坂口尚「石の花」

〜「私たち」のまなざしを〜


 まえがき
 1995年のカンヌ国際映画祭グランプリは、サラエヴォ出身のエミール・クストリッツァ監督作品「アンダーグランド」です。これまで、第二次世界大戦下のユーゴスラビアの抗独(ドイツ)戦争・つまりパルチザン戦争の扱い方は、ナチスドイツ=悪玉という単純な図式によるパルチザンの抵抗をたたえるものばかりでした。1991年のユーゴスラビア連邦の解体を機にパルチザン戦争の定義付けが各民族ごとに行われた結果、この戦争の意味というものが大きく変動しました。そうして現れたのが、実に人間臭い人々が登場する「アンダーグランド」という傑作なのです。しかし、その十年前、すでに日本で従来のパルチザン戦争観を根本から問いただすと同時に、戦争はもちろん、さまざまな人間に関わる理想と現実の問題を真正面から追究した稀代の名作が、漫画という形で結実していました。坂口尚(さかぐちひさし)の「石の花」です。奇跡に等しい偉業を成し遂げた坂口尚は1995年暮れに急逝し、作品自体が風化しつつあり、多くの人々がこの作品の存在を知らずにいることは、とても残念でなりません。この文章が少しでも「石の花」の理解と普及に役立てば幸いです。
 さて、これから「石の花」のあらすじを交えながら、作品についての詳細な分析を試みようというわけですが、その前に、「ユーゴスラビア」について語る上で無視できない現在の各共和国の構成を簡単に説明したいと思います(連邦解体後の現在「ユーゴスラビア」といえば、セルビア共和国とモンテネグロ共和国のユーゴスラビア連邦を指します。これからは、そうした誤解を避けるために地名などを統一して表記していきます。まず、「ユーゴスラビア(連邦)」は以後「ユーゴ」と省略し、内戦以前のそれは「旧ユーゴ」と表記します)。
 セルビア共和国。構成民族はセルビア人が6割を占め、アルバニア人、モンテネグロ人と続きます。首都はベオグラードで、北にヴォイヴォディナ自治州、南にコソヴォ自治州を擁しています。大戦中は、ほとんどをドイツ軍に占領され、直接統制下に置かれました。
 モンテネグロ共和国。モンテネグロ人が6割以上で、他にムスリム人(イスラム教徒)、ハンガリー人など。首都はポドゴリッツァ。大戦中はイタリアに占領されました。
 マケドニア共和国。マケドニア人が6割以上でほかにアルバニア人、トルコ人など。首都はスコピエ。大戦中はブルガリアに併合されていました。
 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国。ムスリム人が4割ほど、セルビア人が3割、クロアチア人が2割近くで、どの民族とも言えない人々(両親が違う民族同士などの理由で)はユーゴ人と名乗っています。首都はサラエヴォ。大戦中はクロアチア独立国にとりこまれています。パルチザン戦争の中心地でもあります。
 クロアチア共和国。クロアチア人が8割近くを占め、他にセルビア人が1割強。首都はザグレブ。大戦中はドイツにより「クロアチア独立国」を承認され、パルチザンと対立します。
 そして、「石の花」の主人公・クリロが住むのがスロヴェニア共和国です。ほとんどがスロヴェニア人で構成されています。首都はリュブリャナ。大戦中はドイツとイタリアに分割占領されました。
 細かな説明はその都度していきます。
 (ここでは潮出版社の「石の花」をもとにしています)。


 目次
 まえがき
 第一章 クリロ
 第二章 フィー
 第三章 イヴァン
 第四章 先生
 あとがき 


第一章 クリロ
 「石の花」を考える上で無視できないのがフンベルバルディンク先生です。禅の公案のような、物語の核となる言葉を残す重要な人物です。だからといって特別難解な問い掛けをするわけではありません。先生はまず、突然変異を例に挙げて「力と運命」の話をします。力とは、腕力武力のことではなく、人間のものを思う力・空想です。空想だけでどんな世界にもどんな時代にも旅が出来る、それも現実を歩きながら出来てしまう。そんな力の素晴らしさを森の中で力説し、そういう理想から人の運命が決まって行くという含意を読み取れます。そして、ポストイナ鍾乳洞(スロヴェニア共和国の観光地のひとつ。全長19.5km)でみることになる巨大な石柱の壮大さを「石の花のようだ」とたとえ、「まなざし」の意味を問い掛けるのです。先生の言葉は、主人公・クリロの無意識裡に深く刻まれ、たびたび思い出しては自問自答していきます。鍵は「まなざし」です。
 さて、物語の発端は、政府が三国同盟に加入したこと(三国同盟はドイツ・イタリア・日本。枢軸国。当時の東欧はドイツとイタリアの影響が絶大で、ほかにルーマニア・ハンガリー・ブルガリアが同盟に加入している。旧ユーゴの周囲は枢軸国に囲まれていた状況になる)に反対するところから始まります、このことは劇中でクリロの住むダーナス村の人が説明しています。間もなく、親西欧派の軍の将校がクーデターを起こします。村はこれを大歓迎して集まった男たちが酒を飲み交わしますが、まず、この場面に注目してみます。
 わずか一頁ほどの描写ですが、ここに旧ユーゴの民族意識が透けて見えます。初めて酒を飲むクリロを後ろの男が「スロヴェニア人の心意気だ」と言って背中を叩きます。続けて「クロアチア人もいるぞ」とある男が叫ぶと、セルビア人の男が立ち上がって「現在のユーゴスラビアの栄光があるのはセルビア人のおかげだ」という意味の言葉を吐き、喧嘩になりそうなところを「みんなユーゴ国民だ」と言われて咎められてしまいます。物語を理解する上で重要なのがこの3民族です。外見上の違いはありません。言葉の違いは極言すれば方言による差異とも言えますが、他に使用する文字の違いが(ほかに宗教も違いますが、私にゃわからん。ほかに名前でも区別が付くらしいです。)民族を区別し、各々が自尊心強く、主張が摩擦しています。ここがその象徴的な場面なのです。後にドイツ軍は、この民族間の摩擦を巧みに利用して内戦を先導するわけですが、小さな村の男たちの間だけでも、充分な火種があったわけです。
 クーデター政府はドイツとの同盟を破棄するわけでもなく、曖昧なまま、クーデターから約十日後にドイツ軍の報復攻撃を受けてしまいます。ポストイナ鍾乳洞からの帰路をドイツ軍の戦闘機に襲撃されてクリロを除くクラスメートは死亡し、気分が悪いといってポストイナに残った幼馴染のフィーと先生の安否はわからず、歩いて村に戻るとすでにドイツ軍に占領された後で両親の安否もわからないまま、クリロは山奥へ逃亡します。
 逃げ延びたほかの人々と山中を放浪中に、ユーゴ軍の脱走兵と遭遇してユーゴという国がどうなったのか聞き出して前途暗雲なるを痛感します。この場面以外でも、劇中では、実にうまい具合に状況の説明が描写されます。説明調になりがちな場面を人々の口を借りて自然に読者に伝えることは、読者に馴染みの薄い事件を題材にする場合、ひとつの生命線になります。簡単な方法はナレーションですが、多用するとあくびが出ますし、物語の流れを遮断してしまいやすくなります。そこで登場人物の一人に語らせる方法、それがこの作品でも多用されています。具体例として、クリロがザクレブの大学にいるという兄・イヴァンを頼りに山を降りて単身クロアチア領内に入ってザグレブを訪れる場面があります。読者がこの時点で知っている情報は、各地にドイツ軍が侵攻して国王と政府要人は国外脱出した、ということくらいです。腹を空かしながらザグレブ市内を歩くクリロ。市内はクロアチア人がいっぱいです。ところが、ドイツの旗を振っている人々に出くわして不思議に思います。読者にとっても、敵に攻められて何故か? という疑問が残ります。クリロはドイツ兵にチョコレートを恵まれますがこれを叩き落としてドイツ兵に追われてしまいます。逃げる先でミントというチンピラに助けられます。説明役は彼です。ザクレブ市内で空き巣をしているミントの後についていきながら、市内で行われているユダヤ人狩りの現場を目撃しながら解説します。連行されるユダヤ人の絵のひとコマで簡単でわかりやすい説明をやってのけます(完璧な説明ではありませんが、この辺だけで、ドイツ軍がユダヤ人以外にも他の民族を逮捕・連行・殺害してしまうことがはっきりします。ドイツの後押しを受けて成立した「クロアチア独立国」は、国民国家(簡単に言うと、ひとつの民族によって成り立つ国家、と言えるかな)建設を大義名分にして、セルビア人をはじめとして他の民族を排除する行為に及びます。「ウスタシ(本によってはウスタシャとも。ここでは「石の花」の表記に従ってウスタシ)」というクロアチアのファシスト団体が先頭に立って「セルビア人狩り」を断行します。いわゆる「兄弟殺し」といわれるものです。実際、ドイツ軍に殺されたセルビア人よりクロアチア人に殺されたセルビア人の方が多かったそうで、当時クロアチア領内にいたセルビア人の六人に一人が殺されたという統計もあります。逃げるクリロをドイツ兵が「セルビア人か」と叫ぶ理由がわかりましたか?)。なお、この間にクリロの幼馴染のフィーが強制収容所に連行され強制労働に至る場面がありますが、フィーの収容所体験については章を改めて詳しく考えてみたいので、ここでは割愛します。その後も「クロアチア独立国」を非難演説する場面からウスタシの弾圧場面など、物語の流れに無駄がなく、読み進めていくうちに自然と物語の背景を理解できてしまいます。
 クリロはミントと兄・イヴァンを探す過程で、兄の恋人・ミルカ、兄の友人・ブランコと出会います。そしてブランコを中心にした十人ほどのゲリラ組織に参加します。一方、ミントはコミュニストたちになりゆきで接近し、風来坊な態度をとりながらも戦争の渦に巻き込まれていきます(コミュニストつまり共産党は後にパルチザンの母体となるわけですが、その理由として、当時、民族や国家を超えた思想が共産主義だったことと、各地に少数ながらも確実に存在していた共産党員がばらばらの組織を統べる礎になったと考えられます、まあ、素人考えなので信用せずに)。
 ゲリラ隊でクリロは銃の扱いを学びます。当然撃つことも覚えます。これは彼が「人を殺す手段」を得たということです。物語はまだ序盤で、ここまでは主な登場人物の紹介といった展開ですが、クリロはすでに多くの人の死を目撃しています。同級生の死、街灯に吊るされた人の死など、あまりに性急な展開に彼は自分の感情の状態を自覚しないままに銃を手にするのです。この時の彼に銃を「人を殺す手段」と認識している様子はありません。ただ、自分が殺されないために・生きるために銃を持ち、実際に人を前にしてそれを構えることができるかどうかという自問はありません。とても未熟なわけです。また、物語自体も、冒頭のフンベルバルディンク先生の問い掛けから離れて、少年漫画的というか少年小説的というか、そういう未熟な雰囲気が全体にまで広がっています。物語の佳境でクリロの思想に多大な影響を与えるブランコも、序盤は屈強な男・リーダーに相応しい男としてクリロに銃の撃ち方を教えています。そんなブランコが敵に対して複雑な表情をする場面がありますが、その前に物語のあらすじを進めます。
 ミントがフィーの居場所を見つけました。クリロはミントとともに彼女か捕われているという屋敷に到着するものの、ミントはドイツ兵に見つかり逃亡、クリロが一人で屋敷に侵入します。そこで彼はフィーと再会し、同時に幾多の現実を自覚することになります。兄・イヴァンがドイツ人だったこと、実兄でなく従兄だった事。クリロはイヴァンの機転で殺されたこととして屋敷から脱出できますが、彼の「裏切られた」という衝撃は彼のまなざしを歪曲させてしまう動機になってしまうのです。
 無謀なクリロを追ってゲリラの仲間も山を降ります。ブランコは町でコミュニストのひとりと接触し、ここでイヴァンの正体は二重スパイであることがはっきりします。そうして山に戻る最中、雨中で二人のドイツ兵に訊問されます、ブランコはその二人を叩きのめして逃げ去るのですが、この場面での彼の表情に注目します。これまで、ドイツ兵は「悪玉」として単純に描かれています。武器倉庫でドイツ兵を襲撃する場面では、殺される兵に人物性というか、人格が与えられていません。この作品に登場するほとんどの人物には、それがどんな些細な役柄でも実に「人間臭さ」というものを感じさせる描写が用意されていますが、ドイツ人で序盤に人格を与えられて豁達にその自己を主張する人物は、ナチズムの代弁者の役回りを負うマイスナー(イヴァンとは幼友達)くらいで、他のドイツ人将校たちは読者に嫌らしい感じを与えているだけです。そんな「敵」「悪玉」としての役回りでしかないドイツ兵を失神させる豪腕のブランコが、一瞬見せる複雑さはどう読み取れるでしょうか。次の場面では、クリロが描かれます。川に流され場所もわからずに山中を放浪するクリロがみたものは、森の中の動物たちでした。このあたりの場面は様々に転換されていながら、いよいよ物語の中核に突入しようという緊張の度合いが上昇しているので、読者はそれらを容易に読み取ることが出来ます。クリロの両親はドイツ軍から逃れて山の中で暮らしていながらも、その苦労の程がうかがえる描写をし、共産党がバルチザンを創設したこと、ミントが無事なこと、ドイツ軍がソ連に侵攻して戦線が拡大したこと、そしてブランコのことと多くの情報が僅かなページ数に詰まっています。これによって物語で描かれる戦争もより激しくなる予感を与え、同時に幾多の人間を描いて「敵」「悪玉」はなにもドイツ軍の中だけではないという暗示(クリロの両親の住む土地の地主が象徴的。また、共産党がドイツ軍の敵だという情報を示す描写もありますね。複雑な情勢を序盤で的確に読者に伝えてしまう坂口尚の筆さばきに脱帽します)、そしてクリロの最初の悟りが暗示を明らかにします。それが先生の語った「力と運命」のクリロ流の解釈でした。すなわち「弱肉強食」、武力腕力に秀でてこそ生き延びることができるんだという明快な思想です。この解釈が誤りだということを読者は自然と理解しているのですが、何故でしょうか。いや、なにも本を読む前のあなたの心構えに言及したいわけではありません。実に説明巧みな展開を怠らない坂口尚なのです、きっちりと「その考えは違うよ」と言っているんです、ブランコのあの表情に言わせているんですね。ブランコは「ざまーみろ」と言わないし思わない。すまない、という感覚、今にも殴った兵士を助け出しそうな、助けたいような顔をしています。この表情が、これからクリロが悟る考えは誤謬だと語っている、つまり作者の顔なんですね(ついでに続くブランコが走り去る場面に注目すると、このアングルはのされたドイツ兵のそれです。これまでなかった視点をここで取り入れて、物語を多角的にしていくわけです)。
 クリロは兵士の死体に出会います。いくつもの死体。蝉の鳴き声がクリロの心を乾かします。森の中の動物たちの生存競争を思い出し、強ければ力があれば死なずに済んだ兵士たちのひとりが持っていた銃を奪い、虚空へ一発放ちます。ここでまた出会いがあります、大戦物を描く上でどうしても欠かせないユダヤ人、その代弁者の役回りとなるクリロと同年代のイザークです。ともに一人で山中をさまよっていたところでしたから、生き延びるために協力するのはもっともな成り行きでした。(余談ですが、二人は道中サバ川に行きつきます。この川はユーゴスラビア内の主要都市を通過し、北はスロヴェニアの山中からリュブリャナを通ってザグレブ、ベオグラードあたりでドナウ川と合流します)。
 戦うために武器という力を得たクリロは、たちまちイザークに「人を殺しちゃいけない」「暴力に暴力で向かってしまっては」と反論されます、クリロの決断はまたまだ中途半端で、人を殺すか自分が殺されるかという極限を体験していませんから、クリロの弁は未熟で説得力がありません。そこでクリロが初めて力で敵を屈服させようとする場面がまもなく訪れるのです。
 ある農家から聞こえた女性の悲鳴に駆け出して家に入るクリロは、若い女性を襲う二人のドイツ兵を発見して銃を向けます、「やめろ! 立て!」。ドイツ兵は言に従うものの、外を出たところで扉を閉め銃を構えて、出てきたクリロを狙います。あまりに未熟な思想のためにクリロは死を見つめる間もなく撃たれそうになりますが、ブランコらに助けられるのでした。クリロは悔やみます、その場で撃ち殺せばよかった、と。
 クリロは悩みます。力を「暴力」と解釈したのはいいものの、暴力の方法がまるでわからないし、行使する決断力・勇気(力を振るうことが勇気のあることなのかという疑問も後の章で考えます)もありません。イザークは何度も言います、「人を殺してはいけない」。特に「石の花」に限らず、戦争物(分野を問わず)を扱う場合に無視できない問題が、人を殺すということです。暴力に暴力で対抗すること、暴力で将来行使される可能性のある暴力を閉じ込めること、つまり戦争というものの正体について、どうしても考えなくては物語が先に進まない。単に悲惨さを訴えても意味がないことを知っていたからこそ、敵味方・善悪・上下の区別なく様々な思想を持つ人物に自己の立場を主張させて、戦争がいかに複雑かを知らしめているのです。ドイツ軍の思想、ウスタシの思想、チェトニク(セルビア人を中心としたゲリラ組織)の思想、パルチザンの思想、イギリスの思想、そしてブランコの思想などなど、多くの思想がぶつかりあい、暴力による決着を求める。単なる敵味方の対立では済まない、ほんとうに戦うべき相手はどこにいるのか? それが次第にわからなくなっていくことと直面している「戦争」で生き抜くために銃を持ち撃つということ、矛盾をはらみながら当面の現実を生きているという現実、少年の心に深刻な葛藤が生じるのは必然ですし、読者にも非常に解決困難な主題が叩きつけられるのです。この作品に感銘した人々ならば誰もが抱くだろう、現実と理想という問題・重き葛藤のストレスはクリロの精神を混乱させます。
 やがてパルチザンの一部隊に合流して共に行動することになるブランコたち。クリロは夢を見ます。夢に登場した先生ははっきりとクリロの心情を指摘します、「強がりを言っているね」。この夢では、戦争によって空想することを忘れたクリロ自身の苦悩が表出されています。「戦争がなかったら、君は何になっていただろう」という先生の問いは平凡なようでいて侮れない深意があります。部隊にいたニュースと呼称される男とクリロたちの会話でその一部が語られています。「人間がいるかぎり永遠に戦争はなくならない」と言うニュースに「いつか正義が勝つよ。平和が来る」と信じたいクリロですが、ニュースの現実主義(あるいは虚無主義といえるのでしょうか)は「闘争は宿命」と言わせます。憤慨したクリロはニュースに殴りかかるものの、「意見が違うとお次は暴力」と返されて反論できません。平和のための戦争、だから犠牲はやむをえないと諦念するのか、戦争は宿命なのか、今日も各地で続く紛争を見るたびに回答を得られない疑問に悶々とする日常を忘れて遊び呆けていては、なにも解決しない。「人間には目に見えない翼があるんだよ」という先生のなぞなぞ。そんな思索をあざ笑うようなドイツ軍の攻撃に、次々と死んでいく無名の兵士たち。「兄を、イヴァンを信じろ」というブランコ。人間を信じるしかないのか? しかし戦争は仮借なく少年の運命を翻弄し、ついにクリロが人を殺す場面が描写されるのです。
 悪い奴を殺してなにが悪いのか。しかしクリロは苦しむのです。二人の若いドイツ軍兵士は夢を語った直後にパルチザンの襲撃で殺される。さっきまで味方だと思っていた・共にドイツ軍と戦う兵士だと思っていたザクルがドイツ軍のスパイだった・・・なにを信じていいのか混迷を極める。まさに霧の中。だが、霧とて人の心の世界までは消し去ることは できません。混沌たる戦場にありながら、人の心は確実に存在している。二人の若いドイツ兵にも、ザクルにも、クリロにも。「仕方ない」ではどうしてもすますことができない、クリロの葛藤は続くのです。「目の当たりで死んでいく人間を見るのはショックだろうが、そのうち馴れるさ・・・」というルパに、「馴れるなんてできない」とクリロは叫びます。だからこそ街角で殴られているジプシーの親子を非力でありながら助けようとするクリロの衝動は理解できるのです。
 そんなクリロの思惑をよそに、事態は暗澹たる殺し合いに発展します。ドイツ軍はゲリラ活動の報復として、一万人を超える市民を「処刑」し、生き残った住民にドイツ軍の「恐怖」を喧伝させるのです(これは1990年代の旧ユーゴ内戦でも行われた「恐怖」の喧伝方法です)。また、一時はパルチザンと共闘を志したチェトニクは、多くのセルビア人が虐殺されたのを理由にドイツ軍との戦闘を拒み、銃口をパルチザンに向けてしまいます。さらに激化するドイツ軍の爆撃がパルチザンを苦しめ、戦争は混沌が濃く滲みはじめるのでした。そうした中で執り行われたリジュとヤンコの結婚式は部隊に笑いを生みますが、一瞬の平和でした、忽然とドイツ軍戦闘機が来襲し、逃げる人々・殺される人々と入り乱れて、クリロは夢中で銃を構えます。クリロは操縦士の顔を見ます、「人間だ。人間だった!」。もう誰も笑わない。戦闘機が去った後に場を満たすのは悲鳴と苦渋と疲労と。ヤンコはリジュをかばって死亡しました。人前で涙を見せなかったリジュも夜中、星空を見上げながらわずかに涙を流すのです。暴力には暴力で立ち向かうしかないのか? という繰り返される疑問がクリロやイザークを苦しめます。かつて「人を殺してはいけない」と言ったイザークも銃を持ち戦っていました。クリロも無意識に引き金を引いていました。何かがおかしいようです、なにかの箍がはずれているようです、一体なんでしょうか。人を戦争に駆りたてる本質とはなんなのでしょう・・・・


第二章 フィー
 ポストイナ鍾乳洞で見た巨大な石柱を「花のようだわ、石でできた花」と形容したのはフィーです。彼女はその後、クリロ以外の同級生が殺されたのも知らずに捕虜にされ、強制収容所に連行されてしまいます。クリロが戦争を通して生きる意味を思索するのに対し、フィーは収容所体験を通してその意味を考えます。
 クリロが戦争から一歩一歩生の意味を構築していったのに対して、フィーのそれはちょっと異質です。一度収容所に入れられながら、ドイツ軍の青年将校マイスナーの独善によって・自分の妹に似ているという理由から彼の屋敷に軟禁されることになります。フィーにとってドイツ軍は敵ですから、その屋敷内で「平和」に暮らせることはストレス・葛藤を生みます。この後、再び収容所生活を選択するフィーにしてみれば、この心の戦争状態は収容所のそれに等しい苛烈さがあったのかもしれません。坂口尚は、強制収容所をいきなり描写せずに、まず、マイスナーという青年を交えさせながら世界に巣食う私たちの愚劣さ・卑怯さといったものを強調し、眼前に、ある問いを突きつけるのです。
 マイスナーは初登場後まもなく「平等こそ頽廃をもたらす。生存とは闘争そのものだ!」と言ってのけ、ナチズムまるだしの主張を披瀝します。そして「この収容所は、われわれが明確化した世界そのものなのだ」と断言します。強制収容所で展開される人間模様が克明に描写されるまでまだ間がありますが、フィーの苦悩の一方でさまざま語るマイスナーの思想は、ナチズムという先入観を排してみると、イヴァンの理想主義よりはるかに強く、クリロが弱肉強食こそ世界の掟と悟るのを何を今更とせせら笑うように「我々は勇気をもって残酷にならなければならない」と言い放ちます。この演説を聞いたある少年は「大佐は人間全体のことを言っている」と思います。実はそれこそがマイスナーの主張の深意だということは、彼が他の将校の下品な振る舞いを嫌悪している顔からわかります。敵は味方の中にだっているかもしれない、という懐疑は時に人を信じられなくしてしまいます。だからこそ、イヴァンやブランコは「信じてくれ」「信じろ」と念じるように呟くのです。それに対して、はなっから人を信じていないと言って憚らないマイスナーは、あの少年の思いと同じに、愚鈍・下劣な人間はユダヤ人だけでなく、アーリア人のなかにもいると仄めかすのです。
 戦争以外の場面でも描かれる人物のいろいろな言動は実に繊細で巧妙に計算され緻密です。主役級に大きな思想を語らせ、細部や具体例はほかの脇役に負わせ、劇中で作者の主張を読者に認識させているわけです。ではフィーは何を語っているでしょうか。序盤・中盤と彼女はあまり多くを語らず代わりにマイスナーの言説が大きく扱われています。しかも、彼の言葉は強く否定されることなく(劇中、マイスナーと思想をぶつけ合う人物はイヴァンぐらいです)、人によってはたいそう魅力的なものに見えてしまうことでしょうし、人間不信に陥ればなおさら、世の中には本当にしょうもなく愚鈍な・ばかな奴がいるものだ、そんな輩は殺されたって構いやしないし、まして死んだところで悲しみやしない、と横柄倣岸に考えてしまうかも知りません(私自身、日常で街中ですれ違う雑多な人々の無責任な行為や平気な顔して人を誹謗する言葉に腹立たしくなり、どうしてそこまで不遜になれるのか・邪悪になれるのか・自分を高位に置きたがり他人を蔑むのか、と不信感あらわに未熟な頭脳で悩んだことが多々ありますし、今もそれは続いています。ですから、マイスナーの言葉が魅力的だと思うひとりに私もいるのです)。マイスナーの言葉は、世界を悲観的に見詰めつづければ誰もが至るであろう厭世観・自分の許容できる価値観と環境のみを認めて他を圧倒的な力で否定する虚無観に等しいわけです。世界に住まう人々がことごとく醜く見えてしまう危険性を知らない、なぜならそれは人の可能性を拒絶しているのですから、発展するためには自己の絶えざる練磨しかなく、さながら自転車操業のように常に戦いつづけ考えつづけ働きつづけなければならず、自ら休養まで拒んでいることに気付いていません。いうなればナチスは戦いつづけなければ成り立たない、戦争が終わった後の展望がまったく欠けているのです。それを私たちは察しなければならないのです。それを察しないこと・考えないことは、フィーが失明して「これでいいのよ」と叫ぶのと同様に、理想逃避(現実逃避ではないよ)していることになります。さらに重要なのは、フィーの失明が意味するところを考えて明らかになります。
 彼女は「未来なんかほしくない、生きていたくない」と絶望してこの世の中全てが幻に違いないと思い込もうとします。そして事故によって失明し、彼女は幻だけを見て生きる日々がしばらく続くのです(霧の町をぼんやり見詰めるフィーのまなざしは、かつて賑やかだったろうザグレブの灯火を捉えています)。彼女の考えを短絡的に現実逃避というのは簡単ですが、それだけでないことは、後に視力を取り戻すと強制収容所に自ら戻る決意をすることから推測できます。さて、フィーのこの行動を読み解くのは難解です。ヒントは、視力が回復して知った自分の置かれた環境をしっかり認識すること、暖かいベッドで眠る己の浅ましさとマイスナーを殺すということ、単なる良心の呵責というものではありません。さらに、この作品で強制収容所の実状を描く意義というものも不鮮明です。坂口尚はなぜこれを書かねばならなかったのか? フィーの行動の意味と作者の深意についてこれから考えてみます。
 闇商人の叔父に託された毒薬の入った包み紙を懐に抱きながらマイスナーとの食卓に臨むフィーの葛藤はなんでしょうか。マイスナーを殺すことがユーゴのため、と叔父に言われて自身強くそう思い込もうとする。殺人の正当化を彼女は必死に試みています。大義名分は「ユーゴのため」つまり国のためですが、そこに叔父の利権が絡んでいることは明白です。だから、叔父のためにという理由では決心できない。そこでフィーは、入院していた病院がウスタシによって閉鎖されてともに笑った孤児たちは行き場を失い院長は逮捕、また収容所で苦しめられているだろうメルを思って嘆き、マイスナーへの憎悪をかき立てようとしています。しかし、彼女はマイスナーを殺せませんでした。これは単なる道徳心が原因でしょうか、つまりフィーの良心が咎めた、と見るでしょうか。これは強制収容所でのいくつかの言葉を見なければはっきりしませんので、一時保留しておきます。
 その後、フィーは収容所に戻ります。マイスナーは彼女の意思を重んじていながら、オット伍長を介して屋敷に戻るよう説得を繰り返しますが、突き返されます。何故戻ったのか、という素朴な疑問について、メルがフィーに訊ねています、「あんた、どうかしてる。天国を捨てて地獄へ来ちゃったんだよ」。後悔していないと顔を上げるフィーの清々しさは、屋敷の中で鬱屈していた・あたかも収容所のような窮屈さから解放された喜びに満足しているようです。いままで理想から逃げていたのを悔い改めるだけでなく、夢まで放擲していたことに対する自己嫌悪、これを深く自覚するのが、夢に出てきたフンベルバルディンク先生が背中を向けているだけでなにも語らない姿に象徴されています。屋敷に軟禁された当初のフィーは、まだ庭に咲くひなげしに目を止める寛大さがありました。けれども、屋敷での満たされた日々、なんとなく暮らしている自分という存在に対する懐疑は、少年少女にとって戦争より重大な関心事でしょう、「なぜ生きているのか」という簡単に言えながら簡単に答えられない疑問を考えるとき、避けられないのが、今の生ぬるい日常に対する不快感、俗な言い方をすれば刺激が欲しかったといえるかもしれません。若者が何かを求めて各地を放浪するように・・・とも言えそうですが、はたして死地に飛び込んでまで体験しようとする勇気はなにか? 人を殺そうとした自分を自ら罰した、それもありうるでしょう。さらに言えることは、彼女は現実と理想を見たかったということ。幻だと思いたかった戦争状態、いくらそう思っても拭えないメルの苦しむ顔、どこかで必死に戦っているだろうクリロへの思い、「屋敷の中でぬくぬく生きられるという現実」を捨て、フィーは「強制収容所の中で苦しんで生きられるという理想」を選んだのです。収容所生活が理想? とは、また突飛な発想ですが、それは読み進めていくうちに私たちの今の生活が実は「強制収容所のようなものではないか」という隠された深意にたどりつくきっかけになるのです。
 単刀直入に言うと、フィーの強制収容所生活は、V・E・フランクルの世界的名著「夜と霧」(原題は「強制収容所における一心理学者の体験」。題から察せられる通り、著者自身の収容所生活を基にしている)を下敷きにしています。劇中で使用される登場人物のセリフやいくつかのやりとりに、「夜と霧」との類似点を多く見つけられます。(ちなみにはっきりと言及されていませんが、劇中、収容所にある煙突から上がる煙は、死体の焼却によるものです。また、収容所では「処刑」「死刑」といった言葉は使われず、「浄化」「選抜」というように隠語がありました。「鉄条網」は自殺の代名詞でした。)
 では、収容所の世界を見てみましょう。ひとことで言うならば「生存競争」です。一見すると、クリロがはまった罠のように力の真意を誤解してしまいそうな環境です。殊更に強制収容所を地獄絵図・悲劇の巣窟なんて描かずに、内部から見た描写に成功しているのも、「夜と霧」を坂口尚が正確に読み取っていたからです。「夜と霧」の意義は、収容所の悲惨さを報告するものではなく、囚人たちの心理というものを具体的に分析しているのです。
 フィーが見た囚人たちの姿は、すべてに慣れてしまったものでした。わずかな音でさえ気になって眠れなかった人も深く眠れるようになり、まったく歯を磨かないにもかかわらず歯肉は以前より丈夫になったような感じで、寒さの中ぼろきれ一枚で一日過ごしたところで「誰一人」として風邪をひかず、ここでは日常言われる医者の健康への提言がまるで通じない異様な世界であり、科学も宗教も通じないのです。慣れてしまうのは肉体的なことだけではなく、感情さえ無に支配されます。他人の死はどうでもよくなります、何故なら「生存競争」が原則だからです、死は「淘汰」を意味しているだけであり、単になくなったという感覚さえ消えてしまう・存在さえなかったことになってしまう・過去に幾多滅びた生物はそれでも化石として存在を示しますが、収容所で死ぬと、まず焼却され、骨は砕かれ砂となってしまうのです。存在を示すには生きつづけるしかなく、人の持つ自尊心が自然と各々にじみ出て自分は死なないと信じてしまうようになるのです。収容所体験のない私たちが想像するに、絶望して「自殺」ばかり考えてしまうのではないか、生きる気力なんてそがれてしまうのではないか、と思ってしまうのですが、人間とはなかなかわかりにくいものです、人の死が日常化した果てに慣れてしまった理由は、鈍感になったということです。当然その鈍感さは自分の死にも及んで「死なない」と本気で信じ込んでしまうわけです。
 フィーは、仲間のヴィーナが選抜されたことに遅く気付いて自分の無感動を嘆きますが、これはまだ初期の段階です。無感動が進行すると「いったい何を言ってるの?!」とフィーに返事をします。「・・・われわれは嫌悪、戦慄、同情、昂奮、これらすべてを感じることができないのである。・・・」と「夜と霧」で表現される段階が、「石の花」もそこから引用している「無感覚・無関心は心の鎧」という状態です。囚人の唯一の課題である自身の生存に集中した結果でした。そして生きるに必要な価値だけに多くの意識が集められるのは当然です、すなわち食欲です(「夜と霧」の著者は男性ですが、収容所内においては、他の集団生活では現れてもおかしくないだろう男色の傾向がまったくないことを記しています)。囚人の話題として描かれる「配給のパンをいかにして食べるか」。わずかな量とはいえ貴重な栄養源であり、けして無駄にはできないのは当然ですから、それをどうやって満足多く食べるのかが、しばしば議論されたといいます。一度に食べ尽くすか、分けて(分けて食べるほどの量もなかったのですが)食べるか。
 こうした状態に長くいると人間は過去の思い出にふけってしまうことが多くなります。「石の花」では、過去の美麗な生活を自慢する人が登場しますが、そういう華やかさなんてまるでなくとも平凡な生活がとても懐かしさを超えて羨ましくなっていく、悪夢にうなされても現実よりはましなのさと、うなされたままで起こさない、囚人の想像力は私たちの思う以上に奔放に発達して、想像したものが眼前に現れたと錯覚・果ては確信してしまうほどに過度の空想状態に長く浸っていられるのです。感情が恐ろしく摩滅した替わりのように想像力が研ぎ澄まされていく。そして、自分の空想世界に意識が吸い寄せられてしまう。いわば心の武器といえるかもしれません。そうした心を抱いた人々の中には、些細な景色を見ただけでいたく感動して涙を流す、たとえば夕日を見て、雲を見て。無感動になった人々が何故自然の平凡な一場面に感激してしまうのか、それは人間の生きるための自己防衛の一端でしょう。「夜と霧」で次のような記述があります、看視兵に殴られるのは慣れてしまって何も感じないものの、その時同時に言われる罵詈「おまえはブタだ」といった侮辱に対しては不思議なくらい怒りが渦巻いた、と。おそらく防衛本能のようなものかもしれません、肉体的な痛さよりも精神的な痛さに苦しむ、誰もが持っている矜持でしょうか。自分に関することには異常なほど敏感になっていくといえます。それは外見上の美意識ではなく、心の美意識とたとえられる気高さ。なにもかも剥ぎ取られて「平等」な世界に放り込まれた人々の真の価値が問われている。囚人たちの間には、お互いの偏見も先入観も固定観念もない対等な立場が、こんな極限状態になってようやく現出された「平等」という理想郷ができあがってしまったのです。生まれも肩書きも学歴も一切関係ないし影響されない。かつての栄華をいかに誇ろうともまったく意味なく、かつて落ちぶれて日々に窮していたことを嘆いたところで意味なく、「死」と隣り合わせの世界で近代の人間が初めて実現し得た「平等な世界」。
 と言いながら、それは見せかけです。看視兵がいました、カポーがいました。囚人たちを死に統制する人々が周囲にいたのです。彼らはほとんど惨忍です。「石の花」は「夜と霧」の影響が色濃く、彼らの描き方はサディストとして扱っています(「夜と霧」の著者も、彼らの多くはサディストだったろうと書いています)。そして驚くべきことに、彼ら看視兵たちも自分の行動・囚人を殴ったり殺したり侮蔑したりすることに対して慣れきってしまい、無感動になっていったということです。戦争で人を撃ち殺して平然としていられるように、彼らにはクリロが懊悩したような「人を殺すこと」についての省察が欠けていました。彼らが意識したことは、いかにして囚人たちを苦しめるかということなのです。何故彼らは残酷になれたのか、一片の情もないのか? これは彼らがサディストだったから、という理由で説明できません。劇中では、囚人に思いやりを示す看視兵・ハインリヒが登場します。彼はナチズムに抗って同僚と諍うものの理解されず、囚人に薬を届けようとしたところを同僚に射殺されます。看視兵の中にも彼のような人はいました。無感動にならずに自分の感情を固持できた強さはなんでしょうか。もっとも、ハインリヒの行動は同情が所以かもしれませんし、そうすることが自尊心を満足させたと見ることができます。しかし、囚人たち看視兵たち全てに共通して見られた無感動・無関心な心の状態はどうしてでしょう、何故そのような状態になったのでしょうか。慣れればどうってことはない、と軽々言えてしまう無神経さに腹が立ってしまいます。
 ハインリヒのような人は、現実に屈服しなかったといえます。現実に服従せず意志を貫いた、これには大きな勇気が必要です。彼の同僚のように「ナチス」という庇護に甘えることなく、決然と反抗した行為は、いわば権威に服従しなかった戦士といえるでしょう。戦士です、ほんとうの戦士です、単に人を殺す兵士ではなく、未来を常に新しいまなざしで見詰めることができた人なのです。そしてフィーも未来を見ます。
 収容所で生き抜くために決して蝕まれてはならない病気は赤痢やチフスなどではなく「絶望」です。囚人の想像力が常人のそれを凌駕しえた要因がそこにあります。自分に近しい人々・親兄弟親戚友人恋人配偶者などの姿を思い描いて、彼ら彼女らに会うために死ねはしないと強く思うのです。さらには空想上で彼ら彼女らと会話するようになり、どうにかして一日を終えることができたのです。
 囚人たちは看視兵によく時間を聞いたといいます。異常に感じるほどの長い一日が早く過ぎ去ってしまわないか、だから時間が気になって仕方ない、この一日が終われば、あの人と再会する日が一日近づくのです。だが、囚人にのしかかる圧力・いつこの生活から脱せられるのかが囚人の時間感覚を狂わせてしまいます。つまり未来が見えない、という状態が「一日がとてつもなく長く、一週間はすばやく過ぎ去っていく」という言葉に象徴されています。未来が見えないとは、あの人にいつか会える日を願っていながら、一方でそんな日は来やしない・絶望という病気になかば蝕まれていることです。先が見えない状態が人間に与える不安は常人に計り知れません。囚人たちには常に今日という日しかなく、明日もなければ昨日もない、今日は昨日の繰り返しであり、明日も今日の繰り返しにすぎず、永遠に続くような一日を苦しみながら、まったく積み重ならない日々を生きている・・・・それを生きるというにはあまりに忍びなく時間が止まったような世界にある唯一の時計が「死」だったのでしょう。囚人の中には、絶望を恐れるあまり自分から未来を設定し、その日まで生きると「目的」を示した者もいました。しかし、その日は多くが自身の死でした。「目的」が果たせなかったときの代償が死とあっては、囚人たちに残された手段は過去の回想や空想しかなかったのです。そして完全に蝕まれた囚人は鉄条網に向かって走ります。「夜と霧」の第8章・絶望との戦い・のなかの著者フランクルの文章を引用しましょう、―人間は苦悩に対して、彼がこの苦悩に満ちた運命と共にこの世界でただ一人一回だけ立っているという意識にまで達せねばならないのである。何人も彼の代わりに苦悩を苦しみ抜くことはできないのである。まさにその運命に当たった彼自身がこの苦悩を担うということの中に独自な業績に対するただ一度の可能性が存在するのである。―
 ひとりのためのひとりによる可能性。未来とは可能性があって初めて希望を帯びるものです。フィーが感じた真っ白な世界を「ほんとうの未来」だというラーナの死に際の言葉は、苦悩を自分の中の課題として・つまり誰の責任にもせずに、そしてマイスナーの屋敷に戻れるという安穏の道を自ら閉ざした強靭であり純粋な精神力を持っていたからこそ達し得たフィーのまなざしに対する憧憬であり称賛なのです。
 ひとつ残念なのは、フィーの収容所体験が中途半端に描かれていることです。つまり、収容所から解放されたときのフィーの思いが描かれていません。これはクリロにも言えることですが、戦争が終わったときの開放感は、いわば生まれたての赤ん坊のような感覚だったのではないかと思えるのです。終盤の駆け足の展開は、連載の制約上やむなしとしても、なんか悔しいのであります。
 (蛇足。人間の二大本能は「食欲」「性欲」といわれるが、「石の花」と「夜と霧」を読んでそれは違うな、と思うようになった。フランクルが言及しているように囚人に同性愛者は現れなかった。彼らが求めたのは、ひたすらに「生きる」ことだった。「食欲」という言葉では語り尽くせない力が囚人たちを死に落下させなかったような気がする。つまり、人間の本能は、いや、人間に限らずあらゆる生命体の本能は「生きる」ということなのかもしれない。欲なんて人生のおまけみたいなものだ。この世に犇く数多の価値観も結局はことごとくおまけにすぎないのだろう、生きるために彼らは生きた、まるで赤ん坊の泣き声のような生への穢れなき執着心を発露できた者だけが収容所を生き残れたのかもしれない。)


第三章 イヴァン
 「きみは生まれつきのヒューマニストだな。ほんとうのコスモポリタン(国際人)だよ」とマイスナーに評されるクリロの兄・イヴァン(事実は従兄弟同士ですが、兄としても差し支えないので)。彼も戦争という現実に囚われて苦悩する一人です。そして、クリロやフィーがわけもわからず現実に翻弄されたのに対し、彼は冒頭から平和を目指して行動していることが読み取れます。確たる目的を持っているだけにイヴァンの行動原理は正直です、つまり平和のために戦っています。それはどういう意味か、というのは一考を要します。マイスナーの言葉を見ればわかるように、ナチスの戦争も「世界の恒久平和のため」です、もちろんひとつの民族による世界国家ですが、平和のためという原理はイヴァンと変わりありませんし、パルチザンとも同じです。なぜ平和のために戦ってしまうのか? という素朴な疑問が生じるのは自然です。一般に平和の定義は戦争がない状態と認識されがちですし、戦争を起こしてしまう以上、それは平和ではありえないと考えてしまいます。ここに大きな葛藤があるわけですが、ドイツの哲学者カントは「永遠平和のために」という著書の中で、題名通り平和のための理論的な考察を試みています。二百年も前に書かれたものでありながら、いまだに示唆を得られる有意義な本です。平和論は、現実主義者と呼ばれるまたは自称する人からは単なる理想論・机上の空論と揶揄されやすく、力強く訴えても、「では、隣国に攻撃を受けてしまったらどうするのか」という至極単純な問いになかなか答えられないものです。カントは、そうした反論を想定して論理的に平和論を構築しようとしました。では、カントが言うところの平和とはなにかを引用してみます。
 「一緒に生活する人間の平和状態は、なんら自然状態ではない。自然状態は、むしろ戦争状態である。(中略)それゆえ、平和状態は、創設されなければならない。」
 平和のためには人間がそれに向けて努力しなければならないことを示唆しています。だからイヴァンは努力すべく「スパイ」になることを選びました。しかし、戦争状態は人々の心を荒廃させやすいことを忘れてはならない、情熱的に平和を目指した彼も、気がつけばモルトヴィッチの金塊をめぐる情報戦に力を入れ始めてしまうのです。
 金塊の争奪には、イヴァンのほかにも多くの人々が絡みます。まず、ミントです。ミントは自分の意志を明確に持たず戦争に運命を翻弄された人物です。クリロやフィーが正面から苦悩したのに対し,彼はのらりくらりとした雰囲気を周囲に与えながら現実に流されているようで実はうまく世渡りしている、苦悩を表に出さない、いい兄ちゃんです。彼の行動原理はいたって単純で、平和なんて考えず、友人たちのために走っています。多くの人々が戦った理由なんて、主義主張よりもそっちの方だと思います。クリロは敵を撃つ時に、殺された級友やフィーを思い出して引き金を引きます、指に込められた力の源泉は案外そんなもので、平和を思って撃つわけではないのです。他に共産党員も登場します。ネナドは共産主義国家の建設を目指す「高い理想」を掲げて、軍資金になるだろう金塊をドイツ軍に渡してはならないと奔走し、共産党の幹部らしいイボヲ(少尉)は共産主義でない人間を軽蔑するような冷酷な雰囲気があります。一方のドイツ軍情報局は、エッカルトを中心に金塊のありかを目指します。イヴァンを雇ったエッカルトは、彼との連絡役にエルケを指名し、マイスナーも含めて共産党に対抗します。
 彼の活動は仲間の死をもって破綻に向かい、苛立ち始めます。袋小路に入って進退窮まったとき、彼は恋人のミルカを失ったことにようやく気付きました。闇取引で捕まったという情報を得た彼を留置所で待っていたのは、友人のペルです。ペルは自らを情けない人間だと認識していながら、かつて仲間と政治や国の将来について語らったことだけを頼りに他の容疑で捕まった「低能な奴ら」と同一視されるのを拒みますが、ペルのそうした過去を知らない人にとって、ペルはそこいらのチンケな犯罪者と変わりなく、それだけは認めたくないという自尊心のために怒りをイヴァンにぶつけます。ペルには病身の母親を見捨てられずに小さな居酒屋でしみじみと暮らしつつも、内心はイヴァンやブランコのように何かのために戦いたかった、でもそこへ踏み出す勇気がなかった。「負け犬か? おれは」というペルの叫びは、鬱屈した戦争状態に無力であることを痛感している一般市民の叫びでもあります。ペルの優越感を満たすのはミルカを寝取ったということだけ、イヴァンの心を虚しさが渦巻いたことでしょう。
 イヴァンはミントを介してイボヲ・ネナドと面会して金塊とモルトヴィッチの情報を伝えて協力者を得ますが、同時に足枷にもなります。彼の理想を求める行動は激し始めて、いよいよ危険を顧みずに動いてしまいました。フィーの叔父・モーリエと再会して死地に足を踏み入れるのです。マイスナーの言うように、下劣な人間が幾多いることをイヴァンはうすうす感じていました、何故モーリエのような人間がいるのか? 平和を願う一方に必ずいる戦争を求める人々。自身の金儲けにひた走るモーリエを見て疑問が湧きます、彼ははじめから戦争を望んでいたのか? イヴァンはかつてのやさしいフィーの叔父・モーリエを知っているだけに、戦争が彼を下劣にしてしまったのだのではないか。戦争が戦争を欲する、はじめから戦争なんて願ってはいない、しかし現実に戦争が起こってしまったのだから、「仕方ない」といって生きる人々が結果的に戦争を肯定している。イヴァンの感情は錯綜します。「幸せになりたかった・・・」というエルケの言葉にも不可解さを感じます、「私たちの幸せを邪魔するものは排除しなければ」と強く言い放つ彼女の思いもまた戦争が続けられる要因になっているのでしょう。
 イヴァンは平和への提言として、「勇気が必要だ」といいます。靴磨きのピッチとの会話はわかりやすいたとえを用いて「平和への努力」を諭しています。「崖の一本道にたくさんの花が咲いていた。ある日、荷車を引く野菜売りの少年がそこに通りかかった。少年は迷った。通れば踏み潰してしまうし、通らなければ野菜を売ることが出来ない。どうしよう?」
 多くの人が花を踏み潰して自分の幸福を求めている、花を踏んだことさえ気がつかないかもしれない。ただ純粋に幸せを求めているだけなのに・・・、と思ってはならない。何故なら考える努力をしないからだ。花を植え替えよう、それだけでいい、大変だけど疲れるけど勇気のいることだけど、そういう発想が大切なんだ。踏み潰された花を見て人はどう思うだろうか? なんてひどいことをするんだ、と少年を罵倒するのか。生活のために仕方ないと納得するのか。花なんてどうでもいいのだろうか。そもそも、花があったことに気付かずに生きているのだろうか・・・。さて、花は何をたとえているのでしょうか・・・
 やがて訪れる破綻に触れたとき、イヴァンはマイスナーとの面会を希望します。最後の会話です。
 マイスナー「私は世界の調和を目指しているのだ」
 イヴァン「力ずくの調和に納得するものなんていない」
 「君は人間を信じすぎている。奴らが何故外見を装うかわかるか? 怖いからだ、本当の自分の姿、醜い心を暴かれるのを恐れている。だから飾るのだ、虚飾とも気付かずに」
 「怖いんじゃない、恥かしいんだ。だってそうだろ? 初対面の人にいきなり自分が何者か全て話せるか?」
 「ものはいいようだな、なるほど。確かに恥かしいのだろうが、そもそも低能な人間に恥かしくない心などあるわけがないのだよ。奴らがすることといったら、妬み憎しみに塗れた脳みその腐臭を撒き散らすだけだ。そんな奴らには強制収容所が相応しい」
 「人を殺す君が言える立場か? そもそも民族で人間の優劣を判じること自体が外見で人を区別していることにならないか」
 「言いたいことはわかる。私も民族による差別なんてどうでもいい。アーリア人のなかにもユダヤ人のような寄生虫はいる」
 「だからといって、何故戦争なんだ。君自身が、君の言う「低能な人間」を教え諭せばいいじゃないか。何故容赦なく殺す?」
 「人間の時間は有限なのだ。そんな奴らのために、人生の一部をささげられるか! 低能のブタどもは消費すればよい、労働力としてな」
 「よしんば君の言う通りだとしても、神でもない人間に、不完全な人間が正義という身勝手な力をつかって何が得られるというんだ、ドイツ軍が通ったあとには、死体と荒野しかないじゃないか」
 「人間の世界は人間が統治するしかないのだ、まして神などという責任逃れは通じない。君もわかっているはずだ。ペルはどうした? 奴は母親をだしにつかって戦わずに君の恋人を力で奪ったじゃないか。まだあるぞ、ミントはどうなった? 人間を信用しない名もない奴に撃たれたではないか、それも簡単に「裏切り者」という烙印を押されてだ。こんな奴らを放っておいていいとは思えない。君は怖いくらい人間を信用しているよ、しかし、その君が実は私よりも人間を信じていないといったら、君はどうするかね」
 「・・・」
 「君の心の底にある「不信」にもっと正直になれ。民衆は自由など望んではいない、奴らは自由の重さに耐えられない弱弱しい存在なのだ。だから支配者が必要なのだよ、奴らを真の世界に導く我々が必要なのだよ」
 「それは征服欲にとりつかれた為政者の虚言だ、君こそ言葉で体裁を見栄えよくしているだけの怖がり屋じゃないか。妹に向けていた清いまなざしはどこにいったのだ」
 「そのまなざしを、野蛮な原始人どもが妹を殺して奪ったのだ。私は許さない、平気で人間の心を踏みにじる野蛮人どもをけして許しはしない。いいか、これは復讐ではない、人間が人間としての誇りを取り戻すための聖戦なのだ」
 「たったひとつの民族による国家が理想とは思えない。世界は君が思っているような単純な構図で説明できないぞ。支配者と支配されるもの、そんなふたつに分けられるほど、世界は単純ではない」
 「そう、単純ではない。だが、愚劣な民衆に世界の複雑さは理解できないのだ。多くの言葉・多くの宗教・多くの慣習、それらを受け入れる度量を持っている人間は僅かしかいない。だからこそ、統一しなければならない」
 「それこそ妄言だ。人間は未知の可能性に溢れている、もっともっと向上すれば、世界の複雑さを理解する人々が増えるはずだ、いや、絶対増える、そして」
 「それでは遅過ぎるのだ。有限だといったではないか、人間の時間は。第一なんの保証もない。まあ、君らしい理想論ではあるよ、だが、理想は所詮理想だ。そもそも、君は何をした? 我々のようになにか行動したのか? ただぼんやりしていて、そんな理想がかなえられると思っているのか」
 「しかし、それでは・・・それでは何も生まれはしない。破壊と殺戮の上に何が生まれるんだ。憎悪と復讐を・・・」
 「憎悪と復讐さえ消し去っていくのが我々の戦いなのだ。何も残しはしない、収容所の囚人をしっかりと見るがいい。奴らにそんな感情はない、野蛮人そのものではないか」
 「多くの犠牲がなければ、君の言う恒久平和は訪れないと本気でいうのか・・・」
 「君のヒューマニストぶりは承知している。しかし、君の中にある人間への不信感も私は知っているぞ」
 「・・・わかっている、わかっているよ。だから努力しているんだ、人間を信じようと、人々の未来・可能性を信じようと」
 「信じた結果がスパイか? 笑わせるではないか。君はドイツの情報局を騙したんだぞ、それを自覚しているのか。君を信じたエルケの心を、容赦なく踏みにじったのだぞ」
 「そうさ、だから死ぬんだ。責任はとるよ。可能性を、未来を信じきれなかった、これが最大の罪だってことがわかったよ。マイスナー、君もいずれ・・・」
 「この戦いは我々が勝つ。正義が勝たずしてこの世の秩序が成り立つものか」
 「君だって気付いているはずだ、この戦争の行方をね。イタリアは降伏した。ヨーロッパの中でドイツは孤立したんだ、だから君はW・ギュームに共鳴したんだろう?」
 「・・・連合軍が勝ったところで、この世の支配者が変わることだということも私は知っている・・・」
 「しかし、金があれば支配者になれることも知っているわけだ。ナチスの次は資本主義とでも言うつもりかい?」
 「愚かな民衆は常に闇に輝く光を求めているものだ。形はどうあれ、私の思想はギュームによって実現されるだろう、それを見届ける自信はさすがの私にもないがね、・・・本音さ」
 「いや、そうなってたまるかものか。ギュームの野望は必ず砕かれる」
 「根拠のないことを言うなんて君らしくないな。君が出来たことといえば、ピッチに希望を託したことくらいだろう。彼女ひとりで何が出来る?」
 「たったひとりでも、世界中でたった一人になっても人間を信じつづけてくれることを・・・」
 「人間を信じるしかないとは、儚いな。まあいい、平和主義者の君らしい言葉だよ。当面、私もドイツ軍を信じて戦うことにしよう、当面、な。さて、君の勇気に応えて、君の希望をもう一人に託させよう、弟のクリロに」
 「最後に言わせてくれ、君は花を植え替えようとする少年の純真さを暴力で封じたんだ。花の周りに柵を作って道を通らせなくしてしまったんだ、そのことを忘れないでくれ」
 「・・・」
 イヴァンは全ての責任を一身に背負います。花を踏みにじった人々を責めずに自分を責めました。それが彼に出来た唯一の平和への努力でした。


第四章 先生
 1943年1月、クリロはパルチザン本隊とともにドイツ軍・チェトニクと戦っていました。隊内の子供たちをまとめた子供部隊の隊長として気を張る彼も16歳になります。戦争の正体もわからないままここまで来たものの、彼の葛藤は消えていませんでした。農家にあった僅かなミルクを一口飲んだ廉で逮捕された男は、裁判により死刑を宣告されます。クリロは激昂します、「たった一杯のミルクで・・・」。この時すでに共産党の法による拘束が行われていたわけです。祖国のため、全ては祖国のためだと言われても納得できないクリロは、ある夜、イザークと平等についてひとつの妙案を語ります。
 共産主義は富を分け合おうという、でも分け方について話し合うだけで争いが起こるかもしれない、そもそも「みんなのもの」とい発想に問題があるのではないか。みんなのものと思えば、当然自分の分もあると思ってしまう、どうせなら誰のものでもないって考えたらどうだろう?
 クリロの考えはフンベルバルディンク先生の影響が色濃いです。この時、クリロはまだ先生の言葉の意味を把握していませんが、「誰のものでもない、地球に間借りしていると思う」、この思うという力に気付き始めます。それは仲間の死を乗り越えて得られる代償の高いものでした。空襲で撃たれたパノビッチ爺さんをクリロは泣き叫ぶ子供たちを押さえて決然と放置します、爺さんは空や雲を見ながら頬をかすめる風に「わしは何故生きていたのだろうか」と問い掛けたでしょうか。
 多くの犠牲者を出しながら転進を続けるパルチザンの戦いの中で幾度も挫けそうになるクリロの「思い」。ドイツ軍が憎くてしょうがない、同じ人間とは思えない、ザクルを殺したときにザクルの家族を思ったクリロも、ドイツ軍を敵兵とてしか認識できないくらいに精神が病んでいきます。彼はイザークや子供たちに支えられて、どうにか「断ち切らず」に「思い」を維持します。
 戦争が人々の精神を腐敗させたのでしょうか、戦争が人々をかくも残酷にしているのでしょうか。ブランコと当初から行動しているヴーグは老医師との会話で「家にしろ、壊すのは簡単」と呟きます。人間の精神も実にもろいのです。それを必死に立て直しつづける力、それが「思い」かもしれません。クリロは、行軍で次々に倒れていく人々を目の当たりにしました。ある人は一瞥するだけで知らぬ顔をし、ある人は見向きもしません。まるで強制収容所の囚人のように彼らは無感情になったのでしょうか・・・倒れた子供をクリロが背負い、よろめくクリロを仲間が支え、崩れる寸前の精神を抱きつづけるのでした。しかし、とっくに腐敗してしまった人々は、捕虜のドイツ兵を惨殺します。捕虜を殺したところで平和は来ない、それがわからないとは言わせない。ただ自分の憎しみを晴らすためだけに向けられる拳銃のなんという冷たさ、まるで囚人を笑いながら殺す看視兵のようです。
 敵も味方もたくさん死にました。ブランコは言います、「戦争は前の大戦でもうこりごりだと思った・・・」
 第一次大戦は、ヨーロッパが初めて体験する殺戮戦でした。当初、戦争は短期で決着するとほとんどの人々が楽観していました。その人々は、大きな精神的打撃をこうむります。毒ガス・戦車といった兵器が死者を激増させ、人々は破滅に向かっている自分たちに恐怖しました。一体、何が戦争を長期化させ、これほどの死者を出しながら続けられたのか、人は戦争の暴力をまざまざと体験したのです。何故、国家は殺し合ったのか?
 ドイツは第一次大戦が終わってもなお混乱していました。そこから二つの相反する思想を持った人物が登場します、ひとりはヒトラーであり、もうひとりは、ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)です。
 ベンヤミンは間もなく「暴力批判論」(1921年。以下、「批判論」と略します)という論文を発表します。法と暴力、国家と暴力、それぞれの関係を解き明かした過激な国家否定論です。「石の花」の終盤の展開を「暴力批判論」と合わせて考えていきます。
 クリロやブランコを含むバルゴ部隊は本隊とはぐれて何日もすぎていました。飢えと時折遭遇するドイツ兵との戦闘で疲弊していくだけの彼らは、まるで強制収容所の囚人のようです。その中でひとり豪放な隊長のバルゴに叱咤されながら、本隊を捜すべく山中をさまよいます。わずか十人前後の小部隊の孤絶した行軍の中でさえ、軍隊の規律が存在していました。一方で、彼らは生き残るために互いに敵意を抱きつつも、共通の敵・ドイツ軍によってかろうじて部隊としての体裁を整えていました。規律と個人の力が、彼らを支配していたのです。
 法による束縛とはなんでしょうか。「批判論」は法律を法措定的暴力といっています。軍隊に限らず、私たちの社会にもある法律の本当の姿を考えてみれば輪郭が見えてきます。まず、私たちを取り巻いている法律は何故あるのでしょうか。犯罪者を取り締まる・あるいは未然に防ぐため? 違います。私たちの生活は一般に法律の柱に支えられていると錯覚してしまいがちですが、事実はその逆で、法律の囲いが私たちを抑えつけています。この抑圧は日頃意識されることはありませんけれども、たとえば、中学生が煙草を吸おうと思ったとき、中学生の意識には何があるでしょうか? それは法律ですね、法によって未成年の喫煙が禁止されている、健康を気遣うことはないでしょう。では喫煙の現場を大人が見たときはどう反応するでしょうか、私たちはその行為を法がそうあるからという理由で中学生を叱ることでしょう、叱らずとも、大人の意識に法が浮かぶはずです。では、何故この法律があるのかをさらに考えると、健康に有害であることが挙げられますね。法はあくまで二次的なものにすぎないはずなのです、健康に悪い、というのが優先されるべきなのですが、法によって抑えつけられている私たちは無意識裡に法という名のもとに「なにか」を互いに押しつけあっているのです。東欧のかつての共産主義国家では、「密告」が横行していました。これも法による抑圧によって人々が歪んだ正義を自認した果てにあらわれた悲劇でした。法がいつのまにか正義を正当化する手段になってしまい、そのために正義は「罪と罰」という暴力にまでなってしまったのです。軍隊の規律は、それを象徴しています。「規律を乱す奴は銃殺刑だ」とバルゴが言いますが、これこそ法による暴力なのです。
 それでも法を犯す者はいます。このときに行使される力を「批判論」は法維持的暴力といいます。男は、農家のミルクを一口飲んで処刑されました。ハインリヒは囚人に薬を届けようとして射殺されました。日本でも、その暴力が1960年代から70年代に顕現されましたね、学生運動や成田闘争(いずれも最初から実力闘争を謳っていたわけではありませんが、結果として暴力による解決を求めたわけでして、誤解なきようご容赦ください)に対して国家がとった手段は機動隊つまり警察という暴力でした。何故か? 民衆が暴力による改革を求めたからでしょうか。ここを考え誤ると「石の花」を理解できません。というのも、国家が恐れたのは実は改革ではなく「暴力」そのものなのです。国家が民衆の暴力を恐れるが故に組織したのが警察です。「警察は、明瞭な法的局面が存在しない無数のケースに「安全のため」に介入して、生活の隅々までを法令によって規制し、なんらかの法的目的との関係をつけながら、血なまぐさい厄介者よろしく市民につきまとったり、あるいは、もっぱら市民を監視したりする。」
 国家は人間が作ったものでありながら、そこに住まう人間自身が国家を特別なものとして、たとえば民族の象徴であったり宗教の象徴であったり、正義の旗幟にしてしまったのです。人間の生活のためにあった国家が、いつのまにやら国家のために人間が生活するようになってしまいました。その実国家を動かしているのはやはり人間でした。だからこそ人間らしい臆病な心・暴力に怯える心を残していました、そのために法・規律による統制が必須だったのです。さらに国家は、民衆の暴力だけでなく、隣の国家の振るう暴力・つまり戦争にも怯える羽目になったのです。
 徴兵制は戦争暴力の一端を担っています。徴兵を拒否すれば法により処罰され、徴兵されて戦って死ねば英霊として称えられるという珍妙な現象が現れます。また、民衆にナショナリズムの精神をしつこく植え付けて「祖国のために」という妄言を語らせることに国家は成功しました。バルゴは演説するように言います、「誰のために戦うか。自由と平等を愛する人民のためだ。平和を愛する人民のためだ」と。国家は常備軍を整えることによって他国の暴力に備えはじめます。人々は軍隊の維持費を得るために経済活動に励み、子供たちは経済と軍隊を理解するために教育される、国全体がさながら戦争という暴力のためにあるような「戦争機械」の誕生でした。そのとき「人間」という単位は消滅し、「国民」が生まれたのです。
 「戦争機械」の法は、他国に適用されることもありました。正義という名で呼ばれるものです。一個人の力をはるかに凌ぐ強大な力・国家暴力がいよいよ行使されるのです、戦争でした。しかし、戦争をするのが国家でないことは自明です。人間です、クリロやイザークのような考え続ける少年たちもその中にいるのです。人を殺すことに慣れてしまった大人ではなく、まだ「国家」の図々しいほどの下品な力を意識できる純粋な心を持った少年少女が確かにいました。必死に抵抗する精神がありました。何故、人を殺すのか? 味方が殺されることは悔しいけれど、心に引っかかる釈然としないやりきれなさが、クリロとイザークを苦しめます。そんな彼らを「甘い奴らだ」と、大人はよく諭します。人生の先輩よろしく「現実はそんな甘いもんじゃない」と小賢しく語るのです。劇中で利己的な言動を存分に描かれ、生き抜くためにあらゆる手段を尽くす髭面のカルは、少年たちの言葉を屁理屈だと受け流して「現実は否も応もない! 立ち向かわなければ腰抜けだ」と怒鳴ります。そんな彼が地雷を踏んでしまうわけですから現実も何もあったもんじゃありません、あっという間に吹っ飛んで死んでしまうわけですから。それでも彼は自分の死に対しても「現実だから」と甘受できたのでしょうか。カルは言います、「俺は生きることに真剣なだけだよ」と。果たしてそうでしょうか。バルゴに殴られても蹴られても自分たちを「人殺しだ」と言いつづけるクリロにブランコは動揺します。どんな理屈をつけようと、自分たちが人を殺していることに変わりはない、自分たちが人々の生活を破壊していることに変わりはない。
 暴力で人を屈服させる力、法律とか脅迫とか、それら諸々の力を「批判論」は「神話的暴力」と呼んでいます、「神話的暴力はたんなる生命に対する、暴力それ自体のための、血の匂いのする暴力であり、犠牲を要求する」。(具体的な説明は、「批判論」自体が極めて難解なため浅学の私には到底わかりやすく解き明かす能力がありません)。ブランコは言います、「力で抑えれば、憎しみの種をまくだけだ。その場しのぎのむなしいものだ」と。では、暴力に立ち向かう術はないのでしょうか? 蹂躙されるままに私たちは逃げ惑うか戦うか殺されるか路頭に迷うか、それしかないのでしょうか。「神話的暴力」に対抗できる力を「神的暴力」とベンヤミンは宣言します、「神的暴力はすべての生命に対する、生活者のための、純粋な暴力であり、犠牲を受け入れる」。純粋な暴力、それは法の代名詞「正義」ではありません、核兵器の脅威に核兵器で応じるものでもありません、「もし殴られた奴が納得することがあるとしたら、それはゲンコツにじゃねぇ。絶対、ゲンコツにじゃねぇ。ゲンコツを見舞った奴の何かがその力になるんだ」とブランコは訴えます。純粋な暴力の正体は、ブランコのその言葉に隠されているのではないか、そのヒントとして彼は「信じることだ」といいます。
 「石の花」では、ありがちな「命の尊さ」という言葉が登場しません。ブランコもそんなことを語りません、クリロも考えません、命が尊いから人を殺すな、ということを言わないのです。これこそが「石の花」を単なる戦争物と一線を画す重点になり得ます。というのも「命の尊さ」という概念・疑う余地のない当然のことに思える、この世間一般に浸透している思想さえ、「正義」という法律または戒律(イザークの「人を殺してはならない」という言もユダヤの教え・戒律ですね)にすぎないのです。だからこそ、「信じろ」と強く訴えます。「殺すな」ではありません、「信じろ」なのです。そして、とても脆くて儚くちょっとした刺激でたちまち崩れてしまうような「信じる」が、「ほんとうの未来」に近づく方法なのです。「互いに依拠しあっている法と暴力を、つまり究極的には国家暴力を廃止するときにこそ、新しい歴史的時代が創出されるのだ」。
 しかし、現在私たちの社会はさまざまな常識や慣習によって拘束されています。マイスナーの言説通りに、私たちは成長し知識を身につけていく代償として自由を捨てていきました。「現実」に服従する奴隷になっていったのです、「石の花」で言うところの「現実を合点(のみこ)んだ大人」になったのです。さながら見えない強制収容所の囚人になったとでも言えるでしょうか。私たちは今もなおナチスの幻影に囚われています、と同時に、私たちの心にはナチズムがひっそりと生き続けてもいるのです。見えないナチズムは、私たちを「戦争機械」の一部に組み込んでしまいました。地下鉄サリン事件を目撃し被害に遭った作家・辺見庸はこんなこと言っています。「私が目撃したのは、大多数の通勤者が、苦しんでいる被害者たちをまたぐようにして通勤を急いでいる姿でした。彼らはきわめて職務に忠実なのです。すなわち新聞記者は取材に走り、救急隊員はひたすら人を助けることに走り、通勤者は会社に走る。そして、サリンを撒いた犯人でさえも忠実に職務を果たしました」。まるで「現実」がひとつの権威と化してしまったようです。「奴隷」とは言い過ぎではないか? と思うかもしれません。しかし、私たちは実に簡単に自分を捨て去ることができるのです、あっけないほど権威に服従してしまいます。アメリカの心理学者・ミルグラムは1960年代に、人が権威に服従する様子を実験で論証しました、後に「アイヒマン実験」と呼ばれる実験によって、収容所の看視兵は誰にでもなることができ、人格に問題がなくても容易くサディスティックになってしまう人の心の脆さを暴きました。簡潔に言えば、人は責任を負う力がないために服従します。権威の命令を実行して非難されても、権威に責任を転嫁することができるからです。同時に権威を持つ側も、実行者に責任の片棒を担がせようという魂胆があり、責任の所在を分散して、「私だけの責任ではない」「みんながやっている」という言い訳をあらかじめ用意しているのです(権威の対象は人だとは限りません。それこそ社会とか学校とかこの世の中とか、人々が職務に忠実でいられるのは、職務を果たすことによって自分を美化する・権威に称賛されたいという欲望があり、職務に忠実でいるかぎり責任を自分で負う必要はなく、また、失敗しても、権威の所為にし、他の権威を求める・・・マイスナーの言った世界が実現したかのようです)。すなわち、自由を恐れる背景には、責任に怯える心があったのです。
 かつて私たちは真っ白な赤ん坊でした。なんの色もついていない、それこそ真っ白と言う色さえない透明な、区別のない・すべてが一緒の世界でした。この世界にあるすべてのものたちが一緒の、「私たち」の世界でした。境界も壁もありません、「私たち」としか言えない、「私たち」だけの「私たち」の世界でした。暴力も敵意も憎悪もなく、他人もいない世界でした。もちろん、法律も正義も戒律も規律も校則もありませんでした。でも、生まれて間もなく「私たち」の中のひとつに名前が付けられます。仮に「映子」と呼びましょう。「映子」は外に出ていろいろなものを見つけては、それらの名前を呼びます。「私たち」の一部は「フリージア」になり、「私たち」の一部は「ポプラ」になり、「私たち」の一部は「空」になりました。生まれたときには何の名前もなかった「私たち」が、ひとつひとつ言葉を覚えていくたびに、「私たち」と「映子」の間に城壁が築かれ、かつてひとつだった「私たち」が隔てられてしまうのです。それは、無限の広さを持っていた「私たち」の世界に「果て」つまり限界が生じた瞬間でした。そして自分の世界の誕生でもあります。子供のうちは、まだ駆け回ったり飛んだり跳ねたり寝転がったりと、まだまだ奔放な、自由がきく世界です、つまり発想・空想・想像の広がりが無限ではないけれど無限に近かった。言葉をひとつひとつ覚えていくこと・知識が増えることは、今ある世界で生きるには確かに重要で賢明な選択です。ですが、それによって人はまたひとつひとつ壁を厚く高くして、だんだんと自分の世界が小さくなっていくのです。家では親に、学校では先生に、職場では上司に。どんどん狭くなった結果、人は自由が利かなくなり息苦しくなり、もがけばもがくほど苦しくて仕方なく、やがて身を「私」=「権威」に委ねるようになってしまいます。
 部屋にいくつも置いたおもちゃの中で子供は世界の充実ぶりを実感しました。しかし散らかっていると認識した親によって、おもちゃがおもちゃ箱に片付けられたとき、自分の世界まで小さくなってしまったような気がします。それでも「映子」はおもちゃ箱の中にいくつもある、思いの込められたおもちゃをひとつひとつ手にとって、かつて無限に広かった「私たち」の世界をどうにか思い出せます。
 「私たち」の世界。「私」の寄り集まりが「私たち」ではありません。「私たち」は「私たち」としか形容できない無限の世界です。宇宙よりも広い世界です。「私」と「私たち」はいわば現実と理想の関係のような相容れがたいものといえます。
 長じて大人になり、気がつけば狭い世界で汲々としてる自分の浅ましさ。それでも、かつて「私たち」と一緒だった頃の世界に思いを巡らせることはできます。おもちゃ箱を取り出して懐かしさに浸るだけでなく、無節操なほどの想像力という翼を取り戻し、「私たち」の世界を空想して羽ばたくことはできるはずです。フィーが見た「ほんとうの未来」とクリロの思った「誰一人として経験したことのない真に平和な世界」は、それこそ理想です。しかし、理想を理想として片付けてしまってはいよいよ自分の世界を狭めてしまうだけです。現実という有限の世界で、どれだけ理想という無限の世界をたったひとりで羽ばたくことができるのかが、人間の真の可能性・才能であり、「創造力」なのです。「私」という意識を捨てる・自分の取り分を考えずに、「私たち」のものという意識を持つ・借りているだけと考える創造力を信じたいのだ。
 ところで、フンベルバルディンク先生は何処に行ったのでしょうか。ここまで考えればおのずとわかってくるでしょう。先生は、無限の世界を旅しています。先生の生死は定かでありませんが、先生の思いは、地球なんてちっぽけな世界を抜け出して宇宙を竜になって飛び回っているのです。


あとがき
 理想論を強く訴えるのは難しいものです。犯罪者は現実にいるし、明日犯罪に巻きこまれないとも限らない。警察の必要性も、それだからわかるし、法律も必要だってわかる。でも、そうやって自分で背負うべき責任をいろいろなところに分けて負わせた結果が、今の世の中だということを見逃してはなりません。警察や法律がなければ、世の中の平和を保てないなんて釈然としない、なんか変だ。今回の感想を書くに当たって「石の花」を随分と読み尽くしたけれども、実は明確な答えは劇中で示されていません。第四章で「おもちゃ箱」を例に挙げましたが、坂口尚は新潮社版のあとがき(資料提供のさとぴー氏に多謝)で「オモチャ箱」をたとえに戦争物のあとがきとは思えない心情を述べています、戦争がどうの平和がどうのこうのユーゴスラビアという国がどうのこうのと、あれこれ講釈していません。どうやら「オモチャ箱」の答えは「VERSION」にありそうです、実際、私はそれを参考に最後の文章を書きました、「映子」はそれの主人公の名前なのです。「VERSION」では、「私」とはなにか、といったようなことをSFを背景にしていながら、「石の花」同様に哲学の世界に行っちゃった作品で、今ではなかなか手に入れ難い不思議な作品です。
 本文の補足として具体的に説明します。普段、私たちが意識する世界は、「私」あるいは個人と言い換えていい、それらの集合体ですね。人間の歴史も、個人から家族、家族から集落や村、そして国家ができていったわけで、それは確かに発展と呼べるものでしょう、事実、文明は高度に発達しました。しかし、いろいろな国ができたけれども、そこから先には中々進んでいないのが現在です。このまとまりにくさを象徴するのが、「言葉」です。言葉があるから人間は相互に協力し合って来られた訳ですけど、同時に、言葉の違いも生じてしまったんです。これらが様々な争いの種(「戦争はけして悪いものでない」という意見もあります。平和のための戦争は許されるということですけど、私の本音を言えば、戦争とか平和とかはどうでもいいんです。なんだか、そういう問題ってとても瑣末に思える今日この頃です)をまいた、民族も宗教も教義も言葉があってできたものだし、法律だってそうだ。人間の世界はそれだけ多様になった、ということですが、それだけ一個一個が小さく狭くなってしまった、とも言えます。映画「アンダーグランド」のクストリッツァ監督は辺見庸との対談で「私たちの本や映画は、ハリウッド映画のようではあってはいけないのです。われわれの人生というものはハリウッド映画で描かれる世界よりずっとずっと重く、そして難しく複雑なのです」といっています。小さく狭くなってしまった、というのはまさにそのことなんです。「善か悪か」「優れているか劣っているか」「戦争か平和か」、はたまた「男か女か」「大人か子供か」、そんなものではありません。「私」たちをまとめていったら、なんでもかんでも二つに分けられてしまったんじゃ、「私」の立場がない、でも「私」にやりたい放題されてもたまらない。そこで必要なのが、コペルニクス的転換。世界を「私」たちから「私たち」と捉えるわけなんです。坂口尚が言うところの「思いでの風が駆け巡っている存在」です。もう赤ん坊の心には戻れません、どうしたって子供は親にしつけられる過程で権威に服従することを学んでしまうからです。だから、せめてあの頃の心を忘れずに生きようではないかと、それとなく言っているのです。「石の花」では、少々くどいくらいにクリロに言わせています(私の文章もくどい)けど。もちろん、忘れなければ言いというわけではなく、思い出してみては今の自分を客観的に眺めて「私」になっていないか疑ってみよう。そして「私たち」を忘れずに信じよう。
 ・・・そういう私も世界を「現実と理想」の二つに分けて考えているわけで、修行が足りません。すまぬ、一休。


参考文献
 坂口尚「石の花」全6巻 潮出版社 1984〜1986年
 坂口尚「VERSION」全3巻 潮出版社 1991〜1992年
 V・E・フランクル「夜と霧」 みすず書房 1961年
 ヴァルター・ベンヤミン「暴力批判論 他十篇 ベンヤミンの仕事1」 野村修編訳 岩波文庫 1994年
 カント「永遠平和のために」 宇都宮芳明訳 岩波文庫 1985年
 柴宜弘「ユーゴスラヴィア現代史」 岩波新書 1996年
 多木浩二「戦争論」 岩波新書 1999年
 辺見庸「不安の世紀から」 角川文庫 1998年
 千田善「ユーゴ紛争」 講談社現代新書 1993年
 今村仁司「ベンヤミンの<問い> 「目覚め」の歴史哲学」 講談社選書メチエ 1995年
 スタンレー・ミルグラム「服従の心理 アイヒマン実験」 岸田秀訳 河出書房新書 1980年
 快く協力してくださった、さとぴー氏のページはこちら→http://member.nifty.ne.jp/STP/
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