小田扉「団地ともお」4巻

小学館 ビッグコミックス



 4巻かー。
 小田扉作品の奇妙な味わいって、どうでもいいところにどうでもいい描写があるところで、普通だったらわかる人だけにわかるような小ネタをさりげなく挿入してファンサービスしたり再読を楽しませたりするんだけど、正面から日常景色然とそれが描かれているものだから、いつもそこに読みが突っかかって停滞し、間が生まれているんだから、まあ不思議な作品としか言えないおのれが悲しかったりする。
 例を挙げればきりがないので、特に気になる場面だけを見てみる。
 118頁6コマ目で、アヒルの被り物の尾のふさふさに何か気持ちよさそうに震えている子供がいる。意味がないんだけど、視線の流れがそこに行くような構成がとられている。前のコマ、左隅「タッタッタッ」と走ってくる人の次にそこに視線が行く、もっとも視線は通り過ぎるだけなんだけど、こういうわけのわからなさが、普通の会話をしている人たちのすぐ隣で行われていることに意識が引っかかる。この積み重ねが侮れないのだ。この回はアヒルの顔が頭から取れない父が、そのままの格好で息子との約束を果たすべく学校に向かう話で、設定だけでおかしな話ではあるんだけど、122頁5コマ目のイカタクシーとか、目に付くか付かないという微妙なところにも変な設定があって、父のとる行動の面白さに加えて、それまでの変な場面の集積がラストで融合して笑いを生むのが快感なんである。ほんとにこのラストのコマには笑ってしまったのだが、表面には走り疲れた父が二人三脚でトップになるという唐突な展開に対するわかりやすさを含みつつ、裏にはこの回で撒いてきた変な物の後押しがあるのである。
 父にしがみつくともおから、父の走り方が冒頭のともおのそれと同じで、バットを足に結んで一人で練習するともおが、結局父との二人三脚では役立っていたということとも読めるし、あるいは父の走り方自体がともおと同じだったからリズムを合わせて走れたと読むほうが自然か、こっちのほうが自然だな。と、物語の流れら見ても実に練られていて、この辺も侮れないし、流れがしっかりしているから、わき道にいくら変な絵があろうとも本流の妨げにはならず、第5話や第12話のようなしんみりくる話も味わいを失わずに描けるわけである。
 162頁4コマ目もちょっと変なのである。この回は回想される婆さんの言動がやたらとおかしくてそっちだけでも十分な話だけど、このコマの構図は本編の主人公・爺さんの視点に拠っているはずなんだが、次のコマでともおの読む漫画に話が移ってて、ここに意識されない間が生じている。4コマ目の中心は君子っぽいけど、どっちかっていうと曖昧で、爺さんが何を見ているのかわからない。コマの中には「月刊みそ汁」の広告もあり、微妙なおかしみをたたえている。構成的に4コマ目はほとんど捨てコマではないかと思ってて、ここ飛ばして読んでも変ではない、むしろテンポがいい。で、他にもこんな無意味と思えるコマがそちこちにあって、だからといってこれらを取っ払うと、すらすら読めすぎて味わいが薄れるのかもしれない、というかこれらのコマが、あちこちに描かれる物語と関係ない意味不明の描写(前述の子供とかね)の役目をページ単位で果たしていると言えなくもない。まさに手前の左足に右足を引っ掛けてすっ転ぶスポーツ大佐(162頁6コマ目)のごとく、読者自身が自身の読む調子によって勝手にテンポを狂わせ勝手に突っかかっているわけである(ほんとかよ……。でもこの回で一番驚くのは、君子に台詞がない点であったりする。)
 読者にとっては、ともおの真っ当なバカっぷりや、脇役達の悲喜こもごもが印象に残るのだが、舞台裏というか、表に出てるんで裏も何もないけど、捨てコマという目に見える手段で人物の表情を演出しているところが、作者の持ち味なのかもしれない。で、そこに注意して読むと、56頁の時間の省き方なんてびっくりする、前頁とあわせて見ると、ゆりちゃんというよく遊んだ友達がいたけど事故にあって長らく眠り続けてて君子は今も見舞いを続けている、という無駄のない説明が際立ってくる。もちろん、言葉で書くと味気ない状況も、ハナタレ小僧のともお達(けり子まで鼻水たらしてるよ、おい)を描くことで、緊迫した状況を緩和している。そして台詞の妙、「また来るよ」「起きたら……起きたら食べてね」という二言でゆりちゃんの現況が説明される。捨てコマがいくらあっても冗長に感じないのは、このような台詞の簡潔さも要因だろう。そして62頁からの流れが素晴らしい(ここでも何気にベランダにスルメが干されているんだよな……、ほかにスルメばかり干してる絵もあるし、スルメ好きだなスルメ)。ここから63頁1コマ目のともおの台詞でゆりちゃんの死を読者は確信するわけだが、無邪気なともおが途端に暗鬱になって集会所に向かう場面、ここから台詞の量がぐっと減り、さっきの楽しい会話が転調する。ここからともおは6コマに渡り登場するが台詞はない、彼の落胆というか、驚きぶり・状況を理解するための猶予期間がじっくりと描かれる。つまり言葉を使わずにゆりちゃんの死という出来事と周囲の状況で彼の気持ちが変化していくさまを克明に描いているのである。1コマくらい飛ばしても意味は通じるかもしれないが、作者にとってしゃべらないともおのコマは、ここでは捨ててないのである。全てに意味があるのだ。
 意味あるコマと捨てコマの基本的な見分け方として、変なものが描かれているか否かで判断できると思う。ともおと共によく描かれる29号棟の建物には、ほとんど変なものが描かれず、建物のみの絵が1コマ使われる。場面が変わった、という状況の意味があるからだろう。比較しやすいのが81頁2、3コマ目。場面が団地の中に移動したことを知らせる2コマ目、だから普通に描かれる・同時に空の色で大まかな時間も想起させる、夕方ならそれらしい空色に描かれている。3コマ目はあってもなくてもいいコマ、というと語弊があるが要は話の長さを調整するためのコマだと捉えればいいかな、右隅で根津の話を聞く犬とカラスがいる……
 と、分析してみたけど、やっぱりまったり読んでにやにやしてるのが一等楽しい時間だよなともお。

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