手塚史観

「一輝まんだら」と「陽だまりの樹」



 学校の歴史の授業はとかく丸暗記で済まされやすいし、私も高校の時、歴史が好きだと告げると担任の教師に暗記するだけで楽だからな、とからかわれて苦々しい思いをしたことがあります。想像力のない人々にとって「いい国作ろう鎌倉幕府」は1192年という意味しかないでしょうが、鎌倉幕府がいつ頃に開かれたのかは実は諸説あって、その諸説の中でもっとも有力ほとんど確実なのが1192年という年に過ぎないのです。学校の授業やテストになんか絶対出てこない歴史の裏側に私は随分夢中になりましたけど(自分の調べた細かな事柄がテストに出題されないと、してやったり、という感情を抱いたひねくれ小僧でしたって今もそうだけど)、それらを詳らかにするのが歴史家なら、想像力を働かせて存分に悲劇喜劇を練り上げてしまうのが歴史作家と言えるかもしれません。そういうことで、手塚治虫も立派な歴史作家のひとりだとわたしは勝手に思っています。
 歴史物時代物でも、史実を無視したほとんどSFのような物語もないわけではありませんが、手塚後期の作品群には歴史を歪めず、限られた世界でどれだけ自分の想像力を広げることが出来るかに挑戦しているような感じがあります。それは物語作家の本分でしょう。手塚のその力は「火の鳥」で独り善がりに暴れて作品の主題そのものを失うという失態を犯しましたが、おごらず真面目に描かれた他の歴史物は読み応えがあります。
「人間ども集まれ!」「上を下へのジレッタ」などの大人マンガは発展せずに手塚の独壇場で終わって衰退し、己の主張を直截読者に訴える術は劇画しかなくなってしまい(子供マンガでも手塚の虚無観は垣間見れますが、やっぱりもどかしさは隠せませんね、それが作品自体の面白味を薄くさせています)、手塚は新しい物語を構築しました、劇画です。60年代から70年代にわたって劇画と戦いつづけた手塚が「火の鳥」で劇画を完全に受け入れられず失速したため、半ば開き直ったように自身の作風と劇画を融合し完成させた(と言っても、手塚の劇画は年々格調を帯び、発展しつづけています)手塚風劇画は、彼にとって好結果を生みました。従来の子供漫画ではなかなか伝えにくかった人間の生々しさを絵だけでも表現できるようになったのです。
 人間の業をしつこいくらい見せ付ける手塚の劇画はビッグコミックを主舞台に「きりひと讃歌」等の佳作を発表し続けて突如実在の人物を主人公にした作品を描きます、「一輝まんだら」です。一輝とはもちろん北一輝のこと、2.26事件の首謀者として処刑された思想家ですが、なんで手塚はこの人物に興味を持ったのか謎です。見当がつきません。しかもこの作品、主人公は一輝でありながら彼はなかなか登場しないのですが、こういう演出は私の好みです。「ブッダ」は題名通り釈迦の生涯を綴った話ですけど主人公たるブッダの登場は潮出版社版のコミックス全14巻の二巻目で、全巻通じて登場する人物はタッタという仏典には登場しない手塚の創作した人物ですね。これらに限らず、手塚は主人公以外に重要な役回りをする脇役を用意するのが癖のようです。「一輝まんだら」でその役を負う三娘(さんじょう)は半ば主人公のように奔放に暴れて物語の中盤で一輝に出会って物語がようやく彼を中心に動き始めるのです。
 こういう物語の構成はとても大事なことでして、そもそもフィクションが大前提のマンガにいかに現実味を出すかは劇画の手法だけでは物足りないのです。特に歴史物を扱うとなれば、現実味は重要な要素になります。これがないと手塚版「新撰組」のように、そりゃないよと拍子抜けしてしまうし、実在の人物を登場させてもしらけてしまうのです。そこで、影の主人公の出番です。一輝は思想家ですから、劇中で「革命」だのなんだの叫んでも全然読者に意味は通じませんので、実際に革命に触れた脇役が必要になります、それを三娘という中国人女性に手塚は任せ、革命に奔走する男たちに出会わせているのです。なぜ中国人か? 歴史を勉強しなさい。(しかし残念なことに「一輝まんだら」は雑誌の都合により未完のまま筆を折らされてしまいます。全集のあとがきで続きを書きたいと切望していた手塚の思いは果たせぬままに作品自体も中途半端な出来となってしまいました。)
 この狂言回しの役は、古くは「ロスト・ワールド」「ジャングル大帝」のヒゲオヤジがいますね。そして晩年の大作「アドルフに告ぐ」では峠草平がこの役を果たします。職業が新聞記者ですから、狂言回しにもってこいの設定です。また変わっているのが「陽だまりの樹」です、この作品に狂言回しはいないようでいます、作者本人です。三代前の先祖・手塚良仙と下級武士・伊武谷万次郎の二人を軸に従来の幕末観を改めさせるように描かれたこの作品は手塚の想像力が実に生き生きと跳ねまわっています。丹念に調べ上げた資料に、マンガだから許される多少のフィクションを付け加えてさも事実であるような錯覚を読者に与えています(ハリスやヒュースケンの日記を引用して架空の人物である伊武谷万次郎を実在の人物であるかのように描き続けています)。さらに歴史上の人物の織り交ぜ方に抜け目がありません。幕府の重臣を次々と登場させたり、適塾の人々に福沢諭吉をはじめとした有名人に惜しみなくセリフを与えています。
 私が一番注目したいのが楠音次郎です。物語の当初から伊武谷万次郎の宿敵のひとりとして度々登場している彼、てっきり架空の人物かと思っていたら実在していたんですね。劇中、楠は「真忠組」を結成して漁村で略奪を繰り返した結果、伊武谷率いる幕府軍に討伐されてしまうのですが、この真忠組事件は幕末史に残る攘夷運動のひとつとして刻まれています。楠は首謀者のひとりとして名をとどめていて、その生涯には不分明な点が多く、そこに手塚の想像力が介入する余地が多分にあったわけです(真忠組は、劇中で盗賊扱いされていますが、彼らの行為が単なる略奪なのか、はたまた倒幕あるいは攘夷運動のひとつだったのか、「賊」か「義兵」か未だはっきりしていないのが現状です)。
 歴史物で欠かせない教科書に載るような有名人を、書くほうも読むほうもどういう扱いをするかさせるか期待してしまいます。すでにどんな生涯を送ったのかは周知なわけですから、どれだけ羽目をはずさずに史実通り動かすのか? 「陽だまりの樹」でも何人かゲスト出演のような登場の仕方の人物がいます。たとえば橋本左内、唐人お吉、新撰組などなど登場しますが、なんといっても幕末のスター・坂本竜馬ははずせません。で、伊武谷と坂本竜馬の件も当然描かれます。これがもとで出世した伊武谷は職を解かれてしまうのですが、さて、ここが問題です。この話が描かれた時代は1864年の第一次長州征伐の時です。坂本竜馬は劇中すでに要注意人物として幕府に目をつけられていたとあり、伊武谷の失脚もそれが原因なのですが、当時竜馬はそれほどの人物だったのでしょうか? 正解は否です。竜馬が幕府に指名手配されるのは翌年の頃からで、当時幕府にとっての最重要人物と言えば、なんといっても桂小五郎です。竜馬はまだまだ無名だったのです。しかし、こんな失態なんて気にならないくらい私はこの作品が好きなのであります。
 手塚の描く歴史物を眺め回してみると、彼の視線の冷たさを感じることが出来ます。手塚にとっては、歴史もひとつのフィクションの世界に過ぎないのかもしれません。手塚の本質は歴史作家ではなく、SF作家ですからね。

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