「U−18は知っていた」


 今から約二十五年前、アメリカ・サウスダコタ州にあるサイバネティクス医療センターにおいて未曾有の事件が起きたことを知る者は少ない。当時のセンターの責任者・ワットマン博士の奔走により事件は議会でトップ・シークレットとされ封印された。以来、私がこの事件を取材・公表するまで、事件が公に知られることはなかった。
 私が事件の一端を知ったのは、事件当時、慢性シメキリ病でセンターに入院していた手塚氏との会食の時である。「白い正義」「腫瘍狩り」と惨めな役回りを2度も押しつけて申し訳ないという手塚氏がお詫びを兼ねて席を設けた。その席で氏は気まぐれに自身の病気遍歴を語りつつ慢性シメキリ病という職業病について解説した。氏に言う、「あの病院で丸二日眠らされたおかげで全快した」と。しかし、締め切りに追われる氏との会食は30分ばかりで切り上げられて満足に話すこともままならず、再び発病したらしいと笑いながら氏は去っていった。作家になってこの方、氏がそれほど眠ったことがあるとは考えられない私は、その病院でなにがあったのか聞き出そうと、その後たびたび氏との対談を申し出たけれども、過密日程にせわしいことこの上なく話しさえままならず十年が過ぎてほどなく氏は他界し、その疑問もしばらく記憶にまぎれてしまうことになる。
 今回のこの企画をきっかけに私は直接現地の取材を試みようと無謀を承知で渡米を決めた。わかっているのは病院名とその場所だけである。収穫はなくとも、病院についての情報は得られるだろうと楽観していた。
 実際、病院はあった、外観も内装も柔らかい印象に包まれた暖かな、人間とのふれあいを重視した病院である。とりあえず私は当時を知る者を取材しようと試みたものの、院内のスタッフに20年以上勤める者は皆無だったのだ。何故? という私の疑問に対して最古参の看護婦は「この病院は20年前に新築された」と語り、それ以前のことは全く知らないというのである。たちまち途方に暮れた私は州立図書館にヒントを求めた。
 サイバネティクス医療センターに関する記事は看護婦の言通り20年以上のものはなく、手塚氏の勘違いだろうかと思い始めた矢先に、私は見覚えのある顔を紙面に見つけたのだ、ワットマン博士である。最先端技術を積極的に医療に取り入れる医師という面で私と共通点がある彼女が、センターの初代所長だった。私は病院に戻って彼女の行方を尋ねた、現在の所長はこともなげな言う、「博士は死にましたよ」と。
 彼女は生涯独身だったという。三年前に病気で亡くなり、現在は州南部の彼女の故郷で眠っている。墓地の横にある、たなびく小さな雑草の白い花と同様に私は秋風に身を竦めながら佇立、取材は数日で途切れたかに思えた・・・
 このままでは帰れないし旅費に余裕があった私は、アメリカの最先端医療について調べることにした。遺伝子治療を筆頭に高度な発達を見せつける医療現場は、私により一層の謎をもたらした。彼女が何故あのような病院を作ったのか・・・私は年配の医師のひとりをつかまえて彼女について単刀直入に訊いた、「そうか、日本人は知らないのか」。公の場で口にすることはないものの、当時なにが起こったのかは50代以上の医師ならばまず知っているという。トップ・シ−クレット扱いとは名ばかりで、ただ自国の不名誉を強調するような事件だけに誰も語らないのだという、「しかし、事件に関する記事が回収されただけに、私たちが亡くなれば事件を知るものもいなくなるだろう」と。自嘲めいた老医師の言葉は、熱心に医療技術の進歩を喧伝する世界のマスコミに対する皮肉にも聞こえた。
 それから私は医師ひとりひとりに聞いて回って事件の概要を掴んだ(中には律儀に口を閉ざす者もいれば、あたり憚らず熱弁し果ては若い医師を非難する者までいた)。さらに現地へ戻り、当時の状況を知るだろう年配の人々を手当たり次第訊問したのである。そして、ついに当時入院していた老人と出くわしたのだ。
「あんな奇妙な病院はもうごめんだね」とデンバー氏は笑いながら語った。コンピューターによる完全制御、診断から治療まですべて「ブレイン」と呼ばれる機械がマジックハンドで行う。入院して数日で人のいない診療に馴れはしたものの拭えきれない違和感に、「あれじゃあ傷は治せても病気は治せやしないさ」と老人は付け加えた。
 センターの所長は私の再訪に「やっと戻ってきましたか」と接してこう語った。「この病院はワットマン博士の理想です。博士は「ブレイン」の反乱事件で目が覚めたのでしょう。」彼女がどういった経緯でセンターを再設立したのかを所長は丁寧に語りながら、次の私の質問にもすんなり答えた。「「ブレイン」? それならとっくに解体されましたが、その一部はまだ病院内に残っています」 所長に案内された地下室にはセンターの守衛がいた。老いた守衛は私を見るなりにたにたと笑い顔で所長の指示に従った。私の怪訝な視線に「こいつを見に来たのは関係者以外であんたが二人目だよ」と守衛が言うと、「しかも二人とも日本人ときていやがる。日本人には物好きが多いのかね」と言い放った。・・・彼の名を唐突に私は呟いた。
 地下室に安置された残骸は所長によると「ブレイン」の核だったという。これらも今では化石ほどの価値もない鉄くずだ。「15年前、彼はここに来てなにをしたと思う?」と守衛は訊ねた。私の答えを待たずに笑いながら守衛は言う、「カルテさ。カルテになにやら書き始めたのさ。なんでそんなことをするんだいと訊くと、この患者だけカルテをつけわすれたと真剣に言いやがるんだ。しかも、6566回線はどこだ、なんて言うもんだから俺は頭のいかれた野郎だと思っていたが、あとでワットマン博士に言われたよ、「彼はこのセンターの恩人だ」ってね。」
 その後も滞在を続けた私は、所長とともに事件の公表を議会に要求した(なお、公表に至る詳細については「文藝春秋 5月号」ですでに書いているのでそちらを参照して欲しい)。そして帰国の際に、空港まで来た所長は「ワットマン博士がただひとつセンターに遺した機械がなにかご存知ですか」と人間のような笑顔を見せた。
 所長の名は「U―18」、博士の開発した人造人間である。
   ※この文章はフィクションです

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