拝啓 手塚治虫様第21回
「GUNSLINGER GIRL」試論3 アンジェリカは思い出を語らない
試論1はこれ。試論2はこれ。さて今回は。
相田裕「GUNSLINGER GIRL」の物語を考える試論の3回目は、前回(2006年4月)は既刊が6巻までだったが、今(2008年3月)は9巻まであり、7巻から9巻までの内容を中心にキャラクターから物語を見ていきたい。
6巻の第二期の義体・ペトラの投入によって物語の雰囲気が変わった。1巻から読み親しんでいる者ならば誰もが感じたはずだ。違和感か・さらなる萌えか受け取り方はそれぞれあるけど、ペトラだけでなくこれまで描かれていたキャラクターまで頭身を伸ばすという大きな転換を図ったのである。少女であることを意識せざるを得ない頭身だったキャラクターが、少し大人っぽく描写されることで、物語にどのような変化が見えるのか。ペトラ前・ペトラ後という区切りを設けてキャラクターの変化を試論1・試論2と少々重複するけど振り返りたい。
過去を持たないキャラクター
義体は「条件付け」と呼ばれる薬剤の投与等によって洗脳され、筋肉を細胞組織レベルで強化されたサイボーグとも言える身体能力を持つ存在である。義体の元となる人間・素体は、劇中では少女だけが選択されている。試論1で述べたので倫理的な問題は避けるが、とにかくかわいらしい少女たちが超人的な運動能力と熟練された銃火器の使用で、反政府組織やテロ組織の連中を殺していく。
各義体は洗脳の結果、担当官への絶対的な忠誠心(ほとんど愛情に近い)と組織への忠義を植えつけられるが、記憶を失いやすいという弊害が生じてもいる。試論2では、義体としての日常がその日その日のものであり、薄れていく過去を嘆くことはすれ、完全に忘却してしまった事柄に関しては、嘆くこともせずに初めての体験の如く……いや実際彼女にとっては初めての出来事なわけで、過去を知っている担当官と読者は、義体のそんな境遇に感傷的になるなりして、なんらかの情動を得ているというような意味合いのことを書いたが、ペトラに関しては、ペトラ前の義体とは違った方面から、過去を詳細に描いていくのである。
ペトラ前の義体たちは、義体になる以前の描写もあるにはあるが、それはほとんどが悲劇的な状況としての義体になる経緯の説明という側面が強かった。実の親に殺されかけたとか、家族を殺され自らも肉体的精神的にひどく傷つけられたとか、そういう状況が強調された。義体の中には、何故自分が義体になったのかという理由すら記憶していない者もいる。義体になる以前の健康体だった少女時代は、本編ではほとんど触れられることがなく(もちろん、今後のストーリーで触れられないとは限らないけど)、義体の過去と言えば、義体になってからの日常風景を指していた。ところが、ペトラ後に義体の過去について語ろうとすると、それは義体になる以前も含むのか、という疑念が生じるようになる。ペトラの登場は、単にキャラクターの頭身が伸びた、というだけでなく、キャラクターの過去と現在を比較し、どれほど成長したのか・担当官との関係の変化はどうかといったキャラクター固有の時間に着目する・せざるを得ない土台を作ったのである。過去・現在を意識すれば、当然のように短命だといわれる義体の未来も視野に入るだろう。アンジェリカの死は、この時から動き出していたのである。
このサイトのどこかでも書いたけど、一般的に人間の記憶は大雑把に二種類ある。脳の記憶と身体の記憶である。この点、「GUNSLINGER GIRL」は身体の記憶を切り捨てている。手術や改造・投薬といった処置により、怪我をしても義体は直ちに「修理」されてしまうからだ。このために義体の過去は一切記録されない。かわりに担当官であり周囲の人々であり、そして読者だけが、義体の過去をつかさどることになる。
キャラクターと記憶については試論2のクラエスの挿話も参照できるが、ここではそれ以降の記憶に関する描写を考察してみよう。33話(7巻より)である。
クラエスの日常は18話で描かれていた。33話はそれを反復すると同時に、彼女の記憶が何によって刻まれているかを印象付ける挿話にもなっている。彼女の担当官はすでに死亡しており、試験体として実験データ取得のために生かされているような存在でもある。他の義体と違って活動的な描写もほとんどなく、そのため彼女の記憶は平凡な日々の繰り返しに飲み込まれている印象さえあった。そんな彼女が担当官から言いつけられた約束をいまだに遵守し、彼の言葉にいつまでも縛られ続けていることが彼女の過去を形作っている、というようなことが、ペトラとの眼鏡を巡るトラブルではっきりする。
担当官がいない彼女にとって忠誠すべき相手はいない、というのが表面上の設定である。眼鏡は担当官との誓いの象徴というか、ほとんど担当官と同義であることは彼女の反応を見ても理解できる。素っ気無い態度で接することが多く義体とも距離を置きがちだった担当官。彼女は担当官を失うことで、彼との約束という記憶が刻まれてた眼鏡・担当官と常に一緒に行動することがついに叶ったわけである。
クラエスと記憶に関する描写で見逃せないのが、担当官が抱えていた傷である。彼・ラバロは、銃の暴発事故で右足を負傷し杖をついて歩いている。いわば彼の身体に刻まれた記憶である。生前の二人を描いた挿話(6話)でクラエスは傷について訊ねた。彼は言う、ここで3年働けば元の職場に復帰できるという約束だ、と。約束を忘れないための傷。傷を持たない義体クラエスの記憶は、外部の物体に宿っている。眼鏡以外にも、彼女は畑を作り苗を植えていた。それらが育ったとき、彼女は自分が植えたことを果たして覚えているだろうか。
さて、33話はクラエスの記憶がペトラの記憶が比較される。クラエスが眼鏡や植物といった外に記憶を求めたのに対し、ペトラが自身の身体に埋もれている・まだ消されていない記憶を呼び覚ましていくからである。建設中の建物の屋上から広場を観察するペトラと担当官サンドロ。ペトラは義体以前のようなバレリーナのごとき柔らかい体の動きを披露する。義体になって間もなく赤ん坊同然の状態だとサンドロに言われながらも、彼女の身体に刻まれた記憶を知っている読者は、彼女が俊敏な動作や柔軟な身体を見せるたびに、過去を思い出さざるを得ない。彼女の中にひょっとしたらまだあるかもしれないバレエの才能は、こうした描写の積み重ねで、義体以前の記憶すら戻るのではないかという緊張感も生じるだろう。読者にとってのキャラクターも、ペトラ前=物体、ペトラ後=自分の身体という記録の違いが意識されていく。
続く挿話でクラエスとペトラは遭遇したテロ組織の一員を捕縛すべく格闘することになる。眼鏡を掛けている時はおとなしいクラエスでいてほしい、という約束の言葉が復唱されると、彼女が担当官の言葉と組織(公社)の命令との間で苦しむ場面が描かれる。これもペトラと対照されている。ペトラはサンドロから俺の名前は呼び捨てでいいと言われながらも、「サンドロ様」とどうしても呼んでしまう。無理に罵ったり呼び捨てたりしては、嘔吐してしまう。「様」付けは、公社が洗脳した結果であり、担当官には絶対服従せよという命令だ。サンドロは自分の信条から、その抑圧からペトラを解放してしまうわけである。9巻から「サンドロ」と呼ぶペトラに、記憶の喪失がいつ訪れてしまうのか、作品の見所はまだまだたくさんありそうである。
過去を記録するキャラクター
クラエスやペトラとは別に過去を留めておこうとするキャラクターも描かれる。トリエラとヘンリエッタである。
50話(9巻)冒頭でトリエラは部屋に並べられたクマのぬいぐるみたちを眺めながら、どれをいつ貰ったのか確認する。彼女にとって担当官ヒルシャーからのプレゼントであるそれらは、担当官との絆であり、クラエスにとって唯一残された眼鏡と似たような意味があるだろう。さらにトリエラの場合は、劇中で激しい格闘場面が幾度も描かれるアクションの多い役柄でもあり、戦いの記録として銃器にも意味がある。だが、彼女はそのうちの一つだった散弾銃との縁を思い出せないでいた。
50話の前の挿話がアンジェリカの死を描いていただけに、思い出せない過去が、やがて現在をも侵食してしまうのではないか、未来への意識に繋がっている。アンジェリカの遺品を整理する義体たちは、彼女の荷をまとめながらも、特に哀しい表情を見せない。「何も感じない」と言うトリエラ。義体たちの記憶からもいずれ消えていくだろうアンジェリカとの思い出(忘れる前に寿命が来るかもしれないが、それはそれで哀しいものがある)。散弾銃を抱きしめた彼女にとっては、他の義体の死よりも、自分の記憶の死のほうが怖いのである。
クラエスとトリエラの対話は、二人の記憶に対する考え方の違いが明確になっている。忘れることに恐怖するトリエラと、超然とした風さえうかがえるクラエス。いろいろなものを持っているトリエラには自分のような境地には達し得ないだろう、とクラエスは思うのだが、彼女の手には自らの手で育てたハーブがあった。彼女の思い出はハーブの成長に記録されている。
ここでペトラを思い出せば、彼女の記憶がサンドロという存在に記録されていることがわかる。そして、義体以前の記録映像。義体の中でただ一人記憶以外の姿を刻んでいるペトラのリーザ(義体になる前の名前)時代の映像は、人や物とも違う動かしようのない記録として残っている。これが今後の物語でどう関わるかはわからないが、人物の立ち居振る舞いから過去を言い当てる特技を持つサンドロと、その技術を学ぶペトラの二人が、義体にどんな過去を探ってしまうのか、記憶という側面から物語を考えると、いろんな可能性が見えてくる(たとえば、ペトラ自身がその能力によって自分の過去を探り当ててしまうとか)。
キャラクターの設定としての人生は、本来であれば、安易な例ならトラウマとか、得手不得手の理由付けとか、現在のキャラクターの言動を決定付ける動機として有用である。現実的な生き様が存在感に繋がっていたし、世界観との関連も見えた。しかし、義体には、いつ記憶が失われてもおかしくない状況が待ち構えている。それこそ作者の胸先三寸とは言え、読者の期待とは無関係に、ある日それは突然やってくるかもしれない。キャラクターに思い入れのある読者にとっては、ストーリーを次に進めるための短絡的な処置・ご都合主義と捉えられることだってあるだろう。義体の記憶障害という設定には、そんな危険性をもはらんでいる。
ではそのための対抗策はないのかと問われれば、すでに劇中で用意されている。ヘンリエッタは担当官ジョゼからカメラと日記帳を与えられ(4話)ていた。アンジェリカの死が中心となる9巻収載の46話では、あれから1年が経過していたことが明らかにされる。整理されたアルバムを誉めるジョゼだが、どのような写真が取られているかはあまり明示されない。自分と映った写真が少ないと、ヘンリエッタと並んで写真を撮るという和やかな印象がある場面である。だが、ここで着目すべきはカップの横に散らかっている砂糖の小袋だろう。カメラをプレゼントされる4話で5袋ほどだったそれは、1年後、倍以上に増えているのが確認できる。投薬の副作用だろう、砂糖の甘さを感じないという彼女の状態も、「クレプスコロ」という義体の死を黄昏に喩える副題になぞらえれば、寿命が近いことを示唆されているとも読み取れる。夜空を見て、星は泰然としていいなと思うクラエスの描写からも、彼女が死を恐れていないことがわかる、むしろ死を望んでいるかのように解釈されるかもしれない。
ぬいぐるみや銃に染み付いた記録、写真という記録、さらにサンドロの存在や眼鏡・ハーブと、義体というキャラクターは他の代替物によって過去を封じ込めていく。これにキャラクターの頭身の急変を加味すると、ペトラ前後の区切りの意味が明瞭になる。すなわち読者の記憶である。
キャラクターの頭身がいくら変化しようとも、ギャグマンガといった例外はあっても、基本的に物語でそんなことが問題にされることはない。肉体的な成長という点は描かれても、頭身が連載の過程で・特に長編マンガの場合に多くみられる描写の変化があろうとも、物語は何事もなく進行する。ペトラ後に身長が伸びたクラエスやトリエラにしても、彼女達の伸長は他のキャラクターに指摘されない。虚構なのだから当たり前である。義体の容貌が変化しても世界観までは変わっていないし、そういうものとして読み進めるほかはない。ペトラ前後という区切り自体が、物語を過去と未来に切り分けているかのように見せているのである。
ペトラ前にはもちろんペトラは描かれていない。義体たちの日常は読者の記憶に積み重なっているが、ペトラ初登場時、彼女にそんなものはないわけで、彼女を他の義体と同様の存在に性急に仕立て上げるための措置がリーザ時代の執拗な展開なのかもしれない。これはサンドロも同様だ。これにより、ペトラ前の義体たちの記録が、過去のように扱われる。これまで描いてきたストーリーが、各義体の歴史として積み上げられ、頭身の変化により鮮明にされた。時間を意識させる描写の増加とアンジェリカの死が、それを物語っている。
過去のないキャラクター
アンジェリカが義体になった経緯は、親に保険金目当てで殺されかけたところを公社によって義体として存命し得たことである。普通の医療を受けていれば死んでいたはずだった彼女を担当官マルコーは「アンジェリカは亡霊だ 亡霊に人生など存在しない」と一喝する。「亡霊」には「ファンタズマ」というルビが振ってある。「Fantasma」。第29話の副題である。
この挿話はペトラ前の最後の挿話でもある。第30話からペトラが登場し、物語の様相が変化するわけだが、その最後の締めとしてかのように、「亡霊」と名付けられた話の中で、まさに亡霊に振り回される担当官の姿が描かれた。ジャンとジョゼ・クローチェ兄弟の過去も物語には大きなうねりをもたらしているが、ここでは失った妹の姿がジョゼによって回想され、ジャンには幻となって見える。ヘンリエッタに亡き妹の姿を重ねる兄弟、特にジョゼにとっては、ヘンリエッタの担当官という立場を超えた偏愛が見える。マルコーの「亡霊」という言葉を聞いた時、担当官たちの捜索によってアンジェリカが見たという犬の幻が実在していた事実を突き止め、居場所を捜し求めた。
幻が、アンジェリカが義体以前に飼っていた犬だったことが判明し、マルコーは彼女と犬を面会させようと考える。同行するのは当然ジョゼでなければならない。妹という亡霊をいつまでも追っているジョゼはマルコーとの対話で語る、「その存在によって救われる人間もいるということだ」と。義体という犠牲によって義肢等の技術は確実に進歩していることが直前で描かれているが、その言葉の意味するところは、ジョゼにとってヘンリエッタという存在であることは言うまでもない。マルコーは応える、「お前の義体もそう長くはないぞ」
犬の発見はアンジェリカには確かに義体以前の過去があったという証であり、彼女は一時的にせよ、犬を飼っていた過去を思い出すが、彼女の過去はそれだけではないはずである。どんな思い出があったにせよ、劇中で彼女が思い出したものは、ペトラ前で描かれていたことでしかない。12話で描かれた義体以前の彼女のわずかな姿と瀕死の彼女に寄り添う飼い犬、これが全てである。だが、ペトラ前後の区切りによって29話までが過去に追いやられている錯誤のために、義体になってからの出来事までもが遠い過去の思い出であるかのような描写が施される。「パスタの国の王子様」を暗誦する彼女の最期の姿は、義体としての日々には欠かせない担当官の記憶を失ってもなお喪ってはいない記憶がある、という感動的な場面であるものの、彼女のキャラクター性は一体どこに行ってしまうのか、という素朴な疑問が浮かんだ。
「パスタ〜」という童話がみんなで一緒に彼女のために作ったものであり、忘れていた童話の内容を思い出すのだから感動しないわけがないだろう(主観だけどね)。けれども、アンジェリカの死を巡る挿話「クレプスコロ」の冒頭で彼女は何をしていただろうか。厚底ブーツをトリエラから借りる、「背を高くしたいの」と明るい声で。
穿ち過ぎを承知で書き進めるが、義体の頭身がそれぞれ伸びたのに、アンジェリカはなお伸びたいと言う。記憶を失ってしまう彼女に残されたものは、体の記憶であり、それを求めた上での行動……ああ、これはさすがに妄想が過ぎた。とにかく、彼女の存在は記憶を失うことで亡霊と化し、身体は交換されて記憶は刻まれず、何も無い状態に追い込まれる。そうして蘇った記憶は、結局、劇中で描かれたことでしかなかった。ストーリー上では整合がとられているが、キャラクター論という点から見たとき、彼女は最期に義体以前の記憶ではなく、義体後の記憶を物語る・自分は作り物でしかないことを自らの言葉によって解説してしまったのである。
義体の設定が投薬や改造でいくらでも改変可能なのは、作品の世界では当たり前のことである。その上に立てば、義体は実際作り物である。そこにいくら担当官のように感情移入したところで義体は、プツンと記憶を失ってしまうかもしれないし、負傷後の手術によって何かが変わってしまうかもしれない。アンジェリカの死は、そのことを図らずも劇中の人物に知らしめたのである。読者も同様に思い知らされたのである。彼女達は、所詮作り物のキャラでしかないことを。
伊藤剛のキャラ/キャラクター論の解説の原点として引用される「地帝国の怪人」における耳男の死の解説は、そのままアンジェリカの死にも当てはまるかもしれない、全く正反対の意味で。
というわけで、いつになるかはわからない次回は試論4において、キャラ/キャラクター論とアンジェリカの死をさらに考察したい。
(2008.3.3)
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