※本稿は2014年の冬コミで頒布した同人誌の内容を横書き用に一部数字を修正し、たまたま見つけた誤字脱字も少し訂正していますが、基本的に当時のままです。執筆時は、まだ「STAND BY ME ドラえもん」はソフト化されていないので予告編から引用している

マンガとアニメの境界線 「STAND BY ME ドラえもん」という愚行」



はじめに
 興行的に大成功を収めた「STAND BY ME ドラえもん」だが、映画としての評価は芳しくない印象が強い。もちろん、多くの観客を動員した結果、ネットで調べただけでも、多くの方がこの作品に感動したという感想を拾い出すことが出来る。同時に、多くの批判も見受けられるのもまた事実である。
 おそらく3DCGという技術面だけで見れば、あるいは映画で描かれた未来の世界観だけ見れば、この作品に好ましい評価を導き出せるかもしれない。けれども、一個の映画として鑑賞したとき、あるいは原作と比較したとき、この映画が抱える問題に遭遇するのではないだろうか。
「愚行」と言うには大仰かもしれない。だが、藤子・F・不二雄生誕八〇周年の目玉映画として新しいドラえもんと銘打つには、大人のためのドラえもんと言うには、あまりにいただけない出来ではないだろうか、とも思うのである。もちろん個人的な感想に過ぎないと一笑に付されてしまうのは覚悟の上だ。
 本稿は、「STAND BY ME ドラえもん」(以下「CG版」と略す)の原作となった7つの短編を中心にマンガ(以下「原作」と言えばマンガを指す)と2005年の声優交代から始まった新テレビアニメ版(アニメ版)を比較・精読しながら、そもそも原作で何が描かれていたのか・アニメ版は原作をいかにアニメにしていったのかを浮き彫りにした上で、藤子Fの言葉を補助線にCG版がそれらと比べてどう優れ、どう劣るのかを徹底的に語り明かしたい。

目次
マンガとアニメの境界線 「STAND BY ME ドラえもん」という愚行
はじめに
第一章 「ドラえもん」のマンガ表現
 1―1 そもそも原作はどのように描かれているのか
 1―2 「きこりの泉」「しずちゃんさようなら」精読
第二章 アニメ版は原作をどう描いたのか
 2―1 「たまごの中のしずちゃん」にみる物語のつなぎ方
 2―2 「のび太の結婚前夜」にみる物語をつなぐ時間
 2―3 出木杉という矛盾 「雪山のロマンス」考
第三章 二コマの時間と映像の時間
 3―1 アニメの演技とCGの計算
 3―2 ドラえもんという空間
 3―3 「さようなら、ドラえもん」 二コマの時間
おわりに のび太の成長という陥穽

※「ドラえもん」 原作 藤子・F・不二雄
 小学館の学習雑誌、「コロコロコミック」「てれびくん」などで1969年から1996年まで連載され、作者の死の直前まで描かれた。てんとう虫コミックスから全45巻他多数書籍化されている。
※映画「STAND BY ME ドラえもん」 2014年8月8日公開
 監督 八木竜一、山崎貴(共同監督)、脚本 山崎貴、配給 東宝
 映画シリーズの初の3DCG作品。
※アニメ「ドラえもん」と言えば、以下の3つを指す。
 1 1973年に日本テレビ系列局で放送されたシリーズ(日本テレビ版)
 2 テレビ朝日系列で1979年から2005年3月まで放送されたシリーズ(旧テレビ版)
 3 2005年4月より放送中のシリーズ(新テレビ版)
 本稿では、上述のとおり、新テレビ版を扱う。


第一章 「ドラえもん」のマンガ表現
1―1 そもそも原作はどのように描かれているのか
「ドラえもん」の分析や研究に類する本は数多あり、今更何を語るのかという方もいるかもしれないが、本稿の目的は、マンガ表現という側面から見た原作の魅力である。
 この方法で精読することにより、原作がいかに優れて作劇されているのかが明らかになるという試みである。というのも、マンガ評論に類する本でも、原作を例にした分析は私が知る限り、とても少ない。有名すぎるとか、版権の問題も絡んでいるんだろう、本稿も図版を引用する上で注意しなければならないが、原作からいくつかの例を挙げつつ、どのようにして物語が表現されているのかに斬り込んでいきたい。
 藤子F作品の分析、特に「ドラえもん」においてもっとも参考になるテキストが、藤子F自身が書いた「藤子・F・不二雄 まんがゼミナール」である。
※「藤子・F・不二雄のまんが技法」 小学館文庫から2000年に上梓された。1988年に小学館から刊行された「藤子・F・不二雄 まんがゼミナール」を再構成したものである。
 小学生向けに編まれ、マンガをどのようにして書いていくのかを優しい語り口で解きほぐしていくき、最終章では「のび太の恐竜」を例に、実際にこれまでの技法を総解説している。1988年に小学館から上梓された本著は、2000年に「藤子・F・不二雄のまんが技法」として文庫化された。ここでは文庫版を下に、作者がマンガをどう捉えていたかの足がかりとしたい。
 まず注目すべきは、「「映画」から生まれた「まんが」の手法」という項である。手塚治虫の「新宝島」に藤子不二雄が衝撃を受けたという逸話は有名であるが、ここでも藤子Fは手塚に最大の敬意を払い「まんがに映画の方法、手法を取り入れて、今日のストーリーまんがの形を作った」と述べる。(現在、この藤子Fの認識には否定的な論調が見受けられ、実際、戦前に「映画の方法、手法取り入れ」た作品が発見されている。手塚の妥当な評価としては、戦争によって散逸・断絶したマンガ表現の記憶や手法を再構築した、というところのようだ)。
 続けて「映画用語=まんが用語」という項を設け、映画とマンガの近さを主張し、「「まんが」の勉強は「映画」の勉強でもある」と結ぶのである。
 さて、実際に今日のマンガを解説する上で、映画用語は重宝している。一コマにキャラクターの顔がはみ出さんばかり大きく描かれれば、それをキャラクターの「アップ」と呼ぶことに躊躇しない。建物の中に配置された各キャラクターや建物の遠近との構図を「アングル」と称して解説されよう。本稿でもそれら映画用語はあちこちで使われると思われる。
 藤子Fはさらに、映画とマンガの関係を、マンガの一コマ=映画の1カットと語る。
「カットは「まんが」の一コマにあたり、編集はコマ割りにあたるのです。」(96頁)
 一コマ=1カットとは、ある程度の時間の幅を持ったものであり、連続した一瞬一瞬の写真を一秒24コマでスクリーンに映し出すことによって生み出される数秒から数分にあたる(映画によってはもっと長い)、ある場面のことである。と、まどろっこしい言い方をしてみた。ここでいうカットとは、一場面・1シーンのことであり、写真のような一瞬を切り取った1カットではないという点に強調しておきたかったからだ。この前提を読み誤ると、「ドラえもん」の分析だけでなく、マンガの分析そのものも覚束なくなるだろう。
 藤子Fは、一コマの画面作りにも言及する。
「構図には舞台的な構図と映画的な構図とがあります」(98頁)
 ご存知のとおり、「ドラえもん」は一話10頁前後の短編である(大長編ドラえもんは、本稿では基本的に言及しないので、本稿で「ドラえもん」といったら、それら短編群であり、大長編と区別する)。どんなに壮大な宇宙感がうかがわれる話であっても、極めて端的にテンポよく軽快に最後のオチまで話が運ばれ、次回に続くことなく完結する。そして何より重要なのが、基本的にギャグマンガであるという点だ。藤子Fは、舞台的な構図はギャグマンガに多いと自ら語り、間接的に「ドラえもん」の舞台的構図の多さにふれているとも言えるのではなかろうか。
※藤子Fの言葉。「生活ギャグという分野をずっとやってきて、この辺で集大成みたいな作品を描きたいと思い立ったわけです。SFあり、ナンセンスあり、夢も冒険も、そのほか何もかもブチ込んだゴッタ煮みたいな漫画をと…。それがドラえもんなのです」「小学館文庫「ド・ラ・カルト」より孫引き」
 舞台的とは、一つの画面(舞台=コマ)に複数のキャラクターが全身かそれに近い状態で描かれると想像できるだろう。コマの構図をカメラに喩えるとすれば、カメラは舞台を見る任意の観客に固定された状態であるといえる。もちろんクローズアップなどは出来るので、一人のキャラクターに焦点を当てることも出来る。観客の立場になれば、特定の役者をずっと見ていることだってできるからだ。
 一方の映画的とは、任意の観客がカメラを持ってあちらこちらからカメラで舞台を撮り、時には舞台にまで上がってキャラクターや背景をさまざまな角度から撮りあげる、というたとえがわかりやすいだろうか。
 全ての短編がギャグ一辺倒ではないため、全てのコマの構図が舞台的というわけではないし、描き分けはされているけれども、大雑把に言ってしまえば、ドラえもんは舞台的構図が多く、当然、大長編は映画的な構図が多いのである。
 次節からは、具体例を示しながら、ある程度の時間の幅を持った一コマの画面で何が描かれているのか? について分析していきながら、その一コマの中で描かれる物語の時間を詳らかにしよう。

1―2 「きこりの泉」「しずちゃんさようなら」精読
 小学館の学習誌に連載されていた「ドラえもん」が学年ごとにキャラクターの頭身の変化といった絵柄やコマ割りのわかりやすさでもって内容を微妙に変化させていたことはよく知られている。特に「小学一年生」と「小学六年生」に掲載された二本を比較すると明快だろう。本稿では、「小学一年生」に掲載され、きれいなジャイアンで高名な「きこりの泉」(雑誌掲載時は「木こりのいずみ」である。「泉」の字は一年生で習っていないためだろう)と、「小学六年生」に掲載された「STAND BY ME ドラえもん」の挿話のひとつである「しずちゃんさようなら」を採り上げてみた。

「きこりの泉」 小学一年生1984年12月号(「小学一年生」の連載はフルカラーである)
 扉絵を除くと本編はわずか6頁、短編の中でもかなり短い部類に入る挿話だ。
 あらすじ。のび太は自分の真新しいグローブとジァイアンのボロボロのグローブを強引に取り替えられてしまい、早速ドラえもんに泣きつこうと帰宅すると、パパにドラ焼きを食べられてしまったとドラえもんが泣きついてくる。食べかけのドラ焼きを元に戻そうとポケットから取り出したのが「きこりの泉」だ。円形の平たい形状のそれを床に置くと、輪の中に水面が広がった。ドラえもんは「きこりの泉」の童話を解説し終えると、そのドラ焼きを水面に放り込んだ。すると、大きなドラ焼きを持った女神ロボットが現れ……
 ここまでで3頁、本編の半分である。物語のプロローグとも言える発端と秘密道具の解説、そして道具の効果を目の当たりにする。
 最初の舞台こそ空き地であるが、1頁目で家に駆け込んだのび太は、その後約3頁、自分の部屋の中でドラえもんから解説を聞かされる。次に1頁でのび太のグローブが新しくなり、残りの2頁は、しずちゃん家→ジャイアン家と、舞台を移していく。この展開の速さは、前半に舞台的なカメラを、後半に映画的なカメラで画面に動きをつけて一気に山場のオチにまで突き進んでいく爽快感・テンポの良さにもつながっていよう。
 だが、この短編の肝は、演出の省略なのである。都合4回登場する女神ロボットは、全て異なる演出で登場し、いずれも異なる退場の仕方で描かれている。これがテンポの全てと言っても過言ではない。
 最初の登場は6コマ費やされる。@ドラえもんがドラ焼きを泉に落とす→Aゴボゴボと水の音がして→B大きなドラ焼きを持った女神が登場「あなたのおとしたのは、この大きなドラやきですか」→C「いえいえ、たべかけのドラやきです」→D「あなたはしょうじきな人です」といって微笑む女神のバストアップ→E大きなドラ焼きを手にして「やったね」、そして泉の中に女神が戻ったという水ポチャの記号。
 基本的に1頁を8コマでコマ割りされることが多いドラえもんにおいて、6コマというのは、1頁のうち四分の三を費やすわけである。これが4回となれば、単純に24コマ、つまり3頁費やす計算になる。これらにしずちゃん家とジャイアン家へ移動するコマを描き足せば、「小学一年生」規定の6頁で収めるには困難だろう。
 省略について、藤子Fは同著で「のび太の恐竜」を例に解説している。机に向かうのび太とドラえもんを一コマに描き、次のコマでタイムマシンに乗っているという二コマである。のび太の机の引き出しがタイムマシンに繋がっているのは、今さら説明するまでもない。ましてタイムマシンの解説も不要だ。連載を通して、それらはすでに説明済みなのだから。
 となれば、省略すべきが女神ロボットの登場と退場であることは明白である。
 続くのび太の番になると、グローブを泉に落とす→女神ロボットが新しいグローブを差し出す「おとしたのは、このピカピカのグローブですか。」「いえ、もっとぼろっちいの。」→「ピカピカのをあげます」というセリフを残して、水ポチャ、新しいグローブをもらって喜ぶのび太とドラえもん、以上3コマである。
 このコマには省略だけでなく圧縮もあると言えよう。女神がどのような動きをするのかは、すでにドラえもんの時に詳しく描写されているのだから必要ない。具体的には、ドラえもんの6コマはのび太では@→BC→DEといった感じで、Aが省略され、CとEが圧縮されている。それでいてコマの大きさにそれほど差がないのである。
 しずかの番に至ると、泉に古くて小さな服を落とす→女神が出てきて新しい服を見せる(女神「あなたがおとしたのは、」、しずか「いえ、もっと小さいの。」と女神のセリフを極端に圧縮する徹底ぶりだ)→新しい服をもらって喜ぶしずか、水ポチャは描かれず。@→BC→Eと、のび太同様に3コマだが、3コマ目ではすでにジャイアンに現場を目撃されている。次の展開への準備が整っており、2コマ半と言ってもいい。
 さてしかし、このような省略・圧縮をされたからといって、物語の中を流れている時間がドラえもんとのび太で異なるわけではないのもまた明らかである。テレビ版である。
 6頁ではテレビ放映の約10分にはとても足りない。旧テレビ版も新アニメ版もどちらも原作にはないオリジナル要素を加えて話を引き伸ばした(なお、新アニメ版も2005年版と2011年版の二種類あり、2011年版は、旧アニメ版に近い挿話に作り直されている。本稿では2005年版を新アニメ版として紹介する)。
※新アニメ版「きこりの泉」2005年7月29日放送 監督 善聡一郎、脚本 大野木寛、絵コンテ・演出 寺本幸代、作画監督 嶋津郁雄
※新アニメ版(リメイク)「きこりの泉」2011年4月8日放送 監督 善聡一郎、脚本 藤本信行、絵コンテ そーとめこういちろう、演出 八鍬新之介、作画監督 をがわいちろを
 概要としては、ドラえもん・のび太・しずか・スネオ・ジャイアンと5回の女神の登場・退場を省略なく描くのはもちろん、家から家に移動するシーンを加えている。
 特に旧テレビ版は、ジャイアン・スネオから「きりこの泉」を使わせないために町の中を走り回って逃げ回るシーンを加えている。だが、結局スネオに追いつかれて、続けてジャイアンに見つかり、オチに至るという道程を踏む。正直、移動シーンは物語にとって緩慢である。
 一方の新テレビ版は、省略せずに描くのは一緒だけれども、女神ロボットの登場に大きな意味を持たせている。すなわち、泉にこれを落としたら何が出てくるのだろうか? というワクワク感である。
 スネオは新品のおもちゃのロボットを携えて泉の前に登場する。そんな新しいものを落としても、それより新しいものなんてないだろう、という突っ込みに、スネオは何が出てくるのか楽しみだと言っておもちゃを泉に投げ入れるのだ。事実、女神が持ってきたのは、巨大な鉄人ロボットだったのだ!(2011年版では最新のゲーム機を入れると、未来のゲーム機を持ってくる設定に変わり、その後スネ夫が小石を蹴り入れるという旧アニメ版と同じ話になる)。
 原作で省略された部分をどのようにして膨らませて物語に落とし込むのかが考えられた新テレビ版である。このスネオのワクワク感の煽りにより、泉に落ちたジャイアンがどうなってしまうのかが、より一層盛り上がるわけだ。
 それはともかく、話を原作に戻そう。のび太は「きこりの泉」を持って外に出る。しずちゃんの家に行くのだが、ここはドラえもんの「また しずちゃんとこへいくの。」というセリフだけで、のび太は目的地を告げていない。彼のニコニコした顔が、ドラえもんの発言の正しさを裏付けていよう。移動は1コマで済まされ、次のコマではすでにしずちゃん家の玄関前で泉を広げて説明を終えようとしているのである。
 この二コマはページをまたいでいるのもまた重要だ。マンガを読む視線の動きも計算されている。ドラえもんのような複雑なコマ割りがほとんどなく規則正しくコマが並ぶようなマンガの場合、なおさらこの視線の働きに敏感になる。
 マンガのコマ割りの複雑さは、一般的に少年マンガと青年マンガ、少女マンガとレディースマンガに大別される。前者が落ち着いたコマ割りであり、激しいアクション場面になってコマ割りが複雑になっていく。後者はコマを重ねたりコマ枠を曖昧にすることでキャラクター心理を表現しながら、感情的な場面でコマ割りが複雑になっていく。
 コマ割りが複雑になるということは、悪く言えば読みにくいとも言える。視線は安定せず、どこをどう読めばいいのか迷うことすらあるかもしれない、内容が理解できないこともあるだろう。だが、そうした視線の不安定を演出することで、コマの中に描かれている様々なキャラクターや背景を見るということでもある。あるいは、知らず作者の思うような視線の動きで読んでいることもあるだろう。
 マンガを読む人の目の動きは、キャラクターの顔(特に目)や文字(つまりフキダシ)を通過しながら、ページの右上から左下に向かう傾向がある。これは縦書きで右から左にコマを読むマンガの特性であるからだ。
 ここでページをまたぐ二コマに再度注目しよう。省略のリズムもさることながら、ここまで展開を圧縮しながら、省略された間の物語を想像することも出来てしまうのは、省略の効果も生かされていよう。
図1 図1  図2 図2
 この時の視線は、厳密に図1から図2に移動するわけではない。見開き頁という性質上、図2に視線を移す中で、図2以降に続くコマに描かれるしずちゃんの姿をすでに見ている・見てしまうことからは逃れられない。1から2への動きが、しずちゃん家へ向かうのび太の動きであり、気持ちである。
 さらに、ページをまたぐ二コマとして重要となる働きを担うものが、めくり効果である。
 本編では、めくり効果で期待される読者の驚きが3回登場する。全6頁なので、つまりは全てページをめくる時に、何からの仕掛けが施されているというわけだ。次頁をめくりたくなるような仕掛けであり、めくって見たら驚くような描写が待っている。
 最初は、ドラえもんが「のび太〜」と、古いグローブに交換させられて泣いて帰ってきたのび太にドラえもんが逆に泣きついてくる。何事が起きたのか? という期待が高まりながらページをめくると、居間でパパにドラ焼きを食べられたと訴えるドラえもんが描かれていた。
 この時、前述と同様の展開の圧縮も描かれる。めくるという物理的な動きで、キャラクターが玄関から居間に移動した時間的経過を省略したのである。現実的な話をすれば、玄関から居間までの移動の間、ドラえもんが何故泣いているのかをのび太は聞くはずである。アニメ版は、新旧ともにのび太の移動時間を、泣き喚いていて何をしゃべっているかわからないまま、とりあえずドラえもんの後に付いて居間まで一緒に歩く、というシーンとして描いている。めくる、という効果を得られないアニメ版ゆえの、また時間を延ばす意味でも、アニメ版は女神の登場と退場だけでなく、ここでも丹念にキャラクターの行動を現実的な時間経過で見せているのである。
 2回目のめくり効果は、最初の女神の登場場面である。前述のCとDである。大きなドラ焼きを持って現れた女神に、読者が驚かされるところでもある(驚かない人もいるだろうが、この話の読者は、小学一年生が前提であることを忘れずに)。
 そして山場となる3回目。これがめくり効果最大の見せ場だろう。ジャイアンが古いおもちゃをたくさん詰めた箱を背負って登場、「わっ よくばり」と完結に状況説明をするドラえもんとのび太→ページをめくる→「重いっ」と「よろ」「よろ」するジャイアンが描かれる。
図3 図3
 唯一ともいえる、傾いたキャラクターの描写である。地面に垂直に立っているような真っ直ぐなキャラクター描写が中心で、全体的にわかりやすい動作が描かれている。記号的表現も少なく、動きを表す流線も非常に少ない。これは、次に採り上げる「小学六年生」掲載の「しずちゃんさようなら」と比べるとより鮮明になるだろう。
 テンポや簡潔な状況説明で無駄を極力省いた圧縮展開と話のわかりやすさで、今何が描かれているのかが、低学年の子どもにもすんなりと飲み込める物語に噛み砕いている中、ジャイアンのこの姿は、極めて特殊である。尋常でない状況は、「よろ」「よろ」という繰り返しの擬音を、あえて離して描いた点も大きい(図3)。
 図3のように擬音を離すことで、ジャイアンが右に左に傾いでいるような、そんな時間的感覚を生み出している。「よろよろ」では駄目なのだ、それだと右か左かどちらかにつんのめりそうになっているような印象を与えてしまう。実際、アニメ版でジャイアンは右に左によろめいている。多くの読者が感じるキャラクターの動きや時間経過を再現してこそ、原作の描写に忠実と言えるのである。
 次節からは、「STAND BY ME ドラえもん」の原作となった挿話を精読していこう。

「しずちゃんさようなら」 ※「しずちゃんさようなら」小学六年生1980年11月号
 扉を含めて12頁、当然ここでも展開の省略と圧縮、めくり効果による物語の起承転結の「転」の連続が見て取れる。
 ここでは、アニメ版との比較を通して、前節とは異なる視点を提示しよう(アニメ版は新ドラでも2005年版と2012年版の二種類が存在してする。本稿では2012年版を採り上げる)。
※新アニメ版「しずかちゃんさようなら」2005年7月8日放送 監督 善聡一郎、脚本 大野木寛、絵コンテ 前田康成、演出 三宅綱太郎、作画監督 嶋津郁雄
※新アニメ版(リメイク)「しずかちゃんさようなら」2012年2月3日放送 監督・絵コンテ 善聡一郎、脚本 相内美生、演出 鈴木孝義、作画監督 嶋津郁雄
 あらすじ。勉強出来なくて駄目な自分と結婚すれば、しずちゃんは不幸になるという思いを強くしたのび太は、しずちゃんと別れる決意をした。結婚もしてないのに別れるなんてとドラえもんに笑われるが、のび太の意志は固い。見かねたドラえもんは、それならばと本当に嫌われる道具「虫スカン」を出し、のび太に与えるのである……
「小学六年生」掲載ということで、頁数も多く、コマの中の構図も多岐にわたっている。中でも注目すべきが、主観視点である。藤子Fに倣って映画用語を用いれば、主観ショットと呼ぶべきだろう。
図4 図4 のび太の決意を後ろから見詰めるドラえもん のび太の決意を後ろから見詰めるドラえもん
 図4を例に説明しよう。しずちゃんの幸せのために別れる決意をしたのび太を、なんとも言えない表情で後ろから横顔のドラえもんがのび太の背中を見ている。ドラえもんの視点と読者の視点がかなり近い状態である。
 舞台的構図が多いドラえもんは、言わば三人称視点とも言える構図で物語が描かれ続けている。そうしたなかにあって、ドラえもんと読者の視点がこれほど近くなることは、少ない。視点を一致させてしまうということは、それだけキャラクターの心情に近付く・同化しやすいということでもある。そして、特定のキャラクターの心情を読者に実体験として感じさせる効果も期待できることから、感情移入を促すショットでもある。
 原作は、そうした感情移入に関して消極的な姿勢をとり続けている。作品はあくまでもギャグであり、特定のキャラクターに焦点を合わせすぎると、様々なキャラクターが入れ替わり立ち代りオチ(言わば便利な道具に頼りすぎてしっぺ返しを喰う)を担当するためには、のび太にもジャイアンにもスネ夫にもしずかにも、読者の視点を寄せてはならないという配慮があったのかどうかは推測でしかないが、この挿話において、ドラえもんの視点に寄り添うショットが描かれるという点から、のび太の意志の固さを実感するドラえもんの主観=読者の主観が必要なのである。
 この物語を引っ張るのはのび太である。彼の決意は意外にも固い。もしここでのび太の主観ショットが描かれたとすれば、読者はのび太と一緒になって、しずちゃんと別れるために右往左往する彼の姿にいささかの感情を動かされることだろう。だが、ドラえもんの主観なのである。
 その後、ドラえもんのセリフは極端に減り、のび太の動向をうかがう姿が描かれる。つまり、読者はここでドラえもんと一緒に、のび太を見ているのである。図5が、その結果である。
図5 図5 のび太の決意を後ろから見詰めるドラえもん ずっとのび太を傍観していたドラえもんが、のび太の決意の強さを漸く実感する。ドラ焼きを食べずにのび太を見詰めているのがポイント。
 ここでは、横からの構図ではあるが、図4を受けて再びのび太の背中を眺めることで、彼の決意を本物だと感じた場面である。
 アニメ版もこれをほぼ踏襲しながら、他の主観ショットを加えてきた。のび太としずか、それぞれの視点である。
 結果からいえば、二人の視点を加えたことで、のび太のしずかへの想いの強さと、しずかの友達としてではあるが、のび太への想いの強さも同時に原作よりも強調して描き出している。
 アニメ版の主観ショットは、借りていた本を返しに来たのび太が自分に会わずに帰ったことに違和感を覚えたしずかが、帰るのび太を追うシーンである。原作と比較すると、そもそも似たようなコマがない。これは、しずかの完全な主観である。走っているため、映像が揺れているのだ。続けてしずかに呼ばれて振り返ったのび太の主観も描かれる。近付いてくるしずかである。
しずかの主観ショットの一例。実際の映像は画面が揺れており、しずか目線の映像であることがわかる。
図6 原作でしずかがのび太を追う場面が左図。そもそも主観ショットがない。
 また、山場となるしずかがのび太を助けるシーンでは、虫スカンのかけすぎ(原作では飲みすぎ)で苦しんで倒れたのび太の主観でしずかを見上げるシーンが描かれる。感動を煽るBGMも加えられ、原作では淡白に描かれたしずかの印象に人間味をより付け加えられ、彼女の心配している様子が強調されている。
 原作の視点はドラえもんで統一されているため、のび太としずかの二人の場面は客観描写に徹しており、ラストも、結果を温かい目で見ていたドラえもんの言葉で締めることで、のび太の反省する様子が理解される(もちろん、しずかの友達愛も理解できるわけだが、先生にこっぴどく叱られて落ち込んだのび太と、しずかにもお説教されて喜ぶのび太との対比により、のび太のしずか愛も同時にあぶりだしている)。
 だが、これら主観ショットを、原作にない追加シーンと断じるのは性急に過ぎよう。一コマ=一カットという藤子F理論である(もっとも、一コマはある程度の時間の幅を持っているという指摘は、これまでも漫画評論家・研究家が指摘しているため、マンガ表現論においては一般的な認識であるが、本稿では藤子F理論として取り扱っていく)。
 一コマの中で何が描かれているか。「きこりの泉」の詳細な分析で明らかになった省略と圧縮が、この一コマの分析に生きてくる。
 もう一度図を引用しよう(図6)。右側に手を挙げてのび太に声を掛けているしずか、左側に、それに気付いて笑顔になるのび太。このコマの中の時間をアニメ版がどのように分解したのか。以下の6つの図がそれである(上から順に図@〜Eとする。図6の一コマをアニメ版は@〜Eに分解した。)。
 @〜Eのうち、@は厳密には、このコマの前のコマである、家を飛び出して走るしずか「どうも ようすが へんだわ」と重複している、コマとコマをつなぐシーンとも言えるのだが、しずか主観・のび太主観によって画面に視聴者を引き込む効果が期待できる。というのも、この後の展開で、のび太はしずかに嫌われようとしずかのスカートをめくると、しずかのアップ→顔を赤くして涙目になっているしずかの表情→それを見てしまうのび太、が描写されるからだ。しずかの表情の大きな変化は、のび太にとっても、当事者であるしずかにとっても意想外であり、それは視聴者にとっても同様である。キャラクターの視点に近付くことで、ラブコメさながらの二人の感情のすれ違いを前面に出しているのだ。
 原作はのび太の頭にこぶが描かれ、しずかが頭を殴ったことは明らか、完全に怒らせてしまったという印象を与える。のび太の行動を見守るドラえもん視点、つまりのび太がどんな行動をするのか読者が見守る描写が続くため、のび太が何を感じて何をされたのかが重視されている描写でもある。しずかの涙目も赤らめた顔も描かれていない。原作にないシーンを追加する準備として、アニメ版は主観ショットが必要だったのである。(なお、2005年版では、しずかのアップ→激怒してのび太を平手打ちする→「のび太さんなんか嫌い」と言ってプンプンしながら去っていく。主観ショットも2012年版より少ないが、しずかの涙目アップはラストでのび太を叱るところで描かれている)。
 また、ABDは、しずかが「のび太さーん」と呼びかけるシーンでもある。のび太を三度呼び、なんとしてでも止めようとする想いが仄めかされていよう。
 Eで「しずかちゃん!」と笑顔になるのび太、もちろん@同様にEも次のコマ(しずかに向かって走り出す)と重複しているつなぎのシーンである。
 セリフのないコマに読者が容易に想像できる言葉を必要最小限で加える。のび太がスカートをめくるシーンは、原作どおり「きらい」というしずかのセリフだけで構成されていた。
 原作に忠実にアニメ版だが、この挿話で原作と異なるセリフが一部採用されているのが、原作「死にたくなる」=アニメ「生きる希望をなくす」、原作「自殺」=アニメ「ばかなことしちゃだめ」という原作の直截的な言葉である(他にも原作「ふゆかいな放射能」=「ふゆかいな空気」など。これも「放射能」が子どもには難しい言葉と判断されたのかもしれない)。子ども向けではないと判断した結果であろうが、掲載誌の「小学六年生」の読者であれば、このような言葉を使っても問題ないと判断した藤子Fとの認識の差かもしれない。アニメ版は、全年齢に向けて放送されているからして致し方ない改変だろう。
図7
 図7は、原作で「自殺」という言葉が使われた場面である。密度の濃い集中線と、傾いた構図、「きこりの泉」のような「小学一年生」では見られない。傾けることでしずかの切迫感・緊張感を一層あおり、慌ててのび太のもとに向かう夢中な様子が集中線で強調されている。
 アニメ版(下図)は、傾いた構図にならない。しずかの足→走るしずかの斜め横からのバストアップ→正面のアップ、としずかに焦点を絞ることで、マンガ的記号である集中線を演出している。
  
 さてしかし、こうした丁寧な原作の描写とそのアニメ化に対し、「STAND BY ME ドラえもん」は、どう映画化したのだろうか。結論から言ってしまうが、原作に近いセリフを採用しながら、印象が強いしずかのスカートがめくられるシーンは、とても安直でいいかげんなセリフが選択され、工夫のない演出で映像化されている。CGばかりに注目されがちだが、「しずちゃんさようなら」CG版のスカートめくりシーンの問題点を述べたい。
 CG版は、しずかがのび太をビンタする。これだけなら2005年版と同じだが、セリフが加えられている。「のび太さんのエッチ!」と言うのだ。
 のび太に何もせずに走り去ったアニメ版と違い、CG版は原作どおりにのび太をぶった、と言えるだろうか。平手打ちは条件反射としても、「エッチ」という説明的なセリフは、極めて理性的である。感情と理性がどちらも葛藤なくひとつのシーンに収まっているわけである。しかも、この後でしずかはのび太が目を閉じてスカートをめくったことを思い出す。うん、やはり理性的だった。原作もアニメ版も思い出すのは、のび太は先生にひどく叱られていたというスネ夫たちの世間話や、しずか母にさよならと伝えてと言って去ったのび太でなのである。
 また、構図が原作に近いのである。原作どおりだと言えるかもしれない。だが、一コマにはある程度の時間の幅がある、という点を忘れてはならない。一コマは、カメラで捉えた一瞬ではないのだ。だからこそ、アニメ版はカメラの動きを意識した主観ショット(キャラクターの視点に立って画面を揺らす演出が典型的だ)を多用し、原作の視点に新たな光を当てることで、各キャラクターの内面にも迫れたのである。
 構図を原作に近づける・主観ショットがない。CG版はめくられたスカートからのぞくパンツのアップがある。のび太はスカートを見ていないし、しずかの視点からパンツが見えるわけでもないので、これは客観的あるいは観客のための視点である。めくられたという当然の現実を、「エッチ」というセリフに加えて、よりわかりやすく説明したともいえる。
 だが、この場面で本当に原作に忠実な構図は、原作の構図そのものではないのだ!
図8
 図8は、CG版で問題となったシーンの原作である。集中線があり、背景が省略されていることにすぐ気付かれよう。前後のコマには背景が描かれており、ここは集中線で単に背景が消されているのではない。省略と同時に、この場面の二人に焦点を合わせている意味でもある。
 アニメ版がのび太としずかのアップを中心にこのシーンを演出した意味がここにもある。背景をぼかしたのだ。
 集中線が消え、キャラクターの動きでつぶさにのび太としずかの内面を描こうとするCG版は、背景もきっちりと描いている。厳密には、精密に作られた街並みのミニチュアとの合成映像であるのだが、そんな製作者の苦労話はどうでもよくて、どの場面でもこれみよがしに作られた背景が、とにかく自己主張してくるのだ。
 集中線の意味を理解していない映像化、それがCG版なのである。
「映画という形式において、映像情報を伝えるということは、情報そのものよりも「情報の落差」を伝えることだ、と僕は思っている。だから情報量が一律に上がることは、逆に情報の伝達を困難にしてしまう。たとえば、隅々まで詳細に描かれた絵というのは、人間にとって一種の不安感を感じさせる。やはり見たいものに焦点が合っていて、周辺がぼやけている方が人間にとって見やすい。CGはそういう意味で、均質になりがちなために情報量に落差をつくるための別な努力が必要になる。」(押井守「これが僕の回答である。1995-2004」より)


第二章 アニメ版は原作をどう描いたのか
 展開の省略と圧縮、主観ショットの解釈。これが原作とアニメ版の比較で重点となることは前章で触れた。CG版についても最後に触れたが、この章では、さらにこの比較を進めていきながら、原作の特徴をあぶりだしていきたい。

2―1 「たまごの中のしずちゃん」にみる物語のつなぎ方
 原作の展開省略の上手さがまだある。場面転換の方法である。
 一般的なマンガの描き方教本では、場面を変える場合、最初のコマにその場面の概観・建物の中ならその建物の外観、屋外なら空と屋外とわかる施設の一部などを描き、場面が変わったことを読者に伝える、という約束事がある。
 だが、「ドラえもん」においては、それらはほとんど通用しない。キャラクターが場所を移動した際に使われる手法は、コマの大きさであったり、キャラクターのセリフであったり、一コマ=一カットどおり、まるでコマの中のカメラの動きを読者の視線の動きのように捉えた構図や編集が施されている。
 展開の省略と圧縮の応用である場面転換を、「たまごの中のしずかちゃん」を例に、具体的に分析してみよう。
 冒頭、いちゃいちゃしているしずかと出木杉を道中で見て「約束がちがう!!」といきなり場面がのび太の部屋の中に移る。
図9 ドラえもんが座っていることで、のび太が自分の部屋に戻ったことが知れる。
 めくり効果などが期待できるコマ割りではないし、マンガの手法からみても教科書的ではない。藤子Fも「大ゴマに情景を細かくかきこむことで、時間と場所の変化が表されています」(「まんが技法 230頁)と、場面転換の仕方について言及しているが、図9は確かに前のコマより大コマになってはいるが、情景は細かく描かれていない。
 このような例は、原作では連載初期から描かれ続け、枚挙に暇がないほど例が多い。唐突に場所が移動しても、読者は迷うことなく、どこに移動したのか理解し、教科書的な景色のコマなぞ用意せずとも、そのコマにすんなりと入ることが出来るのだ。
 これには二つの技術が駆使されている。
 一つが四コママンガの基本である起承転結の活用である(不要と思われるが、藤子Fの言葉を借りて説明しよう。「起承転結」とは、起=ことのはじまり、承=起をうけつぎ話を一歩進める、転=今までの話を大きく変える、結=まとめ。それぞれを四コマに分け、三コマ目の転で「大きく変え」て、オチである四コマ目で話を結ぶというのが教科書的な回答だろう。もっとも、今日、四コママンガは多様化しているため物語は起承転結でなければならない、という型は個人的に古いと思っているが、基本の型を無視しては応用も利かない。藤子Fは「長編まんがの構造も「起・承・転・結」」と基本の重要性を訴えている)。
 連載によって培われたのび太というキャラクターの性格も踏まえた上で、悔しい思い・嫌な思いをしたのび太は、ドラえもんに泣きつくという行動原理も働いているために出来る省略の技法でもあるわけだが、「約束がちがう」というのび太のセリフは、いつもと異なっている。不意を突かれたような言葉が選択されているのだ、四コマの「転」と捉えられないだろうか。話の舞台を屋外から屋内に移動させる「転」でもあり、家に帰宅する(玄関前が描かれることが多い)→部屋に入る、といった場面を無駄として省いた藤子Fの短編作家としての力量がここにも表れている。
 映像化に際し、このような技法はそのままアニメに応用できるだろうか?
 教科書的にはマンガ同様に場所の外観を描く手法が採られるケースが多いだろうが、もうひとつ別の方法がある。移動先の特定の物や人のクローズアップから入り、その後カメラの焦点を引いて、その物・人がいる全体像を捉える方法である。アニメ版は、原作の「転」を映像化する際に後者を採用した。
 怒ったのび太のシーンの後、ドアのアップ→のび太がドアを勢いよく開けて入ってくる・のび太の顔のアップ「約束がちがう!!」→原作と同じ構図、という具合だ。
 実際の映像(左図。「約束がちがう!」と言いながら部屋に戻るのび太。ドアの歪み具合のようなマンガ的表現もアニメ版のコメディ描写を支えている。)を見ると、ドアのアップは一瞬である。そのため、のび太のアップを加えており、これが実質的な場面移動の手法となろう。視聴者にのび太の突然のアップに「転」の効果を与えるのだ。
 また、つぶさに見ると、これはすでに多くの方が指摘している点ではあるが、のび太の表情が実にやわらかく描かれ、とてもよく動いている。ドラえもんはギャグマンガであり、アニメ版もこれを損なうことなく、キャラクターの表情や動きにコメディ要素を忘れてはいないためだ。
 新ドラから監督を務める善聡一郎は、インタビューで語る。
「僕が「ドラえもん」でこだわってやりたいのは、感動エピソードよりも、くだらない話。(中略)くだらなくてアホらしいことを真面目にやって、子どもに笑ってもらえるというのは、藤子・F・不二雄先生が大事にされていた要素のひとつではないでしょうか。
 アニメならではのギャグも追求したいです。ドラえもんが落っこちてぺしゃんこに潰れたり、顔がぐにゅっと面白く崩れたり。」(「pen+(「ペン」プラス)」発行 阪急コミュニケーションズ 「ペン」一〇月一日号別冊「完全保存版 大人のための藤子・F・不二雄」七一頁の善聡一郎監督のインタビューより)
 自身をコメディ演出家だから、と語りながら監督の言葉が実際に新ドラで描かれている例を視聴者は目撃しているだろう。先の例はのび太だが、「約束がちがう」の後も、手をバタバタさせ、頭を掻きむしるように抱えて、足もばたつかせる、そして正座して泣き叫ぶと、いろんな動きを加えている。
 では、次の場面移動の例はどうだろう。刷り込みたまごを自室に持ち帰ったのび太が、ドラえもんになんとかしてと強引に迫り、しぶしぶ「ストレートホール」でしずかをたまごの中に入れる場面である。出木杉としずかが「またね」と別れる図10が、のび太の部屋→しずかの家の前という場面移動である。
図10
そのアニメ版 小さくてわかりにくいが、「源」という表札が見える。
 場所の外観とキャラクターの言動から、ここがしずかの家の前であることが察せられよう。アニメ版はより情景を詳細に描く。藤子Fが述べた時間と場所の変化であり、外観をしっかり描く。なにより「源」という表札がはっきり描かれていることで、ここがしずかの家の前であることが原作よりもわかりやすくなっている。
図11
 そして次がまた唐突な場面変更である。しずちゃんと別れた出木杉が、まだ話の続きがあるとしずかの家の玄関にやってくるのだ。図11のとおり、一コマでいきなりのび太の部屋から場面が移動する。まさに本編全体の物語の「転」である。何事が起きたのか? そうした戸惑いとこれから起こるであろう事件が、「結」への期待を生み出す。
 ここまで極めた「転」描写になると、アニメ版もそのまま原作どおりとはいかないようだ。最初の例のように出木杉の顔のアップから入るとしても、彼の表情はギャグ向きではない端正な顔立ちだ。アニメ版は素直に玄関前の情景を描き、そこに出木杉がやってくるという正攻法で原作を映像化している(図11は物語全体の「転」ともなる出木杉の唐突な再登場。下の二図は、そのアニメ版)。
 → 
 さて、アニメ版「たまごの中のしずかちゃん」では、原作にはないオリジナル展開を用意している。刷り込みたまごの中に偶然入ってしまったジャイアンとスネ夫。たまごから出て最初に見たものが、通り過ぎるトラックだった。二人は目をハートマークにさせながらトラックを追いかけるのだ。
 ますます出木杉が好きになったわと言われて作戦が失敗に終わり、泣きながらドラえもんにすがるのび太の目から大量にあふれ出る涙。涙のアップになると、それは波濤となって場面が転換する。海辺を走るトラックと、それを息切らせてフラフラになりながら走るジャイアンとスネ夫が描かれ、オチとなる。原作の面白さに、善監督の言う「くだらない」バカ話が味付けされたアニメ版の快作ではなかろうか。

2―2 「のび太の結婚前夜」にみる物語をつなぐ時間
 「のび太の結婚前夜」は藤子Fの感情がにじみ出ている挿話の一つである。山場で語られるしずかの父の言葉は、父・藤本弘の言葉である(藤子・F・不二雄は、三人の娘の父である)。まあ、その辺の薀蓄はドラえもん研究家に任せて、本稿では、マンガとしてのこの挿話で注目すべき一コマを取り上げようと思う。図12である。
 親子三人の宴を済ませ、母から父におやすみの挨拶を促されたしずかは、透明マントで見守るのび太が案ずるほど浮かない表情をしていた。「結婚相手がきみだもんね」というドラえもんのギャグを入れながら、父の部屋に入ったしずかは、「パパ、おやすみなさい」と告げるも、なかなか部屋を出ようとはしない。「……」長い沈黙。そして図12のコマである。
図12
 その後、しずかは再び「おやすみなさい」と言って部屋を後にする。「あれだけ?」と訝るのび太だが、さて、このコマ、一体どんな効果が秘められているのだろうか。
 省略と圧縮を旨とする原作の精神は、コマとセリフを最小限に留めている。そのため、ほとんどのコマに何かしらの動きやフキダシ・擬音が描かれ、絶えずキャラクターが躍動している。これまでみたとおり、10頁足らずの短編で物語を展開させる技術が凝縮された技法は、場面転換の教科書的な手法というよりは、四コマの転の作用を活かした唐突な変化を無理なくコマの中に収めている。
 つまり、このコマは原作の中でも、とても貴重な場面なのである。前のコマが「……」、次のコマが「おやすみなさい」。その間に挟まれた、しずかの横顔を捉える構図と、それを後ろから見ている透明マントを被ったドラえもんとのび太。(このコマに登場こそしないが、前後のコマに描かれているしずかの父も、しずかを見ている存在としてコマの中で息づいている。)
 このような場面は、後述する「さようならドラえもん」「帰ってきたドラえもん」でも描かれる。言葉で表現できない場面と言い換えてもいいだろう。だが、私たちがこのコマを何気なく読むとき、そこにはマンガというメディア特有の時間が流れている。
 マンガを映画に喩える藤子Fなら、このコマをどう映像化しただろうか。今となってはどうにもならないけれども、都合三度映像化されたアニメ版について、ざっと触れたい。
 最初は1981年放送の「のび太の結婚式!」である(「のび太の結婚式?!」1981年10月16日放送 監督・演出 もとひら了、絵コンテ 森脇真琴、脚本 城山昇、作画監督 中村英一)。10分の放映時間のため、後の二本にあるようなオリジナル展開もなく、原作に則ったストーリーである。だが、このコマは特に印象深く処理されることなく、「おやすみなさい」と挨拶→約2秒の間→もう一度「おやすみなさい」と言って部屋を去るしずか、と余韻に乏しい。
 1981年版は、その後しずかとの思い出を語るシーンに時間を割き、父と娘の時間というものを強調しているようだ。
 続く1999年版は映画「ドラえもん のび太の宇宙漂流記」と同時上映された、名作として名高い短編映画「のび太の結婚前夜」である(映画「のび太の結婚前夜」1999年3月6日公開 監督・作画監督 渡辺歩、脚本 藤本信行)。
 心優しいのび太のエピソードを追加し(個人的に先生とのシーンが好きである)、しずかがのび太の人を思い遣る気持ちに惹かれたのだろうことを想起させるに十分なストーリーである。特にしずかの父が語る、原作どおりのセリフが名場面として語られる。声優の力もあるに違いない。
 それはともかく、1999年版の流れはこうだ。「おやすみなさい」と挨拶→約9秒の間(しずかのバストアップ、父のバストアップ、それを外からうかがうドラえもんとのび太、向かい合うしずかと父)→もう一度「おやすみなさい」と言って部屋を去るしずか。
 1981年版に比べてはるかに長い。ただ長いだけでなく、この場にいる四人の表情を捉え、しずかが何か言いたそうだ、何を言うのだろうか、という期待感を生んでいる。でも彼女は「おやすみなさい」と繰り返すだけだった。のび太の「あれだけ?」が観客にも実感される言葉だろう。原作で使われた秘密道具「正直電波」を用いず、9秒の間によってしずかは父に何かを伝えたがっている期待感を醸成し、それだけで物語を引っ張る。部屋を出た直後、すぐに部屋の中に戻って父への想いと結婚への戸惑いを告白するシーンからの一連の流れは、原作の映像化の中にあって、屈指の素晴らしさであると個人的に評価している。星空を見上げ、広い宇宙の中でただ一人特別な存在が娘であることを語る。そのまま星空を背景に源家を泣きながら去るのび太とドラえもん、そして川原で夜空を眺めていた先生に偶然出会った青年のび太。このオリジナル展開への流れも個人的に好きなのだが、まあそれはともかく。
 そして2011年版ではこうである(「のび太の結婚前夜」2011年3月18日放送 監督 善聡一郎、脚本 水野宗徳、絵コンテ・演出 腰繁男、作画監督 丸山宏一)。「おやすみなさい」と挨拶→約7秒の間(沈んだ表情のしずかのバストアップ、小声でのび太「どうしたんだろう」、ドラえもん「さぁ」、顔を上げて微笑むしずか)→もう一度「おやすみなさい」と言って部屋を去るしずか。
 新ドラ版では、間としてのコマの映像化にのび太とドラえもんの会話を挟む。幼児も見ているという点を踏まえた上でのわかりやすい表現と言えなくもないが、説明的に過ぎるとも言えよう。新アニメ版は原作のセリフやストーリーラインを丁寧に扱うあまり、原作よりも踏み込んだ感情表現や言葉が使われる・もちろん原作のままでは約10分という尺に足りないという理由もあろう。
 ともかく、三度の映像化で、もっとも図のコマを尊重したのが1999年版の映像化であることは論を待たない。読者が感じる、しずかはどうしたんだろう? 何故なにも話さないんだろう? などと様々に感じる思いを2011年版のように「どうしたんだろう」「さぁ」と断定せず、観ているものに委ねたと言ってもよい。9秒という時間が適切かどうかは意見が分かれるところであるし、ひょっとした1981年版の2秒で十分という方もいるかもしれないが、読者が自由に読む時間を定められるマンガというメディアの特性を、見ている人がしずかの心理に考えをめぐらせるに十分な時間を与えた1999年版は、この一点だけでも、やはり名作と言うに相応しいのだ。
 さて、図12のコマの詳しい解釈については、「さようなら、ドラえもん」のドラえもんが去る有名な二コマを例に後述しよう。(余談。CG版のこのエピソードははっきり言って破綻している。しずか父「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人」というセリフが完全に浮いているからだ。原作はその長い連載によって積み重ねたのび太の優しさがあったわけだが、一本の作品としてアニメ版はのび太が「人のしあわせを願」う青年であることが具体的にオリジナル展開によって明示されていた。それらは父のセリフを意味あるものとして、一本の作品として成立させるために効果があった。だがCG版は、のび太青年の優しさを一切、描かない(小学生のび太の優しさも描いていない。利己的なのび太としての「たまごの中のしずちゃん」、しずかの優しさに焦点を当てた「しずかちゃんさようなら」が前半のエピソード)。一体何がしずか父をして、このようなセリフを言わしめたのだろうか? 少なくとも観客に明示しなければ意味がない。すなわち、この父のセリフの根拠は、観客が知っているのび太の人としての優しさを描いていた原作やアニメに依拠しており、一本の作品として成立させる意志が全くないと言われても致し方ないのではなかろうか)。
※のび太青年の優しさは、映画は子猫を空港に届けるエピソード、新アニメ版は失くしたピアスの片方を探すエピソードとして描かれた。

2―3 出木杉という矛盾 「雪山のロマンス」考
 アニメ版とCG版が根本的に抱えている矛盾とは何か。その一つが出木杉の存在である。原作マニアの方ならご存知だろう、出木杉の初登場がいつか、という問題だ。
 アニメ版もCG版も、最初から当たり前のように登場している出木杉だが、原作における初登場は「さようなら、ドラえもん」「帰ってきたドラえもん」(ともに1974年掲載)、そして「雪山のロマンス」(1978年)の掲載よりも後、実に連載が始まってから9年後の1979年「ドラえもんとドラミちゃん」(コロコロコミック1979年9月号掲載)なのである。
 この節では、そもそも原作では当初存在していなかった出木杉をアニメ版とCG版はどう捉えているのかを「雪山のロマンス」を例に考察したい。
 結婚相手がしずかであることが確定した「のび太のおよめさん」(1972年)以降、何故こんな男にしずかは惹かれたのかが長年の謎だったわけだが、そうした疑問に答える形で描かれたのが、のび太との結婚を決意するしずかを描いた「雪山のロマンス」なのである(ホントかよ)。
 つまり出木杉の登場は、のび太がいかに振舞おうとも、しずかとの結婚が揺ぎ無いものとなった後であり、のび太の恋敵という側面を持つ彼がいかにしずかと親密になろうとも、原作では関係ないとも言えるが、長い連載によって培われたのび太としずかの強固な関係にあえて、少しでも揺さぶりをかけるために、出木杉は登場したといっても過言ではない(ホントかよ)。
 そんな原作にあって出木杉は、アニメ版「雪山のロマンス」において、しずかと雪山に行く仲間の一人として登場する。原作では、友達と行くと言いながら、そもそも友達は描かれず、いきなり遭難したところから物語が展開されていた。しずちゃんは誰と雪山に行ったのだろう? という素朴な疑念を晴らす形ではあるが、出木杉という秀才がいるために、アニメ版は、彼がしずかを助けてしまったら大変だという動機付けとしての側面を持っている。しずかを助けたのがきっかけでしずかと結婚するんだ、というのび太の気持ちが、原作よりも明確になったとも言える。また、冒頭に出木杉としずかは占いで相思相愛という結果がだったこと・その帰りに宿題を一緒にやろうとしずかに誘うも、その横には出木杉がおり、のび太の危機感を煽るに一役買っている。原作としての恋敵という側面を、アニメ版は最大限活用しているのである。
 一方のCG版は、基本的に原作の7つの挿話をつなげたわけだが、その時系列は、「未来の国からはるばると」「たまごの中のしずちゃん」「しずちゃんさようなら」「雪山のロマンス」「のび太の結婚前夜」「さようなら、ドラえもん」「帰ってきたドラえもん」の順番である。ところどころに原作をはじめ藤子F作品への敬意が見て取れる。それらファンサービスとも言える細部へのこだわりは、確かに作者に対する愛であり、原作への愛ゆえなのだが、背景をミニチュアで作成したという(もちろんその苦労と映画で合成された映像の素晴らしさは賞賛されるべきものであるし、私もあの作り込みに感動した一人である)製作者のある種の自己満足は、残酷なようだが、観客にはあまり響かないものであり、私も例に漏れない(雑誌等でCGがいかに精巧に作られアニメ化されていのかは、確かに読んで興奮したし感動もしたんだけれども……)。
※CG版は随所に7つの短編以外にも他の挿話を細かく差し込んでいる。のび太の家が将来公園の公衆便所になっているという出落ち感ある描写は「のび太のおよめさん」、「雪山のロマンス」で届け!この記憶というシーンは、藤子FのSF短編「あいつのタイムマシン」を想起させる。鼻でスパゲティ云々は「のび太の恐竜」。ドラえもんマニア・藤子Fマニアの方々なら、もっとたくさんの小ネタを見つけられるだろう。
 CG版の時系列では、原作ですでに出木杉が登場している挿話を前半に持ってきた。のび太としずかの関係を脅かす存在として物語のはじめからいるのだから、この映画が「ドラ泣き」と並び「ラブストーリー」として宣伝されているのも、出木杉が寄与している。
 では「雪山のロマンス」の出木杉はどうか。ここでは、「のび太の結婚前夜」との融合が図られている。しずかと出木杉が公園でお芝居の稽古をする場面に出くわす「のび太の結婚前夜」の冒頭を「雪山のロマンス」の冒頭に、未来へ確かめに行くのは、のび太だけでなくドラえもんも一緒に付いていくのである。二人が一緒に行くのは「のび太の結婚前夜」に物語を繋げるための一考だろう。
「雪山のロマンス」最大の問題点は、情けないのび太という図式を、「届け! この記憶」によって青年のび太が本当に助けに来るという図式に変えたことである。
 雪山に登る前にのび太はしずかにプロポーズしていた。CG版の大きな改変点のひとつだ。遭難したしずかが岩穴でのび太に「この間の返事、OKよ」と語るシーンにより、原作のしずかからのプロポーズがなくなったのである。雪山から戻って、このことを青年のび太に伝える小学生のび太。だが、そもそも「届け! この記憶」と小学生のび太が叫んだとき、何故都合よく遭難したところだけを青年のび太は思い出したのだろうか? のび太が聞いた「OK」というしずかの言葉が記憶として届かない理由は何だと言うのだろうか。実にご都合主義である。
 青年のび太は語る。「なんでこんな大事なこと忘れてたんだろう」。しずかと小学生のび太の遭難は確かに命にかかわる大事なことだが、結婚の申し込みOKも大事だろうと突っ込みたくなるわけである。個人的には、青年のび太が助けに来るという展開を否定する気はない。これはこれで物語を繋げる手段だ。しかし、そこまで細部にまで作りこみながら、脚本やキャラクターの言動に一貫性がなく、ご都合がまかり通ってしまうようでは、一本の映画として実にいただけない。
 出木杉問題をCG版は出木杉を登場させないことで回避したかに見えたが、脚本の甘さが、かえって物語の矛盾を生んでしまったのである。
※CG版のセリフは全体的に極めて説明的で個人的にうんざりしてしまうのだけれども、まあそれはホントに個人的な感想に過ぎない。
※旧アニメ版「雪山のロマンス」1980年2月29日放送 監督 もとひら了、絵コンテ 稲垣行雄、演出 森脇真琴、作画監督 川島明
 新アニメ版「雪山のロマンス」2005年12月31日放送 監督 善聡一郎、脚本 大野木寛、絵コンテ 鈴木孝義、演出 三宅綱太郎、作画監督 嶋津郁雄
 新アニメ版(リメイク)「雪山のロマンス」2013年12月30日放送 監督 善聡一郎、脚本 清水東、絵コンテ 誌村宏明、演出 腰繁男、作画監督 吉田誠
※旧アニメ版と新アニメ版(リメイク)は原作に準拠しているため出木杉は登場しない。また、新アニメ版(リメイク)では、しずかの友達を登場させている。

第三章 二コマの時間と映像の時間
 さて、ここからしばらくは、プロや評論家の方々の言葉を借りながら、マンガ・アニメ・CGという三種について語りたい。例の二コマ(たった二コマだけれども、この二コマがドラえもんに留まらず、マンガとして優れて名場面であり、マンガ表現の面から見ても考察し甲斐のある二コマなのだ)を本格的に分析するための前準備であると同時に、CG版の優れていた点・劣っていると思われる点もあわせて言及しよう。

3―1 アニメの演技とCGの計算
 第一章の最後の押井守の言葉は、「これが僕の回答である。1995―2004」からの引用である。2004年に出版された本であり、引用した押井の発言の出典は、さらに前の19998年の頃のものである。CGに関する指摘がいくつかある中で引用したわけだが、押井の言葉は今もCG映画にとって有効であると思う。
 同著で、重要な指摘と思う箇所が、CGの映像は計算で作られている、というものである。
「少し前に「人狼」を観た直後のウォシャンスキー兄弟(「マトリックス」監督)に会ったとき、少女が下水道のなかを走るシーンの水飛沫の動きについて「あの水の動きを自分たちはやりたかったんだ。あれはどうやって実現したんだ?」としきりに訊いてきたことがあった。だから僕は「あれはCGじゃなく、アニメーターが描いたんだよ」と笑って答えた。」
 映画「アヴァロン」で実写とCGの融合を試みて手応えを感じたと思われる押井は、CGとアニメについて考える機会が増えたと前置きして、このエピソードを披露する。CGによる細やかな演出だと思っていたシーンが実は手描きだった。
 CGより手描きが優れているという意味ではない。押井はCGとアニメの大きな違いを「それは「演技」だ」と看破する。
 2014年、「マンガと映画 コマと時間の理論」を上梓して注目されたマンガ研究者の三輪健太朗は、同著にも収録されている2010年に発表した論文「落下する身体のリアリズム 初期ディズニーからピクサーへ」で、ピクサーの「モンスターズ・インク」の作画スタッフの言葉を引用した。孫引きする。
「「何に限らず、複雑で物理的な動きをするもの――毛髪、布、液体、なんでも――については、細かいところまですべて手作業でアニメーション化する方法は、現実的じゃない」体毛チームにいたトム・ロコビッチは言う。「ものに『物理的な』動きをさせる必要がある。つまり髪や布といったものを、何らかの物理的モデルに従って動かすような、シミュレーションを実行する必要があるってことだ」
 物理的という言葉が全てである。押井の言う「演技」とは、アニメーターが頭の中で思い描いた動きをアニメーションとして具現化するということだが、物理的モデル・つまり計算に基づいてシミュレーションされた動きに「演技」は必要とされていない。
 だが押井はこの演技論に関しては慎重である。「人狼」の監督である沖浦啓之クラスのアニメーター・熟練したアニメーターであれば、「その絵の動きはCGをはるかに超える」と述べる。2001年の発言である。2014年現在、「STAND BY ME ドラえもん」は、果たして熟練クラスのアニメーターを超える演技をスクリーンに映し出すことが出来ただろうか。
 仮に出来ていたとしても、そこには、やはり演技はない。あくまでも現実をシミュレーションした結果の動きである。それでも手描きアニメよりもリアリティがあればいいではないか、という考えもあるだろうし、自分自身、どちらが優れているかという点に関してはさしたる興味がない。面白ければどっちだっていい。
 では、CGによって構築されたドラえもん世界のリアリティはどこに依拠しているのだろうか……。身も蓋もない言い方をしてしまえば、観客の個々の思いの中にあるドラえもん世界(アニメの世界であり原作の世界である)に頼り切ってしまっている。肯定にしろ否定にしろ、私たちはこの映画を評する時に、よく再現されたドラえもんの住む街並みとか、キャラクターの動きの良さとか、ピクサーに追いついたとか、技術レベルにおける賞賛が目立つ。ストーリーに関しては受け取り方の差があるものの、CG映画としての仕上がりに関するこうした評価は、結果的に「CG映画である」ことを念頭においた留保付きの評価であることを浮き彫りにした。
 国産CGできちんと動くアニメのシミュレーションが出来ることを証明した、それ自体は素晴らしいことだが、私たちは暗に、演技としてのアニメではなく、計算されたCGをスクリーンで見ていたことを半ば自白しているようなものなのだ。
 そこで動いているドラえもんは、本当にマンガと同じドラえもんなのだろうか?
 マンガは、絵である。当たり前のことであるが、しばしば私たちはこの認識を忘れてしまい、ドラえもんたちが一個の人格を持ったキャラクターであると錯誤した話をしてしまいがちである。のび太ならあんなことするとかしないとか、ドラえもんならこんな言動はあり得るとかあり得ないとか。だが、そもそも絵は線の集合体に過ぎない。線についても、突き詰めてみれば、ただのインクの染みに過ぎない。
「同じインクで執筆され印刷されうる以上「絵/コマ/言葉」というマンガの三要素には本質的な差異は存在しない。紙面上にあるのは「インクの染み」という一つの物質的現実である。「インクの染み」―だが、一般に書き手はそれらを「線」として描き、読者もまた経験的にそれらを「線」として認識する。(中略)すなわち、マンガとは「線」である、と。
 紙面上にある「線」の集合―だが、もとより読者はその現実をただちに経験的に腑分けし、おおよそ「線画/枠線/文字」という三種のイメージとして差異化するだろう。そしてそれと同期して、それらを極めて記号的に解釈するだろう。」
 マンガ研究者の可児洋介が2009年に発表した論文「複製芸術としてのマンガ 視覚メディアにおけるキャラ表現の考察」からの引用である。
 マンガは「線画/枠線/文字」の三要素から成立しているという点の賛否はともかく、マンガがインクの染みでしかないという指摘、線の集合体であるという指摘は重要である。すなわち、私たち読者は、マンガを読む際に、それらキャラクターがただのインクの染みであることを知りながら隠蔽している、ということである。
 人間の目は生理的に、物を立体的に見てしまうことは知られている。錯覚やだまし絵の類も、立体視を逆手に取った技法である。マンガも同様だ。ただのインクの染みであっても線の集合であっても、その形に人間は立体物を見てしまう。ドラえもんという黒い線で形作られた物質を否応もなく発見してしまう。これはどうしたって避けられないのだ。そして私たちはその物質を「キャラクター」と名付けた。
 可児洋介は、マンガ評論家の夏目房之介の言葉を借りながら(「へのへのもへじ」が人間の顔に見える。文字という記号の集合体が顔に見えるという落書き的面白さ。)、マンガとはシミュレーションである、と述べる。シミュレーションとは、すなわち現実世界と等価の物質を構築する、ということである。くだけた言い方をすれば、ものまね、なのだ。CGが計算によって物理的なものまねをするように、マンガは手描きによって現実をものまねしているのである。
 マンガの世界においてもアニメの世界においても、のび太が大きな爆発に巻き込まれたところで、死ぬことはないだろう。真っ黒になった汚れた顔で倒れながらドラえも〜んと助けを求めるだろう。「未来の国からはるばると」でタケコプターで飛んだのび太だが、スボンにそれを付けられていたため、スボンが脱げてのび太は落下してしまう。のび太は頭にたんこぶをたくわえ、顔は傷だらけだが、明らかに頭から落ちたと思われる描写がありながらも、どうして血の一滴も流していないんだろうか・脳内出血してたら危ないんじゃないか、などと現実的な思考をめぐらせて、この場面を読む読者はいないだろう。
 三輪健太朗は同論文で、マンガ・アニメのキャラクターの本質について端的にこう述べた。
「マンガやアニメーションの出自は、もともと紙の上の「インクのしみ」でしかない。ではそのようなメディアがリアリズムを獲得するとき、何が起こるのか。その一つの答えとして大塚が示したのが、「傷つく身体」という枠組みであった。本稿は、ディズニー=ピクサーの流れに目を向けることで、「落下する身体」という枠組みに移行することを提案した。このとき、前者ではあくまでも「身体」が問題になっていたのに対し、後者ではむしろ身体を「落下させる」重力こそが問題になっている。重力とは、我々が生きるこの空間に働く物理法則にほかならない。つまり、ここで起こっているのは、「キャラクター」の問題から「空間」の問題へ移行することなのである。」
※大塚とは、マンガ評論家であり作家でもある大塚英志である。
 三輪は、この論文の中で、大塚のキャラクター論と、それを受けて発展させたキャラクター論を展開した伊藤剛「テヅカ・イズ・デッド」のキャラクター論の双方を慎重に検討しながら、「傷つく身体」(先ほどののび太がタケコプターから落ちて死んだとしたら、読者はどう思うだろうか。死なないと思っていたキャラクターが頭から血を流して死ぬ。これを大塚は手塚治虫マンガを例に検証し、「傷つく身体」としてマンガのキャラクターがリアリズムを獲得した経緯を論じた)が、実は紙の上のインクのしみに過ぎず、むしろ重要なのは、彼らがいくら紙の上でどのように描かれようとも、紙の上からは落下できないという物理的な現実を突きつけ、これを「落下する身体」として再定義してみせた。
「『トイ・ストーリー』本編の結末において、バズは華麗な飛行を見せる。ロケット花火の助けを借りて空中に飛び出した彼は、その小さな翼によって、物理的にはありえない見事さで風に乗ってみせるのである。「ロケット花火」や「風に乗る」といったエクスキューズを常に必要とするバズは、あくまでも「落下する身体」から逃れられないが、しかし物理的な現実世界にはありえない形で宙を飛ぶ。そして、我々はすでに次のことを知っている。「落下する身体」を手に入れて初めて、アニメーションのキャラクターは、単に「落ちない」のではなく、「飛翔する」という概念を手にすることが可能になったのだと。」
「STAND BY ME ドラえもん」の「未来の国からはるばると」のエピソードで描かれたタケコプターの飛翔シーンは、原作と異なり、のび太はドラえもんと見事な飛翔をスクリーンに見せてくれた。「トイ・ストーリー」のバズの飛翔によって昇華されたCGが獲得したCGとしてのリアリズムは、単なる物理的な計算によるシミュレーションではない。「物理的な現実世界にはありえない形」で重力という物理学を無視した飛翔を果たすことにより、単なる物理計算から解放された、「演技」がそこに生まれたのである。
 のび太の飛翔も同様であることは言うまでもない。CGとしてのリアリズムを獲得するため・アニメでもなくマンガの再現でもなく、CGとしての演技をスクリーンに投影したことで、「STAND BY ME ドラえもん」は映画として見事に羽ばたいたのである。
 だが、こうしたCGとして優れているという評価も、これまでに指摘したストーリーのご都合主義や、細部まで描きすぎた背景、ドラえもんを奴隷化した「成し遂げプログラム」という設定などによって瓦解してしまう。実に残念な結果である。
※「成し遂げプログラム」については賛否あるだろう。個人的にこの設定には否定的だが、CG版の評価の中心軸をそこに求めていない。あくまでもストーリーや説明的な演出やセリフの稚拙さであり、ドラえもんとのび太の友情を観客の記憶に頼った点に求める。

3―2 ドラえもんという空間
 三輪健太朗は、前節の論文の結論でこう述べる。
「アニメーションは「現実空間の表象=再現」と「インクのしみ」という二つのモードの葛藤の中にこそ存在している。」
 もちろんこれはマンガにも当てはまることを論文の中で三輪は述べている。マンガもアニメも「インクの染み」でありながら、それを隠蔽することで現実をシミュレーションしようと目論む。両者の葛藤の中で、どう折り合いをつけるのかが、その作品のリアリティを決める。
 ドラえもんのリアリティはどこにあるのか? 記号的なキャラクターの造形と振る舞いは、現実空間の再現とは対極にあるような、わかりやすさである。リアルな背景でもなければ、リアルな表情が描かれるわけでもない。
 記号化とは、たとえば文字を想起すると理解できよう。記号化を極めたものが前節で触れた「へのへのもへじ」だ。藤子Fは「まんが技法」でこう語った。
「この「へのへのもへじ」というのは、じつに偉大な発明だと思います。だれでもかけますし、どんな下手にかいても、「へのへのもへじ」――とわかります。だから、もし、きみがはじめて「まんが」をかくのだったら、登場人物を、この「へのへのもへじ」にするのも、ひとつの方法です。」
 この言葉は、自身のマンガが記号的に描かれていることを半ば告白している。もちろん自嘲的な意味ではない。「へのへのもへじ」を出発点に顔の表情の特徴を個々に捉え直し、キャラクターの造形の勉強をすべきであると訴える。それがやがて、マンガ家独自の筆致となる。記号からはじめて、自分自身にしか描けない記号が、作風と名付けられて立ち上がってくるのだ。
 しかし、どんなに「へのへのもへじ」の表情を極めたところで、読者はリアリティを感じないかもしれない。所詮、ひらがなという記号の集合体だ。だとしたら、これを実在する人物の顔写真に置き換えれば、リアリティが生まれるだろうか? 背景も写真にしてしまえば、それは描かれたマンガというよりも、写真そのものになるだろう。そのマンガにリアリティは宿るのだろうか?
 マンガと写真の関係性について三輪は、「マンガと映画」の中で、フランスのマンガ(フランスでは、マンガを「バンドデシネ」と言う)研究家の第一人者であるティエリ・グルンステンの著作「線が顔になるとき」を引用した。本稿では、実際に引用された著作を引いてみた。
 グルンステンは同著作の中で、写真の使用についてマンガ家に取材した結果を下に、描かれた絵と写真の相違点を明らかにする。フランソワ・ブルジョンというマンガ家の発言を引用し、
「「マンガ家それぞれが固有のコードによって分解し、分析し、再構成しないかぎり、写真を絶対に使うべきではない。(中略)作り直さずにそのままコピーして使えば、その部分は必ず作品の中で浮いてしまうからだ」(中略)このように写真がもたらす豊富な細部は、マンガの原理、つまり短縮して単純化する働きを本質とする、線画のふるいにかけられなければならないのである。」
 と述べる(「豊富な細部」がマンガにどんな影響を及ぼすについては、「マンガ原作映画は何故失敗するのか3」で浅野いにお「ソラニン」を例に解説しているので、よかったら読んでおくれ)。さらに、「写真にはもうひとつリスクがある」とし、「写真がある角度から忠実に再現する顔は、別の角度からその顔がどう見えるかについては何も語らないのである。」
 つまり、写真によってマンガの顔を形作るには、角度ごとにそれぞれ顔写真が必要であり、「分解し、分析し、再構成し」なければ、とても使い物にならないということだ。
「他方、マンガ家は、「あらゆる角度から」顔を描けることを示し、多彩な表情を描き分けなければならない。そのためには、正確さによって制限され、束縛されているイメージから脱却する必要がある。」
 藤子Fもまた、その違いを写真ではなく写生と比較して指摘する。
「「まんが」が「写生」と違うのは、誇張(強調)があるという点です。目で見たものを、そのままかくのではなく、いったん、まんが家の頭の中で情報処理(中略)がおこなわれ、もっとも印象深い部分をぬき出し、どうでもいい部分を省略して、自分なりの絵にまとめていくわけです。」
 情報処理とは、まさに「分解し、分析し、再構成」することに他ならない。
 「STAND BY ME ドラえもん」がCG化にあたってもっとも苦労したキャラクターは誰だろうか? スネ夫の髪型が真っ先に思い浮かぶかもしれない、あれを立体的に表現することなんて出来るのだろうか。「あらゆる角度から」描いても原作のスネ夫の髪型はスネ夫の髪型を維持している。ヒントとなったのは、すでに商品化されていたスネ夫フィギアだった。実は、もっとも苦労したキャラクターは、のび太だと言う。
 のび太のメガネは、原作もアニメも時に眼として・特に白目の役割を担う。メガネと眼は一体化しているのだ。これを原作どおりにしてしまうのか、それともメガネという物質と眼を別々にするのか。だが、別々にしてしまうとのび太に似ないし、一体化するとリアルではない。
 初期デザイン案では点目に近かった小さな眼が、完成版のび太の眼は実際のメガネより一回り小さい程度の大きさに描き、メガネとは別々にして描くことで、リアルなのび太を現出させた。
 CG版キャラクターの苦労は、「豊富な細部」に拘った結果でもある。その是非は問わないし、個人的に各キャラクターは原作の印象を損なっていなと思っている。ともかく、写真とまでは言わないが、それに近いリアルさを求めるということは、単純化された記号としての線画であるマンガの本質から離れていくということである。
 本質から離れていきながら、原作のような印象を持たせようとする。無理が生じるのは当たり前だ。その無理を通すために、CG版はキャラクターに飛翔という演技をさせる必要があったし、その有効性は前節ですでに述べた
 だがその演技は、最終的にエンドクレジットのNG集に収斂されることで破滅した。撮影に臨む架空のキャラクターにより、その非実在性はより強調されてしまったと思われる。一種のお遊びであり、そんな意図はないと思われるのはわかっているけれども。これはいささかいじわるな見方かもしれないが。
「実写でもアニメでも、「芝居」をすればするほど演技はダメになっていく。実写でも、カメラを回し始めたその瞬間から、俳優にとって無意識の動きはありえなくなる。無意識を装った演技はできても、それはあくまでも装った動きでしかない。それがアニメや映画の限界だ。」(押井守「これが僕の回答である。288頁より)

3―3 「さようなら、ドラえもん」 二コマの時間
例の二コマ
 CG版の監督は二人いる。八木竜一と、もう一人が山崎貴である。山崎の映画監督デビュー作「ジュブナイル」(2000年公開)が、ドラえもん最終回として同人誌で頒布された非公式の物語が原作であることはよく知られている。「for Mr. Fujiko・F・Fujio」のテロップを藤子プロの許可を得てクレジットするほど、山崎貴が藤子Fファンであることは、単なる社交辞令ではなく事実であろう。
 当時、藤子不二雄ファンサークル「ネオ・ユートピア」の会誌でインタビューに応えている。
「帰って行く場面もいいですね。セリフなしで、ドラえもんが見守っている絵があって、次のコマではいなくなっている。あれがもうたまらない。これはもう映画ではできない。漫画表現に対して羨ましいと思ったことはほとんどないんですが、羨ましいと思った希有な例です。オーバーラップでもなんでもなくて、同じ絵でいる、いない。このストイックな表現、終わり方、去り方。素晴らしいです。二度と会えない感じは、あの構成が一番いいんですよね。だって引き出しに帰っていくというの今まで何度も繰り返されたことだから、当然また帰ってくることを想起させるじゃないですか。でも、そうじゃなくて、あれはもう二度と来ないわけですから、ああでなくてはならない。」
 何故「映画ではできない」のか。山崎が「羨ましい」と述べる例の二コマ。藤子ファン向けのインタビューという点を差し引いても、「二度と会えない感じ」というものは実際に私も感じるところである。
 たとえば、1998年「ドラえもん のび太の南海大冒険」と同時上映された短編映画「帰ってきたドラえもん」では、この二コマをどう演出・アニメ化しただろうか。
 のび太を見守るドラえもんは、やおら立ち上がると、名残惜しそうに机に向かい引き出しを開ける。そしてのび太を時折見やりながら、引き出しの中に入る。涙をたくさん浮かべて「のび太くん」と呟きながら、ドラえもんは去っていく。
 山崎が感じた二度と会えない感覚というものがここにはない。帰ってくることが前提であれば、このドラえもんの去り方の演出にも一理あるだろう、実際そういうタイトルとして上映されたのだから。一つ一つの動作を丁寧に描き、感動を静かに煽るこの短編映画に、当時劇場で見た私は、しかし感動した記憶がある。特に帰ってきたドラえもんとのび太が再会するシーンだったと思う。もちろん個人の感想に過ぎない。だが、帰ってくることがわかりきっている以上、この短編映画における去り際のドラえもんの涙には、どこか嘘くささがあるのも否めないだろう。
※「帰ってきたドラえもん」1998年3月7日公開 監督・作画監督 渡辺歩、脚本 城山昇。「ドラえもん のび太の南海大冒険」と同時上映。感動中編シリーズの第1作目。原作「さようならドラえもん」「帰ってきたドラえもん」を映画化した。なお、原作には「さようなら」と「ドラえもん」の間に「、」読点があるが、アニメ版にはない。念のため。
 アニメ版はどうだろうか。2009年にテレビ放映された「さようならドラえもん」は、もっとも原作どおりの二コマの再現を目指したと思われる。原作とほぼ同じ構図なのだ。
 この構図に至る前に、たっぷりとドラえもんはのび太との思い出を振り返る。「のび太くん、ありがとう」と言いながら、涙を流し、寝入ったのび太を見詰める。
 二コマはオーバーラップにより、ドラえもんの姿がすうっと消えていく演出が施された。同時に窓から日差しが入り込むとともに雀の鳴き声が聞こえてくる。
 だが山崎は、この二コマはオーバーラップではないとと語っていた。
 一コマ=一カットである。
 一コマ目の時間は、ドラえもんが流す涙によって決まるだろう。時間は夜更け。完全に寝入っているのび太。どのくらいの時間、ドラえもんはのび太との別れを惜しんで泣いていたのだろうか。
 その時間をアニメ版は、具体的に思い出の映像として描写した。アニメオリジナルのセリフを付け加えることで、わかりやすく視聴者に伝えたわけだ。そういう意味で、アニメ版は一コマ目を拡大解釈したとも言えよう。つまり、実際に原作どおりと言えるシーンはドラえもんが消えた後の二コマ目である。
 二コマ目の時間は、すでにドラえもんが去った後である。日差しを表す斜線が布団の中で深く眠るのび太を照らす。印象は様々あるけれども、ドラえもんが去って、いくらかの時間が経過し、朝が来たことが判然としている。
 ただひとつ注意すべきは、どちらも一コマだけでは成立しないということだ。コマを並べてこそマンガである。起承転結の「転」にしても複数のコマを読み進めてこそ「転」として機能する。たった一コマ抜き出しただけでは、それが「転」なのか、起承転結のどれかなんてわからない。前後のコマによって、コマは初めて意味を持つ。
 藤子Fはこのマンガとして当然の原理を映画になぞらえて編集と語っていた。再度引用する。
「カットは「まんが」の一コマにあたり、編集はコマ割りにあたるのです」
 一コマを読むのにどれほど時間をかけるのかは読者の自由であり、常々マンガの特権として映画と峻別される特徴である。時に映画よりも優れているという論調にも至りやすい、マンガの読む時間の自由は、それほどマンガの特権なのだろうか。
 2―2では、しずかのシーンを何秒描いたか、という点について触れたわけだが、ひとつのシーンをどの程度の時間の幅を持って描写するのかは、映画の特性として避けて通れない宿命である。一方、マンガは、そのコマをいくらでも眺め続けることができる(現に例の二コマを私はずっと見詰めながら、本稿を書いている)。
 コマを見ている私は、実際に何を見ているのだろうか。もう一度分析しよう。
 泣いているドラえもん。だが、私は映像としてそれを捉えてはいない。アニメを見ることで、アニメを思い出すことはあって。では私は何を見ているのか? 私は、ある程度時間の幅を持った一コマの中の、ある瞬間を切り取って見ている。だからと言って、それは瞬間ではない。瞬間と同時に、瞬間よりも長い、ある程度の時間の幅を持った一コマを見ている。そして重要なのは、この一コマを切り出しただけでは、ドラえもんが何故泣いているのかを理解出来ないということである。
 ジャイアンとの喧嘩でボロボロになったのび太のドラえもんを想う気持ち。連載を通して育まれた二人の友情があるからこそ、ドラえもんの涙を理解して一コマを見詰めることが出来る。
 つまり私は、前のコマまでの流れと、これまで読んできたドラえもんという物語全てを汲んだ上で、その一コマを見ているわけである。
 これをコマの継起性と因果性と言う。
 意味があって編集された各コマは、映画同様に逃れられない宿命がある。時間の流れである。どんなにそのコマを眺め続けようとしても、物語を理解するには次のコマに進まなければならない。だから私たちは、ドラえもんが去った後のコマを読まなければならない。仮にコマを並べ替え、支離滅裂なコマ割りになったとしても、私たちは、次のコマへ次のコマへと視線を移動して物語を理解しようとする。
 そして、もっとも重要なポイントとなるのが、実は三コマ目なのである。
 ちょっと横道にそれるが、時間を扱った藤子F作品「T・Pぼん」を例に、継起性と因果性について解説しよう。
 「T・Pぼん」で起こっている現象は、読者の時間と主人公の時間、二つの時間経過の混同である。読者時間は読者が感じる劇中の時間、主人公の時間は劇中に主人公が体験する時間である。「消されてたまるか」の回で、まず時間の巻き戻しがある、主人公ぼんが友達ともみあっている@、友達がバランス崩してベランダから落ちて死んでしまうAが、これをぼんの最初のパートナーとなるリームが時間を巻き戻してもみ合う前の時間に戻すB。この時、読者時間とぼんの体験した時間は一致しているから、ぼんは先ほど確かに友達が落ちたのに今またなんで彼と談笑しているのか訳がわかってないC。つまり時間が巻き戻される前の出来事を記憶している。このときの時間はB→@→A→B→Cとなるが、実際に読むと@〜Cと順番に経過しているのは自明である。Bが二度あるけど、あまり感じない。なぜならBがもみ合う少し前ともみ合うもうちょっと前の二つの時間に分割されて描かれているからである。
 これは次の回「見ならいT・P」でさらにはっきりする。ぼん11時起床、あわてて学校へ@、学校になぜか自分がいて混乱A、もう一人の自分と交代して授業へB、下校、家にはリームがいて今日の8時に飛び、寝ている自分を起こそうとするが起きないので自分が学校へ行くC、授業中Dにもう一人の自分がやって来たEので交代し帰宅F。この流れ、過去の自分と会うって時点で時間がだいぶ交錯している。時間経過はC→D→@→A=E→B=Fとなるが実際はやはり@〜Fに読める。なんでだろうかって当然そういう順番で描かれているからだ。時間は過去に行ったり未来に行ったりしても、主人公が体験している時間が読者の時間にそのまんま反映されている。だから時間の混乱が起きない。もし時間の経過に沿って描かれていたらどうなるだろうか。
 登校時間が近づいても起きないぼん、8時頃リームとぼんが出現、ぼんは寝ているぼんを起こそうとするも起きないのでぼんが学校へ行って授業を受ける、11時にぼん起床し慌てて登校、教室をのぞくとぼんがいる。ぼんが校庭で待ってろというのでそうするぼん、ぼんはトイレへ行くといって教室を出て校庭へ行ってぼんと会う。ぼんは教室へ、ぼんは帰宅。帰宅したぼんはリームと事故の救出に出動G。下校したぼんは切り株のリームと会いタイムボートに乗って消えるH。ぼんはリームとタイムボートに乗って現れて家に帰って寝るI。
 誰に主体があるのか、わけがわからないが、注目はHである。矛盾しそうな展開を自ら避けて読んでいるのだ。Eから家に戻ったぼん、この時間は昼頃、リームやブヨヨンと雑談後にGとなってIに至るが、任務を終えて帰った時刻はいつか? 明確にされていないにもかかわらず、読者は、ぼんが切り株の近くでリームと別れている場面も手伝って下校時刻頃だと勝手に解釈し、物語もそのように進んでオチに至る。実際の時間がはっきりしていない場合、読者はコマの継起性にならって順繰りに時間が経過しているとみなすのである。だから混乱なく物語を読み進められる。実際はHが先に描かれG→Iと物語が進むので、時間の逆転に気付きにくいのだ。これにはもうひとつの力・因果性が影響している。
 すなわち、物語がいつの時間に進行したか曖昧のままだと、劇中時間と読書時間を混同し、かつ読者のほうで時間を勝手に進めてしまうのである、因果性が強力に働いているために継起性が自然と揺り動かされるともいえよう。原因と結果は必ず原因が先ってことだ、だから結果は物語の発端の後だと読者は必ず読むのだ。「武蔵野の先人たち」の回でもそれがはっきり読める。父親と散歩中のぼん@→仕事のため過去へA→父親が散歩から帰った頃に現在に戻るB→再び過去へC→現在に戻ると居間でくつろいでいる父D。@→B→Dという現在の時間軸は、混乱なく自然と経過している。読者はぼんが好きな時間に戻ることが出来ることを知っているにもかかわらず、どういうわけか読書時間の流れを受け入れる。因果性に混乱をきたさないような配慮が描き手によって構成された結果、読み手の継起性が促されたのである。こうした混同というものは時間旅行に限らない。その例が「十字軍の少年騎士」の回だろう。
 この回で秀逸な点が回想場面の挿入法である。時間を混乱させずに主人公の時間を読者に体験させつつ、過去の出来事を描いているのだ。少年騎士が何故砂漠を独りで歩く結果になったのか? 原因を描くことで特別に「これは過去の出来事を回想してます」という注釈なしで、それは過去の出来事だと解釈させる。おまけにこの回は過去や未来への移動がないのだ、冒頭からすでに十字軍の時代に主人公は来ている。回想する場面も以前なら過去へさかのぼって原因となった現場を直接見る(主人公に見せる)のだが、それもない。
「武蔵野の先人たち」におけるぼんの父親の時間や、十字軍の少年の時間が、ぼんが経験する時間(つまり読者が体験する時間)の流れに束縛されず、キャラクターごとに別個の時間を持って動いている。読者はぼんと一体化していながら、同時にコマの主体が変更されると、それに合わせて時間軸も変更している。つまり、そのコマの中を流れる、ある程度の時間幅を主体的に感じているキャラクターが、読者の感じる時間を制御しているのである。
 一コマ目の主体がドラえもんであることは間違いない。のび太は寝ている、彼は時間を感じることが出来ない。泣くドラえもんの時間が読者の時間となる。二コマ目、のび太はまだ寝てるし、ドラえもんもいない。主体を失ったコマ。ドラえもんがいた時間の余韻を引きずっているので、ドラえもんの時間が流れているともいえる。だがコマの中心にはのび太が据えられる。藤子Fのコマをカメラに喩える言にのっとれば、カメラが上に少し動いたのである。これは、何を促す動きなのか? 何故少し上に動いたのか? それが三コマ目なのである。
三コマ目※仕舞っていた引き出しがあいてるじゃん、という無粋な突っ込みはやめてあげよう
 三コマ目。起きたのび太が机の引き出しを眺めるコマである。起きる、つまり、上に身体を伸ばす動きにカメラが同調して、ニコマ目でわずかに上に動いたのである。
 同じ構図であると言われながら、実際には異なった構図で二コマは描かれていた。前後のコマとの関連性を考慮しなければならない。三コマ目に読み進めたとき、にわかに二コマ目の主体が誰に宿るのかがわかるだろう。三コマ目を読みながら、前のコマの時間を読者は都合よく辻褄を合わせ、のび太の時間であるかと感じる。
 すなわち二コマ目には、ドラえもんが去った後の時間と、のび太が起きるまでの時間が流れているのである。時間のオーバーラップが起きていたのだ。
 CG版は、予告編でこの二コマの演出を確認できる。映画に出来ないとかつて語った山崎の選択した手法は、結局のところ、やはりオーバーラップだった。構図は次頁のとおり原作と変え、二コマ目にあたるカットではのび太の寝返りを表現している。ドラえもんからのび太に時間をつかさどる主観が移動したカットであろう。寝返りという変化は、二コマ目の時間のオーバーラップを結果的に演出した。
 去った後のシーンにおける、きれいに畳まれた押入れの中の布団。押入れの中の星野スミレのポスターがないので、ドラえもんが未来に持ち帰ったらしいことがうかがえる。確かに二度と戻ってこないという意味で、このポスターの有無は効果的かもしれない。
 インタビューのとおり、山崎はこのシーンを慎重に愛情を持って映像化していた様子がうかがえる。



※予告編から。だんだんと明るくなっていく夜空。CG版では、ドラえもんが夜明けが近付くぎりぎりまでの時間、のび太を見詰めていた印象を与えるだろう。

おわりに のび太の成長という陥穽
 だが、ドラえもんは帰ってきた。
 個人的にCG版は、失敗したと評価するが、原作をのび太の成長物語として、あるいは、のび太としずかのラブストーリーという側面に拘泥しすぎたためであると感じる。
 一コマ目で、自ら去らなければならないドラえもんの涙は、誰のものでもない、ドラえもんの涙である。ドラえもんというキャラクターが築き上げた物語がここに宿っている。
 原作「さようなら、ドラえもん」は、のび太の成長を描くと同時に、何らかの理由で帰らなければならなくなったドラえもんの成長を、同時に活写していたのである。
 ドラえもんが未来に変える理由は明かされていない。幻の最終回と言われる二本には、いずれも理由があったが、「さようなら、ドラえもん」には、とにかく帰らなければならないことしかわからない。CG版の「成し遂げプログラム」という帰ることを強制させた設定は、こうした理由付けが必要であると判断した製作者たちにとって、物語を動かすためのわかりやす道具だったろう。だがそれにより、原作で描かれたドラえもんの意志というものを殺してしまったのである。
※「ドラえもん未来へ帰る」(「小学四年生」1971年3月号) 時間旅行規制法により過去への渡航が一切禁止されたため、ドラえもんは未来に帰る。
 「ドラえもんがいなくなっちゃう!?」(「小学四年生」1972年3月号) ドラえもんに頼りっきりなのび太を見かねたセワシは、のび太に自立心を養わせるため、ドラえもんを未来に帰らせる。日本テレビ版アニメの最終話原作。
 展開の省略と圧縮、舞台的構図と映画的構図の融合、主観ショットによる主観の操作、コマをつかさどる時間の幅。マンガやアニメにおいて、これらの技法が成立するには、全て読者・視聴者という協力者か必要である。「インクの染み」であることを作者とともに隠蔽したように。
 では「STAND BY ME ドラえもん」が隠蔽したものは何か。それが、ドラえもんの成長という物語なのである。
 さてしかし。「STAND BY ME ドラえもん」が大ヒットし、多くの観客を感動させたのは事実だ。この作品の評価はさておき、藤子F先生が亡くなって18年(※執筆当時は2014年)が過ぎてなお、ドラえもんが、多くの人々の記憶の中で、のび太の友情とともに生きですていることに、私は感動している。

引用
「ドラえもん」小学館 てんとう虫コミックス
「NEW TV版ドラえもんスペシャル ずっとそばにいてね」」小学館 ポニーキャニオン
参考文献
藤子・F・不二雄「藤子・F・不二雄のまんが技法」小学館文庫 2000年
小学館ドラえもんルーム編「ド・ラ・カルト ドラえもん通の本」小学館文庫 1998年
押井守「これが僕の回答である。 1995-2004」インフォバーン 2004年
三輪健太朗「マンガと映画 コマと時間の理論」NTT出版 2014年
可児洋介「複製芸術としてのマンガ―視覚メディアにおけるキャラ表現の考察―」学習院大学人文科学論集][(2009)
ティエリ・グルンステン「線が顔になるとき バンドデシネとグラフィックアート」古永真一訳 人文書院 2008年
「映画「STAND BY ME ドラえもん」VISUAL STORY:未来の国からはるばると」小学館

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