「ときには真珠のように」


 尊敬する人の最期の言葉は、いかに無意味で馬鹿げていようとも真摯に受け止めてしまう。ましてその言葉が自分にとって痛烈な印象を胸に彫り込むものなら、人生すら見直しかねない影響力を生涯にわたって与えつづけるだろう。彼の恩師・本間丈太郎の遺言にはどういう意味があるのだろうか? ある日、カルシウムに包まれた一本のメスが宅配される。「J・H」、すなわち本間丈太郎から届けられた言葉だと悟った彼は、竹林の中で隠棲する恩師を訪問するが、恩師は臨終の床だったのだ。恩師は教え子に罪を告白する、最後の最後まで気掛かりで自分自身を苦しめつづけた一本のメスの物語。恩師でさえミスをし、しかも苦悩する。彼の体内に残されたメスが、内臓を傷付け致命傷になりはしないか・・・完璧だと自負したはずの手術中にしでかしたとんでもない過誤。悩んだ果てに、七年後の再手術で摘出したメスは、カルシウムに包まれていた・・・
 小宇宙と形容されるほど生命は謎である。少年の彼の体に中で起きた、メスの切っ先から内臓を守ろうとする機能に、「きみのからだはふしぎな力でせい一ぱいきみの命をまもっていたのだよ」と恩師は言う。そして弱弱しく呟かれるあの言葉「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね・・・」、直後に力尽きた恩師を彼は近くの病院に運んで完璧な治療を試みるものの、甲斐なく死亡する。「天命でしょう」という他の医師の言に彼は脱力してうなだれる。
 本間丈太郎の言葉は作品全体を支配しているような影響力があり、もちろん彼自身にもそれは反映されている。周囲がもう諦めた中で彼がたった一人で手術を続ける場面に何度か遭遇する、これも彼が生命の生きる力を信じた結果である。「最後に残るもの」は、未熟児として誕生した六つ子が次々と衰弱死して行く中で、たった一人奇形児として生まれた赤ん坊だけが力強く生き続け、障害のある部分を彼の手術によって整形されるという物語である、ここでも彼の信じる力が読み取れる。
 同時に、彼は生命の神秘に何度も苦悩している。たとえば「針」である。地震で誤って注射中の針の一部が折られて血管内に侵入するという事故だ。血液に流される針をどうにか取り出そうと手術するも果たせずに気掛かりなまま数日を過ごした彼に事故の結果が連絡される、針は注射した腕から出てきたというのだ。
 生命は神秘に溢れている。ありきたりなこの言葉も、彼にとっては実に重く意味深いのである。何故なら、彼自身が生命の神秘を実体験しているからだ。爆発事故から回復した彼の少年時代を振り返るまでもなく、この挿話の次に発表された「ピノコ生きている」を読めば明らかである。ピノコという存在自体が、ひとつの神秘なのだ。
 (余談。本間丈太郎はどこに住んでいたのか? ということについて考えた。竹林から、私は単純に京都かその近辺だろうと思いこんでいたが、見逃せないのは地元の人々が話す方言である。語尾に「〜ノシ」というのが唯一の手がかり。手塚は方言についてそれほど深く考えなかったと思われるが、この言葉遣いは実在する。結論から言うと、これは伊勢・紀州地方の言葉遣いだ。また住む場所は山奥らしいので、和歌山とするのが適当だろう。個人的に、本間丈太郎は関西出身ではなかろうか? と勝手に考えていたいたが、少なくとも臨終の地は関西方面と断言していいだろう。ただ、恩師の墓参りの話「満月病」では、その場所がはっきりしていないので、本間の素性は想像するほかない。あと、本間家にいた、おばあさんは一体何者なんだろう・・・山田野先生と面識があるし・・・うーむ・・・生命同様にこの作品も謎は尽きない。)

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