「ふたりのジャン」

 大手術に成功したあとの彼はよくソファーで眠るものである。今回、ふたつの頭・脳を持つシャムの双生児の脳手術に成功した彼はやはりグーグーと眠る。切除した片方の脳は専用の培養液に浸して生かすという試みは成功するものの彼の表情は冴えない。脳をこのまま培養してどうするのか、この脳の細胞は確かに生きているといえよう、しかし、これは人なのだろうか。単なる脳細胞なのだろうか。もし、脳が成長した果てに思考したとき、脳は自己をどう認識するのだろうか。そういう疑問をなおざりにした結果が、彼の不可解な気分に集約されている。
 この脳が言葉を理解したとき、脳はなんと言うだろうか。「何故僕には体がないのか」と嘆くのだろうか。否、結論はジャンが手術前に下していた。ジャンは培養器を破壊して叫ぶ、「ぼくたち実験動物じゃないよ! 実験にされるなら、死んじゃったほうがいいんだ」
 そのときの彼の表情はどう読み解けるだろう。不可解さが解消された満足感だろうか、ジャンの絶叫に唖然としたのか、これでいいんだというジャンへの賛美なのか、あるいは患者の気持ちを無視した依頼人たちへの非難だろうか、それとも、彼自身が体験した患者としての少年時代を懐古しているのか、手塚は語らない。


「ナダレ」

 ノーベル医学賞を受賞した大江戸博士のD・О効果理論は彼の優れた外科手術によってはじめて実験可能となった。脳を胸や腹などに移植して栄養をどんどん与えれば知能が発達するという。その実験台・脳を胸に移植された鹿・ナダレは大江戸博士の知らぬ間に巨大化し殺戮を続ける殺人鹿となっていた。それを知った大江戸博士は、弟同然のナダレが人間を誤解していると弁護するものの、何故ナダレが人間を殺しつづけるかを真剣に考えるべきだったろう。ナダレは大江戸博士の孤独・人間不信の投影だということを理解すべきだったろう。
 果ては婚約者を殺された大江戸はナダレの始末を決意するものの、彼は冷たく呟く、「人間は動物をさばく権利があるのかね」。銃で撃たれてもなお大江戸に甘えたそぶりを見せるナダレを殺した理由が、婚約者の復讐にすぎないことに気付くだろうか・・・・
吹雪は弱まり、ナダレの死体に泣き伏す博士をよそに、彼は暗い山を眺める。


「研修医たち」

 患者はカエルの解剖じゃない、ということを若き研修医たちは知らない。医師免許を持っていたとしても、アマチュア同然の彼らに何が出来ようか。手に握るは手術の腕でなく、陳腐なプライド。彼に依頼をことわられた研修医たちは、自分たちで執刀を試みる。ベテラン山裏博士への対抗心が高じた結果の無謀な手術に彼は気が気でなく、現場に立ち会うことになるのは、彼の気まぐれな性格が要因だろう。
 やがて研修医たちの誤診が明らかになるや、手術室の中で立ち尽くす研修医に彼は山裏博士と同じように「苦労しろ」と反省を促して現場を去ると、彼に続いて現れた山裏博士に、ベテランの懐の深さを知り、患者を治すことが医者の本分だと言った博士の言葉を思い出し、彼は満足する。研修医に対抗することなく、そっと見守ってやるという寛大さを若者はいつ知るのだろうか。
研修医は所詮研修医、子供は所詮子供さ。メキシコ土産のひょうたん人形を抱えて眠るピノコを見て彼は微笑む。


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