拝啓 手塚治虫様第2回



第二回
 自分でもよくわからないことを書くもんじゃないけど、書かないと次に進まない不器用さ。
 さて、物語のパロディ化だなんて書いた前回、これは要するに物語の共有化と言い替えられるわけだ。この言葉だと世代を問わず民族を問わず知っている物語という印象になってしまうので、やっぱりパロデイ化がしっくりくる。ギャグ漫画ではよくみかけるけど。誰もがありきたりと思う設定を利用したパロディとか、自作に生じた癖や法則を自らパロデイにしてしまったり、例はいくらでもあろう、紋切型のようでそうでない。お約束の展開を期待しつつ、ひと波乱ほしいみたいな読み手の願望とか。
ところで今回は

岡崎京子「バラバラのチワワちゃん」
 岡崎作品の空虚感については今更言うまでもないが、その原因が物語性のなさだとしたら読者はどう思うだろうか。「オカザキズム」においてフリーライター目黒卓郎氏は作品論の冒頭でいきなり「ストーリーのない漫画」とぶちまけている。目黒氏は私の直感とは違って、具体的に彼女の言葉を引用しながら、物語のない物語としての岡崎作品に言及し、社会的時代的な背景を考慮し同時に多くの引用に触れ、読者が好き勝手に物語を引き出し読み取る魅力が岡崎作品にはあると述べる。つまり、物語のない空虚さが読者にとって居心地のいい空間になるというのだ。
 時代とか社会とかはよく知らないが、前回触れたタレントの共有化を岡崎氏はやすやすとやりのけている。のび太・しずかという名前のキャラクターであり、ロックという名前のキャラクターであり、さながらパロディの如く他人のスターを自作に取り込んでいるのだ。目黒氏はこれを「個」を持たないキャラクターと書く。いくらでも取替えがきくキャラクターなのである。物語だけでなくキャラクターさえ空虚なのだ。さてしかし、目黒氏の論はその後作家論へ以降して物語論は途切れてしまうので、ここからは私自身の言葉となる。
 まず岡崎作品の中で典型的な物語のない作品を考察していく。「チワワちゃん」がそれだ。さまざまな引用でつきはぎされた岡崎作品を自ら揶揄するような、あるいは物語なんてこのくらい穴だらけでいい加減でばらばらになってもひとつの作品になってしまう証左なのか、バラバラ殺人事件の被害者となったチワワと呼ばれた女性の人生を、彼女の知り合いたちが偲ぶという設定で話は展開されるのだが、そもそも主人公がはっきりしない。いかようでも揺れる中心軸がこの短編に終始付きまとう。不安定な空気がチワワのはっきりしない人間像に重なり、読者は知らず知らず彼女の実態を想像しはじめるはずだ。
 まず主人公について。もちろん主人公がはっきりしない物語はあるだろう。複数のときもあるだろう。だが、この作品はチワワ像のひとつの可能性を描いているにすぎない、これが主人公だとはっきり言えないし、主人公はいないとも言えないのである。棺に泣き伏す両親・嘆く高校時代の親友、殺されたことが必然であったかのように彼女を論じる評論家、そして集まった本編の登場人物たち。少なくとも3つの視点があり、これに読者を加えると4通りもの視点が結ばれる、実はこの読後のチワワ像こそが本編の主人公といってよいのではなかろうか。もっとも、とりあえずの語り手はいる、チワワを2週間自宅に泊めたことのあるミキである。ミキは淡々と本当のチワワ像を求めて考え、会話し、一体何者なのかを探る。読者に近い立場にいる、それでいてどこか冷めている。それはチワワの死に泣き崩れるわけでもなく、微妙な距離を持って彼女と接していたからである。集まったチワワの知り合いで泣くのはユミ一人だけ。その娘でさえチワワと喧嘩して後味の悪い思いをしている。作品の感情が希薄なのだ。だって11人(だと思う)が集まりながら、結局彼女は何者だったのかわからずじまいなのである。そして彼女自身も自分が何者なのかわからなかっただろうと語るのである。
 こうして言葉にするとなにやら物語がありそうな気がしてしまうが、本編で一番重要な描写はチワワの表情だと思う。作者としては読者が好き勝手にチワワを思い描くことを予想していただろうが、発想を矯正せず自由にしたままである。チワワともっとも親しかっただろう元恋人を登場させないことによって彼女の本心が隠されたままだということである。集まった彼らはひたすら彼女の表層・印象から期待するチワワ像を語るだけとも読める。彼女の本音は一切明かされない。劇中笑顔をたくさん描かれるチワワ。冒頭の笑顔と同じような顔がラストで描かれるのだが、ここで読者は彼女の表情から当初感じなかった何かを読み取るのである。この「何か」を読み取るという行為こそ、作品にリアリティか生まれた瞬間なのである。リアリティだなんてまた自分でも定義がわからないもの持ち出してしまったけど、別の言い方をすれば作品に血肉が与えられたと言えるかも(岡崎二郎「アフター0」の「マイフェアアンドロイド」の感想で書いたことと重なるが)。つまり、物語のない作品が読者によって物語を与えられたということなのだ。
 ところで、これは大変な事態であることに気付くだろうか。読者によって成り立つ物語とは、要するにチワワの本音はどうでもよくて読み手一人一人が望むチワワが作り出されてしまうのである、評論家を勝手なことをいう奴だと罵ったユミ、読者もいつのまにか罵られる対象に成り下がっているのだ。なんともまあ恐ろしい罠を仕掛けた作品だ。これに限らず、岡崎作品について何か批評めいたことでも言おうものなら誰もが一度は陥る罠だろう。それをとてもわかりやすく実体験できる作品が「チワワちゃん」なのである。
 ただひとつ断っておきたいことは、あくまでこの論旨が漫画と物語の関係についてということであり、個人的に岡崎作品の魅力は別にあるので。読んでいる最中の空気と読後の余韻の名状しがたい違和感が気持ちよくて岡崎作品を読み漁ったので。絵がたまらなく好きというのもあるわけで。つまり、はなっからストーリーを求めない態度が私にあったわけか、今気付いた。でもまた一方で、絵そのものとか作品の空気自体から物語を作ろうとする作家もいるわけで、このあたりが難しい。
 今回の論をまとめると、読者が劇中から何かを読み取ることによってはじめて作品が物語となる具体例を述べたという感じ。で、次は、岡崎氏とは正反対に、一所懸命物語をつくろう作ろうとしている作家の一人、高橋しんの作品を例に物語について考えてみたい。


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