「マンガ表現学入門」感想
筑摩書房
竹内オサム
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私も手塚ファンの端くれではあるけれど表現者としての手塚賛美がちょっと気になった、竹内オサム「マンガ表現学入門」を読んだ。全体的にいまいち信用できない内容で、物足りないというか、素人が一生懸命資料集めて考えましたって感があって、それがプロの仕事ととして成り立っている・しかもマンガ評論家として長いこと活動している点に、少々びっくりした。いや、決してバカにしているつもりではない、幾多の資料を揃えて研究しているところなんか研究者らしい、でも不遜を承知で言おう、この本の内容なら、ネット上のマンガ評論のほうがはるかに面白いし刺激的だ。
マンガ表現を戦前から現代までを俯瞰して表現がどのように獲得され変化し、今に至っているかを考える。それが考えられるなら立派だと思うけど、残念ながら、この本はそれを果たしていない。端的に言うと、憶測な物言いが目立つ、という点に尽きよう。戦前から戦後間もない時期のマンガを採り上げて、それらは映画の影響を受けただろう・受けたに違いない、という感じの文章が多いのである。こんなんでいいのかよ、と突っ込みたくなるほどの雑な研究なんである。ここで私が期待したのは、草創期の漫画家が参考にした映画の具体例なんだけど、まるっきり出て来ない。監督の名はいくつか出てくるものの、ではどんな映画のどの場面が影響を与えたと考えられるのかという推測もない。
また恣意的な排除もほのみえて、手塚ファンとしてちょっと悲しくもなった。「新宝島」の革新性・手塚の素晴らしさを強調するあまりに、おそらく著者は自覚して手塚のそれ以前の作品評をしていない。「手塚治虫論」ではそのへんどうなんだろうか、私は読んでないんでわからないけど、手塚は戦時中に、それこそ手塚が「のらくろ」なんかを演劇的とか言って自分の映画的な表現の漫画と区別していたけど、そういう演劇的な漫画を描いてるでしょ、いわゆる「私家版ロストワールド」ってのね。手塚が15,6歳の時に描いた漫画だけど、手塚の生前にちゃんと書籍化されてるし(私これ持ってる、自慢だよ。プレミアついて数万円するんだよ)、没後の1994年には全集にも収められてるから、研究者ならチェックして当たり前だと思う。手塚が表現力をどうやって獲得していったのか、その過程を知る上でも欠かせないはずなんだけどなー。多分、私家版に同一化技法を見つけられなかったから「新宝島」に固執しているんだろうけど、読みながらいつ私家版の話が出てくるんだろうと思っていたら結局出てこなかったんで、正直がっかりしたね。こんなもんですか、とバカにしたくもなるってもんですよ。「これは漫畫に非ず、小説にも非ず」という私家版冒頭の力強い手塚の宣言文だけでも、手塚の表現への挑戦魂がうかがえるんだけどな。
あとね、現代の漫画として引用される作品数の乏しさね。まあ評論なのでいろんな作品を挙げる必要はないんだけど、足りない。巻末見たら過去に発表した評論の寄せ集めだったから仕方ないかとも思ったし、でも何度も戦前の漫画の話に戻って語られるから、時代別に章立てしてったほうがはるかに読みやすいし表現の変遷もわかるのに。全然駄目じゃん。
さらに、最近の作品をどこか見下しているんだよ。そりゃ手塚治虫は凄いよ。石森章太郎も天才だよ。でもいくらなんでも侮りすぎだよ。浦沢直樹の「MONSTER」に少し触れたくだりもあるけど、過去の表現者の試みが現代ではどうなっているか、現代の表現者はどんな実験をしているのか、突込みが足りなくて、今の浦沢漫画を分析するだけでも相当のもんが見えてくると思うんだけど、所詮は素人考えですかそうですか、まあいいや。
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具体的な話しに入る。まずは「1章 書き出しは細部から」。手塚治虫「ブラック・ジャック」の「ピノコ西へ行く」内でピノコを追う刑事(ハムエッグ)のしつこい尋問に対してピノコがピシャッと弁当を顔にぶつける2コマを採り上げて、「ここには高度な省略が際立つ。」と述べる。ギャグ描写としては今では当たり前と思われる省略法なんだけど、連載当時(1970年代)はどうだったのかなと思ってても回答なし。かわりに「凡庸な描き手なら」「このあいだに、多数のコマを詰め込んでしまうだろう」と暗に手塚を称える。いや手塚を称えるのは私も気分が悪いわけじゃないんだけど、その凡庸な例を挙げて欲しいんだよ。もっとも、今時凡庸な描き手でもそんなことしないと思うけど。当時はどうだったのかってのが表現の歴史の一端なのに。ただひとつ言えるのは、「高度な省略」を受け入れる少年読者が30年前にはもういたってこと。
コマとコマの飛躍を結びつけるものについては、私もあれこれ考えていることだけど、竹内氏は経験の問題だと言う、リテラシーで疑いないという。矛盾してないかな……
これも拝啓手塚治虫でさんざん書いたことなんだけど、漫画読むのに漫画リテラシーなんて必要かね。だって、子供たちは手塚の「新宝島」の同一化技法読んで、驚いたって言うんでしょ、同一化技法を知らなくても、わかった・理解できたってことでしょ。手塚の漫画の革新性を受け入れたのはリテラシーなんてものとは無縁の子供たちだと考えるのは稚拙かなー。リテラシーがあれば、より深く理解できると竹内氏は書いてるけど、それは評論研究に携わる者と描き手にとって大事だって話であって、これは竹内氏だけの話じゃないんだけど、評論家はかつて普通の読者だったことを忘れているんじゃないの? 漫画家は読者に向けて描いてるんだから、リテラシー云々がなきゃ理解出来ない漫画なんて描かないでしょ。
2章は「マンガにおける<媒介者>と<傍観者>」。読んでて恥ずかしかった。語りの内部構造を分析しようという試みなんだけど、こういうのって何十年も前からテクスト論とか記号論とかみたいのでいろいろ論じられていることで、それら過去の蓄積を踏まえたうえでの文章ならともかく、自分で言葉の定義をしてから・一から読者論めいたことを書こうとしてて、痛々しいというか、そんなのみんなわかってることなんですけど……悲しかった(「入門」と題しているとはいえ、そんな入門以前の話題に一つの章を割いてだらだら書かれても困るんだよな、私はこの章でマンガという分野における読者論が展開されると思ってたので、しょんぼりした)。「媒介者」っていうのは劇中の案内役・狂言回しのような役割の登場人物で、「傍観者」は劇中の観客のような位置の登場人物、……これに限らないけど、なんか新語作って定義付けようとするの好きだよね、学者さんって。この本以外でも、下手な文章書く人ほどそういうことが好きな印象がある。
3章から5章が「視点論」、映画的手法と絡めた話が多いけど、映画の具体例で引用されるのが「タイタニック」ってあんたそりゃないよ。戦前の映画にしてよ、いや一応少し触れられるんだけど、どういうわけか「タイタニック」についての記述が多いので、多分好きなんだろうな。で、物が物として見えるには動的視点が必要だってことを力説して、絵本が引用されている。ここは面白かった、まあここだけだったんだけど。といっても、自著の引用に過ぎないんだけど。で、ここで異論があるとすれば、眼・視覚の認識の甘さだよね。視覚の特徴は一言で述べると、何でもかんでも立体視する、っていうのがあって、だから動的視点のような多角的な視点がなくても物体を物体として把握できるんだよな。参照した本の差かもしれないけど。クローズアップもさんざん語られるんだけど、眼は別に物体との距離なんか測らないんだよ。物体が大きくなったか小さくなったかで、どのくらいの速さで近付いてくるから危ない(身体にぶつかるかもしれない)、遠ざかったので安心するとかを感じ取るから、映画を参考にした手法かもしれないけど、生理的に眼がそうなっているから同じものが大きく描かれれば近付いたと知覚し、小さく描かれれば遠ざかると知覚するってのに過ぎないと思う。
同一化技法の論、同一化っていうのは読者の視点が劇中の人物等の視点と重なること。それを意図的に演出する技法を3つに分けて解説している。部分表示型・人物が見ているものが描かれる(手紙の文面とか写真とか)、身体消失型・登場人物が読者に向かって指差すのが代表的(指差された人物と読者が重なったってこと)、モンタージュ型・人物が見たものが次のコマで描かれるので2コマ必要。この中でモンタージュ型が、前述したコマとコマの飛躍を結び付けるものの考察に向かいそうで向かわないのがもどかしい。
映画の話になっても抽象的な論考で、この映画のこのシーンがマンガでこんな風に表現されているってのがないから、よくわかんない。マンガは映画の影響をたくさん受けました、でおしまいに出来そうなほど。
6章は石森章太郎の表現を分析してるが、前章の焼き直しみたいだった。巻末に持ってきて、この本で論じたことを総合して具体的に作品を分析してみよう、みたいな按配でよかったような気がする。各章の配列は完全に間違っているような……
7章がコマとコマを繋ぐものを考える「コマとコマの連続性」。戦前のマンガから入って現代の作品に戻って分析というのが形式化してて、個人的にかなり退屈になってる。だから時代別の章立てにすれば良いのに。
「当時としてはきわめて斬新なコマ割りであったに違いない」、違いないってなんだろう……手塚を賞賛する文章にはこんなのが目立っている。憶測ばっかり。この辺で全体の半ばを過ぎているんだけど、もううんざりしながら読んでいる状態。で結局繋ぐものは読者の知覚・視覚の柔軟性に拠っているというところに落ち着く。基本的な勘違いは、文章でも文と文の間を繋ぐものがあるんだけど、それは無視しているから、言語学やら記号論テクスト論からの引用はやっぱりなく、そのかわり独自の理論があるのかというと、落ち着くところは読者の知覚なわけで、そこから読者論にページを割いて欲しかった。だからまた不遜なこというけど、こんなの私でも書けるよ。多分君も書けるよ。ていうか、みんな書けるよ、この程度の内容。
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ちょっと言い過ぎた。でも、7章と続く8章の「時間のモザイク」、9章「言葉の呪縛」と、なんだが拝啓手塚治虫で書いてたこととテーマが重なってて、私より当然絶対上手いこと書いてあるだろう勉強させていただきますという期待が大きかっただけに、内容の稚拙さとはっきり書くけど、稚拙が悪いなら不足……細かいところにまで突っ込んで言及しながら結論に届かない分析、結局手塚や石森といった自分の気に入った漫画家の上手さを伝えているだけで、入門にもなってないことへの憤りとかもう駄目ね、私は。8章では唯一と言える駄目な例が手塚作品から引用されてて、普通に評論出来るのに、教養もあるだろうに、なんでだろう。決めゴマと捨てゴマの説明でも、最近のマンガは捨てゴマが多くてけしからんって感じなんだけど、ページ調節の常套手段じゃないの?(手塚もブラック・ジャックでよくやってるでしょ、コマの大きさでページ調節する手段) 今は大ゴマが多用されるから、むしろ捨てゴマは減っているんじゃないの……ではその捨てゴマが多い例をどうぞっといっても語られないのは、やはり最近の漫画を読んでないからなんだろうなって思われても仕方ない。
10章と最後の章となる11章は記号性について書かれる。ここでやっと記号論の引用がちらほらと出てくる。あ、ここも面白かったところがあった、手塚作品の中の驚く人物の描写、ここは引用された図版が面白かった。手塚ってこんな表現多いようなーと微笑ましくなった。
でも記号性といっても登場人物の身振り手振りについての分析で、動線とか流線の効果とかの話は出てこない、大友克洋にも触れない。そういえば視線誘導も話も出てこないし、どうなっているんだろう、表現学だよね、この本は結局何を分析してたんだろう……わけわからなくなっちゃったよ。
なんでこんな貶してるかって冷静に考えると、憶測による最近の漫画の低評価と多いようで少ない具体例の乏しさと、時々入る愚痴みたいな独り言みたいな文章が鼻につくってところで、リズムになってれば良かったんだけどね、逆に反感覚えたよ私は。
「現在描かれている漫画の多くは、過去のマンガの諸記号の蓄積の上に成り立ってはいるものの、その基本枠から逸脱する傾向を持つ。だがそうした逸脱は、新たな表現への試行錯誤の結果ではなく、単なる技法的怠慢である場合が多い。稚拙な表現が目立つ。」なんじゃそりゃ。
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