拝啓 手塚治虫様第20回

僕たちの好きなドラゴンボール




 「漫画に物語はない」という直感を動機として書き始めた「拝啓 手塚治虫様」も節目の20回目ということで、今回は、私も思い入れの深い作品を例にマンガ物語論を考察していきたい。思えば10回目で触れた「童夢」の時に「ドラゴンボール」についてもいずれ考えたいといってから何年経っとんねんって感じだが(このシリーズが始まったのは2003年、第10回が2004年、前回が2006年の4月だっけ。実に一年ぶりの更新……)。
 前回は物語論・ナラトロジーを意識した話だったが、今回もそれを踏まえながら、鳥山明「ドラゴンボール」を読んでいこう(前回に倣い、物語は「ストーリー」「キャラクター」「世界観」「読者」の4つに分けて考える)。


1 ペンギン村再び
 「ドラゴンボール(以下「DB」と略す)」が、作者・鳥山明の前作「ドクター・スランプ」と、当初地続きであったことはあらためて語るまでもないだろう。「世界観」は、前作の舞台であるペンギン村がどこかにあるだろう世界であり、事実、そのような設定が後に展開されるわけで、恐竜が現れたり変な生き物が登場しても前作からの読者は、なんの違和感もなく作品世界に入り込めた。描線も丸みを帯びたもので、どの絵も柔らかい印象があり、アクション場面でも、迫力よりも線のやわらかさが目に付いたために、どこか滑稽でさえあった。全体的に平和な世界がそこにあったわけである。集中線などの効果線にしても、緊密ではなく、背景を描き込める余裕がある程度の太さと間隔で引かれており、やはり迫力やスピード感よりもキャラクターの丸っぽい輪郭線が前面に出ている。
 「キャラクター」にしても前作を引きずっている。特に顕著なのが第1話でブルマを攫う翼竜である、しゃべっているのだ。後のDB世界では考えられない描写だが、人間と動物、物も含めて、境界がなかったペンギン村同様に、「DB」の世界観もどこかの異世界を舞台にした、何でもしゃべることが出来る世界だったわけである。擬音をフキダシの中に入れ、物そのものがしゃべった音であるかのような描写にしても、この世界だからこそ意味があった。着地をしたときに「とん」「トン」というフキダシは、着地音であると同時に、地面が発した声という穿った見方もできたわけであり、実際にそのような読みは可能であった。ペンギン村世界では、地球や太陽までが擬人化されて話していたことを思えば、読者にとって何にフキダシが付いていようが頓着しないわけである。
 しかし、このしゃべる動物達は、DB世界が現実的になるにつれて後退していく。海亀、ウーロン、プーアル。彼らの登場が減っていくのは必然であった。これはペンギン村世界との断絶をも意味する。
 もちろん、彼らの登場がまるっきりなくなるわけではない。わかり難いたとえになるが、彼らは、「あしたのジョー」の世界におけるドヤ街の子供たちなのである。夏目房之介氏がBSマンガ夜話「あしたのジョー」の回で、キャラクターを、ドヤ街の子供たちに代表されるちばてつや的キャラクターと、力石や葉子に代表される梶原一騎的キャラクターに分けて論じた。前者が登場当初からほとんど成長しないまま最後まで描かれ、やがて撤退していくのに対し、後者は成長し大人になっていく姿が描かれ最後まで登場する、つまりちば的キャラと梶原的キャラの相克が水面下で行われていて、最終的に梶原的キャラに納得したちば氏が梶原的なものを受け入れ昇華した、というような結論に至っている。このキャラクターにまつわるドラマが、DB内においても行われていたわけである。
 鳥山明の中にある、ちば的な資質と梶原的な資質、これを漫画的(またはペンギン村世界)と劇画的と言い換えればわかりやすいだろうか。両者が並存していた当初の世界観が何故瓦解し、劇画的世界が前面に立っていったのか。その兆候は、既にはじめから潜んでいたのである。

2 桃白白は何を殺した
 亀仙人はチチに頭を割られようとランチに乱射され蜂の巣にされようと血を流しながら「いてて……」などと言えば、それで事は済んでいた。絆創膏を貼るなり包帯でも巻いておけば、怪我は治る。というか、読み手にもそれが致命傷で亀仙人が死ぬという認識はない。もちろん、これらの場面を読んで、だから頭に何か刺さっても平気とか銃で撃たれても死なないなどという現実的な発想に飛躍することもない。現実世界との区別が働く以上、キャラクターがどのような目に遭っても、それが虚構世界の出来事であるという認識が前提としてある。
 当たり前の話であるが、こうした区別が可能なのも、読み手は虚構のキャラクターとコミュニケーションが出来ないからである(子供がマンガと現実を混同しない理屈の説明もこの辺りにあるんだが、専門的になっちゃうんでここでは触れない)。そして、現実にありえない設定により、虚構と現実の境界を際立たせていく。だがしかし、一つだけ曖昧なものが残っている。死である。
 ペンギン村世界の原則はキャラクターは死なない、である。DBでも当初は貫かれていた。死はあからさまに描かれることはない。既に死んだキャラクター(悟空の祖父・孫悟飯)はいても、これから死ぬキャラクターは登場しないので、ストーリーから退場する場合は、どこか遠くに吹っ飛んでいく等の描写でごまかされていた。ウサギ団が悟空によって月に運ばれてしまったところで現実的にありえないという突っ込みはないし、後に亀仙人が月をかめはめ波で消し飛ばしたところで、ウサギ団どうなったんだろうという疑問が生じたとしても、彼等は死んだという発想には至らない、多分どっか宇宙空間をさまよってるんだろうとか、まあ大抵は気にしない。死なないから。ところが、悟空がフリーザとの戦いに決着をつけるもナメック星の爆発に巻き込まれたとき、読者は悟空が死んだと思ったに違いない。かつて月まで如意棒で行った悟空が、何故宇宙で死んでしまうのか? ランチに頭を撃ち抜かれても死ななかったのに何故? この読者の変化も含めて、DBが序盤と中盤以降で世界観を大きく異なったものにしていることが理解できるだろう。
 では、世界観の変化を促進したものはなんだろうか。読者がより激しい格闘を望んだとかいう憶測もあろうが、最も大きな理由は七つ集めればどんな願いでも叶うドラゴンボールの設定そのものにある。そして、この効果的な使用法を起動したのが、殺し屋・桃白白だった。
 キャラクターが死なないはずの世界にもかかわらず、殺し屋が存在する矛盾。彼に倒されたキャラクターは死んでしまう。桃白白登場直前で描かれたエピソード「追ってペンギン村」(「ドクター・スランプ」の舞台そのもの)が、まるでこれからペンギン村と訣別するために描かれたかのような印象さえある。この一連の展開で悟空と戦うブルー将軍にしても、たとえば海賊の洞窟のなかで部下が罠にはまって槍で刺されても「すいません 全滅しちゃいました」とおどけられたり、ペンギン村でアラレに叩き飛ばされてもどこかで生きていたり、不死身然とペンギン村世界と地続きのキャラクターとして存在していた。そんな将軍が、桃白白に簡単に殺されてしまう、ギャグでもなんでもなく、二度と起き上がることはない。桃白白は、死なないはずのペンギン村の住人をも殺してしまったのである。

3 連載はなおも続く
 桃白白の登場から死んでしまうキャラクターが激増する。これまで倒す倒される関係だった戦いが、死ぬか生きるか・殺すか殺されるかという言わば殺し合いに発展してしまうからだ。そして戦うまでもなく無慈悲に殺されるキャラクターにも読者は度々遭遇する。にもかかわらず、これは私見になるけど、私はそうした変化に気付かないどころか逆にもっと面白さを感じていた。何故なら、ドラゴンボールを集めて死んだ人間を生き返らせる、という漫画的設定が生きていたからである。そのために殺し合いで敗れても、また復活できる道が用意されていることを知っているわけで、格闘場面には辛うじてペンギン村世界の余波が残っていた。
 2回目の天下一武道会におけるクリリンとチャオズの戦いのおかしみ、天津飯と悟空の真剣勝負と同時に時折挟み込まれた滑稽あるいは漫画的な技は、殺し合いを忘れさせてくれた。どちらが強いのかという純粋な楽しみもあった。だが、大会終了後のピッコロ大魔王編でまた読者はキャラクターの死に直面してしまう。
 クリリンたち主要キャラクターの死は、DB世界の転換期となる。彼等は世界でも屈指の格闘家に成長し、彼らを倒せる存在自体が超人と呼べる実力者だろう。ピッコロ大魔王は、そんな新たな強敵に課せられた条件を容易く突破した存在として登場する。亀仙人の過去まで語られることで、DB世界に歴史まで生まれる。国王の登場で世界がどのような形であるのかも自ずと理解されるようになる。つまり、これまで曖昧だった世界観が、現実と照らし合わせが可能な世界に近づいてきたのである(だからと言って、西の都が29地区だとすると、ペンギン村が何地区だろうかという推理ができるわけでもないのだが)。43に分かれているという地区、ピッコロ大魔王がくじを引く場面でジングル村の親子がテレビでこれを見守る1コマが入る。桃白白登場以前のエピソードに登場した親子である。また最初の天下一武道会で戦ったナム等も登場し殺される。過去のストーリーが死ぬこともありえる世界で振り返られたことで、DBそのものが元からそうであったかのような作意がこの時生じているのだが、多くの読者・特に読者層を考えれば当たり前だが、気付くことはない。ペンギン村世界は、ここで完全に潰えたと言ってよいのだ。
 さてしかし、この世界観の変貌に鈍感だったのは読者だけではない。作者も同様である。ペンギン村世界が崩壊したにもかかわらず、鳥山明はなおもその世界が存続しているものとしてストーリーを構築する。これがDBのストーリー上の矛盾点が数多く指摘されている所以の、少なくとも一つであろう。
 それでも当時の読者がDBを支持したのは疑いようがないわけで、ストーリーが何度閉幕に向かおうと連載が引き伸ばされた経緯を見るだけでも、それが想像できよう。神様まで登場し地球規模のストーリーになり、作者でさえ制御できないほどの世界観を広げるに至ったDBは、死そのものさえ自在に操ってしまっているかのような節操のなさを内包してしまった。
 DBが土台をどうにか維持できていた仕掛けがないわけではない。ドラゴンボールは死んだ人間を一度蘇らせるだけ、天下一武道会は相手を殺したら失格、というルールが設けられていた。そして悟空の結婚により、主人公の少年時代は幕を閉じることになるのだが、連載はなおも「ちょっとだけ」続くことになってしまう。

4 さらばペンギン村
 以降のDBは格闘というよりも殺し合いそのものになる。ベジータのサイバイマンゲームが、名ばかりの殺し合いであることを挙げるまでもなく、戦いに敗れることは死を意味していた。残されたルールも、やがてナメック星のドラゴンボールによって消えてしまうことになり、箍が外れたかのように殺戮も描かれる。
 皮肉にも生き返り可能な世界が、死なないキャラクターたちを復活させることになる。では、ペンギン村世界は戻ってきたのだろうか。
 激しい格闘場面が描かれるようになって描線に変化が現れる。当初の柔らかい線は鋭利になり、直線的な線が増える。流線も密度が増し、より速い動きの描写が追求される。例えば、残像拳の描写の変化。残像拳は超スピードで人影が残像になるという理屈だが、輪郭線はぼかして描いていた。それが段々と実線で描かれるようになる。実像に近いほどの残像、という意味であるが、この変化は他の動作でも同じであった。斜線などの描き込みが増加し、筋肉質な身体を描く機会が増えたせいだろう、キャラクターの描写そのものが写実的になっていく。丸い顔はキャラクターの肉体的成長に合わせて細長くなっていき、眉毛と離れていた丸い目は尖り四角くなって眉毛とくっ付いた。
 さらに気の実体化である。特にサイヤ人登場以降から、気を表すオーラがキャラクターの周囲に描かれることが多くなり、動きそのものもオーラに包まれて描かれる。すると、今まで輪郭をぼかしたり流線で省略されていた手足の超スピード描写が、手足そのものをオーラで包んだまま保たれたままに描かれることになる。これはパワー描写に優れていた、打撃の重量感を筋肉質の身体を線でかき消すことなく表現できたからである。
 かようにしてDBは、スピードとパワーの表現に突出した格闘場面に合わせて絵柄を変化させていった。平和なペンギン村とは無縁の世界である。
 私の感想では、ナメック星編で完結するとばかり思っていた。スーパーサイヤ人は伝説のまま終わり、主人公も死ぬ。しかも地球では飽き足らず宇宙まで救ってしまった。これ以上強い相手はいないし、ストーリーの締めとしても申し分ないと思う。だがやっぱり、ドラゴンボールなのだ。何度でも蘇ることが出来てしまう世界の現出、作品世界そのものが死なないキャラクターみたく化け物に成長していたのである。同時に、肥大化した作品を終わらせるためのストーリーが構築されてもあり、鳥山明の苦悩がほの見える。
 ナメック星編でも十分終われそうであったストーリーが続いてセル編に突入する。ここで重要なのが、神とピッコロが融合しためにドラゴンボールの利点が無くなったことである。DB世界は、ここで初めて死ぬ世界になる。ペンギン村的死なない世界が、桃白白で死に得る世界になり、ドラゴンボールの改良で何度でも蘇ることが出来るようになったのも束の間であった。キャラクターが死ぬ現実的な世界が現出してしまったことで、ストーリーからペンギン村世界への回帰の希望は断たれた。その世界を引きずっているキャラクターはまだ登場してはいたものの、彼等の多くは戦いの前線に立つことはなかった、ヤムチャしかり、チャオズしかり、ヤジロベーしかり……
 鳥山明が周到に準備した完結に向けて始まったはずのセルゲームであるが、その直前にドラゴンボールが復活してしまう。まあ作品のタイトルの意味がなくなっちゃうというわけでもあったんだろうが、これでまた連載が続く伏線が張られてしまったような気がしないでもない。カバー折り返しのコメントで、そろそろ連載を終えたいことをほのめかしていながらも、この挙に及んでしまうことから鳥山明の世界観への鈍感さがうかがえる。ドラゴンボールが一度死んだものは生き返らない設定に戻ったのがせめてもの救いだろうか。
 しかし、前作のような理想郷ペンギン村に戻れないのならば、せめてそれらしいキャラクターを格闘の緊迫を和らげる存在にしようと登場させたかどうかはわからないが、ミスター・サタンがその世界を髣髴とさせるであろうことは間違いない。
 その後、主人公の交代と平和になった世界を舞台にすることでペンギン村への回帰を図るも、短期で失敗してしまうことは詳しく語るまい。ここでは、前作に戻れない故の苦心の作とも言えるエピソードが展開されている。戦士としての強さをギャグにすることで、新たな展開を試みている。始めこそ第三者視点だったナレーションが、ビーデルや悟天と修行する場面で主語が突如悟飯になるのである。彼が主人公であることを強調するかのような変化である。429話から数話で終わってしまった悟飯によるナレーションであるが、格闘場面を描きつつ、どこか滑稽な展開にしようという鳥山明の企みは、さてしかし、主語が再び第三者に戻ることで、かつての死を賭した格闘に逆行した。
 トランクスと悟天の振る舞いや、ブウとサタンの交流など、死闘の中で演じられた滑稽な場面が、おそらく鳥山明が見出した回答かもしれない。DB以後に描かれた中短編からも推察できるように、格闘場面から逃れることが出来ない作風になってしまった。
 半永久的なストーリーを約束されたドラゴンボールの願い事、拡大し続ける世界観、肥大するキャラクターの強さ、衰えない読者の人気……結局、物語は大団円というサブタイトルを用いられずに終幕する(「大団円」はセルゲーム終了時のサブタイトルで使われていた)。主人公は悟空に戻り、「バイバイ ドラゴンワールド」というサブタイトルが最終話というのも、なんとも寂しい。ペンギン村世界からDB世界へ移行はしたものの、そこからも去ろうとする鳥山明が、DB以降の作品でどのような世界を描いているかを思えば、その苦悩は切なく、読むに忍びない。


 ――というわけでだらだらと死を鍵にDBについて書いてきたわけだが、やっぱいびつだよな、DBは。ばかばかしいことをするキャラクターの一方で死と隣り合わせの戦いをするキャラクター、この辺がギャグになってないような気がしている。ブウ編から、さかんにおかしなキャラクターを投入しているし、後の鳥山作品の方向性を暗示しているんだが、個人的にいまいちのめり込めていない。もちろん読者の勝手な期待もDB連載に影響はしているんだろうけど。
 というわけで、極私的物語論は、もうちびっとだけ続くぞ!
(2007.2.19)
参考文献 夏目房之介「鳥山明『DRAGON BALL』試論 「強さ」とは何か?」(「漫画の深読み大人読み」イースト・プレス2004収載)

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