拝啓 手塚治虫様第15回
「他者」という名の読者
「ただ枠線で囲まれたコマが並べられているだけで、そこに連続性が生じるわけではない。」
伊藤剛「テヅカ・イズ・デッド」の一節である。かなり驚いた文章である。コマが並んでいれば、それでマンガ足りえているだろうと暢気に構えていた私にとっては不意打ちだった。以下、「キャラ」が描かれることでコマは連続性を保持し、「キャラ」は「言葉」に置き換えられると続くものの、「キャラ」論が中心となって「言葉」についての言及は以後あまりなされない。実際、コマとコマを繋ぐものはその通りだろう。読者は絵を追ってコマを追い、絵は時にモノローグや風景に成り代わる。だからコマの中に言葉しかなくても、読者はそこにその言葉の源である登場人物を意識し、風景ならば登場人物の居る世界を意識するだろう。しかし、「キャラ」は本当に「言葉」になり得るのだろうか。「言葉」は「キャラ」になり得るのだろうか。前回までは、台詞がほとんどないけど饒舌な場面をあれこれ見てきたが、今回は台詞だらけだけど絵がほとんど描かれない場面を例に、言葉がどれだけキャラなり得るのか。「テヅカ・イズ・デッド」では、わずかに「夕凪の街」(こうの史代)の主人公が失明し独り言のコマを「言葉」に置換わった「キャラ」の例として挙げるにとどまっていたが、もっとこの辺を突っ込んでいきたい。
コマを繋ぐ空白
田中ユタカ「愛人[AI-REN](白泉社JETS COMIX 全5巻)」は、主人公と副主人公が近いうちに死ぬことを前提にした作品である。そこから芽生える感情を丁寧にゆっくりと描写したことで、主人公・イクルの死を設定上避けて通れないものではなく、誰にでも訪れる死、という原点にまで立ち返った奇跡的な物語である。では、イクルの死はどのように描写されているか。まずは準備段階としての人類の終末という世界設定と病によるイクル自身の衰え・特に失明による暗闇の世界が描かれ、唐突に、作品の狂言回したるハルカの語りによって、死が描写される。
どのように亡くなったのか、その時の状況説明が終わると、イクルの死に際からコマが言葉を紡ぎはじめる。「動けない」「死んじゃう」という悲鳴から、やがて死を覚悟し、全てを受け入れ、先に死んだ彼女を思い、「威厳に満ちたほほえみ」だったとハルカの言葉に戻って終わる。ここは約30頁の挿話だが、うち半分が言葉だけで、キャラクターどころか何も絵は描かれない。特にイクルの内面描写は真っ黒な背景に白い枠線が引かれ、白い文字が印字されているだけである。枠線そのものにも内外の区別があったりなかったり、コマとコマの間・いわゆる間白も真っ黒に塗られている。もちろん、これまで描かれていたイクル像があるので、たとえ姿が描かれていなくても、彼の表情は推察することができる。また、本挿話で強調される彼の笑顔も頁いっぱいに描かれるので、彼の精神的な強さも語らずとも描けることができる。
では、この場面でコマを繋いでいるものは、これらの言葉なのであろうか。言葉に成り代わったイクルというキャラなのだろうか。ここで、伊藤氏が「テヅカ」で引用した「夕凪の街 桜の国」(双葉社2004)の32頁目を思い出すと、モノローグになった主人公・皆実の意識が、それまでのマンガ的なものから言葉に置き換わったことを理解できる。失明した皆実の主観は真っ白なコマとなり、そこに彼女の言葉が乗せられる。「だまって手を握る人がいた 知っている手だった」と「痛い」の間には、そんな白いコマが二つ挟まれている。読者にとって(当然作者にとっても)、それがただの白いコマであるわけがない。その2コマには、言葉にできない思いや沈黙を意味する空白など、描けないものが描かれているだろう。だろう、というのは、読者によっていろんな意味がそこに乗せられるからであるわけで、これだという回答があるわけでなく、作者と読者の共同作業によって、皆実という死んでいく者の感情が刻まれているのであるし、再読のたびに刻まれる言葉は変わるかもしれない、何者をも受け入れる多くの言葉がそこには詰まっているのである。何を描いてもそれ以上のことは表現できないし、また前後の皆実の姿形・モノローグがあるからこそ、何も描かれていない白いコマが、何かが描かれいる・語られているような錯覚を引き起こすのも事実なのだ。物語から浮かび上がり読者が個々に掬い取った皆実というキャラクターの思いが、白い2コマを繋いでいるのである。
さてしかし、「キャラ」と「キャラクター」の問題に踏み込んでいく「テヅカ」の一方で、私には、では「キャラ」に置き換われる「言葉」もまた「言葉」と「言葉みたいなもの(またはキャラクター)」に分かれて考えることができるのだろうか、という、不安みたいなものも感じた。不安ってのもまたよくわからないんだけど、ではここで「テクスト」なる言葉のご登場を考えると、もう私には手が終えないからである。なので、ここはきっぱりと居直ってというか放置して、白いコマ・黒いコマについてさらに考えていく。
読者の登場
余白をはさむことで読者の感情を受け入れた「夕凪の街」に対し、「愛人[AI-REN]」は、独りで死んでいく強さでもって、他人の干渉・読者の感傷を排する演出として、イクルの威厳に満ちた微笑を前面に押し出すために、画面を黒く塗りつぶすことで読者の思い込みを拒絶した。これは、イクルの死に立ち会った姿の描かれない者の登場が象徴している。
彼(あるいは彼女)は言葉・セリフでしか登場しない。イクルが感じる人の気配が、彼をかろうじて登場人物の一人たらしめているものの、その実態は不明であり、存在したのかもわからない。だが、彼がイクルと会話し、イクルの決意を察したのは間違いないのだろう。言葉しか存在しないキャラクター、彼はいったい何者だろうか。
彼は主人公によって認知され、セリフを与えられる。彼はイクルの絶望的な状況に自身の余命短いだろう生を重ね、「私ガ生キルコトハ 誰カヲ殺スコト」とイクルとともに死を選ぼうとする。けれどもイクルの説得によって彼は生き続けることを選び、イクルの覚悟を察して去っていく。イクルの存在は、物語の語り部たるハルカという人物によって支えられている面がある。イクル(とイクルと愛し合ったアイ)の遺したものがこの作品を構成している中で、イクル自身しか知れ得ない彼の姿が描かれないのは、むしろ必然といえるかもしれない。では、彼はキャラと呼べるのだろうか。彼はハルカにとっては存在しないに等しい。だからハルカの言葉で説明されることもないし、後日譚にも登場しないし、生死も定かでない。こんな不安定な存在なのに、私は、彼に人間性を見てしまうのだ。人としてのリアルな行動かどうかは判断できないが、少なくともイクルにとって彼はかけがえのない存在なのである。「ソバニイヨウカ? サビシクハナイ?」という優しい言葉が、イクルの覚悟をより強固なものにする。つまり、誰も必要としない孤高の死を強調するためだけに登場した装置ではないということである。彼は、イクルの偉大な微笑のきっかけの一部となって作品に溶け込んでいるのである。次頁のイクルのほほえみが彼の存在の証なのである。
ハルカが語る威厳に満ちたほほえみが、実は彼に対してのほほえみであったという事実が衝撃的なのである。イクルと読者にだけ共有された秘密、すなわち彼とは読者に置き換えられるのである。私が感じた人間性とは、私自身のイクルへの感情だったわけだ。また、イクルの設定を考慮すると、そこからさらに深読みが可能となる。
イクルは生まれてまもなく大事故に遭って死にかけるが何かを移植されて一命を取り留める。劇中で「他者」と呼ばれるそれはイクルを巣食う存在で、イクルが若くして死んでしまう理由が、イクルを生かした「他者」に原因があり、きわめて複雑な死生観をもたらすことになる。「他者」を憎むことは自分の身体を憎むことであり「他者」と分かれては生きられないし、「他者」を受け入れることはすなわち死を受け入れることであり、生易しい感情ではない。「他者」はイクルの前に現れた彼同様に「私ガ生キルコトハ 誰カヲ殺スコト」という存在なのである。憎むことも慈しむこともできない「他者」を、イクルは最期に許す。世界と戦えと言われ続けたイクルは、許すことで「他者」から解放される。イクルの微笑は読者にも向けられていたのである。……というような感情移入が促されたことで、私は、「愛人[AI-REN]」の世界に登場人物の一人として参加できたのだった。もちろんマンガを読んでいる自分も意識はしているが、無名の彼の登場により、私はイクルに語りかけることができたのだ。
「言葉」を分けるとしたら、モノローグやナレーション・セリフとしての「言葉」と、それを読み何かを思索する「読者」かもしれない。「言葉」は「キャラ」になり得るし、「読者」の感情移入を促す装置にもなる。やっぱり行き着くのは読者である。読者がいるからこそ、「夕凪の街」の白い2コマが意味を持つ。読者という他者がいるからこそ、イクルのほほえみは際立つ。身勝手で無責任で、気まぐれにつまらない面白いと叫び、作者を無能呼ばわりしたり神さま天才扱いする読者。漫画家にとって生命線でもある読者の振る舞いは、実に忌々しくもあり励まされる存在でもあろう。そんな読者の言動の全てを受け入れたからこそ、「夕凪の街」と「愛人[AI-REN]」は如何なる批判賞賛も寛恕してしまう威厳に満ちているのである。
読者が作品に与える影響は、連載の場合大いにありえる話である。読み切りの「夕凪の街」に対し、「愛人[AI-REN]」は連載中読者の声に反応していたことを巻末のあとがきで述べている。真っ黒なコマ真っ黒な背景による死の描写も読者を信頼してのことだと思っている。具体的にイクルの状態を描いて弱っていく彼の姿を見せることもできただろう。だが、作者は読者の読解力を信じたに違いない。だからこそ言葉を描いたのではないだろうか。
読者への信頼感は、表現の幅を広げた。どこまで描けば読者はわかってくれるか、どこまでこの演出を理解してくれるのか。探りあいの中で実験を続ける漫画家がいる一方で、読者へのサービスを持ち味にした漫画家もいる。これもまた読者への信頼・少なくとも読者を意識した作劇であることに間違いない。
例えば、久米田康治「さよなら絶望先生」である。次回は、「テヅカ・イズ・デッド」で触れられた「フレームの不確定性」を端緒に物語論らしく読者について考えながら、「絶望先生」について絶望してみたい。
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