「あまりに静寂な」

講談社アフタヌーンKC 芦奈野ひとし「ヨコハマ買い出し紀行」第8巻より 「谷の道」



 私はあまりの退屈さに第1巻だけで読み辞めた口である。ところがこのサイトを立ち上げてから次第に漫画を読む速度が遅くなるのを実感するようになって、不意に奥にしまったこの本を取り出して読んでみたら、全然退屈ではなかった。セリフしか読んでいない読書態度を晒してしまい、反省しいしいのんびりと読み込んだわけだが、風景についての本を読んでこの作品に対するまなざしは一層ゆったりとしたものになった。
 第8巻でもっとも素晴らしかった風景が88頁、夜の谷の道である。かつての繁華街通りだろう跡を連ねる樹と化した街路灯のまっすぐな光と現在のくねくねした細い道脇の堤燈の列が遠くまで絡まりながらのびている図。裏表紙では彩色されて描かれているが、本編で味わうべき風景だろう。そもそも夜は昼の煩雑で騒がしいものたちをつつみこんでしまい、夜景に一変させる力がある。うるさく自己主張する建物も塗りつぶされる。そのなかに浮かぶいくつかの光が、星空とは違って身近な印象をもたらす、実際にそこへ行くことが出来るからだ。谷の道も岩や倒木で雑然とし、地面はアスファルトを覆う苔たち、荒廃したというか滅んだというか、結構な無常感をにじませている。それら諸々の感情や印象さえも忘れさせる夜と光の風景は絶品だ。
 もう少し突っ込んだ話をすると、堤燈の光は自然の道である。それが文明の残滓であっても自然と化したものである(この作品の風景にあるたとえようのない感覚が、作者の言うところの「夕凪の時代」、滅び行く文明の侘しさというか、そんなものが根底を流れていることに由来するのは言うまでもない)。一方、その「ちょうちんの光を無視して、別のラインをつく」るまっすぐな道は人間が自然を無視して作ったものだが、長い年月の果てに二つは見事に融合してしまったのである。風景はなにも自然のものだけで構成されているわけではないし、人間の情を受け付けないようなものであってはならない。夜景がきれいな理由は、光の輝きではなく、その光を生んだ人々の息吹であり、感情なのだ。風情とか情景というのは言葉の上っ面のことではなく、実際に風景には人間のいろんな思いがこめられている。ただひとつ、そこには風景を作ろう、という意志はほとんどない。細い道に堤燈をつけていった人々が考えたのは、夜も足元が見えるようにという配慮が元だろう……といった想像力まで喚起される風景だ。
 ところが、音はない。漫画から音は聞こえてこない。実物の風景を眺める上で音は欠かせない要素だが、この作品はあまりにも無音なので音が浮かんでこない。これは本当の静けさだろうか。いや、読んでいる間は実に静かだが、それは周囲の環境である。つまりこれは、読者が静な場所で読んでいるからこそ感じることができる静けさなのではなかろうか。混雑した電車内で読む・校内の休み時間の合間に読む・テレビを付けっぱなしで読むなどといった人は少ないだろう。作品世界同様にゆったりと傍らにコーヒーカップでも置いて読む、そんな感じだ。となると、結局読む環境が影響しているのか?
 静けさは、ときに「し〜ん」と漫画で表現されるように、なんにも聞こえない状態というよりもなにか聞こえそうで聞こえない状態である。無音とは壁を作って音をさえぎることであり(漫画なら「キーン」と表すか)、イヤホンを付けて音楽を聴く行為も、音の壁を作って周囲の音を拒絶するという意味で無音の状態に近い。この作品の風景の無音さ加減はそれとまた違って、表現が足りないといえる。風はいくつかの場面で感じられるが、木々はざわめかない。惜しい、非常に惜しい。しかし私はこの作品から確かに静けさを感じたのだ。何故だろうか。
 サウンドスケープの提唱者で知られるR・マリー・シェーファーは、著書「サウンド・エデュケーション」という音についての100の課題の中で、静寂の本質に迫るためのひとつの単純な方策を述べている、すなわち「ひとつも音を立てることなく立ち上がり、再び座りなさい」。なるほど、この作品の静けさは周囲の環境云々ではなく、ゆっくりと読む態度なのか。静けさは自然と耳をそばたてさせる、想像力も刺激される。
 件の風景の場面でさらに想像を飛躍すると、この風景はもっと濃くなるかもしれない。街路灯めいた樹が光を発する音「ふろろろろろ」「るるるるる」である。ごく小さな音だけど、共鳴すれば異様な印象を主人公に与えた可能性もありうる。谷中に横たわる静寂ともつかない不思議な反響……。もし、この音について主人公が語っていれば、谷の道はもっと素晴らしいものになったに違いない、もったいねーー。

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