「おおきく振りかぶって」 対桐青戦精読

講談社アフタヌーンKC ひぐちアサ「おおきく振りかぶって」5〜8巻より



 西浦高校にとって初めての公式戦となる夏の県大会初戦は、前年度県大会優勝校の桐青である。チームの要にして監督からの信頼も厚い捕手・河合を主将に、フォークやシンカーといった決め球を持つ好投手・高瀬、長打力抜群の青木と、桐青にとっても大会初戦となるこの試合にレギュラーで臨み、西浦にとっては・というよりも作品にとって勝つもあり負けるもありという展開がために、先の読めない試合が描写された。最後まで目が離せないフィクションの野球を読んだのは何年ぶりだろう……。さて、ここでは、対桐青戦を追いかけてみる。

1 1回の攻防
2 コーチャーズボックスの田島
3 先取点の意味
4 スクイズを決めろ!
5 空振り三振は正面から描け
6 9回の攻防
あとがき 河合和己のラストゲーム


1 1回の攻防
 西浦先攻。練習試合の三星戦とは打順を変えた。1番の泉は三星戦で野手の力を見抜く眼力、抽選会で高校野球の知識を披瀝するなど、当初から野球に詳しい人物として描写されている。打席で高瀬を見たときも、投手についてのデータが復習のように語られる。一方の桐青の捕手・河合は、1年生チームとはいえ全くデータがない対戦相手に不安を吐露し、両選手の試合に臨む姿勢に大きな差が現れている。前巻から対桐青戦に向けたデータ収集や練習の過程を知る読者にとって、しかし実際の試合で成果が出せるかが注目される大事な描写である。バントの構えで球筋を見極めるのも常道だ。結果、泉は安打、栄口は犠打で一死二塁となる。
 この2打者において河合は動きをうかがうリードに終始する。ノーデータがための策だが、続く巣山の犠打で西浦は田島頼みの得点パターンを早々に明かすことになる。けれども河合は気付かない。信頼出来る四番打者、読者にとっても彼の活躍は期待しているところ。西浦を見くだしている河合の心理は、読者にとっては不快にうつるかもしれない。だが、彼のこの心理は最終回の告白を引き立てるために必要な描写であり、読者にとってもちょっとしたカタルシスを得られるところでもあるが、それは最後の節で述べよう。
 河合の油断は、西浦の急所である田島の存在を考慮できない点で致命的だった。田島の試合での働きを考えれば、彼を封じることこそ西浦の攻撃を封じることに通じたが、彼はそれを怠ってしまったのである。そういう点では桐青の監督もそうだろう。1年生の細い身体に力を感じないのは致し方ないとしても。
 高瀬と田島の初手合わせは、初球外のフォーク、二球目外のシンカー、三球目外のシンカーで三振である。シンカーは基本的に遅い。高瀬の直球は劇中130キロと推定されている。そこから考えると、シンカーは約110キロ程度だろう。変化球の描写を見ると、野球マンガでそれを描く宿命としての変化するコマを投球から捕球の間に挟むことで、遅い変化球という印象を与えることが出来る。これは直球やスライダーといった速い変化球と比較するとはっきりする。遅い方がコマを増やして間をとる傾向が強く(たとえば三橋のカーブとか)、速い方は変化する描写そのものをカットする傾向がある。ボールの軌道を描くことは、実際の野球を観戦すれば視認出来ないために、ほとんど想像上の描写であるが、マンガの場合は、速球との対比として有効なのである。田島がシンカーをどう攻略していくかを見る上でも、この間は、打者にとってもボールを見極めるコマが描けることにもなる、球筋が見えなければ当然打者視点のボールは描かれないだろう。
 では、三橋の遅いボールはどう描かれているだろうか。1回裏、1番真柴への初球は外の直球、投球から捕球の間に1コマ、明らかに遅いボールの描写である。二球目の描写で真柴の戸惑いと捕手・阿部の余裕が対照的だ。「なんか なんか」と迷っている真柴の心理を読者に強調させると、三球目はめくり効果で唐突さを煽り、まさにわけもわからないうちに三振していた、という絵である。真柴は三橋の球筋を見極めていないことも含めての三球目の軌道の絵の省略である(つまり、真柴の視点でここは描かれているわけだ)。この緩急は、三橋にとっても爽快であり、読者にとっても痛快だろう。
 2番松永を初球内野フライに仕留め、3番島崎はライトファールフライ。桐青が西浦の情報を得ていないために、何をどうすればよいのか全く意思が統一されていない。監督自身が様子を見るために選手の判断に任せていることもあるけれども、表の河合の配球同様に、相手について何も知らない、ということの恐ろしさと油断による小さなミスの積み重ねが、最後の最後に挽回できないほどの差を生んだのである。

2 コーチャーズボックスの田島
 試合の行方の鍵を握る人物のひとりである田島は、西浦の打撃の要にして天性の眼力の持ち主である。1巻で彼の眼の良さは説明されているが、ここでもそれは発揮され、桐青ベンチを惑わすことになる。バッターボックス以外でも常に戦い続けている彼が、2回表、一塁コーチャーズボックスに入ったのは偶然だろうか。いや当然現実的に考えれば単なる偶然である。さてしかし、作劇の面から考察した場合、この偶然はあまりにも作為に溢れている。
 西浦が一塁側ベンチに入っていること。補欠の西広はそこから遠い三塁側のボックスに入るのは自然である。三星戦で三塁側ベンチだった西浦は一塁側に西広を置いている。守備機会のない彼にとって、攻守交替のために急かされない位置は、そこしかない。さらに10人しかいない西浦の一塁側ボックスにはその回の先頭打者から一番打順の遠い打者(ハッテリーを除く前の攻撃の最後の打者)が入るのも基本である。5番花井からの打席となれば、入るのは田島となる。そして高瀬のモーションの癖が背中に表れるという点。捕手の河合からは投手の背を見る機会はほとんどないだろう、彼が癖に気付かないのも無理はない(一塁を守る本山が気付けって話しだけどな)。
 田島が高瀬の牽制に注意を向ける場面は、その描写においても読者の視点を田島のそれに誘導させている。コマの中心に・読者の視線に田島が入るような構図をとるのである。
 最初の牽制場面。浮き足立つ高瀬を落ち着かせるために、間をとらせようと河合は牽制を指示する。一塁走者は先頭打者で出塁した花井。セットポジションの高瀬、リードする花井。だが花井の姿ははっきりと描かれない。「リーリー」と指示する田島の背が中心に牽制直前の絵が入る。ここから2頁、田島の姿は描かれない。制球が定まらず、もう一度牽制のサインを出す河合が高瀬に返球、それを捕る高瀬、しかしコマの中心は遠くの田島である。で、田島のアップ。彼が何か考えていることがここで判然とした。一回目の牽制で高瀬が一塁に投げた瞬間に「バック」と声を掛けているが、二回目は高瀬が一塁に振り向いた瞬間に声を出している。
 田島の眼の良さは1回の三振した場面でも強調されていた。河合自身、身体の小さな彼を見て、目がいいだろうと予測しながら、シンカーという決め球に頼る安易な策(もちろん、もっとも安全な策でもあるんだけど)によって忘れてしまう。なめてかかっているせいだけれども、これも小さなミスと言えるだろう。
 花井の単独スチールとなる場面では、選手たちの驚きがこれまた上手く描かれている。三星戦ではなかった観客の反応だ。
 観客は結果しかわからないし知ることが出来ない。応援団の浜田や途中から観戦に来た三橋の従妹・ルリ等野球に詳しい者たちによる多少の推測はあるけれども、ひとつの安打や一個のアウトで一喜一憂する単純さ無邪気さが選手たちとの意識の差を明瞭にする役割りを担っている。 花井の盗塁は、河合が左打者・沖が邪魔で送球できなかったという偶然があるにせよ、成功した。「ナイスラン花井」と事情を知らない応援が入り、また何かと選手たちに声援を送る栄口(彼は監督の横で、ちょっとしたことでも声を出し、チームを盛り立てようという姿がちょくちょく描かれている)さえ監督の反応に怯えている。この対比は野球に詳しくない読者に事態の重要性を訴えている点で、また、先取点の意味を考える点でも見逃せない。

3 先取点の意味
 二回表、先頭打者の5番花井がセンター前にポテンヒットで出塁。盗塁後、6番沖はストレートの四球で無死一二塁。7番の水谷を迎えた場面。三星戦の失策がいまだに忘れられない彼だが、ネクストバッターズサークルでキョドキョドしている三橋の姿が、彼に活力を与えるきっかけとなっている。二塁手の好手に阻まれたものの、彼の巧打とセンター方向への打球は8回の打席を盛り上げる上で欠かせない前振りとなった。一打席とも無駄のない描写の一例である。一巡目の結果が河合の配球に影響することを考えれば、全打者の打席の心理状態と捕手の思考を詳細に描くことには意味がある。野球マンガでは試合をいかにして省略して描くかという点も重要であるが、たとえ三者凡退に終わるような平凡な回でも、後の展開を生かすならば、描かれるもの全てに意味があると考えるべきだ。「おお振り」は、まさに考えるにふさわしい構成が練られている。
 水谷はセカンドライナーで一塁封殺、二死二塁となるも8番三橋は当たり損ねが幸いして一塁内野安打となる。二死一三塁で9番阿部。ここで先取点が入るわけだが、この点の取り方、個人的に感動したものである。
 西浦打線で高瀬の投球に対応できるのは田島だけである。他は直球とスライダーに合わせるのがやっと、シンカーとフォークには手が出ない。これだけ弱点を抱えていながらも、河合の探りながらの配給のおかげで打てる機会を得ている。前巻の打撃練習を思い起こせば、彼等がそれなりに速い球を打てることがわかるから納得の結果だろう。狙い球を絞るというよりも、打てる球だけを狙って打たざるを得ない状況が好転しているわけだ。この辺は桐青の打撃陣と逆である。三橋の球種を探りつつ、投球パターンをうかがう。いつでも点が取れそうだという余裕が成せるわざではあるけれども、西浦が初回から目的を持って試合に臨んでいる姿とは対照的である。河合の心理状態を借りるまでもなく、桐青は全体的に、緩い。その象徴として、浮き足立つ高瀬に焦点が定められるのである。
 河合は高瀬の投球内容から彼の緊張を察した。百枝監督もまた高瀬の立ち上がりを不調と判断、外の制球が定まらないだろうと踏む。水谷へのスライダー狙いの指示は、河合の順当な配球と相まってどんぴしゃで当たった。不安定な制球も三橋に対して外に投げようとした直球が中に入ったことで証明される。周りの判断によって高瀬は調子が悪いことがはっきりしていくものの、それに気付かない本人の冷静さは、やはり安定していない。イニングを終えてベンチに戻った彼は、淡々とモーションを盗まれたらしいと語りながらも、1点を取られた実感に乏しい。三橋の昂揚状態と対照的だ。
 三橋の精神状態は挟殺される失態も含めて常に先の塁に意識が向かっている。彼の思いは次に出塁した時に選手によって果たされるけれども、前に行きたがる状態は、3回裏の後の阿部と百枝の会話「調子は良すぎです」「今日の三橋君は飛ばしすぎ」によって解説される。本人が意識できない・把握できない身体の具合が第三者に捕捉され説明されると、次はそれが後押しされる描写が入りやすい(読者は彼等の説明によって三橋に感情移入しやすい)。さらに三橋が望みどおり得点できれば、ちょっとした昂揚感を味わえよう。野球マンガは点を取る(主人公チームが窮地であれば、得点を抑える)という描写そのものが興奮を伴っているために、これが続くと内容をどんなに劇的にしようとも飽きてしまうだろう。例えば毎回ピンチを迎えつつ得点をしのぐという描写があったとしても、それが続くと、またこの回も抑えるんだろうという読みが生まれて興奮が半減してしまう。
 だからこそ、先取点をいかに描くかは、試合展開を終盤に盛り上げるならば、なんとしても素っ気無いものにしたほうがいいのだ(あくまでも試合を劇的にする一例としてね)。これは西浦の得点経過を追うだけでもわかる。挟殺プレーの間の1点、スクイズ、満塁からの適時打で1点取るも2点目は阻まれる、そして2点適時打。得点パターンがようやく最後に実るとともに、一挙2点が入る・しかも逆転打。だんだんと攻撃の気を熱くしているのが明白だ。守備面も同様のことが言える。あっさり1点返され、スクイズもあっさり決められ、暴投で3点目を献上、まともな反撃を喰らってさらに失点。相手の攻撃が徐々に西浦を追い詰めるように盛り返しているのも同様にわかるのである。
 というわけで、なんだかわからないうちに取ってしまった1点は高瀬の精神状態そのものを表すとともに、スコアボードを見、三橋の顔を思い出し笑いすることでようやく平常心を取り戻した彼を、立ち直らせる1点にもなった。本当の戦いはここからなのだ。

4 スクイズを決めろ!
 2回裏、桐青は4番青木、5番河合、6番本山と三者連続三振。三橋の投球と阿部の配球が桐青打線を封じた。様子見とはいえ、遅いボールに三振してしまうことに桐青監督は気味の悪さを覚える。
 3回表、立ち直った高瀬は阿部を三振に仕留めるも、泉に安打を許し、栄口バント失敗も巣山にも単打を打たれて二死一二塁、スコアリングホジションで再び田島を迎えるが、河合が監督と同じ不安を覚えつつ高瀬の好調を引き出す配球で直球見逃し三振に打ち取り、守備面の気味の悪さはおおかた払拭された。桐青にとっての課題は三橋の攻略であった。3回裏は全て三橋の投球の見極めのために捨て、勝負は中盤と決め込む。
 4回裏。打者が一巡したところで三橋の攻略が本格的に始まった。
 1番真柴はシュートをセフティバント、快足を活かして出塁する。浮き上がる感じがする三橋の直球を見せ球に留めている阿部にとって、変化球主体の配球は苦労だろう。彼の心理は細かに描写されているし、桐青の攻撃も打者や監督によって説明される。両者の出方がわかった状態で読まれるために、読み所は作戦の内容云々よりも、その後の展開でこのイニングの攻防がどう活かされるかという点に注目すべきである。となれば、それ以降の展開に着目しなければなるまい。4回裏に起きたこととその後の展開を列挙してみる。
 小雨によるグランドのぬかるみは青木のバントの打球ではっきりした。これは5回表の阿部のバント、6回裏の三橋の暴投へと繋がっていく。また河合の飛球をスライディングキャッチした田島によって投手前の地面はかなり凸凹にされた。5回終了後のグランド整備を考えれば、5回がもっともグランドが荒らされた状態である。
 桐青のバントの打球が三橋の球種によって左右される点。直球なら小フライ、変化球なら確実に転がせる。三橋の直球の扱いが難しいのがこれである。高瀬のフォークやシンカーのように空振りを狙えるわけではなく、たまに空振りさせるけれども、見極めて打てば当てられる。しかもバントなら違和があろうと遅い故に勢いを殺して確実に出来る。走者のいる場面の配球は、打球の方向も考慮しなければならず、4回裏、阿部は3番島崎に右方向に打たせようという配球を試みるが桐青監督の左打ちの指示によって失敗に終わるのも、決め球としての直球を封じた時の三橋の脆さが露呈された結果となる。桐青にバントをさせたい時の配球に直球を使えないのだ。
 ならば直球ばかり放ればいいじゃない、というわけにはいかないのが野球である。これは田島への決め球をシンカーに頼りすぎた河合が最後打たれたことを考えれば、決め球を後半にとっておく阿部の配球術が間違っていなかったことを証明している。三橋の直球も一試合の中で攻略される恐れがあるからこそ変化球を混ぜなければならないのだが、三橋の投球を効果的にするための変化球が三橋攻略の端緒となっているのだから野球は面白い。
 そして監督の采配の差。力だけを見れば、桐青監督が経験豊富で選手からの信頼の厚さ(失敗した時の選手のおびえを見れば、あれだけ怖い監督にもかかわらず監督の言葉を信用している、つまり尊敬しているってことだろう。百枝も怖いけど)が百枝を圧倒しているだろう。唯一勝負できるとすれば、選手との絆、くらいだろうか。これは少数故の利点だ。桐青が積極的に作戦を立てて動いているのに対し、西浦は相手の動きをうかがう程度である。作戦を読むというよりも大まかに戦況を分析して采配する感覚だ。阿部に1点取られても構わない、という指示を与えることで、阿部もそのような配球を心がける。かと言って大雑把ではなく、1球ごとに相手の動きをうかがっている臨機応変な対応も出来る。裏をかこうとする作戦を立てる桐青ベンチと相手を注視して作戦を立てる西浦ベンチ、両者は5回表に激突する。
 三橋は死球で出塁後に盗塁、阿部セフティバント、泉三振で一死一三塁。打者は西浦ナイン中もっともバントを得意とする栄口である。ここでスクイズがないわけがない。桐青もそれを承知している。そのため最初の作戦は満塁覚悟の全球外す指示だ。一方の西浦の百枝の心理はあまり描かれない。相手がスクイズをどれくらい警戒しているか見詰めている。判断材料が三塁手と一塁手の動作である。カウント1−2となったところで桐青監督は三塁走者が投手であることを思い出し、クロスプレイは避けて強行策かもしれないとスクイズ警戒を解き、二野手を動かさない。百枝はこれを確認し2−2となったところでスクイズを敢行した。百枝の解説が入る、「2死になっても満塁になってもファースト・サードはベースから離れる」、つまり走者一三塁・本塁タッチプレイという状況がスクイズに備える野手の基本的な動きを限定しているわけだ。4回裏の一死一三塁というピンチを「ほぼ最悪な形」と評する百枝、一塁走者の盗塁を利してワンストライクを稼ぎ「(走者を二三塁に背負うほうが)守りやすい」と言う阿部も、投手の後ろを守る四人の内野手のうち二人が牽制のためにベースに固定されてしまう不自由さを指しているのだろう。
 しかし、実際の作戦が監督の思惑通り行かないところまで描かれているのがにくい。実行する選手たちが試合の行方を決めていくのだから。

5 空振り三振は正面から描け
 三橋の弱点はカーブである。ストレート系のシュート・スライダーといった変化球に対してカーブはその遅さと球筋によって見極めが容易で、もっとも狙いやすい変化球である。桐青がカーブ狙いを徹底するのも道理だ。2対0、西浦がリードするという予想外の展開に当初だらだらしていた桐青ナインは、監督の檄もあって引き締めて反撃を開始。4回こそ西浦の好守に阻まれたものの、投球パターンを見越して具体的に作戦を立案、指示を得た選手たちは力を発揮し三橋に襲いかかった。カーブが狙われていることに阿部は気付くが、緩急を付けるために・直球のためにカーブは捨てられない。さらに、バントをさせるために投じさせた変化球まで痛打され、結果、5回に犠牲フライで1点、6回にスクイズで1点を返され、同点とされる。三橋が少しずつ攻略されていく。この感覚は三星戦で味わえなかった。河合が三橋の直球に疑惑を抱き続けている、その間に得点されていく。7回にはついに勝ち越されて桐青の3−2となる。
 さて、この節では、試合内容から少しはなれて作劇パターンを阿部の配球のように考察してみよう。
 指標となるのが構図である。テレビ中継の影響かどうかまではわからないが、野球マンガは基本的にテレビ中継視点(センターバックスクリーンからの映像)・捕手を正面とする構図(以下「センター視点」と略す)が多いような気がする。昔の野球中継はバックネット裏からだったので、例えば、ちばあきおの野球マンガ(1970年代。センター視点の映像による中継が始まったのは1978年頃らしい)を読むとバックネット裏かそれに近いところからの構図(以下「ネット裏視点」と略す)が多い。ちばあきお的野球マンガの雰囲気を取り入れた現在(2007年5月)連載中のコージィ城倉「おれはキャプテン」では逆にセンター視点が多い。「スコアボード雑感」(http://www.h2.dion.ne.jp/~hkm_yawa/kansou/ookiku03-06-score.html)と通じるが、「おお振り」は選手の心理に接近した描写が多い作品なので、スコアボードは終盤になって描かれる回数が増える。これは選手たちが残り少ない回による緊張感、点差を気にするようになったことによる焦りなどが働いた結果だ。この視点・構図は誰の主観によるものなのかを考えると答えのひとつが見えてくる。
 センター視点で中心になるのは捕手である。しっかりと捕球し、見送りか空振りする打者、判定する審判、だいたいこの三者が描かれる。ネット裏視点は逆に三者は背中かそれに近いところが描かれ、遠くの投手が、その後ろの野手が描かれる。では実際にどちらの描写が多いか。結論から言うと、センター視点が圧倒的に多い。三橋と高瀬の投球場面は合わせて160を超える。うちセンター視点が約90(「約」と付けたのは統計に自信がないから。以下の数字も大雑把に数えただけ)、ネット裏視点が17、残りのほとんどが横からの視点である。しかし三振場面に限ると、この開きはたちまち拮抗する。確認できた三振場面13(多分もう少し多いと思うけど)のうち、センター視点は4、ネット裏視点が6、残り3と、ネット裏視点による三振場面が上回って描かれているのである。でも、センター視点のほうが断然迫力がある。背中ばかり描かれて、遠くの投手は表情がはっきりしないネット裏視点では、誰が・どこが中心にあるのかわかりにくい。ネット裏視点の三振は、投げられたボールが画面の奥から向かってくる感覚を迫力ある演出と捉えた結果かもしれないが、少なくとも空振り三振の場面はセンター視点に限る。比較するとすれば、1回の田島と8回の田島、いずれもシンカーを空振りして三振している場面をみてみよう。
 1回の三振では、シンカーにタイミングが合わない田島のスイングが描かれる。ここ(「おお振り」1巻 緩急いろいろhttp://www.h2.dion.ne.jp/~hkm_yawa/kansou/ookiku.html)でも述べた、踏み込んでスイングを始めた姿を描き、めくり効果で期待を煽るという一連の解放感の演出が、ページをめくるとシュートしながら落ちていくボールの軌道の絵がまずあることで、読み手も調子を崩してしまう。田島の「にいっ」というセリフは1・2・3とテンポを計って打つ、その「2」の部分であろう。それが合わず、ネット裏視点で空振り三振となる。主審の判定の声とともにマウンドを下りていく高瀬、初回ということもあって昂揚感のあまりないさっぱりした描写である。
 8回の三振は緊迫した場面である。直球を何度もファールし粘る田島と根競べをする河合だが、集中力の切れない田島に敵わず、決め球のシンカーを投じさせる。すでに何球も見せている球だけにストライクゾーンに入るシンカーは冒険である(阿部が三橋の直球の球筋を見極められているか否かを盛んに気にしているのも同じ意味だ)。田島は待っていたシンカーを打ちにいくが、空振りしてしまう。7巻108頁のセンター視点による空振り三振の場面の迫力は絵の緻密さも手伝って1回の比ではない。
 ネット裏視点の空振り三振は、実は試合がすすむにつれて描写を減らしていく。これは作者自身も迫力を求めた結果、描き込みの多いセンター視点の迫力を選んだのか、単なる偶然かアシスタントが増えたので緻密な構図を選んで描けるようになったのかいろいろ憶測は出来るけれども、いずれにしても、試合の昂揚感と構図の昂揚感が合致してストーリーの盛り上がりを煽ったのは間違いないのだ。
 さてしかし、構図を調べるついでに前後のコマに何が描かれているかも調べたのだが、意外な結果というべきか当然というべきか、投球場面のコマ、捕手が受ける又は打者が打つコマ、この時の主観を想像すると、前者は当然投手、後者は捕手が打者になる。ではセンター視点・ネット裏視点の次のコマは誰の主観によるコマだろうか。一番多いのが第三者(両視点では描かれていない人物)の主観だった(全体の約4割)。投球の結果に対して解説をしたり思惑を語る監督や選手たちの姿が描かれやすいからだろう。つまり、場面を仕切ってい真のる主役は、投手→捕手・打者→第三者すなわち打球の行方の三点を結ぶもの、ボールなのである。
 ボールを中心に試合が描かれるって言えば当たり前にも思えるし、主役はどんなキャラクターでもなくボールなのかと考えれば意外かもしれない。だが、センター・ネット裏両視点全107コマ中、次のコマで投手の主観になるコマはわずか3コマしかなかったと言えば、やはり中心はボールだろう(そういう意味で考えれば、両視点の前のコマでもっとも多く描かれるのも当然投手となる)。投げたボールの行方が試合の結果を左右するのだから、結果を語る第三者の視点になるのは必然なのである。

6 9回の攻防
 試合の流れを霞ませたのが雨である。両チームにとって雨は運も不運も呼び込んでいる。ぬかるみによって打球の勢いが死んだり、転んだり、スライディングしやすかったり。
 7回裏の三橋の暴投は不運だったろう。勝ち越されて初めてリードされ、追う展開になった西浦にとって田島頼みの攻撃には限りがある。そんな8回表、田島は三振してもう既に万事休す感ある西浦だったが、しぶとく好機を手繰り寄せて一死満塁の場面を作る。打者は水谷、2回表無死一二塁の場面での打席の記憶がよみがえる。水谷はネクストバッターズサークルで雨に打たれつつもじっと戦況を見つめている三橋をまた視界に捉える。今度は7イニングをすでに投じた後だ。打ち込まれて取られた3点ではない。三橋はがんばっている。回を重ねるごとに高まっていた熱が、水谷にも感染したかのように、ただ自分に出来ることだけをしようと、スライダーを強振した。打球はあの時と同じだ。二塁手島崎が反応して飛びつこうとする瞬間、ぬかるみに足を取られてしまう。今度は雨が西浦を救ったのだ。
 しかし8回裏、桐青は監督の指示で強攻策を断行、阿部の配球の裏をついて連打し、あっという間に1点を勝ち越してしまう。素直にバントをさせようとした配球を攻略された阿部の甘さと言うべきか。
 4−3、桐青1点のリードで迎えた最終回の攻撃は、対をなしている。両チームとも1番から始まる打順、4番が決め球を攻略出来るかが得点を左右した。1回の攻防とも比較できるが、桐青ナインはリードして最終回を迎えたことで勝利を確信してしまう。1点のリードでは足りない監督の思惑に選手たちは気付いていない。ここまで監督の指示にきっちりと応えていた彼等が、序盤のような楽観気分に支配された。  雨の湿り気がシンカーのキレをよくした一方で、フォークは制球定まらず投げにくい高瀬の配球は直球中心になる。直球を捉えきれない理由はフォークが脳裡にあるからだが、それがないと確信した時、無死一二塁で栄口は犠打をする自信を得た。あとは緊張しないこと。サードランナーを見てリラックスする反射の訓練の中で隣と手を繋いで早朝に行った瞑想を、彼は巣山と握手することで思い出す。
 だが、続く巣山は三振してしまう。二死二三塁。田島の五打席目である。
 高瀬・河合バッテリーの余裕に対し、田島の心理描写は抑えられる。彼の集中する様子が表情から伝わる。そしてシンカーに向かっていく田島の描写、これはシンカーを空振り三振した過去2度の描写とほぼ同じである。踏み込んでいく田島、ページをめくって変化するボール、田島のスイング、またも読み手のリズムは崩され、また三振してしまうのではないか、という不安が同じ演出を施すことでよみがえる。だが、ここで1コマ加わった。田島がバットをさらに伸ばすコマである。読み手はさらに間を作られ、田島のようにバランスを崩してしまうが、だからこそ田島と同じ感覚を味わえる。ほとんど左手一本でシンカーを捕まえた打球はレフトの頭上を超える逆転打となった。一塁ベース上で雄たけびを上げる田島!
 マウンド上で呆然とする高瀬はどうだろう。本来ならば彼は本塁のカバーに動いていてもおかしくはない。8回に勝ち越し打を打たれながらも阿部のカバーに入っていた三橋とは対照的である。
 9回裏。桐青は初回の西浦のように球筋の見極めを行った。遅すぎたが間に合わなかったわけではない。西浦ナインが同じようにして高瀬の直球を見極められるか確認したように1番真柴はバントの構えをし、三橋のボールを凝視する。三橋は、カーブを投げられない。シュートもスライダーも前回攻略されている。頼みの綱は直球しかなかった。河合がシンカーを序盤から見せて結果打たれた、阿部は直球を温存して結果抑えてきたけれども、三橋はまだ直球に自信がない。真柴にシュートを簡単にセフティバントさせられ、阿部に激怒され、三橋は何を投げても打たれると考え始めた、「中学の時と同じだ」。その時、中学時代にはなかったナインの声援が三橋の精神力を、彼が気付かないところで支えるのだ。
 声を出すって当たり前なんだよな。8回に田島と対決した高瀬の姿にたまらず「がんばれー」と声を上げた桐青ベンチの利央やうしろを守るナインの声は、当たり前なんだよ。高瀬が田島を打ち取ってガッツポーズし「おらぁ」とまで興奮しているのも、そういった声援に応えた結果だ。
 勝利の瞬間、だが三橋は亡羊としたままだった。整列した頃には半分眠気なまこで、球場を出てすぐに寝付いてしまうほど疲労していた。勝っても普通に喜べない三橋の不憫さは次の「ひとつ勝って」でたっぷりと描かれるけど、試合というか読後の余韻は、奇跡を目の当たりにしたというよりも、やっぱり普通のこと・自分たちが出来る野球をやり遂げることの重要さを感じた。弱いからこそ強がらず、打てない球は捨て、確実に走者を進め、ひとつひとつのプレーをおろそかにしない。相手を調べ事前に対策を練り、作戦を組み立てる。普通のことの積み重ね故の勝利であり、奇跡ではない。勝つべくして勝った、そんな印象さえ抱いてしまうほど、迫力に満ちた試合構成だった。

あとがき 河合和己のラストゲーム
 桐青ナインで三橋の直球の浮く感覚を察知し、本当の決め球を見抜きながらも、何故打てないのか最後までわからなかった河合は、ゲームセットの瞬間をネクストバッターズサークルで見詰めていた。桐青選手の心理を代表するような形で彼は終始描かれ続けていたが、試合後のベンチで、ようやくひとりの高校球児として・一個のキャラクターとしての息吹を与えられる。油断してはならないと言いながら本心は隠せず、結局序盤の3イニングを捨てる結果となった。これは監督も悔やまれるだろう。「一日の長か」という河合の思いは、最後に涙となった。
 思えば彼の初登場は、西浦が武蔵野と浦総の春の大会の試合を観戦に行ったときである。武蔵野の注目投手・榛名の投球を見に多くの高校が偵察に来た、その中の一人として、彼は高瀬、利央を伴って球場に来ていた。不満顔の利央に「お前 あんまなめてっとなァ そのうちイタイ目……」というのが最初のセリフである。夏の大会のために榛名を見に来た河合が想定していたのは、武蔵野との対戦。シード校同士の対決は早くても5回戦、彼はすでにそこまでは勝ち抜いていくつもりだった。それでも抽選会で西浦との初戦が決まって何点差つくんだろう・2軍使おうかなどと気が抜けているナインに向かって気を引き締める言葉を放ち、主将としての格を見せ付ける。
 感激する応援団の浜田たちに応える西浦ナイン。それをベンチから眺めている河合。観客席の見方の応援団は、西浦の健闘を称える。その声を耳にしつつ、河合が荷物をまとめる最中に「必勝祈願」のお守りを見つける。家族の激励の言葉が思い出された。主将としての誇りもあっただろうし、弱音を吐くわけにもいかない。だからといって自分を励ましてくれるナインはいない、孤高の存在。家族からの労わりの言葉、そしてお守りに、彼がもっと早く気付いていれば、油断もなかったかもしれない。そんな彼に、高瀬だけは本音で応えた。
 試合を翌日に控えた練習の後、河合は高瀬に今日までありがと、と礼を述べていた。まるで明日が最後の試合であるかのような言葉に、高瀬は勝ってその次の日も練習がある旨を言い返す。しかし敗戦後に高瀬は「スンマセンでした」とうな垂れながら河合に謝る。皆が涙を浮かべてる中で殊勝に振舞っていた河合は、高瀬の試合前の言葉に「もっと一緒にやりたい」という本音を悟って抱きしめ、泣いてしまうのだった。
 敗れたナインも大事に描写する「おお振り」の戦いは、まだ続く。
(2007.5.30)
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