揺れない列車

ビームコミックス 森薫「エマ」第3巻第15話「風」より


 19世紀末のイギリス。すでに地下鉄があったロンドン。第15話「風」は、列車内の描写である。
 巧いんです。ターシャが飴をぼりぼり食ったり、エマがしとやかに手袋を仕舞ったり、細かいところまで丁寧に描かれてて、それでもって人物の性格まで浮き上がるのだから、ほんとに惚れるほど好きな漫画である。さてしかし、ここで気になってしまった描写があった。というか、描かれてもいいんじゃなかろうかという列車の揺れが全く感じられない描写に不満が残ってしまった。ちょっと欲張りすぎかもしれないが、この機に全巻をぱらぱらと再読してみたところ、全体的にとても落ち着きすぎているような印象が残った、すなわち躍動感という点に着目した場合にそのあまりに落ち着き払った筆致とコマ運び(断ちきりがほとんどない堅実な配置)や読者を混乱させない構成がかえって人物の動きを抑制してしまっているのだ。
 「シャーリー」を読んだ人は思い出してほしい。初めてメイド服を着たときの彼女の鏡の前での振舞い、ここに費やすページ数と彼女の喜びが動きからも伝わってくる描写の威力、スカートがひらひらしてポーズ決めて興奮している。この新鮮さ・初々しさが「エマ」には失われていたのである。もちろん、それ以外の描写が格段に上達しているからこそ、ヴィクトリア朝の背景がきっちりと描かれ、おまけに人物の心理描写が実に手際よく簡潔できめ細やかに読者に示すことが出来るわけだが、画面から飛び出さんばかりの勢いがちょっと足りないような気がした。で、列車の中なのである。
 ほんとにここはターシャという人物の描写が際立ってて、ここの挿話ひとつでその後の彼女の言動に全て納得してしまうほどの力がある。飴ぼりぼりに加えて、自分でこれはいいことだと思ったことはさっさとやったり(スズランを水の入ったコップに活けること)、不意に見せた真剣なまなざしが、一見軽そうだけど内心にはとても強い意志があることをほのみせたり(でも18頁3コマ目のエマの位置は変だろ、窓際のはずのエマがこれじゃ通路側に座っているように見えるけど、ま、いいか)、風に帽子飛ばされながら「これが気持ちいいんですよね」と言って、わかってるなら帽子飛ばされないようにしとけよと突っ込みたくなったり・つまり落ち着きがない性格が描かれたりと、ターシャの言動から性格を滲み出させているのだから、素晴らしい。そしてもし、列車の揺れが描かれていれば、このターシャの性格描写にもっと変化を与えられたと思うのである(今のままでも十分なのだが)。当時の列車がどのくらい揺れたのかは全く想像できないけど、まさか新幹線並みということはないだろうし、といって馬車のような揺れもないだろうし、そういえば……馬車に乗っている描写もあるが、ここでも揺れが強く描かれていない(2巻177頁はちゃんと描写されている)。象に乗った時はちゃんと描かれているけど。もっとも、それほど強調すべき演出ではないので、ケチつける気は毛頭ないんだけれども、たとえばコップにスズランを活けるところで、ちょっと揺れて棚からコップが落ちかけるとか、飴を手渡しする時に揺れで落とすとか、演出の幅が広がるのである。それをしなくてもこの場面は成立するし、そんなものを必要としない力が作家にあるものの、次のボートの描写もそうなんだけど、ちょっと大人しすぎて。それがこの作家の持ち味かもしれない、110・111頁の見開きの迫力を見ろよと言われるかもしれない(このパーティーの絵も止まってるんだよな。所狭しとみんな楽しんで踊っているって感じはガンガンと画面から伝わってくるんだけど)。
 はっきり言うと、列車についての資料があまりなかったでしょ、ということなのである。構図が単調なのだ、屋敷の中の二人の会話だったら、たとえば窓の外からの二人の姿を会話の間に描いたり、天井描いたり、外の景色に目を向けたり、歩き回ったりといろいろと変化が与えられるが、この挿話はそれがない。というか、通路ないじゃん。当時の一等客車には通路なかったのか? たまたま描かれていなかっただけかな。構造がわからない……
 ところで私がひじょーに残念でならないのは、スズランのその後が描かれていない点なのである。てっきり部屋の中にまで持ってきたのかなと隅々まで探したんだが、ない。エマがあれを捨てるとは思えないし、どこかに植えてきたのだろうが、せっかくの小道具が第15話でしか生かされなかったのがちょっと悲しい。ま、そんなこと気にしたところで、この作品の価値には全然影響ないんだけど。それだけすごいんですよ、この作品は。
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