手塚治虫「火の鳥」
はじめに
一言でこの作品を評価するならば、まとまりのない曖昧な作品と言える。俗に人道主義や輪廻転生といった表面に目が奪われ気味で、読者自身、作品の全体像を掴み損ねていて、「傑作」「名作」という言葉ばかりが先行している。そうした言葉が読む上で先入観や偏見を生じさせ、作品を客観的に評する機会を奪っているように思えてならない。どの部分が「名作」たりえるのか、どの部分が「傑作」といえる根拠なのか、私にはまったくわからない。今回、あらためてこの作品を読み直し、その思いは一層濃くなるばかりで、「火の鳥」が求めた主題は一体なんだろうか、という素朴な疑問がふわりと浮かんできた。漂うつかみどころのない疑問の解答を求めて、私はこれから「火の鳥」という問題に取り組む。戻る
目次
はじめに
「黎明編」の不安定な基盤
「未来編」という苦し紛れ
「ヤマト編」で居直る
「宇宙編」の小細工
「鳳凰編」の真意
「復活編」が拒否したもの
「羽衣編」のつまづき
「望郷編」の汚点とは
「乱世編」は意味がない
「生命編」が見詰める人間
「異形編」の上手さ
「太陽編」の価値
あとがき
一 「黎明編」の不安定な基盤
「火の鳥」が描かれた背景は手塚ファンならずとも周知のことだろう。白土三平「カムイ伝」に対抗し、手塚なりに日本の歴史の不条理な様をあぶり出そうとした、いわば歴史物語なのである。1967年、「COM」誌上で連載が始まった「火の鳥 黎明編」は日本の歴史の出発点・邪馬台国の衰亡を描いた。特別に強調することもないが、「COM」版の黎明編が描かれる以前に、漫画少年版「火の鳥 黎明編」(1954年)が雑誌の休載で未完ながら存在していて、この中で手塚は「火の鳥」の主題を述べている。すなわち「日本人の祖先が、どこからやってきたか」。「火の鳥」の意味はこれに収斂される。そして「カムイ伝」に刺激を受けてライフワークに至る「火の鳥」を再び描く決意をしたに違いない。「カムイ伝」は差別するものと差別されるものの闘争を描き、差別するものの正体は差別されるものではないか、という深い意味があり、それは「徳川家康は被差別者出身だった」という劇中で明らかにされる衝撃が証明している。この展開は、手塚がいくつも描いてきた「対立する二者の和解と闘争」、たとえば「鉄腕アトム」は人間対ロボット、「ジャングル大帝」なら人間対動物、「〇マン」なら人間対〇マンなどの作品に共通する主題で、別段恐れるような内容ではなかったと思うが、承認欲望の強い手塚は、物語の主題だけでなく劇画にも対抗できるものを描こうと焦っていたのではないか。「火の鳥」が、それにもっとも相応しい物語だったのだろう、前述の通り、「火の鳥」の出発点は日本史と日本人の根拠である、ひいては天皇制にまでも踏み込んで描くことができ、「名作」以外に「問題作」と呼ばれたかもしれない可能性を充分に含んだものだったのだ。しかし、そうした機会に手塚は気づかなかったのか、「火の鳥」はその出発点「黎明編」ではやくも破綻の兆しを見せている。問題点は三つある。
「黎明編」が日本書紀や古事記に魏志倭人伝の記事を下に描かれているのは言うまでもないが、作品の内容とそれらをいちいち比べることはしない。問題のひとつは、劇中にしばしば見られるつまらないギャグである。実際につまらない、手塚ファンの私でも弁解しようがない。これが「カムイ伝」に対抗して描いたものとは到底思えないし、劇画を変に意識したのか、時折舞台まがいの構成がみられる。どうしてだろうか。当時を知らない私にはただ想像するしかない、つまり、手塚は単なる娯楽作品を描いたに過ぎなかった、ということ。「COM」は当然商業誌であり、いくら手塚の主宰であろうと売れなければ休刊もやむをえない。売れるためには一般受けしやすい作品を描く必要がある。「ガロ」は「カムイ伝」の存在だけで学生の支持を得ていたが、「COM」のよりどころはそれ以外の漫画の読み手しかいない。当時の漫画読者が今ほどではないことを考えると、手塚の選択は仕方なかったかもしれない、いずれも私の勝手な推測に過ぎないけれど、「黎明編」が本当に面白かったか、ひいきせずに考えると「たいしたことはない」という率直な感想にたどりつく。
「火の鳥」全体の分岐点−「カムイ伝」と対する歴史物か一般受けしやすい娯楽作品か−がどこかと考えると、物語中盤での主人公ナギと火の鳥の会話かもしれない。火の鳥の生き血を狙うナギが、火の鳥に命とはなんぞやと問われる場面である。二者の会話はかみ合うことなく一方的に火の鳥が命に長いも短いもないと語り、「生きている喜びを見つけられれば、それが幸福じゃないの?」と諭そうとするものの、ナギは聞き入れずに火の鳥を追うのである。「火の鳥」といえば、とかくよく言われる生死の問題がここで語られるが、「黎明編」の中で何やら浮いた場面に思う。手塚ほどの力を持った作家が、火の鳥自身にこんなことを言わせるのがしっくりこない。「黎明編」は邪馬台国の衰亡を描く一方で、侵略者と侵略されるものの対立・侵略されるもの同士に起こる支配するものと支配されるものの対立と、歴史を語る上で欠かせない要素を十分持っていて、物語の材料自体は「カムイ伝」と対抗でき得た。火の鳥の言葉も登場人物の動きから読者に伝えることが出来たはずだ。つまり、火の鳥とナギの会話の場面はいらないのである。火の鳥はあくまでも何かの象徴(それがどんな象徴なのかは読者個々人が判断すること)として描きつづけていればよかったと思う。これが二つ目の問題である。
三つ目の問題は表現力の乏しさである。まず、戦の場面にリアリティがまるでない。侵略者が乗る馬はどこまでも漫画的で、殺陣は単調に描かれ、迫力はまったくない。ナギが殺される場面に至ってはちっとも感情を動かせず、演出に工夫がなく、印象が薄い。「カムイ伝」と比べるまでもなく、手塚が漫画に行き詰まっていた様がわかる。当時の漫画の表現力の限界点だったのかもしれない。以後、劇画との融合によって新たな表現を得る手塚も、この時点では、すでに過去の人だったに違いない。
しかし、物語自体は娯楽作品としてのまとまりがある。国の衰亡の傍らで展開されるグズリとヒナクの夫婦が必死に生き延びる様子は、卑弥呼が不死を望んだのに対し、なにがなんでも生き延びて子孫をたくさん残す、という本能を見せ付けている。夫婦の子・タケルが物語を締めくくる構成は秀逸である。だが「黎明編」の長所はこれだけかもしれない。歴史を捨てて娯楽に向かう手塚が、続編に「未来編」を描いたのは当然の結果だったのだろうか。私はそう思わない、後に描かれる「鳳凰編」で手塚は本当に描きたかった歴史の矛盾を見事に暴くからである。
だが、世間ではそう受け止められていない。歴史物か娯楽作品か、という曖昧な態度のままに描き始められた「火の鳥」は、歴史と娯楽の融合も果たせず、「カムイ伝」の対抗意識から遠く離れたはっきりしない作品としての道を歩み始めたのである。だから手塚はことさら「輪廻転生」「永劫回帰」といった言葉を吹聴し、読者を「歴史」(つまり「カムイ伝」)から遠ざけようとしたのかもしれない(邪推)。
二 「未来編」という苦し紛れ
「火の鳥」を単なる娯楽作品に貶めてしまった以上、あとは物語の構成力で勝負するしかないが、世界的にも群を抜く卓越したストーリーテラーの手塚・バーゲンセールができるくらいのアイデアを常に持っていた手塚にとって、そんなことは容易かったに違いない。だから、想像力を存分に発揮できるSF・未来を舞台にした「未来編」を描いたのだろう。しかしながらラストの「黎明編」とつながるような展開は、なにやら深い意味を与えようとする下心が見えてしまい打算的である。
「火の鳥」に関する手塚本人の解説は多い。その中で、「火の鳥」は最初にはじまりと終わりを描き、あとはその間の物語を描く、といったことを語っているが、言い訳にしか聞こえない。「火の鳥」の最初の意義を捨てた以上、「火の鳥」はどこまでも主題の見えない作品になる。やがて「カムイ伝」への対抗意識も消えたのだろう。「生死」という身近な問題を、壮大な物語の中で語ってしまおうという表面上の厳かさ・漫画でそれが表現できてしまうことに漫画を日頃読まない人は驚いたのかもしれない。つまり、手塚は娯楽作品としての「火の鳥」に成功したといえる。ことさら解説を加えて「火の鳥」をこれから読もうとする人々に先入観を与えれば、果たせなかった主題を隠すことができる。実際、「COM」で黎明編の連載間もない頃に「これは生と死を問題にしている」と牽制しているのである。これは明らかに、漫画少年版「火の鳥」の主題とは違うのだ、という訴えである。何故、生と死の問題に火の鳥が必要なのか。たとえるならば、交通事故の原因を宇宙レベルで説明するような、面倒なまわりくどさがある。
「未来編」では序盤に火の鳥自らが登場して、読者だけでなく登場人物・猿田博士にまで先入観を与えるという、どこまでも言い訳がましいことをしている。しかも火の鳥は地球の一部だと断言しているのだ。あれ? 火の鳥は宇宙生命を顕現したものではなかったのか? と私は思ったが、そうか、地球の一部なのか、だから地球ばかりに気を向けているのか、と納得したものの、では「望郷編」は単なる暇つぶしかお節介なのか、とひねくれてしまう。表現においても「黎明編」と大差ない乏しさで、たとえば猿田博士が絶命する場面は、ばかばかしい。「ばっかもん」と叫んで死ぬのである。全然リアリティがない。
そもそも「未来編」の展開はつまらない、他の読者はだませてもひねくれた私はそうもいかない。物語自体を独立した作品と見るならば、誰もが読める面白さがあるけれども一様に中途半端である。なにより火の鳥の最後を締める物語なのだから、別段「黎明編」の最初の場面とつなげる必然性なんてない。「輪廻転生」という言葉にだまされてはならない。これは生死を主題に置きながら歴史を描かざるを得ないという抜け出せない葛藤の中で発想された苦し紛れなのだ。
人類滅亡。こんなことをする必要はまったくないが、これは当時の時代背景の影響かもしれない。安保闘争、成田闘争など、今の体制を根本から作り直そうという向こう見ずな運動、しかも学生たちが本気で日本を変えようとしたのか私はわからない。私事ながら、私の両親は団塊の世代にもかかわらず学生運動に関心のない無知(あるいは無恥)な人間である。それを知って、こんな若者も当時はいたんだな、むしろこういう奴らの方が多かったのではないか、「政治の季節」とくくって自分たちの青春時代を美化しようとしているのではないか、と私は懐疑的になった。そこから、「火の鳥」も単に格好つけているだけではないか、という疑念が浮かぶ。死にかけた人類、という発想からそのまま人類を死なせてしまうのだから簡単な話である。冒頭で述べたように、手塚ほどの作家ならば、もっと奔放な、私なんかの想像の及ばない・文句を言わせない物語を描けたと思う。それが手抜きかなんなのかわからないが、表面だけきれいに整えて、底は汚く澱んでいる作品になってしまった。
火の鳥とは何だろう、と考えると、とりあえず「火の鳥」の狂言回しである。だが、火の鳥は不死を求める・自分の命を狙う人間を容赦なく殺している。「長生きしてどうするの?」という問いに対し私は言いたい、「あんたこそ永遠に生き続けて、人間を一体どうしたいんだ」と。そして、「未来編」を締めくくる「命を正しく使ってくれるように」という火の鳥の言葉が意味するものはなにか。「黎明編」では、生きる喜びがあればそれで幸せだろうと言っていた火の鳥が、ここでは神様よろしく人間を弄んでいるようにしか見えない。手塚先生、命を使うとはどういう意味なのですか。
そのヒントは「生命編」にあるのだろうか。
三 「ヤマト編」で居直る
予告通りに「黎明編」と「未来編」の間の歴史が描かれ始める、その一歩がヤマトタケル伝説を下敷きにした「ヤマト編」だ。
「ヤマト編」の作風は完全に居直っている。そこには漫画として面白ければよい、という安直な姿勢があって、「カムイ伝」への対抗意識も「歴史」への執着もなく、単純な娯楽作品として成立しているに過ぎない。さらに過去の二編で積み上げた「生命とはなにか」という世間で認識された主題まで放棄して、「ひとつの古墳からイメージを膨らませて、これだけの物語を作ったぞ」という倣岸な態度がうかがわれる。この作品を新人漫画家が描いたとしたら、劇中頻繁に演出されるギャグに辟易し、擬人化した動物には新鮮味を感じず、パロディのつまらなさに閉口したと思うと、結局手塚だから許された作品にしか思えない。
漫画の表現の限界を意識しながらも描きつづけなければならない悲劇であろうか。まず第一に、主人公・オグナが火の鳥に笛を吹く場面に表現する意欲がない。音符を並べるだけの単純な構成で、火の鳥が何故オグナの笛に惹かれたのかは全くうかがいしれない。後にオグナは、曲には人間の命のはかなさ・悲哀が込められていることを火の鳥に語るが、曲の印象が音符の羅列のためにそんなことは想像できない。音楽を表現する難しさは言うまでもないが、手塚がそれを成すまでには晩年の「ルードウィッヒ・B」まで待たねばならない、いくら天才といえども、手塚の力は当時まだ発展途上だったのである。第二に、相変わらず迫力のない格闘場面である、オグナとイマリの地上7、8メートルの丸太の上で行われる丸太の打ち合いを例に見れば、人物の動きに流れるような躍動がない。理論的に人物の動きを説明できないのである。これは他の格闘漫画と比べれば明らかだが、手塚は根本的にスポーツ漫画が描けない、という欠点があった。手塚には「あしたのジョー」も「巨人の星」も描けないのである。第三に、思い出したように挿入された歴史解説である。「歴史は人間の都合によっていかようにも変えられる」という意味を述べるのだが、隠したはずの主題をここで自分から明言している。わからない。「生死」が全編通した主題と言いながら、すっかり居直った結果、「ヤマト編」は歴史(というより内容は神話に近いが)の矛盾点を掘り起こそうとでもしたのだろうか。あるいは歴史と娯楽の融合を試みたのだろうか、いずれにしても作品の評価・つまらなさになんら影響はない。
さらに、物語終盤の王墓建設は成田闘争を意識しているように思える。「ヤマト編」では当時の世相のパロディがいくつかあって、「火の鳥」の真意を見えなくしている。「火の鳥」は幾度も手塚自身により「生死を主題」とした壮大な人類史と述べられながら、この態度では本気で執筆する気があったのか疑わしくなる。大きな構想を打ちたてて、幾年もかけて描く継ぐならば、当然初期の作品は古くなる。となると当然、古くなっても今現在読むに堪え得るほどの普遍性がなければならない。「ヤマト編」には、その普遍性がない、全くない。刹那的な態度はおよそ「火の鳥」をこれからも描きつづける姿勢を大きく崩しかねない。もっとも、手塚はどんなに張り詰めた物語であろうと漫画の精神(いわゆるユーモア)を忘れなかったから、時折、ヒョータンツギやスパイダーなどを登場させて、ちょっと読者に息抜きさせる余裕のある作品もある。「火の鳥」も例外ではないが、こと「ヤマト編」に至っては張り詰めた緊迫感なんてまるでなく、気が抜けてばかりで張り合いのない作品になってしまっている。この作品が「COM」でいかなる評価を与えられていたのか、私は知らない。想像するに、問題にならない駄作として受け止められていたと思う。「COM」は、石ノ森章太郎らの若手によって、劇画とは違う味わいをもつ漫画雑誌としての色合いを濃くしていったからである。劇画から弾かれ、今また「COM」からも弾かれた手塚は、完全に孤立した三流作家にまで成り下がっていたのである。手塚の地位を支えていたのは、ただ過去の実績だけだった。そうして、手塚はどこまでも言い訳がましい。以下に手塚の言葉を引用する。
―「火の鳥」では、どういうわけか、10年間のぼくのアイデア技術(絵柄など)があまり変わっていない。むしろマンネリ気味だ。ということは、ぼくがこの10年間、ちっとも進歩していないのかもしれない。しかし、また逆に、どんどんテーマが筋立てが変わっていく「火の鳥」だと、まとまりがつかなくなっていたのかもしれない。日本の漫画は、マスコミの人気やら、一部の評論の性急さのせいもあって、ものすごく新陳代謝がはげしい。それだけ作品も腰をすえたものがすくない。海外には、半世紀以上もつづいたコミックがザラにあるのだ。読者の漫画をみる眼がおちついているせいだろうか。また、腰をすえて書いた漫画なら、50年が100年つづいたっておかしくない。一部の人たちがヘキエキしようが、飽きてしまおうが、とにかく、ジックリと長く書きつづけてみる。もちろん長いばかりが能ではないけれど、テーマを、十分書き尽くすまでトコトンつづけて行きたい。それがぼくの意地なのです。
「火の鳥」のまとまりのなさは手塚自身気にしていて、これは後に「太陽編」で少し解決しようとしている。また、読者を少しばかにした言葉もあるが、これは責任転嫁に過ぎない。とにかく、ここで手塚は「長く書きつづける」と宣言している。「一部の人たちがヘキエキしようが、飽きてしまおうが」と言っているところから、批判を受けたのだろう、だから意地でも完結させようと描き続けたのだ。「意地」なのだ、手塚は「ヤマト編」の居直りを反省し(たと思う)、初心に返って、貪欲なまでの漫画への姿勢を、はやくも次の「宇宙編」で爆発させる。
四 「宇宙編」の小細工
「宇宙編」には、実験的手法・推理劇仕立ての展開・火の鳥の役割の変化と見所が多い。それについて述べる前に、ちょっと補足しておく。この頃の手塚はさかんに劇画と漫画の融合を試している時期で、「宇宙編」連載の前年まで「少年サンデー」で連載していた「どろろ」に、その試みがみえる。時代劇で言われる血の出ない殺陣、手塚はこれを今までやっていた。「黎明編」の戦闘場面でもほとんど血が描かれずに人が斬られる。だが、白土三平は平気に血を噴出させた、おまけに首は飛び手はちぎれ足はもげると本物の戦・殺陣を見せ付けてくれた。飛び散る血のリアリティは他を圧倒した。手塚はまず、飛び散る血を「どろろ」で描こうとする。世辞にも上手い血ではないが、とにかく必死になって新しい表現を自分のものにしてしまおうという貪欲さがある。さらに、コマ割にも一層の工夫を見せる。手塚はコマ割に以前(それこそデビュー前)からこだわる作家だったから、当然だし本人も意欲的だったろう、そこには「COM」で手塚を超える評価を得た石ノ森の影響も大きい。余談だった、さて、「宇宙編」である。
物語前半を占めるコマ割にまず目が向く。視点の異なる四人の人物の言動を同時並行で構成する力技である。さらに、狭いカプセル内をそのまま狭いコマ割に投影して、登場人物の置かれた状況を「コマ」で説明してしまう卓抜さがある。唸ってしまうほどの上手さである。それだけに「ヤマト編」のポカが目立ってしまうけれども、もう忘れるしかない。コマ割へのこだわりはさらに発展してページ全体にまで及んでいる。空白の効果だ。手抜きではないか、と思えてしまう空白はそれだけで失敗だが、「宇宙編」の空白はときには余韻として、ときには間として、ときにはコマを躍動させる、と効果はさまざまである。コマ割の影響に石ノ森の名を挙げだか、具体的に言うと石ノ森の手法は心理的というか叙情的というか、コマを絵の一部として扱い、漫画の表現の可能性を探っている。一方の手塚は、あくまで実験でありどこまでも機械的であり、遊びにまで行きすぎることもある。「宇宙編」は、コマで遊びたい衝動を抑えて、慎重かつ挑発的で、誰にも真似の出来ない・手塚の承認欲望を満たすだろう自信が滲んでいる。
火の鳥が猿田に牧村の罪を説明する・全頁ベタの塗られた場面でのコマ割は、コマの枠がベタに同化していることもあって、ひとコマひとコマがまるで浮かんでいるような構成をとっている。空白もここでは、また違った効果があって、火の鳥の言葉が直接猿田の脳裡に映像として浮かび上がっていることを思わせる。こういう演出は、この場面のように過去を語ったり回想する場合に応用される傾向があるけれども、多くは語る人物の脳裡に浮かぶ映像としてのコマである。これは違う、語る人物と浮かぶ映像のありかが違うのだ。しかも背景が真っ黒であることの不自由さ、ベタや濃いスクリーントーンを使うと輪郭がぼやけるけど全く気にしない風に自由に描いている。心境の変化でもあったのだろうか、などとつまらぬ憶測に及んでしまうほどだ。
また、推理劇に仕立てている点も、手塚が娯楽作品としての「火の鳥」を突き詰めていることを想起させる。次作「鳳凰編」の歴史性の強調も、「宇宙編」での実験が成功したことへの心の余裕が生んだ結果ではないか。そのことは次回で詳しく述べるけれども、「宇宙編」で手塚は何かをつかんだに相違ない。「火の鳥」の主題を「生死」と言いふらしすぎたがために、「火の鳥」というどの時代の物語も描けてしまういろいろな可能性を秘めた発想に重い枷を自分ではめてしまった。手塚はそれに気づき、「カムイ伝」の対抗意識・「日本の歴史」の追及とこれまでに捨ててきた意欲を、ここでさらに「生死」という主題も「ヤマト編」よりも突き放して、居直ってさらに居直ったところ現れた「本当に自分が描きたいもの」を「宇宙編」で試みたのではないだろうか。さらに火の鳥の役割も変化した。前の三編では歴史に直接関わる振る舞いをしていたところを、ここではひとりの人物に罪を与える行動をするのである。優雅に人間を高みから見下ろしていた火の鳥(これは素晴らしい作品なのだぞという手塚の傲慢さのあらわれかもしれない)が地面に下りてきて人間と対等に語ろうとしているのだ。
それだけに、「宇宙編」は曖昧な作品となっている。漫画としての評価はこれまで述べたように、発展途上であるにもかかわらず表現上の技術・工夫は目を見張るものがあるし、意欲もわかる。だが、「生死」という問題まで捨ててしまっては、主題なき作品になってしまう。ちょっと待て、「生死」の問題をきっちり語っているぞ、という意見があるだろう。だが、この作品は火の鳥と牧村の因果な物語である、火の鳥の復讐劇なのだ。火の鳥が罰に不死を与える点は「生死」が絡んでいるように見えるが、牧村の償いは流刑星で永久に生き続けることである。「流刑星」なのである。単に不死の体を与えるだけなら、本人は幾度も青年になれるわけで、結構楽しいのではないか、なんて思ってしまう。だがらこそ火の鳥は牧村を流刑星に連れていく必要があった。しかも、そのおかげで罪のない二人の宇宙飛行士が死んでいるし、牧村に恋するナナに至っては流刑星で植物になってしまう。牧村ひとりを罰するために猿田も含めて四人が迷惑しているのである。
まとめれば、手塚は小細工に走りすぎた、といえるだろう。肝心のストーリーも推理に重きを置いたために他がいい加減で欠点だらけになってしまった。火の鳥を地に下ろしたのも、火の鳥の象徴の意味をわからなくさせている。「未来編」で地球の一部と語った火の鳥が、「宇宙編」では宇宙生命のエネルギー体と猿田によって解説されているからだ。そして火の鳥の利己的な行動に疑問が残る。
五 「鳳凰編」の真意
「火の鳥」全編を象徴するような作品となるのが「鳳凰編」である。手塚が訴えてきた「生死」「輪廻転生」「永劫回帰」といった言葉が、この作品には詰まっている。しかも私が瞠目するのは、「歴史」まで無理なくおさめている点である。奈良時代・大仏建立を背景にした二人の仏師の物語、と作品の輪郭を歴史で簡単に説明できてしまう。「宇宙編」で主題を失って、新たに再出発した感があり構成・物語性が充実している。「火の鳥」の初心つまり歴史への回帰を果たし、これまで続けてきた表現上の実験が実を結び始める「鳳凰編」の意味を探っていきたい。その指標は三つある、第一に歴史の否定、第二に手塚の仏教観、第三に表現のさらなる飛躍である。
「鳳凰編」には「ヤマト編」の倣岸さが消えている。「書かれなかった歴史」という点で両編は同じだが、「歴史の認識度」では格段の差がある。というのも、「ヤマト編」で作られる王墓・石舞台古墳は飛鳥時代の豪族・蘇我馬子の墓だという説があるのだ。手塚がこれを知らぬわけがない、知っていながら「これはどこかの王の墓」と言って物語を始めるのは、読者をなめている。私は冒頭のこの古墳の絵を見たとき、これは飛鳥時代の物語だろうか、と思った。初見したのは中学生の頃だったが蘇我馬子の墓説があるのを知っていたので、なんともいやな気分のままに読み進めたのを覚えている。「鳳凰編」は、そんな大見得を切ることなく、二人の仏師の成長を交互に描きながら、茜丸と我王の性格を色づける出来事を読者に明瞭に示している。この辺の対置はとにかく上手い、二人の初対面はほんの一瞬(旅の者と強盗という立場)だが、これが後々大きな事件として引っ張り出される件は、物語の隅々にいくつもの伏線を張ったことを思わせ、再読に堪え得、作品としての質がさらに向上している。登場人物の行動にも説得力があって無駄がない。青年時代の二人に起こる幾多の事件を簡潔に、わすか60頁ほどでまとめてしまう力量には感嘆する。具体的に見ていく。
まず茜丸である。青年仏師である彼の試練は我王に利き腕たる右腕の筋肉を斬られることから始まる。右腕を失ったに等しい彼は、絶望しながら我王を恨まない点で強靭であるものの、左腕で修行するもすぐに挫折してその都度和尚に諭される点が弱い。次に我王である。産後間もなく怪我で片腕を失いながら力強く生きる姿という点で強いが、身勝手で疑り深く諫言に乗りやすい点が弱い。速魚という存在が亡くなって後に大きな存在となるのも、人は死んでそれで終わりではない、と「輪廻転生」を意識した作りとなっている。両者の点が終盤どう変わっているか、これがわかったときの驚き、序盤の60頁に物語の方向がすべて描かれていることに気づかされるだろう。その後二人は偶然再会する、茜丸は鳳凰を求める旅の途中で我王は僧・良弁に従った旅の途中で。ここでも両者の心中の違いはあまり変わらない、我王は良弁の力によって仏教的な世界に没入するが、まだ以前の粗暴さを残している。一方の茜丸の清々しさは好青年の印象を残す。そして二人の人生が根底で似ていることに誰もが気づく。茜丸がブチに出会って新たな仏師として成長し、我王が怒りのままに彫り付けた木像をきっかけに彫刻に目覚めて成長する。そして中盤からいよいよ教科書的な歴史とその裏にある歴史が二人のさらなる成長と出世を通して描かれ、物語は重層的となる。
「大仏建立」を授業でどう教えられたか。その内容は極めて表面的で想像力のない、数式によって導き出されたような素っ気なさである。奈良時代は目立った内乱がないだけに、仏教的国家支配が推進されただけと解釈されがちだがちょっと調べれば大きな誤謬であることがわかる。「鳳凰編」でも歴史上の人物を登場させ(作品の都合上史実と異なる設定はあるものの、これは想像力のない作家が書いた歴史小説でなく、想像力に溢れた作家の書いた漫画だから当然の許容範囲である)、権力闘争に二人を巻き込むほどの構成上の妙を見せつけてくれて面白い。実際、奈良時代は腹黒い貴族たちの民衆を省みない政権争いの絶えなかった時代である。我王は濡れ衣を着せられ苦しんだ結果悟りを開くが、当時の貴族たちが似たような目にあったところでただうらみつらみのなかで衰弱していくだけだ。たとえ助かったところで考えることは復讐か阿諛だ、一顧の自己分析もない利己主義者だ。青年茜丸の清々しさとは程遠い図々しさに満ちた生き方しかしていないのだ。「大仏」は権力の象徴であると同時に、貴族の欲求不満をしばらく満たす、夏に飲むの一杯の水のような一瞬の華やかさに過ぎない。その後も続く権力闘争に「大仏」の霊験なんて通じやしない。政治と結びついた宗教のなんという浅ましさか。この思いは「太陽編」で「壬申の乱は宗教戦争だった」とい大胆な仮説に通じるものであろう。
手塚の仏教への不信感が見えるのは何故だろうか。手塚の言動はしばしば矛盾することがあって、たとえば「鉄腕アトム」を金のために書いただけの作品だ、といいながら今日まで代表作として読み継がれている理由は手塚の暗い心を表面化したような「人間対ロボット」という破壊の繰り返しに、読者が「差別」の問題を読み取るからに他ならない。「火の鳥」も「生死」を強調するあまりまとまりを失って、結果「鳳凰編」に浮かび上がったひとつが「仏教への不信」である。「ブッタ」は手塚自身のそんな心に決着をつけるために書き始めたのではないかと邪推してしまう。この疑問は宿題として「太陽編」で考えたい。
手塚の仏教観で繰り返し語られる「輪廻転生」がこの作品で強く説明される。いわゆる生まれ変わりというものだが、これを初めて読んだ中学生の私はいたく感化されて「ブッダ」とともにほとんど聖書に近い扱いをしたけれど、私以外にもなんらかの啓示めいたものを感じた人は多いと思う。それだけ強烈な印象を焼き付ける輪廻思想に手塚がこだわった訳はなんだろうか。我王の師・良弁はかつて火の鳥が語ったところの命に長いも短いもない、という思想に因果応報という言葉を補足する。重箱の隅を突つくことだけれども、良弁の補足は前世の因果によって虫けらになるか人間になるか、と生まれ変わったものにはっきりと位を設けて差別していて、たとえば前世で立派な行いをしたとして人間に生まれ変わったとしたら、それは人間を高位に置く態度であって、たちまち火の鳥の言葉と矛盾する。ここは重要である。というのも、手塚作品から「人道主義」つまるところのヒューマニズムを読み取る人がいるからだ。本当か? 私は人道主義を人間中心主義・宗教ではキリスト教のような考えだと捉えているので、とてもとても仏教とは相容れないのである。だからこそ、劇中で手塚は虚無的な思想を我王に悟らせている、「宇宙のなかに人生などいっさい無だ。ちっぽけなごみなのだ」という反人道主義に手塚の正義というものに対する拒絶反応がうかがわれる。だから「ブッダ」のなかでシッタルダは最後まで悩みつづけたのではないか(深読み過剰でしたね)。
もう一点言いたい事がある。それは輪廻転生を大前提としたこの作品にとって、輪廻について語ることは諸刃の剣だということである。前世やら生まれ変わりは、ときに信じるか信じないかという低次元な話題で片付けられるが、そこには輪廻への根源的な疑問が欠けている。生まれ変わりはいつからはじまったのか、これは宇宙はいつからはじまったのかという疑問と同一の性質でありありながら、なかなか誰も触れようとしない前提である。手塚は盲信していたようだが、私は前世に懐疑的である。皆さんも考えていただきたい、この大前提があってこその「火の鳥」である。もしこれが崩れたら、作品自体が荒唐無稽な滑稽譚にもなりゃしない。もっとも考えたところで、答えは見つからないだろう、私も見当がつかない。
三つ目の表現については、作品を読めば明らかだ。これまでのまるで舞台装置のような味気ない背景が、劇画を溶けこませて自然そのままの背景になっている点。また民話的な描写もあって味わいがある。コマ割に至っては、ときに細かくときに大ゴマを用い、変化に富んでいて、わりと暗い内容の作品を引っ張って読ませようとしている。だが、なにより注目したいのが物語の展開に抜群の上手さがある点だ。二人の物語はあまり交錯しないものの、まったく違和感なく互いの人生を見ていくことができる。そうしてやがてはっきりする両者のへだたりもいちいち説明することなく、権力者に成り下がった茜丸と仙人みたくなった我王の対比に解説はいらない。だから茜丸の死も、そこだけ取り出すと唐突だけど、全体の流れの中では彼の死が当然のように思わせる説得力に溢れている。最後の我王の独り言はいただけないが(今までの流れから理解できることですよ、手塚先生。野暮なことしないでください)。そして劇中の火の鳥の位置も「宇宙編」よりさらに踏み込んで個人に接近する。この効果は、読者が茜丸と我王に感情移入してはっきりと表われる。すなわち、「生死」や「人生」について考えさせられる、ということだ。ぼくにばかり話させないで君らも考えろよ、と手塚は言いたかったのだろうか。
六 「復活編」が拒否したもの
前回触れた「正義に対する拒絶反応」は、「火の鳥」という作品そのものに対しても向けられた。冒頭、いきなり輪廻を否定するような死者の復活劇がそれだ。「鳳凰編」で強調した輪廻思想をあっさり覆している。人間が生まれ変わりを支配してしまった未来の物語を主人公・レオナのロボットのような人間という特異な視点から描いた「復活編」は、「未来編」とは比べ物にならないほどの完成度を見せてくれた。また「鳳凰編」で象徴的に描かれた我王の悟りは、今もって「火の鳥」全編の象徴・「火の鳥」の主題がそこに集約されているような印象を与える紹介のされ方が多い。そんな誤った見方では「復活編」を理解できない。「復活編」で拒否した正義とは何かを考えていく。
命あるものの姿がなにかの結晶体にしか見えないというレオナの苦悩は私たちに想像できない。だが、その視点はまさにロボットの視点以外にないのである。ロボット。やはり「鉄腕アトム」がどうしても思い出されてしまう。アトムは当然ロボットだが、その心に人間の善悪を見分ける能力があるのをご存知だろうか。これはもう、ロボットの中に人間の心が内在している状況と変わらず、アトムはロボットと人間の対立の狭間で葛藤し、単純に善と悪で計りきれない事態に遭遇して混乱するのである。対立する二者の物語は手塚の真骨頂だ。(手塚の得意形となれば物語の面白さは保証されたようなもの。しかも安心して読める物語に手塚は満足せず、未来のそのまた未来の「ロビタ集団自殺事件」をとりあげて読者の興味を惹きつける。さらにレオナに、死ぬ直前の記憶・殺人事件の謎を与え、自分は何故殺されたのかという娯楽要素も欠かさない。充分過ぎるほどの内容に満ちている作品だ。)こうした物語の主人公は大概が両者の中間的な存在で、常に苦悩を強いられる。レオナは、まさにそうなった。死んだ彼が進歩した医療によって復活した結果が人間とロボットの中間的存在では、苦悩して当然なのである。
苦悩するのはレオナだけではない。ロボットであり、レオナと恋に至るチヒロもそうだ。周囲に理解されない恋愛ははじめから悲劇が準備されているようなもので、これも苦悩して当然である。ロボットに恋愛感情が宿ってしまう展開はマンガらしいといえばマンガらしいが、侮ってはならない。この二人の恋愛劇は後に両者の融合、そしてロビタの誕生と発展するのだが、これは意味深だと思う。手元に「火の鳥」全編がある方は確認していただきたい。まず、ロビタ集団自殺の次の展開であるレオナとチヒロの密会場面。ここのレオナのセリフ「ぼくとふたりだけの世界・・・。誰にも干渉されない愛と自由の生活を送ろう。ぼくは人間を捨てる。きみの仲間になる」。どこかで聞いたことがある。次にレオナとチヒロが融合する場面、「出口」に向かっていく二人の後姿だ。ふたつの場面は後の「太陽編」ラストシーンに酷似している。何故だろうか。思うに、「火の鳥」の構想は手塚が当初描いていたものとははるかに違うものになっていたのではないか。それがどこからなのか、といわれれば「復活編」と言える。手塚は始めからロビタの物語を考えていたのだろうか、「復活編」はレオナとチヒロの悲恋物語として十分の出来である。仮にロビタの挿話を無視して読み進めてみれば、それがはっきりするだろう。別々の話にしても差し支えないし、「太陽編」の展開が「復活編」を想起させてしまう限り両編とも失敗ではないか。とことん苦悩するレオナの姿は、それだけで「生死」について深く考えさせられるし、医療技術の進歩にも不信感があって、手塚の生命観が読み取れる。果てはロボットになりたいとまで決意するレオナの寂しさに読者は感動するだろう、それなのにロビタである。読者の興味・今後の展開を楽しみにさせるためだけに挿入されたロビタの話は無駄ではないか。手塚は焦ったのか、あるいは自分の構想に酔っていたのか。あまりに性急過ぎる展開である。手塚人類史ともいえる壮大な歴史物語を構想しては見たものの、歴史をどうつないでいくのか、ということにばかり気を取られた結果としか思えない。「黎明編」同様に物語を深める材料は充分そろっている、しかし、過剰な調味料によって材料そのものの味が失われてしまった。
物語の後半はつまらない。チヒロを連れて逃亡するレオナの行動があまりに唐突である。「復活編」の本来あるべき展開は、ロボットになりたいと願うあまりレオナは自殺し、ニールセン博士によってチヒロと融合するというもので十分である。ラストシーンは当然ふたりの融合場面だ。そして続く物語が「ロビタ編」にしてほしかった。だが、そうとなると「太陽編」のラストシーンが問題になるけど、これは「太陽編」二つ目の宿題にしておこう。
さて、苦悩するレオナは何を拒否しているだろうか。もう、おわかりだろう、・・・「人間」である。同時期に連載されていたのが「きりひと讃歌」であることを考えれば、その意図がわかると思う。人間の生み出した高度な医療技術をもってしても、人間の死はいかんとも逃れられない、たとえ蘇ったところで、やはり違う人間に生まれ変わっているという衝撃。不死を求めるを罪とする火の鳥の態度は手塚の態度に他ならないが、どうしても「何故か」という疑問が消えなかった。しかし「復活編」でそれは半ば解消された、「人間」というものへの不信感である。戦争体験、そして連載中に起こる様々な事件、これらがひっくるめられ、「生死」を越えて「人間」に対する抜きがたい嫌悪が「ぼくはロボットになりたい」というレオナの叫びに表われる。さらに「ロビタ編」で提示されたのが、「人間」の定義である。・・・とにかく読者への問題を積めこみすぎで、読み解くには相当の根気がいることを痛切に感じた。
ここに至ってようやく人類史という手塚の創作した「歴史」が「火の鳥」で活かされはじめるものの、手塚の想像を超えたそれは―「生死」「輪廻」「人間」そして「歴史」―手のつけられないほどに肥大していたことにも気づく。手塚は全編書ききる自信があったのだろうか。「ロビタ編」で触れられるのは「未来編」に続く歴史だが、その間に人類は汚染された地上を捨てて地下に都市を築き生活しているのだから、当然そうなるに至る物語は書きがいがあったはずだと思う。娯楽と自身の歴史の融合をどうにか成し遂げながら、今度は間を埋めるための惰性が続くのだった。1971年、「復活編」の連載中に手塚は虫プロ社長を辞任している。
七 「羽衣編」のつまずき
「火の鳥」全編のなかで、この作品について語るのは難しい。もともとが「望郷編」のプロローグとして雑誌に発表されながら、内容の問題からセリフが書きかえられていて、まったく孤絶した作品になってしまったのである。だが、手塚がそれで納得するとは思われない。当然だ、まとまりのない作品が一層まとまりがなくなってしまっては作品が破綻してしまう。おそらく「羽衣編」と連関する作品を構想していたと思う。それがどのような物語なのかをここで推測しながら、「火の鳥」で描いて欲しかった時代を述べていく。
「羽衣編」につながる物語は、本来「望郷編」だった。核被爆者の悲劇を書こうとしながらも、現実にいる広島・長崎の被爆者に配慮してセリフを改稿し、今の形になっている。劇中のおときの言葉「かあさんは千五百年も先の世に住んでいたのよ」は「望郷編」の時代と一致し、これは「復活編」のレオナと「宇宙編」の時代の半ばあたりに相当する。しかしそうなると「その頃、みな殺し戦争」があったというおときの言葉がたちまち宙に浮く。考えられるのは「望郷編」のラストで描かれるエデン17の崩壊だろうが、となると、おときは人間とムーピーの子孫ということになるものの、おときの姿からそれは否定せざるを得ない。素直に考えれば、おときは地球の未来からやって来たとなる。だが、手塚人類史でそのような戦争が描かれるのは「未来編」と「太陽編」だけだ。しかし「未来編」は「羽衣編」の時代・10世紀中ごろから二千五百年後であり、無理がある。「太陽編」の未来の宗教戦争も21世紀の前半となれば、おときのいう千五百年後のみな殺し戦争は存在しない。手塚はどう処理しようとしただろうか。簡単なのは千五百年後というセリフを替えてしまうことだ。作品発表後も原稿の書き換えをしてしまう手塚なら当然でき得るはずである。しかし、しなかった。だからこそ、未来のみな殺し戦争を描こうと目論んでいたのではないか。
未来の戦争だからといって地球規模のものにする必然性はないわけで、どこかの地域、といってもおときは容貌・名前から日本人としか考えられないから、舞台は日本だろうか。「復活編」の中の日本には、とてもそんな兆しは読み取れない。「宇宙編」では全くわからない。となると、どうしても「千五百年後」に無理が生じるので、これを無視して考えていく。
もっとも妥当なのは「未来編」の百年ほど前だろう。荒廃する地球上のどこかでそんな戦争があっても不思議ではないし、その舞台が日本だとしても違和感はない。手塚はいろいろな未来の日本を描いているが、その中からなにか探せば、「低俗天使」という短編が思い浮かぶ。ベトナム戦争の時代を背景にしていて、「低俗天使」の主人公ジュジュは物語のはじめにベトナム難民の子と思われる。会話に時折「北か南か」と言うことから、ジュジュを保護した青年記者がそう思いこんでも無理はない。しかし、ラストで明かされる未来の日本像は北日本と南日本にわかれて百年以上も行われる内戦なのだ。ジュジュは未来からやって来た、という告白と危惧すべき日本の未来で物語は締めくくられる。その内戦が、なんと西暦3200年代に起こっているのだ。「未来編」の荒廃する地球のひとつの例として描くに丁度よい時代ではないか。これはもったいない、使わない手はない。「低俗天使」を「火の鳥 天使編」としてもいいくらい、とは言い過ぎだが、手塚の構想にそれがあっても不思議でない。おときの住んでいた未来は33世紀の日本だ。
また、なにも未来にこだわることもないだろう。戦国時代でもいいし、19世紀から20世紀の近代戦争でもいい。材料はそちこちに転がっている。ひとつ想像を飛躍させると、「太陽編」の続編として準備されていたらしい「大地編」と連関してもいい、「大地編」は日中戦争が舞台だったというから。
しかし、「羽衣編」における火の鳥の行動はあまりに無責任である。おときは火の鳥によって過去にやって来たことを明かしている。何ゆえ歴史が歪んでしまう危険性を犯してまで彼女を過去に行かせたのか、全くわからない。これは、元が時空間移動装置で過去に逃げてきた、という設定を変更したために生じた無理である。無理を承知で改編しなかったのは、やはり「羽衣編」とつながる「天使編」(勝手に決めつけてちゃって、手塚先生、ごめんなさい)の構想があったからだとしか思えない。そして「天使編」には、当然、松の根元から「羽衣」を掘り起こす場面が挿入されたに違いない。
八 「望郷編」の汚点とは
とってつけた展開、構想力の減退、そして登場人物の魅力のなさ。「望郷編」は「火の鳥」の汚点である。何故なのか。これからその理由を解きほぐしていく。
「羽衣編」をプロローグとして連載された元々の「望郷編」は核被爆者の悲劇・障害者の苦悩と、これまで哲学的要素の強かった「火の鳥」に、現実的な問題を語らせようとした作品だった。コムは本来主人公であり、「羽衣編」のおときの子として登場するはずだった。そうした構想が、なにも原爆被爆者への配慮だけが理由で変更されたわけではない。これまで「火の鳥」という手塚のわがままな作品を発表し得た雑誌「COM」の休刊である。1972年、「望郷編」は連載2回目で中断し、手塚は「火の鳥」発表の場を失ったのである。だが連載を続ける術はあった、手塚人気は衰えども、手塚治虫という看板を欲しがる雑誌はいくらでもあったのだ。ところが「希望の友」から連載再開の依頼を受けながらも、手塚は「ブッダ」の連載をはじめるのである。その背景には「COM」復刊への情熱があったろう、1973年、「COM」は一号のみの復刊を成すが、これっきり「COM」は廃刊する。さらに虫プロ倒産というおまけつきである。手塚は巨額の負債を背負うことになり、架空の世界でのんきに「生死」を語っていた「火の鳥」にも転機をもたらすことになった。自己を見詰めはじめるのである。
この頃の手塚は二流作家に過ぎず、ちばてつやの絶大な人気には遠く及ばなかった。人生でも苦悩を強いられる手塚にとって、「火の鳥」なんて書く気があっただろうか。それよりなにより手塚にとって重要だったのは「人間」だったに違いない。虫プロ経営から深刻になっていった人間不信が、借金返済のためにひたすら書きまくるしかない手塚を一層暗い深淵に引きずり込んだことだろう。だが、それでは作品の質にも影響しかねない、同時に「もう終わりかな」といった諦念もあったと思う。そうしたなかで手塚は一本の短編を発表する。「紙の砦」である。手塚にとって己の過去を振り返る作業はつまらなかったに違いない。次から次へと湧いてくるアイデアをよそに、すでに見知った世界を考えるのであるから、実に退屈である。だが、手塚は描いた。その心境はたんなる懐古だろうか、ぼくはこれだけ苦しい時代にも必死に漫画を描いていたのだ、と自慢しているのだろうか。否。手塚の承認欲望である。そこには諦念による開き直りもあったろうが、手塚にとっての自伝は、かつてこんな漫画家がいたのだ、忘れないでくれ、という心の叫びである。アニメ製作の場を失って漫画でしか稼げない己の弱さは手塚を卑小にした、だから「ブラック・ジャック」である。どうせなら誰も描けない作品を最後に描こうか、そんな気楽さから生まれた稀代の傑作に手塚は夢中になって行く。すなわち、「火の鳥」執筆の意欲が失われるのである。
1976年「マンガ少年」が創刊され、「望郷編」はその巻頭を飾る。しかし、それは「火の鳥」の続編を待ち望んでいた人々にとって「ナニコレ」と呆れさせてしまう物語となっていた。この時点で改訂版「羽衣編」は発表されていない。読者が期待していたのは当然「羽衣編」を受けた未完だった「望郷編」である。だが、再開されたそれは全く孤立した物語となっていたのだった。「火の鳥」の失速はもう止まらなかった。翌年の新年号から連載された竹宮恵子「地球(テラ)へ・・・」が大きな支持を集める。どちらも簡単に言えば故郷の地球に向かう物語である。だが、その質は歴然としていた。手塚は「COM」で石ノ森にやられ、「マンガ少年」で竹宮にやられ、完全に意欲を失った果てに「望郷編」をいい加減な形で終了させてしまったのだ。このいい加減さは次の「乱世編」にも影響し、手塚人気は復活したものの、「火の鳥」自体の壮大さは失われてしまった。何故手塚は「望郷編」で自分を見詰めようとしなかったのか。「ブッダ」だけでことたりたなら、「火の鳥」はいっそ完結させる努力に向かうべきではなかったか、「意地」を捨てたのだろうか。手塚は時代を埋めていく作品を描くだけとなってしまい、そこには単なる漫画しかない。一過性の「ヤマト編」のような粗雑さである。その象徴が牧村の登場である。いきあたりばったりの展開にどうにか「火の鳥」としての体裁をとどめるために「宇宙編」以前の牧村を「望郷編」のキーマンにした。牧村の役割は適当で、彼でなければならない必然は全くない、むしろ猿田のほうがなんとなく納得してしまうのに。劇中で牧村は火の鳥の存在を知るわけだが、このあたりの描写が「宇宙編」で火の鳥の生き血を飲む場面とまるで関連しない、後で描き直せるはずなのに、それさえしない、ほったらかしである。
「ブラック・ジャック」「三つ目がとおる」のヒットにかまけて「火の鳥」をないがしろにしたとは思いたくない。仮にそうだとしても、本にまとめられる際に、修正が施されて「望郷編」はどうにか読むにたえ得る作品に仕上がった。最後に「星の王子さま」の一節を引用して余韻を残している、手塚自身反省したのだろうか、この引用は見事である。私が「望郷編」で語るべき長所はここだけである。では、牧村が朗読する「星の王子さま」、「あとはきみが読むといい」という言葉にしたがって、続きを読んでみよう。
―「だからね、かまわず、ぼくをひとりでいかせてね」といって、王子さまは腰をおろしました。こわかったからです。
それからまた、こういいました。
「ねえ・・・ぼくの花・・・ぼく、あの花にしてやらなくちゃならないことがあるんだ。ほんとによわい花なんだよ。ほんとにむじゃきな花なんだよ。身のまもりといったら、四つのちっぽけなトゲしか、もってない花なんだよ・・・」
ぼくも腰をおろしました。立っていられなくなったからです。
王子さまはいいました。
「さあ・・・もう、なんにもいうことがない・・・」
王子さまは、まだ、なにか、もじもじしていましたが、やがて立ちあがりました。そして、ひとあし、歩きました。ぼくは動けませんでした。
王子さまのあしおとのそばには、黄色い光が、キラッと光っただけでした。(中略)そして、一本の木が倒れでもするように、しずかに倒れました。音ひとつ、しませんでした。あたりが、砂だったものですから。―
「望郷編」の汚点は、主人公・ロミである。当初の物語を書いていたならば、おそらく「星の王子さま」のように、コムがさまざまな星を巡りながら地球に辿りつき、そこで遭難した牧村と出会って「人間」とはなんだろう、というコムの素朴な質問が展開されたことは想像に難くない。手塚版「星の王子さま」になるはずだった童話的な物語がロミを主人公にしたことによって瓦解して、どうにもならなくなってしまった、駄作である。
九 「乱世編」は意味がない
「乱世編」に火の鳥は登場しない。代わりを果たす天狗・我王も序盤で死ぬ。しかし、我王の思想は虚無的なものから輪廻思想になっていて、「人生は無だ」と絶叫した若き姿の力は全くない、ただの説教好きな爺さんに成り下がっている。内容も再読する気にならないもので、「ヤマト編」よりはましながら、全体に漂う軽薄さはいただけない。単刀直入に言えば、私は「乱世編」について語る気がしない。
ただ言いたいことがないでもない。「乱世編」でも手塚の正義への拒絶反応が如実に現れている点だ。つまり、一般に悲劇の武将の印象があまりに強い源義経を、身勝手な他人を省みない利己主義者として描いている。これはなかなか出来ないことだと思う。どの本を読んでもどの時代劇を見ても、義経の扱いは悲劇極まりなく、はっきりいって陳腐である。だが、手塚は義経を平気で他人を踏みにじる卑劣な人間として描ききり、最後まで非情で、強がっていながら弱弱しい存在であることを読者に伝えている。
たとえば、一の谷の合戦で、義経は夜の暗さに民家に火を放って昼間のごとくする場面がある。同様の場面は「平家物語」にもあり、そこで義経は「いつもの大松明(おおたいまつ、つまり民家に火をつけること)はいかに」と言ってるのである。これは夜の戦場では常にこの方法で明かりを得ていた証左で、義経の非情さ・勝つためには手段を選ばない様を浮き彫りにしている。手塚は「平家物語」から義経の卑劣さを強調させ得る記事だけを抜き出して手塚版源平合戦を展開させたといえる。
十 「生命編」が見詰める人間
「生命編」も「羽衣編」同様に孤絶した作品であるが、そこで語られる主題の重さは「羽衣編」の比ではない。
クローン人間は人間だろうか。いまでこそ科学者が真剣に考えておかしくない倫理を手塚は20年近く前に訴えていた。クローン人間に対する諸国の見解は否定的だが、いずれ作られてしまうだろうことは、想像できてしまう。1997年2月、イギリスの科学雑誌でクローン羊ドリーの誕生が発表されると、それはクローン人間は可能か・クローン人間をつくっていいのか・クローン人間の人権は・というふうに問題が拡大された。たとえば、子供をなくした親が子供のクローンを作りたいといった場合はどうか、悪人のクローン人間がつくられたら大変だ、と私たちにさえ素朴な疑問が浮かんできて、たちまち国家レベルでの議論にまで発展してしまった。
「生命編」ではクローン技術の人間への応用が禁止されている。さらにクローン人間といえども人間としての権利が約束されている。「生死」という問題がここでは「人間」の意味に発展し、「復活編」のロビタに言わせた人間の理由を追究しているように思える。ロビタは殺人と自殺が人間であることを証明できる行為だと言った、では「生命編」はどうだろうか。
手塚は「生命編」「異形編」の両編を、人間が他人の生命をないがしろにしたために、自分に報いがくるということを主題にした物語だ、と語っている。「異形編」は後に述べるとして、「生命編」にその言葉はあてはまるだろうか。主人公・青居は確かに報いを受ける。クローン人間と同じ扱いを受け、人間に狩られるものとして追われ、果ては責任を痛感してクローン工場ともども自爆してしまう。火の鳥の与える罰はここでも絶望的なまでに容赦ない。青居が罪の重さに気づいたところで解放なんてしない、徹底的に死をもって報いることを強いている。(私には、火の鳥が命をもてあそんでいるようにしか見えないけれど、それはさておき。)しかしここに、「生命編」最大の欠点・汚点、およそ手塚らしくない物語上での重大な欠落があることに皆さんはお気づきだろうか。
それは「殺人ショー」を見ている人々の存在である。彼らの罪が全く問われていないのだ。もともとが高い視聴率を狙った「人間狩り」という番組である。当然、人が殺されるのを見て楽しむ「私たち」がいるのだ、厳然と。これはけして見逃してはならない事実である。もちろん、そこまで言及すれば物語は長大になったことだろうし、また違った展開を読者に突きつけたに相違ない、なにより「人間ども集まれ!」の二番煎じになる危惧もあるけれど、何故手塚はそのことに触れなかったのか。主人公よりも罪深いのは、罪を犯していることにすら気づかない「私たち」ではないか。火の鳥は、それは罪ではない、と言うのだろうか。そんなはずはない。
より刺激的な映像を求める、狂乱めいた大衆に手塚は憤ろしい思いをしただろう。テレビや新聞の流す情報をただ盲信して追従する自分なき「私たち」の姿、そして大衆が求めるものを、という口実の元に視聴率に左右されるテレビ番組・製作者の姿、手塚の虚無主義は本人の自覚なしにいろいろな作品で描出されるけれど、「火の鳥」という「名作」を運命付けられた作品を描くこと自体が、苦痛だったのではないか、その自分の姿が「私たち」や番組製作者と重なることに対する激しい嫌悪。かつて「鉄腕アトム」を正義の味方という理由で毛嫌いし、「ブッダ」を完璧な人として描かなければならないことに懊悩し、その思いはついに「火の鳥」にまで及んだと思う。以前、意地でも書き上げる、と言った手塚がいた。しかし、今の手塚は「虚無」である、無責任な人間に対する「虚無」である。
劇中のジュネのあばあちゃんは脳だけ人間の、サイボーグである。それを見た青居(クローン人間)はあっさりと「これは人間じゃないよ」と言う、「生きている機械だ、心も何もなくなっちまっている」。当のクローン人間・青居も人間でないものとして追われている。これはどういうことだろう。一方は心があるけど人間ではないといい、一方は心がないけど人間だという。クローン人間・青居は後に木っ端微塵に殺され、撃った人の「人を撃ったようで気持ち悪い」という言葉に「これは本物の人間ではないから」とある男が言う、人間とはなんだろうか。手塚の真摯な疑問である。
死の感情が希薄になりながら、死を求める人間があまたひしめく未来を舞台に借りて、手塚が全編中もっとも強烈なメッセージを焼き付けた「生命編」の主題・「人間」の定義。劇中で描かれる「人間狩り」は容赦なく、青居の複製たちは殺されるために存在している。ここに人道主義なんて挟まれる余地はない、徹底的な虚無主義・人間不信の表われだ。現実にクローン人間が作られたとして、「彼ら」は人間として扱われるだろうか、そもそも「人間として扱う」とはなんだろうか、考えれば考えるほどに闇は深まるばかりで一寸の光明も見出せない。クローン動物やクローン植物は人間の役に立ちながらクローン人間は人間の役に立たない、という青居の言葉を受け、手塚はすげなく言う、「人間を増やしてどうする。それこそ公害だぜ」。
「私たち」にできることはテレビを見ながら、ちょっと待てよ、という懐疑心を抱くことだと思う。短編ゆえに描かれなかったけれど、人の死を楽しむ無名の大衆に火の鳥はどんな罰を用意していたのだろうか。
十一 「異形編」の上手さ
私は「火の鳥」全編中で「異形編」が一等好きである。自分に殺されるという過酷な罰は「火の鳥」世界ならではだし、きっちりと「太陽編」のプロローグとしての役割もあって、なによりも可平という登場人物の位置が絶妙で、最後の締めくくり方は神業といえる。
物語の舞台は室町時代中期で、「生命編」同様の短編である。無駄と思われる場面を徹底的に廃して主題そのもののみを直接読者に伝えるために、自分に殺される自分という逃れられない罪と罰をさまざまな角度からあぶりだしている。たとえば「逆行する時間」、これまで、ひたすら未来へ進んでいた時間がここではとても曖昧のままに流れていて、読者は今がどの時代なのか中盤からわからなくなる、それこそ次々と現れる妖怪は古代のものとも未来のものともつかない、異星人かもしれないから場所さえうやむやになる。あまりに不安定な己の立場に主人公・左近介は当然狂わんばかりに惑乱した。たとえば主人公の中性的立場、「復活編」で述べた通りである。つまり左近介は生まれながらに悲劇が用意されていた、女性でありながら、女性であることを許されない家庭環境の峻酷な人生は初恋の青年まであっさりと合戦で失うことになり、武士としての人生を余儀なくされる中で、自分を踏みにじった父に対する憎悪が燃え立つ。そこに親と子の情は一片もなく、ひたすらに憎しみだけがある。レオナは自分の意味に苦悩し、左近介は憎悪に苦悩した。たとえば次々とやってくる傷付いた妖怪を厭わずに治療する姿、罪に対する償いであるが、火の鳥はここでも全く許さずに罰を与えつづける。
ここでふと疑問が浮かぶ、罰すべきは左近介の父ではないか、と。徹底的なマキャベリズムの果てに単なる利己主義者に成り下がった人間を信用できない人間が、たとえ無残に殺されたとしてもなんとも思わないし、むしろ歓迎する。劇中でその父は鼻が巨大化する鼻癌を患うので、これが罰ではないか、否、手塚の真意はこうだと思う。左近介の父は罰する必要もない愚人である、ということ。身内を平気で裏切り他人を陥れ残虐非道、罰したところで悔い改めないだろう。「宇宙編」から個人のために動き始めた火の鳥の動機は、救いようのない奴はほっとく、といった結構いい加減なものかもしれない。「鳳凰編」でも権力争いに民衆をほったらかしの貴族連中は無視して、罰すれば改心しそうな茜丸と我王に接近している。「復活編」でも命を弄んだといえるニールセン博士はのんきに生きているし世界初の蘇生手術に成功した医学者として名誉も得たことだろう。なんだかすっきりしないけれども、では「異形編」はどうかとみてみると、これは説明がつく。手塚が意図したのかはたまた偶然か、このあたりは「火の鳥」という作品に共通した「適当さ」としかいいようがないが、こじ付けではなくて「異形編」は秀逸である。
すなわち、左近介は父を殺すべきであった、ということ。父を殺したいとまで思いつめながら、父の隙のなさに殺害を諦め、時のままに父が死ぬのを願いつづける卑怯者なのである。鼻癌にかかって父の死は現実となるも、それを治せる者・八百比丘尼が現れると焦慮して惑い、父の殺害は恐怖しながら八百比丘尼を殺すになんのためらいもしない。左近介の姿勢は己の運命を切りひらくことの出来ない弱者、いや弱者ならまだかわいいほうだ、むしろ父同様の利己主義の塊で無難に生きようとしかしない父よりも気迫に劣る人間になっていたのだ。たしかに左近介の青春は不幸といえよう。しかし、そこから逃れようともがきもしなければ戦おうともしない、所詮はいいとこのお嬢さん根性が染み付いた力のない人間なのだ。そうして左近介は未来の自分たる八百比丘尼を斬った・・・。
では、火の鳥が与えた罰は未来永劫続くのだろうか、左近介は永久に自分に殺される運命から逃れられないのだろうか。それはないだろう、何故なら、左近介は罪を償うために必死な姿を見せているからだ。最初に斬られる八百比丘尼、彼女はほとんど反省のない人間である。自分を斬りにきたかつての自分に「覚悟はできている」といいながら、斬られる間際になって、わたしを斬れば、おまえも私と同じ苦しみを味わうのだ、ざまあみろ、という心情が読み取れるセリフを吐くのである。彼女の負け惜しみのような哄笑からは、訪れる妖怪たちを治しながらも慈悲心のない、単に妖怪に慣れただけの八百比丘尼であったと想像できる。しかし、物語の主人公たる左近介は治すだけでなく、妖怪を介抱しいたわっている。そして斬られる間際のセリフにはかつての自分を憐憫する様子がうかがえ、いずれこの運命から逃れるであろう左近介の未来がわずかな希望を残している。
十二 「太陽編」の焦り
はじめに、「ブッダ」を描いた手塚が何故仏教を敵とした「太陽編」を描いたか、という疑問があるけれども、これは二つの宿題を考えながらみていこう。
一つ目の宿題は「鳳凰編」で垣間見せた仏教への不信感である。そもそも手塚は正義なるものに嫌悪する人間だが、「鳳凰編」を描く時点で手塚に「仏教=正義」という式は頭になかった。そうして「ブッダ」を描くことによってそれがはっきり自覚できるものとして表出した。この自家撞着に手塚はおおいに苦しめられたことだろう。仏教を否定すれば、輪廻思想まで否定してしまうわけで、手塚はどうにかして活路を求めたに違いない。「ブッダ」で語られる宇宙は、単なる生まれ変わり思想から発展して、生きるものすべては根底でつながっているという精神宇宙(つまり内面なのね。「火の鳥」はむしろ宇宙精神・つまり外の世界)の世界に逃れようとし、今生きている体は「殻」だといい、死体は「抜け殻」となる。それでもシッタルダは最後の最後まで悩みつづけるわけで、手塚もわけがわからなかったに違いない。これは死んでも魂は生きつづけるという考えだけど、現実世界の手塚がそんなのんきな考えに満足して気楽に生きていたとはおもえない。「太陽編」連載当時の注目作品はなんといっても大友克洋「AKIRA」である。「火の鳥」なんて目じゃない、「AKIRA」は哲学も現代思想も宇宙論も人生論も語らずに火の鳥のような説教たれることなく人間だけを描いてなにもかもぶち壊し、そこから見える人間の本質を徹底的に、わざわざ罰を与えて考えさせるなんて悠長なこと言わずに、考えるのは読者ひとりひとりが勝手にやっていろという突き放した態度で、ラストまで疾走した大作である。火の鳥がAKIRA世界に現れたところで「なんだ、あのヤロー、偉そうに高みの見物かよ、殺しちまえ」といわれて撃たれただろうし、生き血を欲しがる奴なんてミヤコとか根津とかそのへんだろう、とにかく問題外なのである。一方の「火の鳥」は「マンガ少年」休刊後、ふたたび発表の場を失って5年近く、どうにか角川に拾われて「野生時代」に鋭意「太陽編」を連載開始するけれど、果たして話題になったのか、私は知らないのでなんとも言えないが、1980年代の漫画界は大友の時代といえる。(そういえば、「太陽編」で主人公と対立してやられちまうのも大友だけど、・・・偶然だね)。手塚がそれに反応しないはずがない、現に大友を誉めたりけなしたりの発言を残していて、動揺振りがうかがえる。そうした諸々の感情が「太陽編」執筆を混迷させたといえる。
と言うのも、太陽編は連載時と単行本初版そして再版と何度も描きなおされているのだ。完璧主義者といわれる手塚の一端を示す範例だが、私はあえて、異議を唱えたい。これまで述べてきたように「火の鳥」は全体的にまとまりのとれていない、特に「火の鳥」にする必然性があったのか疑えるものから全く作品としての価値のないものまで、てんでバラバラな作品があるだけで、それらはいくらでも描き直し出来たはずなのに手をつけず「太陽編」にまで至っている。統一感のなさに手塚自身気付きながら少しでも修正しようとする意志が見られず、これが完璧主義といえるだろうか。それが、殊に「太陽編」での大幅な描きなおしは、なにやら手塚の焦りを感じずにいられない。何を焦っていたのか、先に挙げた「AKIRA」への対抗心か、あるいは・・・自分の死か・・・。(連載中に父を亡くし、連載後まもなく体の不調を訴え入院している手塚が当時死を考えなかったとは思えない。もっとも、天才はどこか抜けたところがあるもので、さかんに生死を主題に掲げながら、自分の死にはてんで無頓着だったとも考えられる。手塚の自伝を含めた戦争物や自身の医学生時代の懐古を見ても手塚の火の鳥のような、どこか冷めた死生観、人事のような、まるで自分は死なないと信じてでもいるような凡人にとっての死生観と次元の違う血のない透徹な視線を私は感じる)。とにかく焦りはあった。連載時ではお茶の水博士が猿田一族の末裔として登場し、「火の鳥 アトム編」を予感させる展開だったというが、はっきりいってひどい。もう錯乱状態である。「壬申の乱」を取り上げたのは角川の意向だったともいわれるものの、「火の鳥」を復活させるために手塚は嫌悪する代表作まで登場させようと目論んでいたのだろうか。ようやく「ブッダ」の連載を終え(手塚自身、「ブッダ」の終わりの方はとにかく早く物語を終えたかった、なんでこんなのを描き始めたのか、と語っている)、正義に縛られることなくのびのびと書けるはずだったにもかかわらず、「ブラック・ジャック」以後、少年漫画系でのヒット作を生み出せない焦りだろうか、人気を得るためだけに「アトム編」を匂わせる展開を描いたのか、まるで「望郷編」連載時と同様の愚行をやってしまいかねなかった手塚だが、仏教を侵略者として描ける爽快感・「ブッダ」から解放された気持ちの余裕からか、焦る一方にあるそれらのゆとりが、単行本出版に際しての改稿にちからを与えたのだろう。また、物語の展開そのものの上手さがあったからこそ、「望郷編」のごとき苦し紛れの改稿ではなく、しっかりと構成された「神々の戦い」を再構築できたのだと思う。
二つ目の宿題は「太陽編」のラストシーンである。この場面だけでなく、「復活編」レオナのロボットになりたいという想いは、「太陽編」犬上あるいはスグルの狗族になりたい想いと相似する。「太陽編」の展開は「復活編」をより一層の高みへ昇華させたような素晴らしさだが、手塚は相似に気付かなかったのだろうか。もっとも、手塚漫画は似たような設定の似たような展開がいくつかありながら個々の作品として成立しているので、いちいち口を挟むことではないかもしれないが、「火の鳥」はさまざまな物語を書くと宣言している以上、似た物語を書いては手抜きだ。だからこそ、何か屁理屈でもこねくり回してみたくなってしまう、つまり、「太陽編」の続きを勝手に考えた。以下は私の空想である。(まず「太陽編」下巻のラストシーンのセリフ、初版は「だれにも圧迫されないほんとに自由な世界へ!」となっている。再版は「・・・狗族の世界へ!」に変更されている。これは簡単に「自由な世界」=「狗族の世界」と考えていいだろう。では、この続きに相応しい舞台を考えるとたちまち悩む。再版によると、スグルとヨドミが再会する場所は「狗族のふるさと」らしい。となると、遥かな過去か、あるいは私たちの想像外の世界か、そもそも火の鳥は二人をどこへ導こうとするのかも見当つかない。過去ならば、当然仏教の侵略される以前の日本になるが、となるといずれ仏教とまた戦うことになり、どうも違うらしい。やはり火の鳥が言うところの宇宙生命だろうか、再版ではスグルの肉体は滅んでいることが明かされているので、現実の世界は考えられないのか。宇宙生命? なんじゃそれは。つまり「生きる宇宙」の一部になると言うことか? それでは続きは火の鳥の登場だけで終わってしまう。スグルたちの目指した「だれにも圧迫されない自由な世界」とは、権力やら宗教やら人間を規律とか法律・慣習とか常識で束縛しない、真に自由なる世界だ、これはもう、手塚が新たな主題を「太陽編」で掲げたに等しい。そこで空想を飛躍させよう。次回作だったらしい「大地編」の舞台は日中戦争下のシルクロードである。「アドルフに告ぐ」を思い出せば、物語は現代のどこかを舞台にして締めくくられたことだろう。「アドルフに告ぐ」の最後は、ユダヤ人にとってのふるさと・イスラエルだったことから、「大地編」のラスト・シルクロードの終着地・奈良?またはそのふるさとのペルシア、そのまた西のローマと考えたけど、手塚のことだから、「大地編」にノモンハン事件を絡ませる可能性もある。となるとモンゴル・・・草原を駆けまわる狗族たち・・・それを遠くから見詰めるのは現代の猿田一族たる手塚・・・絵になりそうだ、モンゴルにはまだ狼もいるし。手塚先生、いかが)。
作品自体の出来は全編でも群を抜く、文句なしだ。壬申の乱を白村江の戦いから描いた点も「歴史物語」として秀逸である。「陽だまりの樹」「アドルフに告ぐ」などによって手塚史観とも言える独自の歴史観を確立した手塚にとって、「壬申の乱は宗教戦争だった」という視点は「仮説」としてもいいくらいの単なるフィクションを超越した発想であり発見である。だか、そうした大構想に未来の宗教戦争である「光族対影」のまったくの空想物語がついて来られない。理由は簡単である、手塚が描きたかったのは仏教問題だった。未来の宗教戦争は物語性を重視した結果独創されたおまけなのである。本編を読めば、どちらに比重が置かれているかは明らかだ。「復活編」での失敗・詰め込み過ぎを繰り返してしまった点が残念だが、「復活編」との違いはきっちりと過去と未来が意味あるものとしてつながっている点だろう。だから物語としての読み応えは充分過ぎるほどある。では「歴史物語」としての「太陽編」の価値はどうだろうか。
政治と結びついた宗教の浅ましさは戦争にまで発展している。つまり壬申の乱だが、前述通り「白村江の戦い」から物語をはじめる点は見事だ。百済滅亡時、たくさんの百済王族貴族が日本に亡命しているので、ハリマ(後の犬上宿禰)の亡命も珍しくはない。では、「太陽編」で描かれた壬申の乱は歴史的にどこまでリアリティがあるか検証してみる。
壬申の乱は皇位継承者争いであることに間違いない。「太陽編」での問題は、吉野に引退したはずの大海人皇子が挙兵した訳、そして中央の大友皇子があっさり敗れた訳、また、劇中の戦争がどれだけ史実に基づいているか。
まず、挙兵した訳。劇中では吉野を封鎖した上での兵糧攻め、さらに刺客を向けられたことに対する反発など、中央(大友皇子)にやられる前にやってしまおう、と言い、直接都(当時のみやこは大津)に向かわず美濃で兵力の増強を図っている。これは日本書紀に取材したもので、手塚は脚色せずにそれを受け入れたようだ。また、登場人物もほとんどが史実に基づいていて、歴史とフィクションの融合が絶妙であり、これは「陽だまりの樹」などによる徹底した下調べが礎になっているのだろう。実際、日本書紀の文章が引用されていて、「火の鳥」にこれまであまりなかった歴史性・リアリティというものを強烈に焼き付けている。では歴史学における挙兵理由はどうか。これは単純に皇位継承争いとみなされる向きが強い。当時の天皇の位がどう継承されていたかを考えれば、明確である。現在は長子相続だが、当時は兄弟相続が一般だった。兄の次は弟、弟の次はそのまた弟・・・そして長兄の長子・・・と順番があった。それを天智天皇が反故にして長子・大友皇子に次位を譲ったのである(大友皇子が天皇に即位したかどうかという問題もあるけど、興味のある方は個人で調べてくれ、ここでは触れない)。大海人皇子がこれを承知するはずなく、慣習にしたがって次位は自分だと訴えて当然だが、また当時は暗殺陰謀などおかまいなしの骨肉の争いが頻繁にあったから大海人皇子は吉野に逃げた(仏門に帰依した)わけだ。これを日本書紀は「虎に翼を着けて放けり」とたとえていて、劇中でも同様のセリフがある(確かめてみるべし)。手塚の勉強振りがうかがえる一端だ。また、こんな説がある。「壬申の乱は百済系対新羅系の争いだ」というもの。つまり天智天皇・大友皇子側が百済系で大海人皇子側が新羅系で、当時の国際情勢も絡まって起きた内乱だという。白村江の戦いは百済復興を賭けた百済王に日本が協力した戦いだが、それを推し進めたのは当然天智天皇、そもそも仏教を日本に伝えたのは百済の聖明王だと言われているし、百済と日本は親密だった。その戦いに勝ったのは唐・新羅連合軍。新羅は後に高句麗も滅ぼし唐も追い出して朝鮮を統一する強国だ、白村江戦後、日本はその新羅の襲来を恐れて北九州の守りを強化していて(教科書でも触れないことだと思う。盲点だと思う。当時の日本を考える上で新羅という強国の存在は無視できないのだが、教科書は無視している。)、緊迫状態にあった。劇中、犬上の出世を助けた阿部比羅夫は筑紫へ派遣されるが、これを犬上は左遷と解釈して憤慨するものの、実際は当時の北九州は新羅からの侵攻に備えるべき重要地点だったのである。また、日本には以前から多くの朝鮮からの渡来人がいて、政治の中枢にも彼らはいた。だから、朝鮮半島の情勢が日本の政治に影響するのも当然なのだ。天智天皇が新羅を恐れ、新羅系の家臣を多く抱える大海人皇子を遠ざけたとも考えられる。もっとも、主人公・犬上は百済王の一族だし、大海人皇子側には百済系の家臣もいて戦っているから、あくまで変わった仮説に過ぎない、蛇足だった。
次の大友惨敗の訳。劇中では多くの戦闘場面は描かれず、大友皇子側がなにもせずに負けた印象が強い。「乃楽(なら)山の合戦で負けた」という佐々木小次郎演じる大伴吹負のセリフがあるが、これを含めて大友皇子側の勝ち戦は二十数回の会戦のうちわずかニ、三回であり、事実惨敗に近い。劇中で描かれる草原での合戦場面・犬上と韓国が剣を交えることになる合戦はおそらく当麻(たぎま・奈良県北葛城郡当麻町)の戦いだろう、ここで大伴吹負は韓国軍を破っている。
さて、日本の歴史上で反乱軍が勝利して政権を奪った例はほとんどない。壬申の乱以外では源頼朝の反乱・源平合戦くらいかもしれない。それだけ反乱の成功率は極めて低いにもかかわらず大海人皇子は勝利して即位し、天武天皇となっている。何故敗れたのか、ということについて「太陽編」は触れない。私も調べてみたが、互角の戦いの末に敗れたのならいざ知らず、ほとんど力に押されるままに敗れていて、これは日本書紀をどこまで信用するかという漫画の域を越えた(すでに越えているけど)専門的な話に至るのでやめる。次の問題に移ろう。
合戦は日本書紀の記事に従っていて、本で調べれば物語と史実の符合の多さに驚く。私が特に注目したのは、犬上川ほとりで展開される大友皇子軍の内紛である。劇中では、犬上宿禰の領地・犬上の里を攻撃するために大陣営を張るものの、将軍に憑依した妖怪によって混乱状態に陥る。これはその通りで、犬上川に軍を置く大友皇子軍は何故か内紛を生じて瓦解している。このことから主人公・犬上宿禰が与えられた領地がどこかはっきりしてしまう(滋賀県彦根市犬上郡)。内紛の理由ははっきりしていないようで、そこに手塚の想像力を発揮できる余地があったわけだ。また、韓国という犬上の宿敵といえる人物も大友皇子軍の中で力戦した勇将のひとりで、乱後の消息は不明である。また、最後のほう、橋の上での合戦は瀬田橋の戦いで両軍最後の死闘、ここで大友皇子側の命運は尽きた。
ついでにもうひとつ、大友皇子の妃・十市媛(とおちのひめみこ)は劇中で大友皇子に殺されているが、これは史実と異なる。媛は678年、壬申の乱6年後に夭折している。また大友皇子との間には葛野王(669年頃の生まれ、705年没)という子もいて、劇中で14歳と設定されている媛だが無理がある、この辺は物語を盛り上げるための手段として歪曲されたのだろう。
総じて「太陽編」の壬申の乱は日本書紀から多くを取材した物語となっていて、この作品に賭ける手塚の意気込みは結構強いと思う。これだけ史実(繰り返すが、日本書紀の内容が史実と定義するには疑問があり、そのことについてはここでは論外になるので触れない)に基づきながらも多分に自身の想像した物語を織り交ぜることが出来る構成力には脱帽する。これまで各編の多くをけなしてきたが、やはり晩年の手塚作品の構成力はそれまでとは比べ物にならないほどの完成度がある。「太陽編」は傑作と言えよう。
あとがき
長い冒険が終わった。結局、「火の鳥」という作品について私なりの結論は出なかった。だが、「火の鳥」を追っているうちに手塚治虫と言う人間の心底に澱んでいた人間に対する嫌悪感を掬い上げることが出来たことは大きい。漫画を読んでいると今なお小説より下等とみなす人々は多いものの、手塚漫画に限ってはなんとなく「いいもの」という偏見があって、私にはどうしても我慢ならなかった。こんなつまらない本が手塚治虫というだけでどうして復刻されるのか、憤りの原因だった。だが、こうした冒険を経て浮かび上がった「火の鳥」のほんの一部の真実に、私は「火の鳥」がけして名作でも傑作でもないことを確信したのである。では「火の鳥」はなんなのか、・・・偉大な失敗作と言えよう。そうして、未完でありながら今なお読み継がれ読者を獲得している強靭な吸引力に、世にたむろする天才と呼称される人々の軽薄な態度・刹那的な顔が、手塚治虫と比べれば虫けらに等しいちっぽけな存在であることに私は驚愕し慄然とする。
参考文献一覧(順適当)
手塚治虫「火の鳥」全編(角川書店版、朝日ソノラマ版等)
手塚治虫「低俗天使」(集英社「手塚治虫名作集5」収載)
手塚治虫「鉄腕アトム」(朝日ソノラマ)
手塚治虫「紙の砦」(大都社)
手塚治虫「ブッダ」(潮出版社)
手塚治虫「きりひと讃歌」(講談社「手塚治虫漫画全集」)
手塚治虫「アドルフに告ぐ」(文藝春秋)
手塚治虫「人間ども集まれ!」(虫プロ)
白土三平「カムイ伝」(小学館)
大友克洋「AKIRA」(講談社)
サン=テグジュペリ「星の王子さま」(内藤濯訳、岩波少年文庫)
夏目房之介「手塚治虫の冒険」(筑摩書房)
桜井哲夫「手塚治虫 ―時代と切り結ぶ表現者―」(講談社)
「平家物語」(新潮社)
「手塚治虫キャラクター図鑑 3」(朝日新聞社)
「手塚治虫の世界」(朝日ジャーナル)
「別冊宝島341 遺伝子・大疑問」(宝島社)
「別冊歴史読本 壬申の乱」(新人物往来社)
「別冊歴史読本特別増刊 古代王朝血の争乱」(新人物往来社)
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