「ふたりの黒い医者」

 彼の影ともいえる存在、ドクター・キリコ。安楽死を請け負うキリコにとって、彼の延命治療は不愉快だった。もちろん、助かる者なら助けよう。しかし、生きる気力のない死にたがっている重症患者なら話は別だ。無駄な治療など施さずに、本人の望み通り殺してやろう、キリコ流の安楽死装置で。彼が瀕死の床から天才的な外科手術によってよみがえって医師を志したのに対し、キリコがそうした信念を抱く背景には戦争があった。手足をもがれて、もがき苦しむ患者たち、医療設備の整わない環境で立ち尽くすキリコが出来たことは、患者を殺してやることだった・・・。
 さて、「ふたりの黒い医者」である。全編中、印象深い挿話のひとつとして脳裡に刻まれている。ある町で出会ったふたり、偶然に思われた邂逅には子供のために死のうとする重症の母親とその母親をなんとしてでも治したいと切望する子供たちの思惑があった。だが、ふたりは母親と子供の思いをさして汲み取ることなく対決する、百万円を賭けた手術に彼は挑むのである。彼の胸中にあるのはキリコに対する怒り憤りであり、子供の純真な思い、入院費のほかに必死に工面しただろう子供たちが用意した手術代の百万円に込められた金銭に替えられない価値を見失っていた。キリコの嘲笑ともとれる表情は何を予見していたのか。
 キリコの態度は一貫している。助からないのなら、親でも殺す。自分さえ殺そうとする。彼よりも冷徹である。「弁があった!」。助かるはずの父親に毒を注射して死なせたキリコは彼に「命をなんだと思ってやがるんだ」と殴られてうなだれる。キリコは何を考えたのだろうか。キリコは単に自殺を手伝うわけではない。助からないとわかった患者たち、自殺も出来ずに苦しむ人を自然に死なせてやるのがキリコである。奇病に苦しみつづけた父親を5年間治療に奔走した果てに安楽死を決意したキリコの懊悩を理解すべきだ。この挿話は彼の医師としての正義が描かれているが、だからといってキリコを非難する気になれない。
 手塚ほど登場人物を死なせる作家はいないと思う。実によく死なせ簡単に死なせ、劇を盛り上げる。個人的に、キリコは手塚のように思えてならない。彼の言葉よりもキリコの言葉に手塚の本音があるように感じる。もっとも、キリコ初登場の「恐怖菌」での扱いは、「死神の化身」という異名をもつ医者として登場させながら、さして動かずに彼を見守るような態度をとらせている。キリコという人物像が明確に示されていない。続く「ふたりの黒い医者」でようやくキリコの人格つまり手塚の本音が描かれるものの、まだ「死神の化身」という異名に手塚は拘っていたらしい。それは人の死をなんとも思わない態度に見える。一方で「生き物は死ぬときには自然に死ぬ」と呟かせている。死を諦観しているわけであり、私には彼よりも魅力的な人物である。そして、キリコはラストシーンで哄笑する。母親とその子供が移送中事故死したと聞かされて「ちくしょう」とうめく彼とは対照的だ。キリコの笑いは何を意味しているのか? 
 その前に、彼が「ちくしょう」と悔やんだわけはなんだろう。劇中の彼は、一度請け負った患者をしつこいくらいに気にかけて面倒を見てしまう癖がある。だが、ここでの彼はどうだ。彼はキリコと勝負としたにすぎなかった。キリコに執着せず、本来の彼らしく術後も患者を診ていれば悲劇は避けられなかったか? 死から解放された矢先の死。むしろ、常に死について考えつづけていた方がいいと思う。そもそも「死ぬことは考えるな」と術前に母親にいうのが、彼らしくない。彼は患者の病気をはっきり告知し、余命さえてらわずに断言する。これこそが彼の真骨頂である。彼が戦ってきた相手は常に自分自身であり、誰かを負かそうなどという色気はなかったはずだ。彼の悔しさはここにある。患者が死んでようやく気付き、絶叫するのだ、「それでもわたしは人を治すんだっ。自分が生きるために!!」
 キリコの哄笑は彼の遅過ぎる自覚に対する強烈な皮肉なのだ。

戻る
第6回分
第8回分