「おおきく振りかぶって」 対美丞大狭山戦精読

講談社アフタヌーンKC ひぐちアサ「おおきく振りかぶって」11〜14巻より



 久しぶりにリアルな高校野球を読んだ気分である。記憶に残る試合は、とかくシーソーゲームであったり延長戦であったり大逆転劇であったり、スコアだけで面白そうと思えるものがほとんどだが、フィクションとはいえ、「おおきく振りかぶって」(以下「おお振り」)の11巻から14巻に収録されている美丞大狭山との試合経過は、格下のチームが強豪に追いすがる様を、スコアからもうかがえる結果となった。先制、中押し、ダメ押し。美丞大狭山の攻撃は、格下の西浦を相手にほとんど隙を見せずに力押しで寄せきってしまった。11対6という結果のリアルさが全てを物語っている。ひょっとしたら勝てるかもしれないという余韻もなく、すんなりと西浦は敗れ去った。
 今回は、この試合の経過を追いつつ、「おお振り」という作品のテーマ・ひいてはひぐちアサ作品の核にも触れてみたいと思う。

1 阿部の配球
2 三橋の直球
3 探りあい
4 サインの意味
5 七回の攻防
6 点差の意味

1 阿部の配球
 「おお振り」が従来の高校野球マンガと異なっていた一つにキャラクターの細かな心理描写が挙げられる。打者心理も投手心理も捕手も監督もベンチのナインも、果ては応援席までも、個々のキャラクターが今何を考え何を目的としているのかが、包み隠されずに読者に提示されている。主人公に感情移入させるのであれば、これほど多くの心理情報は雑多すぎて邪魔でしかないし、一瞬の描写が多いスポーツ物の場合は特に、スピード感を損ないかねないだろう。一球ごとの描写となることが多い野球でも、テンポの遅さから頁数の増大による作品の長編化が問題になる。「おお振り」は14巻分で主に四試合を描いているが、最初の練習試合のテンポを考えると、連載の長期化を約束されたそれ以降の試合は、個人的に描写が執拗に過ぎると感じている。作者の野球好きはホントによく伝わってくるんだけどね、だからこのマンガ大好きなんだけど。
 もともと劇中には解説者と位置づけられるキャラクターが数多く登場する場合が多かった。かつての宿敵が、主人公に敗れて後、主人公の戦術を自分との対戦を踏まえて分析してくれる、読者にとって親切な存在というものがいた。「おお振り」にもいないわけではないが、試合を観戦する人々を数多く描くことで、一つのチームがどれだけ多くの人々に支えられているのかを鮮明にした効果が強い。スタンドで点が入るたびに校歌を歌う美丞大狭山の補欠部員の決して語られることのないレギュラー争い、携帯テレビで実況を聞きながら(……時代だなぁ。昔はラジオ聞きながら観戦だったのに……)状況を必死に把握しようとする西浦ナインの父兄(桐青戦では、三橋の従妹・ルリが観戦に駆けつけて実況と解説役を担っていた)が子どもたちのためにしたであろう食事・体調の管理、応援団の知られざる練習風景。特に西浦側は、この辺の描写が少しあるだけに、戦っているのは、野球部員だけではない一体感がある。
 それにつけても序盤の4点は、いかにして失ったのか。三橋の投球が攻略されたのではなく、阿部の配球が読まれていた、というのが原因だが、詳しく見ていこう。
 一回表の美丞の攻撃は、試合前に集めたデータがどれほど有効なのかを見極めることころから始まった。阿部の配球が美丞の各打者のデータに基づいているならば、攻撃はその裏をかけばいい、単純な話だ。だが、物語は捕手視点と打者視点をない混ぜて展開されていく。阿部の思惑がことごとく美丞ベンチに筒抜けのような状態になっている描写が続くのだ。読み手にとっては、いつ阿部がそれに気づくのかが一つの読み所となっていく。一番打者川島と阿部の心理が重なる、「“迷わず見送った” “この打者は落ち着いている 球もよく見えてるようだ”」(11巻161頁)
 球がよく見えている、ということは三橋の武器である癖のある直球は序盤からは使えない配球を余儀なくされる。使ってしまえば終盤に球筋を見極められて痛打されるのは明白だ。だからこその変化球主体のリードとなるわけだが、すでに球種も分析されているので、対応は容易である。というのも、三橋の球種は、基本的に直球系が主体だからである。シュートとスライダーだ。
 例えば球速がそれほどない投手が打者を打ち取るためには何が必要かと考えた場合、制球力はもちろんだが、緩急を付けた投球が大前提となる。要所ではない。三橋の場合、「緩」はカーブである。さらに阿部の配球の癖、右打者にとっての内角にはシュート・外角にはスライダーが基本となっている。もちろん定石どおりであり、これが逆なら球は真ん中に集まりやすくなってしまうので論外なわけだが。そして打者を打ち取るには「急」が鍵となる。これが切れなければ意味がない。三橋の場合、この直球を終盤に備えてあえて封じた。
 直球がないとわかれば、後はコースで球種を予測してスイングするだけである。もともと球速のない上に球種まで読まれれば、打たれて当たり前だろう。西浦が桐青の高瀬と対したとき、彼がフォークを投げていない・球種が一つ減ったことでボールに対応した展開が思い出される。美丞は、さらにカーブにも対応していた。直球系以外のボールとなれば、それしかないのだから、スローボール系が来ればカーブと山を張るのも容易である。直球系待ちで遅いボールが来ても「一パクおいて対応でき」てしまうのが三橋の球の遅さなのである。

2 三橋の直球
 というわけで、三橋の弱点が阿部のリードによって浮き彫りにされてしまったといえよう。110キロの速い直球と、100キロ前後の直球系のボール、そしてそれより10キロも20キロも遅いだろうカーブ。球種を並べれば、素人目にも次のどの系統のボールが来るか山が張れるに違いない。
 だが、現実的に考えた場合、この100キロというのは実に微妙なスピードなのである。
 私はこの文章を書くにあたり、三橋の100キロのボールというのは実際にどの程度遅く感じられるのかを検証するためにバッティングセンターに3か月ほど週に一回程度の割合で通ってみた。100キロは、野球オンチの私でも確かに遅いと感じる程度の速度だった。
 私が主に打ったのは95キロ(三橋の直球)、110キロ(三橋の速い直球)、120キロ(高校生の一般的投手の速球。もっと速いかな。でも130キロは速すぎて当てるのがやっとだったので)の三種の速度である(100キロがあるバッティングセンターにも行ったけど、95キロと100キロの差はわからなかったので、95キロを三橋の直球として据え、それより遅いボール(85キロ)もたまに打ち、カーブ(遅いボール)をイメージした)。
 100キロは遅いボールと速いボールの分岐点と言うのが私の結論である。100キロは微妙に山なりのボールなのだ。これが110キロになると、速球として体感できる速度でボールが向かってくる。たった10キロの差でこんなにも違うのかと驚くほどだ。そして、110キロにタイミングが合わせられると、120キロも容易に当てることが出来るようになった。ところが、120キロから95キロに戻って打つと、最初の数球はタイミングが合わない。練習を積んだ高校球児であるならば、頭の中に速度別のタイミングの取り方が身体に染み付いているのだろうけど、素人は空振りばかりなのである(腹が立って110キロくらいにすると、すんなり打てる。自分にとって110キロはかなり打ちごろの速度だった)。
 三橋の場合は、多くが100キロ前後のボールだ。それさえわかればタイミングを合わせるだけで三橋は攻略できるのも納得である。素人でもどうにかなるんだから、美丞の各打者が打つのも道理である。もちろんバッティングセンターのボールと実際に投手が投げるボールの質は違うと思うが。
 では次に、三橋の癖球について考えよう。三橋の100キロの直球が普通の100キロと違うのは浮き上がって見えるからだが、これも練習を積んだ結果感じてしまう感覚である。腕の振りの速さで球速を予測してスイングを開始する打者には、それぞれに速度別のタイミングの計り方があるわけだが、同じ速度なのに何故ボールの質に差があるのかは、すでに指摘されていることだが、球の回転に所以がある(回転がバックスピンかジャイロボールか分かれる話だが、ここではバックスピンについて触れる)。  プロ野球で140キロと言えば、プロとしてはごく普通の球速と感じるかもしれないが、この速度で空振りが取れる投手が何人かいる。ドラゴンズの大ベテラン山本昌もその一人である。
 ネット上で読める論文の例として「野球ボールの投球軌道シミュレーション(http://www.ise.ibaraki.ac.jp/~csl/BT/SuzukiYuta.pdf)」がある。ボール速度と回転数の関係を研究したものだ。これによると、山本昌の回転数は「52」、平均が「37」と設定されているので、山本昌のボールは打者にとって思ったとおりの軌道で来ないことがわかる。回転数はボールがキャッチャーに到達する位置に影響しており、回転数が上がれば当然ボールは落ちにくい。「球速が10km/h増加する毎に,軌道に約10cm から20 cmの変化が見られる.回転数で見た場合でも10rpsの増加毎に軌道に数cmの違いが現れ,どちらもボールの重さ,大きさを変化させた場合と比べて軌道に与える変化は数倍程度大きい」と述べられている。三橋の100キロの直球は微妙に山なりであり、なおかつ思ったよりも落ちないために、ボールの下を叩きやすく、打ち上げやすい理由はこのへんにありそうだ。
 研究された三橋の投球は簡単に攻略されてしまう。彼に足りないのは何か。個人的には落ちるボールだと思うが、実際にフォークなり縦に落ちるスライダーなりを劇中で投げるか否かは、今後の展開待ちである。
 気になるのは、三橋の球威が終盤になって増したという指摘である。100キロの癖球が110キロあるいは120キロになったときも果たして癖球として機能するのか……

3 探りあい
 配球が読まれていることを知った阿部と百枝監督は、チームが徹底的に研究されていること思い知る。攻撃に対しても各打者ごとに配球と守備位置で西浦の打撃を封じる美丞との駆け引きが中盤の展開となった。冒頭で述べたとおり、この作品はキャラクターの心理状態が読者に丸見えだ。その上で読者の期待を煽り、なおかつ飽きさせない表現を駆使しなければならないのだから、「おお振り」に課せられたハードルはかなり高い。仮に主人公側のみの視点であれば、美丞を攻略するには相手の手の内を試合運びから推察する手続きが必要になるけれども、「おお振り」はその手間は省ける。これを長所と見るか短所と見るか。
 この作品の上手さは、ほとんど明らかになっているそれぞれの心理の中で、各キャラクターがどのように対応しているのかがきっちりと描かれている点である。偶然とか、たまたま上手くいったという展開があったとしても、全てに理由が存在している(前後の展開に正解が描かれている)のだ。これが野球という競技の性質とがっちりと噛み合い、野球に詳しくない読者にも心理戦という楽しみを与えているのだ。不安や決意は活字となって読者に伝えられると、次はいつその言葉を実際に発言するのかに重きが置かれていく。自分の考えは間違っていると思い込みはっきりと口に出せずにウジウジしている三橋が、この作品の心理描写に相応しいキャラクターなのは道理といえよう。
 3回の攻防を見ていこう。相手の手の内を知った阿部は配球パターンを見直すことで美丞の主軸を打ち取ることに成功した。三橋に首を振るサインを加えること配球パターンが増え、4回以降はさらに相手の攻撃を抑える結果となった。では西浦の攻撃はどうか。8番からの下位打線、特に水谷と三橋は非力で長打はなく、前進守備のシフトを引かれる。そして、力を込めやすい高めへのストレートが打ち取るための軸となる。
 だが、いきなり水谷はこの高目の速球を打ち返してしまった。脇を締めて打つ、この高めへの対応の基本が偶然行われたわけである。攻略の手本はすでに田島が示していた。
 田島の1打席目も前進守備であり、高めの直球が軸だ。彼は守備の動きから自分たちが研究されていることを察知し、そこから配球パターンを絞り込んだ。泉が同様の球をいつもどおりに打った結果、平凡なセンターフライの終わったのは対照的に、美丞の捕手・倉田が解説するとおり田島は腕をたたんでボールを前で捉えて野手の間を抜く打球を放った。腕をたたむには脇を締めて振り抜く必要があり、ランナー二塁の状況で右(ライト側)に打つのも定石どおりだ。直球にも狙ったところにしっかりと打てる(「前で捉える」とは引っ張ること)田島の能力の高さの表現にブレはない。
 続く三橋のバントは、当てることだけを考えた動作だ。相変わらず高めの直球を主体に置く倉田の配球は、阿部が言う基本どおりの配球を徹底している。バントが予想される三橋に直球が続けて投じられるのもわかりやすい。三橋のバントは幸運にも野選の結果になるが、これは球速が平均的な竹之内だからだろう。美丞の二番手投手として登板した鹿島は竹之内よりも10キロ速いと言うのだから、6回裏で描かれた三橋のバントがゲッツーになってしまうのも極めて当たり前の描写なのだ。それを大仰に描かずに他のさまざまな描写と均一に描くことで、読者にとって当たり前を当たり前と感じさせない演出が貫かれている。
 また、「おお振り」の試合では選手個々の成功と失敗も描いている。どのキャラクターにも均等に見せ場が用意されているのである。
 三塁コーチャーの西広の場合、初回、田島のライト前ヒットで二塁の栄口を一気にホームに突っ込ませる。もちろん二死でこの判断は全く間違ってはいないが、前進守備ということもありライトで元捕手の宮田に補殺される結果となった。強肩に驚く西広だが、三回の好機では、三塁頭上を越えるか否かというゆるいライナー性の打球で三塁手が捕るかもと走塁を自制した三塁走者を走らせ、結果レフト前ヒットになる適時打となった判断もしている。これもスタートが遅れれば前進守備がために本塁に突っ込めたかどうか難しい打球である。
 相手チームに対してもその描写はある。桐青戦でも埼玉戦でも、試合を通じて成長するキャラクターというものが必ず登場し、結果だけでなく過程を重視する作者の野球観がほの見えよう。二番打者で三橋の「まっすぐ(癖球)」にバントを失敗し続けていた美丞の石川は、七回表、西浦バッテリーの外した球に飛びついてバットに当て、スクイズを決める見せ場が与えられた。
 四回にも一点を返して4対2。両チームの情報収集量の差が得点経過に反映されていよう。ここから、美丞の三橋・阿部攻略が本格化していった。

4 サインの意味
 配球パターンを変えた阿部は美丞打線を三回、四回と零封にするものの、五回に打者がほぼ一巡したところから、阿部と打者の駆け引きが再燃する。力のない三橋のボールは、山さえ当たれば内野の頭を抜ける打球が容易に打ててしまう程度であり、投手の介在しないバッテリーの配球に限界があるのは阿部も知っていたはずだ。だが、阿部は三橋がサインどおりに投げることだけで満足し、自分のリードで相手を抑えようと考えをめぐらせた。投手が配球を組み立て、捕手のリードが役に立たない埼玉との試合で阿部は一人の限界を感じていたはずなのに、彼はそれをわが身に喩えて考えなかった。後述するが、三橋も含めて、二人が陥ったサインという罠に気付くためには、阿部の負傷という代償を要するほどの衝撃が必要だったのである。
 九番竹之内、一番川島と連打され、二番を投ゴロに抑えたものの、一死二塁三塁で迎えるは中軸である。阿部の脳裏は外野フライでも一点が入ってしまう事態に混乱の兆しを見せる。どんなボールを投げさせても打たれてしまう。捕手にとっては三振が欲しい状況だが、三橋には空振りを期待できる速球も変化球もない。力のある打者なら、三橋の癖球も外野まで運ばれてしまう。この時、三橋は「サインくれれば オレは何でも投げるよ」と思うだけだ。そして犠牲フライ。三橋に、阿部の配球どおりに投げたのに抑えられないという思いが再び芽を出す。序盤こそ配球が読まれていたという理由があったものの、さらに三回四回を無安打に抑えたことで、やっぱり阿部のリードは正しくて俺は間違っているという自虐思考が復活したのも束の間であった。リードのとおり投げて本当に大丈夫なのだろうか? そんな思いが頭を掠めながらもサインどおり投げ続ける三橋に、阿部は独りで考え続けるしかなかった。
 さて、ひぐちアサ作品の底に流れているのは基本的に、他人に理解・承認されない苦しみ、だと思っている。後悔と挫折なんて問題じゃないくらいにキャラクターたちは暗い自己の世界に惑溺しているのに、他人に認められたがっている。「ヤサシイワタシ」のヤエが典型的だが、「ゆくところ」のホモと小児麻痺の二人も「家族のそれから」の若い義父も、認められようと奮闘する姿が描かれている。ヤエは写真の才能が認められないことへの焦慮や、理想とする男性にも認められないとか何かがあいまって、物語の途中であっさりと退場してしまうし、ヒロタカは怪我でテニスを断念し(つまりテニスプレイヤーとして認められず)付き合っていたはずのヤエの力に結局なれず、そこから澄緒を通してゆるやかに回復していこうとする様子がかすかな希望になっている。「おお振り」にしても対する美丞の監督は野球で肩を壊し、コーチは高校時代に大事な場面で失策をしてチームが敗れるという苦い思い出を抱えていた。観戦にきた桐青の捕手にしても、もし勝っていれば本来ならば俺がグランドにいたはずだと「腹ン中焼けるような思い」を経験していた。
 そんなひぐちアサ作品にある細やかな心理描写を「心理学を学んでいたから」という理由で思考停止するのは短絡に過ぎるだろう。では「おお振り」で描かれる心理描写の例として優れているのはどんな点だろうか。
 野球の試合描写はどうしても長くなりがちだが、この作品も例に漏れず、作者の野球好きが緻密な野球描写とその解説になっているわけだけど、この作品で試合中一番多く描かれるキャラクター同士のやり取りとは何かとなれば、サインである。キャラクター同士の意思が通じ合っているかのような錯覚がここにある(単行本には、帽子のつばを手で「キュ」と触れる仕種がサインを確かに受け取ったという意味という解説があり、実際に劇中で彼等が帽子に触れる場面は数知れず)。
 三橋は中学時代、投手でありながら存在を無視され続け、サインを与えられもせずに、ただマウンドへの執着だけで投げ続けた経緯がある。投手として認めて欲しい、というのが彼の承認欲求である。そこにサインをゲンミツに出す阿部が現れる。三橋はサインどおりに投げることで、投手として認められた、と思い込んでしまう。桐青戦はなんとか勝てたものの、サインを研究され尽くされた美丞戦は序盤で失点を喫する。三橋と阿部のサインは意思の疎通でもなんでもなかったことが暴かれ、三橋は、サイン通りに投げることが、必ずしも投手として認められることではないことを阿部が怪我をしたことではっきりと知るようになる。投手として認められていないのでサインをもらえない中学時代→阿部に投手として認められるためにサインに従い続ける→首を振ったら投手として認められない……。サインってのはナインを繋ぐ内輪の会話なのだが、三橋と阿部は一方通行で何もやり取りしていない。
 五回裏の美丞バッテリーのサインを通じた会話が西浦と対照的ですらある。配球についてあまり考えない三橋に対して、阿部の内語がこれでもかと描かれ、どうすれば打ち取れるのかが阿部の姿・表情とともに描かれる。美丞はこの回から投手が鹿島に代わり、捕手の倉田との齟齬が描かれる。サインで互いの要求を交感し合おうという意図があるのだ。
 だが、これとて自分の考えが正確に相手に伝わるわけではない。三点目を恐れるあまりに投手の状態を考えない配球を続ける倉田、自分の気持ちが通じていないことに苛立って制球を乱す鹿島、そんな鹿島の立ち上がりの悪さを理解した配球をかつてしていた元捕手のライト宮田は倉田の対応を苦々しく思う。
 七回に阿部が負傷退場し、百枝監督が投球のサインを出すけれども、それもやはり見破られてしまう。捕手に投手として認められるためには、首を振ることっていうのはとても重要なテーマをはらんでいたわけだ。首を振ったら、次の要求が来る、サインのやり取りによって生まれるナインとの簡易な会話だ。また、三橋のバントに阿部は「指」に気をつけろ、と口パクで伝えようとするも、当の三橋には「無理」と伝わってしまう場面があるように、自分の意思をそのまま伝えること・相手の考えをそのまま受け取ることの困難が、「おお振り」にはたくさん描かれている(田島に対する泉の闘争心や、花井には長距離打者の自覚が欲しい監督・田島の気持ちが本人になかなか通じなかったり)。サインを頻繁に出す高校野球とひぐちアサ作品の相性の良さははじめから抜群だったわけだ。
 他人から承認されるってことは、自分も他人を承認しなければならない。一方通行では勝てない。それに気付いた直後の三橋がホームランを打たれるってのが、作者の容赦のないところだが、ここが次にステップアップするための課題になるのだろう。

4 七回の攻防
 阿部の負傷退場の予感は試合のはじめから潜んでいた。これまでも二人、負傷させてきた倉田の存在である。その指示を出しているらしい一塁側で観戦するコーチも含め、美丞側には常に何かやらかすのではないかという不穏な気配があった。結果的に阿部は倉田との交錯で倉田をかばう形で膝をひねり痛めてしまうわけだが、そもそも「おお振り」序盤の俺は三年間怪我しないという阿部の宣言が、阿部がいない試合をすでに想定していたとも言える。
 その七回、攻略されつつある三橋という点で桐青戦と同様であるが、序盤の四点が大きいのは今更言うまでもない。首を振るサインによって、三橋はサインに首を振る意味というものを考え始めるわけだが、それでも阿部の指示待ちだ。先頭打者は倉田、後に退場した阿部に代わりマスクを被る田島と、七回の美丞の攻撃では、三人の捕手の配球観・バッテリー観というものが描かれた。
 倉田の配球はこれまで特筆すべき点がないほどに極めてオーソドックスである。それが可能なのも、投手が速球を持っているからだ。先発の竹之内は推定120キロからその半ば、高校生の平均的球速だが、チェンジアップの緩急で普通の速球をより速く見せられる。二番手の鹿島は最高130キロ後半が出るといわれている速球派だ。非力な打者が多い西浦に対し倉田がどちらの投手にも速球を多く要求したのは自然である。竹之内がチェンジアップを投げる場面は少なく、ほとんどが直球とスライダー。内と外に直球を出し入れし、右打者には外のスライダーで・左打者には高めの速球で。鹿島に至っては速球で押し切ってしまうようになる。スライダーを混ぜはするものの、水谷が感じたように、機械が放る130キロと実際に人が投げる130キロでは感覚が違う。速球をほとんど打ち返せないと判断した倉田が鹿島も投げて気持ちがいい速球を求めるのは当然である(それでも速球に山を張られれば打たれてしまうわけだが)。では、倉田が三橋の球を受けるとしたら? 遅いボールでかわす投球をせざるを得ないと判断する、好きなコースに放られた変化するボールに打者は釣られて打ってしまう、阿部と同じ考えなのである。倉田「結局捕手は ここぞって時に最悪を考えてしか動けない」(九回の田島が考えた配球も、まさしくこの指摘どおりである)。倉田の二塁打により、西浦は再びピンチに陥る。
 竹之内の三振(直球続けてバント失敗の後に外のスライダーで空振り三振という単純さが竹之内の低打率(劇中で1割台と言われている)の所以だろう)後、続く川島はセフティバントを決める。三橋の癖球を一度見ただけで決めてしまう目の良さも挙げられるが、竹之内に対して何球も見せた癖球をネクストバッターズサークルから川島が見ていたと想像すると、タイミングを合わせられたのも納得がいくが、これは穿ちすぎだろう。
 そして、すでに前述したとおり、阿部の負傷となった美丞のスクイズである。ベンチに下がって交代が決められたところで、阿部はどうにか立っている状態でうつむきながら心配顔で寄ってきた三橋の右腕をぎゅっと掴んだ。個人的にこの場面は「おお振り」の微細な心理を描いた中でも白眉だと思っているくらいに素晴らしい3頁(13巻116-119頁)である。
 悔しさをかみ締めているような口元の阿部の目は前髪の影で描かれない。阿部の突然の行為に驚く三橋は左足のレガースを左手で抱えていた。三橋は、監督にマウンドに早く戻るように言われても、なお信じられないといった面持ちで阿部を見詰めており、レガースを持っているのも、いつでも阿部を守備に付かせる手伝いを進んでする自然な行為だったのかもしれない。だが、三橋は阿部に比べてやや背が低いのである。三橋はまず阿部の口元を見、続けて左膝の震えで怪我の程度と痛さを悟った。そして、やや上を見上げて・阿部の目を見て「あ 阿部君 座って アイ アイシングだよ」と言って阿部を座らせた。阿部の目は一切描かれない。知るのは三橋ただひとりだ。さらに阿部は何も言わずに、もう一度三橋の右腕を握った左手に力を込めた。
「…… アウト あと2つ」「取って くる よ」
 阿部はすっと三橋の右腕を放した。「……」とはつまり、三橋は阿部の無言の思いを阿部の目や右腕に感じた阿部の左手から感じたのである。いつも言いよどんだり、短い単語を二つ以上のフキダシで分けて発話したりと、たどたどしい台詞回しが演出されていた三橋の言葉に、少したどたどしさを残しつつも、二つのフキダシではっきりと発話させた。阿部の「サイン」を感じ取った三橋は確かに受け取ったという返事を送る、帽子のつばを「キュ」と触れるのだ。
「阿部君がいなくても アウトを」
 初めて二人の意志が通じ合った瞬間かもしれない。

6 点差の意味
 八回を終えて7対5。美丞2点のリードで最終回を迎える。いまだ劣勢の西浦に対して、百枝監督から捕手・田島へのサインを読んだ美丞は、さらなる追加点を求めて止めを刺しに来た。適時打とスリーランで4点。勝負は決した。9回裏に田島の三塁線への長打で1点を返すものの後続が倒れ、試合は終了した。あっけない幕切れとは言え、必死になって声を張り上げる三橋の姿は感動的ですらあった。
 では改めて結果について考察しよう。11対6というスコアは序文で述べたとおり妙にリアルな数字だが、安打数を見ると、両チームとも14安打なのである。美丞は四番の二本塁打を含む4本の長打に、3盗塁とスクイズもあり、打撃に関しては大技小技が決まった印象だ。もちろん三橋の癖球によるバント失敗もあるけれども、効率のいい攻撃をしたことがうかがえる。
 四番だけを見てもそれが浮き彫りになる。美丞の四番・和田の安打はいずれも本塁打で6打点だ。一方の田島も、スコアリングポジションでよく打席が回ってきて3安打し、うち初回の安打は走者が本塁で憤死のため打点ならず、結果2打点のみ。九回の二塁打も打球の方向が幸いしただけであり、力で外野まで持っていった長打ではない。西浦の攻撃がいかに小粒なのかがはっきりしただろう。
 さらに西浦は13三振もしている。桐青戦で16三振もしているのは、桐青の投手が決め球・シンカーを持っていたからだが、倉田が直球主体の配球をしながらもこれだけの三振が奪えたのは速球に対応しきれない西浦の攻撃陣(特に下位打線)であり、さらにスライダーが上手く機能していたからだろう。
 美丞は7三振。美丞の攻撃が三塁走者で犠牲フライが打てたり内野ゴロの間にホームに生還するなど、ボールに当てる技術の差も表れている。配球が読まれたことで、三振を狙って取れない・打たせて取るしかない阿部の苦心が推し量れよう。
 「おお振り」にとっての通過儀礼とも言える阿部の負傷と三橋のエースとしての自覚が描かれた対美丞大狭山戦は、点差よりも得るものが大きい試合だったのは間違いない。
(2011.1.23)

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