像化である。読者がここにそれだけの時間をかけて読むことは少ないだろう。文字だけ追えば5秒もあれば足りる。そう、セリフだけ読むならば。
 アニメでは風景と音が原作よりも厳密に設計されている。図3−1の前頁を下の図3−2に示す。少女と老人の対話。最初のコマが二人の住む家である。その暗さから夜であることが分かり、図3−1と図3−2の家の概観の違いから、図3−1の2コマ目は、すでに回想から現在に戻っていたわけだ。アニメ版はこれを長い間と夜に鳴く虫の声の有無で明確に区別した。
虚繭取り・間白02
図3−2
 それでも、黒と白の差はなんだろう、という疑問が残る。アニメ版を比較する限り、シーンを繋げているのは彼女の意志であるように思える。ここで図3−3を示そう。↓
虚繭取り・間白02
図3−3
「まだ どこかにいるのよ」は奇数頁で、ページをめくると、「……だが連れ戻すことはできん」と言うギンコのアップから始まるページに移る。

 彼女の長い回想シーンの入りは、彼女の横顔のアップ、胸元で握った手紙のアップ、そして暗転し画面が少しずつ明るくなって桑畑と思われる外の景色になった。回想と現実が暗転によって区切られているわけだ。それが現実に戻るシーンでは違う効果が施される。マンガでは同じ手法がとられた回想の入りと出にアニメでこの差が出たのは何故かという問いに、黒白の疑問に対するひとつの答えがあった。図3−1と図3−3を比べると、図3−3の映像化(下図)には原作にないシーンが付与されていることがわかる。胸元で握り締めた手紙である。このシーンが追加された背景には、彼女の想いを強調したいという意図があると思う。
図3−3のアニメ版
図3−3のアニメ版
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 そして想いは少女の頃(図3−1)から今も続いている。少女の声が現在の彼女の住む家の映像に被さって流されることで、視聴者はそれを実感する。場面の移動を明白に意識させやすい・ストーリーの断絶を来たしやすい暗転ではなく、少女の感情の舞台を、観客に隠さずにはっきりと見せるために、アニメ版は、白い画面による時間の移動を試みたというのが私の考えである。マンガの淡々としがちな感情の流れが映像によって、より一層強調された。彼女が泣くシーンでも、原作にはない絵を一枚挟んで失った者への哀しみを強化しているので、そんなに外れた考えではないと思うのだが、さて、アニメ版を監督した長M博史は漆原との対談で語っている。
「長M「(前略)原作を読んでいても、1話1話のページ数ってけっこうマチマチですよね。回想が多かったりすると、アニメ的には時間が必要になるし。場面転換をなめらかに、わかりやすくしなければならないので。30分に収まる収まる確信はあったんですけど、本当に全部の話が収まったのはすごいと思いますよ(後略)。
 漆原「収めるための調整法とかってあるんですか?」
 長M「(前略)編集とアフレコのときに、普通のアニメ のやり方とはちょっと違うやり方をやらせてもらっていたんですよね(後略)」
 漆原「それは間(ま) を変えたりとか、そういう ?」
 長M「そうですね。でもセリフの長さだけは変えられないので、セリフを削りましょう≠ニいう事もありました。逆に、セリフとセリフとの間をもっと取りましょう≠ニかも(後略)。」」
 図3でそれぞれ示したマンガとアニメの間に横たわる時間の違いが長Mの言葉に象徴されている。コマとコマの接続によって時間を生んでいくマンガと、時間がすでに生まれているアニメ。この違いを無視して、両者は語れない。

間白からの跳躍「日照る雨」「眼福眼禍」
 間白としてのコマは後半の挿話では描かれなくなる。だからといって「蟲師」から間が失われたわけではない。では、どのようにして間は作られるようなったのか。
 かつて少女漫画的だったコマ割は、余白やコマ構成に縛られない自由なものだった。ページ全体あるいは見開き全体をひとつのコマのように、入れ子のようにコマが配置され、読む順番がかろうじて知れる程度の危うさがありながらも、間白は均等でなければならないという原則は幻想に過ぎなかった。けれども青年漫画的になっていくコマ割は、一見間白に囚われていないと思われるものでも、ページ端(小口)からの余白は一定の間隔に保たれ、間白の幅も均等に配されていた。
 6巻あたりから、それが少しずつ崩れ始める。1巻の初期にあるような少女漫画的コマ割に回帰したわけではない。似ているけれども、やはり抑制されている。これまでの技術が融合したかのような間白に囚われないコマが配されていった。
「日照る雨」は8巻収載の挿話である。この挿話のコマ割で特徴的なのが、止まない雨を後景に点々と配置されるコマだ。けれども読みにくいものではない。コマを追っていくことで、枠のないコマも読み進めることが出来、テルという女性の境遇が雨に左右され、居所を失って旅をして暮らすようになる経緯が描かれる。
 回想場面として間白が黒かそれに近い濃さに塗られる代わりに、雨の雰囲気をコマの周辺に漂わせた。雨の描写にも角度を加え、立体的になっている。またコマの中には上を見上げて雨に対して様々な表情をするキャラクターが描かれ、キャラクターの感情にも立体感が施された。
「日照る雨」より
 余白はどこに消えたのだろうか。単にコマとコマの間をそうと捉えることもできるけど、後景に雨を置くことで、間白の白は単なる白ではなくなった。晴れを意味する空間に変幻したのである(下図が好例)。間白であり雨であり晴れでもある余白。いろんな意味に取ることができるようになって、間白は、単なる平面的な間白から解放されたのである。
「日照る雨」より
 この挿話の上手さは、実はここからである。テルが雨を呼ぶ体質になったのは「雨がくる虹がたつ」にも登場したナガレモノと言う蟲の一種「雨降らし」に憑かれたためだったのだが、この蟲を身体に吸収してしまう瞬間の描写から、余白が余白として機能するようになるコマ割になった点である。雨の描写はコマの中に閉じ込められ、それまでの開放感からは程遠い窮屈な印象が先行していく(もっとも、回想場面としても間白は機能していたので、それとの区別もあるだろう)。雨を体内に抱き、自分を中心に雨が降る現象を彼女自身の心に封じられてしまった。彼女の内面が余白を拒んだわけだというのは穿ちすぎだけれど、ギンコと彼女の対話だけという短いページ数とはいえ、彼女の心を抑圧した場面により、次の場面での解放感が得られたのだ。
 テルは雨を占うと称して旅をしている。ある時、日照りに苦しむ故郷に立ち寄った彼女は幼馴染との再会を喜びつつも、自分の身に巣食う体質から村には残ることが出来ない己を恨んだ。彼女自身がナガレモノになったと言う説明は今更だが、そこに同じくギンコが現れることで、居場所を失った人間はいかにして居場所を獲得するのか、という彼女の生き方への一つのヒントが示された。
「日照る雨」より
 さて、女の一人旅と言えば「眼福眼禍」も忘れられない。
 生まれつき目の見えなかった少女・周(あまね)は、蟲師の父が偶然手に入れた「眼福」という蟲によって視力を取り戻した。物が見える喜びに跳ね回る時間は、しかしわずかなものだった。あまりにも物が見えすぎた彼女の目は、次第に壁の向こう側、その先のはるか遠くまで見通せるほどになっていった。いつしか彼女は、見えすぎた景色の安寧を求めて、琵琶を弾き語りながら各地を歩き訪ねるようになる。
 遮る物がなくなった世界に風景はないと言える。周はこの状態を光しかない世界と言う。境界がないのだから、曖昧さなど微塵もない。
「眼福眼窩」より
 上図は見開きで、彼女の視界がどのように開けていったのかを描写した場面である。おそらく彼女の目は焦点を合わせた地点に向かって視界が広がっていくのだろう。海まで眺め渡すコマ割は、コマの形状そのものが透視図法めいて配されている。補助線(下図)を引くと分かりやすいだろう。焦点に向かって線が伸びている。彼女は家に居ながらにして、ただっ広い地平の中心に座っているような誰からも視線を干渉されない世界に居たわけだ。
「眼福眼窩」 補助線
上段の見開き頁の上のコマの重なりを、コマ枠だけ抜き出し、マンガの背景に描かれた草木や山の影の線の入れ方の方向に合わせて補助線を加えると、こんな感じになる。

 ここの面白さはアニメではなかなか映像化しにくい、という点だろう。重なっていることに意味があるコマ割・遠くの景色ほど眼前に見えるのだから、景色を次々と見せていっても、それでは遠くまで見える感覚が薄らいで単なるスライドショーになってしまうだろう。助けになるのは図の景色にも描かれている遠近感を煽る描線である。草木の明暗や山肌の凹凸などを表現する細い線が、中心に向かって引かれているのだ。図の補助線に変わる線がマンガの中に描かれていた。この線に沿って、アニメ版はフェードインフェードアウトで景色を変えながら画面を動かしていく。コマの中の運動が実際にカメラの運動に置き換わったのだ。多層化されたコマに立体的なつながりを与え、その意図を忠実に汲んで映像化するアニメ版が多くの原作ファンに受け入れられたのも道理である。

対話とライン(想定線) いくつかの例を
 アニメ版と比べることでマンガに仕組まれた演出の意図をいろいろと探ることが出来る一方で、映像化によって変えざるを得ない演出もある。前述した時間もそうだが、見た目でわかる変化に対話がある。
 物語にとってキャラクターの対話は、絵だけでは伝えきれない情報を読者に与えてくれる重要な要素である。ナレーションなどでキャラクターの境遇を解説する手段もあるとはいえ、「蟲師」はギンコが人々に問いかけていく形で物語の中に溶け込ませることにより、舞台や蟲という設定の解説を加えていく。一対一で向き合うキャラクター同士のセリフが数頁続くこともある。
 それを映像化する際に注意されるのが、基本であるイマジナリーラインである(これらついてはオフ版第一号で詳述しているので、そちらも参照していただけるとありがたい)。
 ときに、「Wikipedia」に解説を請うた。
「想定線(そうていせん)、またはイマジナリーラインと は、映画やビデオを撮影する場合の用語で、二人の対話者の間を結ぶ仮想の線、あるいは人物、車両等の進行方向に延ばした仮想の線をいう。」
 一般的に、鑑賞者の混乱を避けるためにこの線を超えてはならないという。画面右側にいた人物が次の場面で左側にいたら一瞬戸惑うだろうという配慮であり、不要な違和を避ける上でも撮影の基本のようである。アニメも同様にラインを意識した演出が行われる。たとえ原作のマンガとは違っても、である。
 忠実なアニメ版「蟲師」でさえ例外ではない。特に連載初期に目立つ、カメラを意識していないコマの繋がり、想定線を無視した対話場面も、アニメ版は様々な絵を施して違和のないように演出している。

例1
「蟲師」の実質第2話「緑の座」、まだ筆致も蟲の設定も安定していない時期の挿話。次頁の図はギンコと少年の縁側での対話。画面左側に顔を向けている二人が、次のコマで右側を向いた少年が描かれる。マンガを読む上では特に問題なく戸惑わない。少年が右を向いているので、ギンコに向けて話していることがわかる。アニメ版は、この二コマの間にギンコが左を向いている姿を一枚挟む。これにより、アニメ版の少年の表情はギンコから見た景色となり、原作の絵が持つ意味が変化した。誰の者か判然としなかったコマの中の絵が、ギンコの主観という確かなものになったわけである。
 また、向かい合って果実酒を飲む場面でも、マンガは想定線を無視した演出がしばしば描かれた。アニメ版はこれらを向かい合わせて修正した。
例1 1巻「緑の座」より。縁側に腰掛て対話するギンコと少年。
アニメ版はこのシーンにギンコの表情を挟んだことで、左図2コマ目と右図3枚目の少年の表情に違いが生まれた。

「緑の座」 「緑の座」 アニメ版
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例2
 2巻収載「筆の海」より、幼い淡幽とたまの対話。先にアニメ版を見れば、右側に向かう淡幽と後ろから声を掛けるたまの位置に揺るぎがないことがわかろう。淡幽を画面右にまで移動させて背後に大きな余白を作ることで、たまの声がその空間に入り込む。マンガでは、たまと淡幽をコマの配置によって向かい合わせた。実際の位置関係は、二人は目を合わせていない(少なくともたまは目をやや伏せている)が、あたかも目を合わせて話しているような関係に変化させている。二人の気持ちの対話をコマの位置関係で表した。空間移動・キャラクターの動きを重視したアニメと、感情の流れを重視したマンガの違いだと思う。
例2 2巻「筆の海」より。幼い淡幽の背中から声を掛けるたま。
アニメ版はこのシーンで二人の位置関係を崩さず、淡幽が振り返るシーンをゆっくりと描いた。

「筆の海」 「筆の海」 アニメ版
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例3
 5巻収載の「篝野行」より、ギンコと野萩の対話。マンガではどちらも右側を向く二人のコマ(つまり、4コマ目から5コマ目の間に野萩はギンコの前を通り過ぎたという運動が想起される)だが、アニメ版では当然向かい合っている。向かい合わせることで、野萩が振り返ってギンコから去っていくという運動が自然に映える。
 これらマンガの例に欠けているものがキャラクターの運動である。ひとコマひとコマにはキャラクターの動きが描かれているとはいえ、それを繋げる描写をマンガはあまり意識していないし、それを考慮せずとも、マンガの対話は成立する(例3が運動を意識していないと言う意味ではない)。
例3 5巻「篝野行」より。ギンコと野萩の対話。
アニメ版は2枚目で提灯のアップを加えるて想定線の変化を和らげる。

「篝野行」 「篝野行」 アニメ版
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 さて、アニメの放映によってマンガの演出に変化が見て取れるとすれば、おそらく対話の想定線を意識した演出とその動きだろう。

例4
 8巻収載「潮わく谷」より、ギンコと老人の対話。ここではキャラクターの目を通した画面の切替が行われている。1コマ、ギンコと老人の位置を確認。2コマ、ギンコのアップは、例1のアニメ版の例に対応していよう、ギンコの目が老人を捉えている。3コマ、ギンコの主観による老人の独り言のようなセリフ。4コマ、核心の一端に触れるギンコのアップで老人に迫っていく言葉の強さが描かれる。5コマ、ギンコに顔を向ける老人、ギンコの主観が続く。そして次頁。6コマと7コマ、ギンコと老人の二人の横顔のアップで、心理的な距離を縮める。8コマ、一度間を置いて蟲師であることを伝え、老人の様子を9コマでうかがい、10コマで再び老人に心理的に迫っていく。11コマ、背を向けてギンコを拒絶する老人。
 ギンコの主観を中心に老人が何か隠しているらしいことを仄めかす。心理的距離感をコマの配置で表すのは例2で見たが、ここではさらに老人の動き・ギンコを見る→俯く→背を向けるという流れが観察できるだろう。
「潮わく谷」
↑例4 8巻「潮わく谷」より。ギンコと老人の対話。


例5
 9巻収載「壷天の星」より、イズミとギンコの対話。前頁からの続きでイズミの背を追うギンコが、彼女に向かって話しかける1コマは、ギンコの身体に薄い影をまぶしている。背の低い少女が見上げた印象によるものであることが知れる、2コマ。2コマ〜4コマではイズミの動きをコマに分解し、5コマ、ギンコに身体を向けたことがわかる。6コマ、ギンコの独り言、薄い影が消える、イズミの主観ではないから。次頁。7コマ・8コマでギンコがイズミの立場を解説し以前から続けていた説得を試みる。9コマ、イズミの顔が客観的に描写される、ギンコの話に耳を傾けているのかいないのか判然としない曖昧なコマだが、やや上を見上げているので、10コマ、念を押すギンコを見るイズミの主観。
 イズミの動きを中心にギンコの言葉を丁寧に綴っていく。待っている家族がいることを伝えることで、彼女の感情の流れが次第に浮かんでくるだろう。
「潮わく谷」
↑例5 9巻「壷天の星」より。イズミとギンコの対話。
 映像的表現までも駆使するようになってますます演出が冴えていった「蟲師」は10巻で降幕とあいなったわけだが、漆原友紀の次回作は、はじめからこの演出を見ることができるわけだから、楽しみで仕方がない。そして、もし次のアニメ化があるとすれば、後半になって顕著になっていった自在な間白、映像的表現を、どのように演出するかも見物である。そのときまた読者は、新しい「蟲師」の世界に出会うかもしれない。

あとがき 鉦と鈴


「蟲師」には、しばしば光脈筋と呼ばれる豊かな土地の山に、主(以下「ヌシ」と略す)が登場する。人と蟲と、山に関わる全ての生命を統べる、産土神とはちょっと違うらしい、土地の秩序を守る存在である。ギンコは、彼等と時折交流し、畏怖した。作品世界をも統べていると言っても過言ではない巨大な存在である。
 ヌシは山中の動物が代々受け継いでいくものである。身体から草木が生え、動物とも蟲とも言えない神々しい存在となり、山の中の全ての息吹を肌身に感じ取ることが出来るという。だが、時としてヌシも普通の動物と間違えられ、誤って狩られてしまうことがある。「やまねむる」は、そうやってヌシの代わりを務めるムジカと呼ばれる蟲師の物語である。
 ムジカ(彼の場合、身体からではなく頭に被る編み笠から草が生えている)がヌシになった詳しい経緯は省くとして、「やまねむる」で印象に残る描写が「ゴオオォォン」という音である。劇中で鉦(かね)の音のようだと言われるこの音の正体は、ヌシを喰らう蟲「クチナワ」の鳴き声だと説明された。
 最初はギンコが寺の鐘と聞き違える程度の遠くから届く音として描写される。ムジカの弟子・コダマの言葉が、この音がただの鐘の音ではないことを暗示させた。そして続く「ギャアギャア」と飛び去っていく遠くの鳥たち、いや蟲かもしれない。
 次は夜中に鳴る音。ここでギンコもおかしいと気付く。擬音は先ほどよりもやや大きく描かれた。山のふもとの村に戻り、続けて真横に音が鳴り響く。膝を立てて柱に体を預けて寝ていたギンコが目を覚ます。「ゴオオオオ…ンン」という文字・音がギンコの耳をつんざいたような勢いだ。ここで村人が目を覚まさない・コダマだけが変な音だ、とギンコの元にやってくることで、いよいよ蟲の音であることが確定する。
 山は静まり返っていた。ギンコが初めて山に入った時のむせ返るほどの生命の匂いとの対比だ。蟲の気配がすっかり消えてしまう。さらに擬音は大きく描かれ、ギンコの表情のぶれ方も感情の揺れを表している。焦りがよく伝わってくる。
 山頂から麓に向かって・他の山々にその存在を知らしめるかのような巨大な音が山を覆いつくした。ムジカにとって鉦の音は、自分の死の秒読みを知らせる時報だったのだろう。だが、ムジカはその音にはまるで動じない。覚悟を決めた態度である。最期に彼が反応した音はコダマの「ムジカ!」という叫び声だったのが切ない。
 鉦の音が死の知らせであるならば、生を知らせる音もあった。最終話「鈴の雫」は、まさにその音によって締めくくられたわけだ。
 生まれた時から頭に草が生えていた娘・カヤの兄・葦朗(よしろう)は、妹が生まれた時の山の様子を鮮明に覚えていた。「りんりんりん」と山中が何かを祝っているような音だと回想する葦朗は、妹の宿命を受け入れられずにいた。カヤは、山のヌシに選ばれたのだった。長じてカヤは山に惹かれはじめ、ある時、風とともに消えてしまう。葦朗は、妹を探し出そうと、今も山に入っている。
 ギンコが遭遇した山のヌシとなったカヤは衰弱していた。元々人がヌシに選ばれること自体が稀であり、人の子は長く持たないともいう。全身を草に包まれたカヤは、ギンコに「去(い)ね」と命じ、いずこかに姿をくらました。
 ギンコの滋養の薬が利いたのか、カヤは再びギンコの前に現れ、薬を寄こせと手を差し出す。持ち合わせが尽きていたものの、ギンコはこの山で薬草を採る許可を得た。だが、ギンコとヌシの関わりは、葦朗を巻き込み、思わぬ事態へと進展する。ギンコは今度こそ自分の身を捨ててヌシに尽くそうと試みた。
 ギンコは少年時代、「草の菌(しとね)」でヌシに選ばれた動物の卵の殻を誤って割ってしまった。山の異変はギンコを当時保護していた蟲師のスグロにすぐに知れることとなった。選ばれたヌシの新しい命と、選ばれなかった少年・居場所のない少年は、ヌシの卵を前に逡巡していた経緯があるとはいえ、やはり命が失われてしまうことは、ギンコには堪えられなかった。自らを「理(ことわり)」に差し出して左目から黒い涙を流したギンコは、必要とされる人々がいることを察した。
 「理」は全てを知っている。山のヌシのこと、人間のこと、動物のこと、蟲のこと。これから生まれてくる命を生む左手を持つ少年のこと。おそらく淡幽の未来も、薬袋一族の行く末も、ギンコのその後も。
 二枚目の瞼を開いて始まり、閉じて終わった物語。あるいは、鉦に始まり鈴に終わった物語。漆原友紀が次に魅せてくれる物語はどんな眼差しなのか、あるいは次に鳴らす音がどんなものなのか、次回作をまったりと待ち望む。
(2008.12.30)
(2014.4.3)

引用・参考文献
漆原友紀「蟲師」講談社アフタヌーンKC 全10巻
同「フィラメント」講談社アフタヌーンKC
長M博史・漆原友紀・アフタヌーン編集部「蟲師 〜連綴〜 二〇〇四〇七〇九―二〇〇六〇八〇八」講談社
汎用サーチライト「汎用サーチライト 第四号」(同人誌)
佐々木正人「レイアウトの法則 アートとアフォーダンス」春秋社
中村良夫「風景学入門」中公新書
夏目房之介「マンガはなぜ面白いのか」NHKライブラ  リー
DVD「蟲師」第一集〜第五集 株式会社マーベラスエンターテイメント他

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