映画「メトロポリス」散々記

原作:手塚治虫

キャラクターデザイン・総作画監督:名倉靖博

美術監督:平田秀一/CGテクニカルディレクター:前田庸生/音楽:本田俊之

声の出演:井元由香/小林桂/岡田浩輝/石田太郎/富田耕生



 なにこれ? 手塚ファンのはしくれだからといって原作と違う点をあげつらってどうこういうのではない。この映画そのものがどうにもならないくらいつまらないのである。これほど期待をはずしてくれる映画はただ呆れるのみ。手塚治虫もくそもない。なにせ物語の核がないのだから、ストーリーテラーたる手塚色の出せようがないのだ。一体なに考えてんだろう、気付けよ、脚本の段階で、あるいは絵コンテの段階で分かるだろう、このつまらなさ。頭おかしいんじゃないのか。
 どんな話だったのか一応説明しておこう……大都市メトロポリス影の支配者レッド公がロートン博士に極秘に造らせていた世界の支配者たる超人ロボット・ティマは、公を親と慕うロックの襲撃を受ける。ロートン博士の調査にやってきたヒゲオヤジとケンイチはその現場に遭遇、ケンイチはティマを救出してメトロポリスの地下層(ZONE)に流れ着く。嘆くレッド公に対し、世界の支配者はレッド公こそが相応しいとロックはティマ生存の可能性を辿ってZONEへ侵入しケンイチらを発見、追いかけっこへ。一方、ZONE内で貧しい生活に汲々とする人々は政府内の反ロボット勢力と結託し革命を画策、武装蜂起するもあっさり鎮圧される、これ全てレッド公の策略でメトロポリスの真の支配者になりおおせる。ケンイチ・ティマは革命騒ぎのドサクサの中を逃げまわるがいよいよロックに追いつかれてしまい万事休す、ここで現れたるはレッド公、ティマの無事を知り連れ去ってロック追放ケンイチ監禁ヒゲオヤジ気絶。で、ティマを支配者の椅子へいざなうがもちろん承諾しないところへロック登場しティマへ発砲するも、当然ロボットのティマはなんともないが、それでもって自分をロボットだと悟ったティマは暴走し都市は大破壊され、ケンイチはティマを救おうと虚しく奮闘するも報われず、廃墟……
 大筋は原作をなぞっている(ロックは原作に登場しないけどそれはさしたる問題ではない)のに、このどうしようもない退屈さはなんだろう。たとえるならば香港映画のスタントシーン、主演者自ら挑んだスタントはアングルを変えて何度も流して迫力を増幅、というより主演者の度胸を観客に見せつけるように、瞠目せざるを得ない作画がしつこくしつこく画面いっぱい、ほんとに画面いっぱいで巨大スクリーンで見なければ意味がないのが悲しい、つまらなそうだからビデオでいいやだなんて言ってしまったら、せっかくの作画・CGの躍動感に溢れた大都会が堪能できないから、映画館で見なきゃならないがそうなったら物語に目をつぶるしかないのが悲しい。小うるさいCGによるメトロポリスの情景はただ上手いね、という程度。もちろん技術的には相当なものなんだろうと思うが、私は別にそれを観に来たわけではない。続いて手塚キャラ、初期のまるっこくてやわらかくてかわいらしい主演者たちが登場するが、これもああ手塚タッチだな、見事にアニメにしたよな、と感服するものの、私は別にキャラクター目当てで観に来たわけではない、いや、作画はほんとに素晴らしいんだ、だから監督と脚本は無視し、総作画監督の名倉靖博氏を映画の監督扱いしたい、とにかく肝心の物語はすかすかだから、監督と脚本を担当した人間の名前なんてどうでもいい。さらに初期手塚漫画の特徴であるモブシーンのアニメ的再現も見事、私はCGによる演出に余り関心がないが、何十人もの人々が同時に動き喋りしかもそれがことごとく手塚の絵なんだからびっくりした、えらいよ、名倉氏! あなたは素晴らしい、このシーンだけは何度も観たいけど……さて、物語についてだが……
 めりはりに乏しい展開。山場になってない山場。感情移入を拒むあっさり演出。感動を促そうともしない白々しい脚本。そして冗長な全体の流れ。最悪の一言に尽きる。私は最後の最後まで我慢したのだよ、次の場面にこそ盛り上がる演出があるぞ、と期待しつづけた。退屈な内容についていったのだ。ところが、なんもなし。中心は、人間とロボットの間で葛藤するティマのはず。この映画が「もうひとつの「アトム」の物語」と銘打たれているのもそれが理由(それともこれは単なるあおり文句だったのか)。ティマは何度か自分が何者なのか悩むものの、全く感情が伝わってこない、何故ならそうした演出が図られていないのだ、劇中でやっていることは単にティマ自身に語らせるだけ・実際に悩まざるを得ない事件に遭遇させる機会はあったにもかかわらずだ。それが革命、ティマをロボットと人間の戦いの現場に惹き合わせて悩ませ、その行動の結果が後に自身をロボットだと知ったときの衝撃と重ねればその後ティマが突然暴走したのも必然となりえようが、劇中ではあまりに唐突、せめて原作よろしくなよなよとへたりこんでひとり芝居させろよ……というのもなく、目の前のケンイチも忘れてしまう有り様。ひどすぎる、エピソードの積み重ねも何もない。その場しのぎの豪華セル画映像に堕した代物、映画じゃない。迫力映像を主眼に据えるならば、山場はやはりティマを飛んだり跳ねたりさせてビルを破壊し、崩れまくる大都市の中で賢明にティマを止めようとする人間ケンイチのちっこさを描きつつその姿にひやひやさせながら感動を徐々に盛り上げる、といったことくらいも思い浮かばなかったのか。もちろんそのような展開になったら、「AKIRA」のテツオ対カネダや「スプリガン」のマクドガル大佐対優と同じように、ティマ対ケンイチという構図になってしまうかもしれないが、それでもティマが椅子に座っただけで次々と暴れ出すロボットたちにビル群は破壊され挙句にロックは自爆してジグラットが倒壊してしまうなんて、ティマの超人ぶりが全く描かれない、なんかよくわからんがすごいロボットらしいという程度。なにが描きたかったのか理解しようがない、材料がない。単純に初期の手塚の絵をアニメにしたかっただけじゃないのか、と思ってしまう。いや、実際そんな程度だろ、所詮キャラクター目当て……いや、ほんとにお願いしますよ、物語性の追求。手塚はキャラを売りにしたか? ストーリーテラーと呼ばれていただろ、物語なんだよ、重要なのは。それが手塚作品を原作にするって意味なんだよ。キャラだけ拝借して絵を再現されたって、最近のドラえもん映画をみれば分かるようにつまんないもんはつまんないのだ、まず物語を旨とすべし、どうしてこれがわからんのか……泣きたいくらい虚しいよ。



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