拝啓 手塚治虫様第11回

舞台を作る台詞




 これまでコマや演出・絵面から見える表現を中心にたらたらと語ってきたが、今回は趣を変えて台詞ってものにこだわって考えていく。私は漫画に名言を求めちゃいないし、台詞は絵の内容を補完するものにしか過ぎないって思っていたけど、最近は台詞を考えるのもまた大変だなって変わろうとしている。きっかけは安永知澄の「やさしいからだ」なんだが、いやまあ意外かもね、やっぱり。でも感想文の一言目でいきなり素晴らしいと感嘆したのは別に大袈裟な言葉じゃなくて本心からだったのであるよ。で、いろいろと書くことはあるんだが、台詞について大まかに3つに分けて考えていく。一に説明的台詞とは何か、二に会話とは何か、三にリアルな言葉とは何かって感じ。いつものように具体例用いていくんで、当該作品を持っている方はチェックよろしく。

1 説明的台詞はなんでつまんないのか
 いやまあ実際つまらないよね。ていうかむかつく事もあるよ、あんた自分の絵に全然自信ないのねって蔑みもすれば、物語の転がし方が下手糞だなって読むのをやめることもある。では、説明的台詞ってのは具体的に何かってことなんだが、はっきり言うと、登場人物が自分の知っていることを台詞として言ってしまうってことだよな。高橋しんは台詞回しが下手糞でね、「きみのカケラ」なんて読んでられない。作者としては多分少年漫画ということで読者の年齢層を考慮した結果説明を増やしたんだろうけど、つらい。もう冒頭からひどくて、せっかく読者の心を物語世界に引き入れる好機というところでどかどかと台詞を畳み込んできて、今こういう状況でこんな敵と戦闘しててと、当事者なら周知の事をべらべら話してるもんだから、冗長でスピード感もリズムもない。たとえば……いや止めておこう。
 物語の導入部には説明が欠かせないものなのだろうか。手元にある人気漫画の冒頭を読む。「のだめカンタービレ」、5頁目で千秋の経歴を語る女性達、ついでにのだめの人柄も軽く描写。普通かな。「DEATH NOTE」、リュークとライトの同じ独り言から、リュークが仲間に訊かれて下界へ。この時点でリュークがわざとノートを落としたことが知れる、二冊持っていることも知れる。で、ライトの本名と年齢を発表。母との会話から彼の優秀さが知れる。「また すげードジしたな」で、リュークが過去にいろいろと遊んでいることが知れる、「並じゃビビッてここまで書けない」という比較から、過去にもノートを落とし、拾った人間に憑いていることが知れる。いろいろと楽しみを秘めた導入部だ。「ブラックジャックによろしく」、手堅い、卒業式でおそらく毎年言っているであろう送る言葉で、主人公がエリートだと知れる、そのまま研修医の説明にはいって、エリートから想像される月収と実際の手当ての格差を強調。主人公の状況説明の台詞もそこそこある、医療の現場を語る人々、まあドラマらしいドラマだな。破綻もないが、意外性もない。「AKIRA」、唐突な爆発から世界の有様を説明し、そこからまた唐突にバイクで爆走する少年達が爆心地に来てしまうってのがいい。あれから何年も経ちましたって説明が、クレーター化したそこと少年たちの台詞によって補完され、世界の荒みっぷりがあっという間に描写されている。「MONSTER」、説明が多い第1話であるが、ラストで一気に物語を動かしてしまう、この辺はプロだなー。
 長編漫画は第1話で主人公とその周辺の説明がなされることが多い。つまり、展開が固い。第2話も読もうと思うのはラストの引きの巧みさにある。ここには説明が挟まれない、一体何が起こったのか判然としないまま次回へ続く。基本だろうね、説明しない、説明は次回に繰越しって感じか。説明しないってのが読者の期待感を煽ることになる。だから、舞台の説明を急ぐと見事に失敗することになる、「きみのカケラ」のように。
 でも、やはりナレーションなどを加えて主人公が今の自分を語ることが多い。なんでだろ。学校が舞台なら、それらしい絵を背景にすれば足りるから、学校・教室に居るなどという台詞はいらない・どこにいるかってのは台詞にする必要がない。何が起きているのかってのも実はいらない。それを描写すればいい。はっきり言うと、多くの漫画は説明過多なのである。これは私の全くの推測だが、映画やテレビドラマの負の影響があるのではないかと思う。演出の面では、それらを漫画的にすることで表現の幅を生み、多様な世界を描けるようになった。ところが、それに付随する台詞までもが影響を受けて、少々演説調の台詞になってしまった感がある。

2 会話から舞台を作る
 別に説明的台詞があっても困らない場合があるんだけど、それは3節で述べるとして、ここでは会話の流れをちょっと見ていく。
 ほとんどの漫画の台詞は演説調である、特に売れる漫画に顕著である。消費物として漫画を読む人にとっては、一読して状況が把握できる作品が受け入れやすいということだろう。読者側も独り言を台詞にしてしまうテレビドラマの影響下にあるのか、説明的台詞に対して鈍感なのかもしれない、要はどんな物語かわかりゃいいのかな。でも会話ってのは、「ええ」とか「まあ」とか意味のない相槌はほとんどなく、単刀直入に物事を語るものである。家族、親友や恋人としゃべる時がそう、言葉に無駄がない、ツーカーの仲って言えばわかるかな。一言二言で足りる。でも漫画って相槌まで台詞にすることは少ないよね。説明調がより説明っぽくなるのは、それが文章を読み上げている感じに近いこともある。テレビドラマでも、親しいもの同士のおしゃべりにもかかわらず長台詞をしゃべっている俳優を見ると少し哀れんでしまう、またつまんねー台本書きやがってと。会話ってのは基本的に短い言葉の応酬なのである。
 一方、上司とか先生なんかと話すときは、無駄な言葉が増える。相槌を打ちながら次にしゃべる言葉を捜し、間を作らせない。仲がいいなら間に気まずくなることはないだろうけど、そうでない者同士の話ってのは、誰もが経験あるだろうからわかるはずだ。これを対話という。日本語では会話と対話の区別は曖昧だが、実は明確な差があったのだ。……もっとも、それを意識せずとも台詞をよりリアルに描写しようとすれば自ずと差が出来上がってくるもので、あんま意味なかった、話を漫画に戻そう(この辺を突っ込んで考えようとすれば、さくらももことか石原まこちんなんかの作品を分析すれば面白いかもしれない)。
 さて、物語の冒頭を会話から作って舞台の輪郭を整えていく作品例を見ていく。
 小田扉「団地ともお」。タイトルからして舞台が想起できるのも上手いが、冒頭もなんの説明もなく「ともおー!」という呼び声から、ともおが勉強できないことが発覚し、遊び大好き少年というキャラが立ってくる。親友の名もすぐには明かされず、夏休みの前日の景色が描かれる。遊びから帰ると姉登場、父が単身赴任だと読者に知らされる。モノローグもナレーションもない。会話のみで次々と明かされていくともおの周辺。黒田硫黄「大日本天狗党絵詞」、ゴミを漁るしのぶと師匠、いきなりカラスになる師匠、やがて明かされる師匠の素性。これも会話の流れで舞台を作っている。こういう冒頭ってなかなか読めないんですよ。だいたい自己紹介の語りが入ってくる、主人公が独り語りで現況を述べることもあるが、これは導入部としては誠に白々しい悪例である。いや、もちろんその後の展開で面白く転がせるのだが。たとえば冬目景「イエスタデイをうたって」の冒頭、主人公の室内・生活ぶりを描いた後に目覚まし時計で主人公が起きると早速独り言発動、貧しいバイト生活が明かされる。
 悪例といっても面白きゃいいだろ、と言われればそれまでなんだが、これはあくまでも演出の方法論みたいなものだと思って読んでほしいし、漫画には説明的台詞がいかに多いのかってことがわかって頂けるだけでもいい。つまり、リアルな台詞なんてものは、こと漫画においてはほとんど見られないと断言してもいい。絵で伝えるより言葉の方が手っ取り早く伝わるからだろうけど、なんとも寂しい。数少ない台詞から想像力たくましく物語の背景を考えるという読み方も面白いんだけどね。
 自分でも要点がぼやけてきてしまったけれど、自然な台詞回しってものは案外むずかしいものなのである。実際のおしゃべりを文字に起こして漫画にしたら、思いのほか曖昧な物言いが多くて、台詞の量に内容が伴わないだろう。だからこそ省略が必要になってくる。どの言葉を残し、どれを削るか。これは、人物の動きのどれを描き、どこを省略するのか、という表現方法と同じ難しさがある。

3 リアルな台詞の具体例
 「げんしけん」ですよ。まず人物の設定、オタクになろうとする笹原は染まっていく過程ですでになっている先輩達にどうすればいいのか訊き、先輩たる斑目たちが説明するという自然な図が成り立つ。高坂は知り尽くしているので、ほとんど何かを訊く、ということがないし、相対的に台詞の量も減る。そして一般人・春日部をそこに混ぜて、笹原でさえ周知のことも知らない人物によって、非オタク読者への説明も可能となる。4巻「げんしけん誕生」の回が適例だ。
 「いつも通りだね」という春日部の台詞は、おしゃべりの描写の中断を意味している。この一言は次の展開への呼び水。あふれる台詞の量も数コマに押し込み、狭いところでわいわいと騒がしい印象を醸し出し、90頁1コマ目の斑目の一言だけで室内に間が出来てしまう。この辺は「愛すべき娘たち」の感想でも書いた溜めと抜き・緩急と同じ効果がある。台詞をまとめて描き、次の間を生かす。あるいは多人数の台詞をまとめたところの次のコマで一人だけの台詞でその発言を強調する・93頁3コマ目から次頁の笹原のアップだね。
 説明的台詞の効果的な例が97・98頁である。やや投げやりな感じで問いかける春日部と説明役の大野が2回、最初(それ以前の説明場面も含めて)は、普通に解説しているといったところだが、98頁は笹原の発言に含まれる羞恥を煽る結果になっている。春日部の砕けた表情と大野のいつもの笑顔がさらに強調、笹原の恥ずかしさが勇気に転じて斑目が感心するというとこまで行ってしまう。
 もちろんリアルといっても、主観的なもんである。引用した場面も言葉だけでなくキャラクターの表情や人物の配置が状況をかたどり、最小限の台詞で彼が何を考えているかを読者に想像させている、ここが大事だと思う、想像を促すってのね。斑目の独り言に注目すると、「ほお……」「ふむ」の二言くらいだが、物語の流れから彼が何を思っているかは、誤差はあれど読者全員ほぼ一致した想像をするのではないか(ここで彼が何を思ったのかまるで思いつきもしなかった者がいるとしたら、はっきりいってバ(以下略))。また97頁下段の笹原の表情でもいい、ここは多少の食い違いはあるだろうけど、たとえば、笹原はやりたい事を決めていながらなかなか言い出せずにいる、という読み方もありでしょ。他人に事務的な話をさせ、自分も同様に応える、その裏で錯綜する笹原の苦悩が次頁で破裂しながら、あほらしいといった按配の春日部と冷静な大野っていうのもまた可笑しい。

 とまあ、ざっと書いてきたが、要は読者の想像力をいかに煽るか促すかってことなんですよ。台詞・言葉として表に出てこない部分と説明的台詞として開示される情報の量のバランスが大事なんだと思う。で、次回も台詞についてもう少し書きたい。参考にしようと思うのは、浦沢直樹「20世紀少年」、志村貴子作品、森薫「エマ」、そして安永知澄「やさしいからだ」あたりかな。

参考文献
 平田オリザ「演劇入門」1998、「演技と演出」2004(いずれも講談社現代新書)

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