拝啓 手塚治虫様第19-1回

「GUNSLINGER GIRL」試論1 血まみれのヘンリエッタ




私的物語論のために
 これから言う「物語」は「ストーリー」とは違う意味で使うことになる。物語論(ナラトロジー)は学問としてまだまとまっていないらしくて、学者によって解釈に隔たりがあるんで、きっちりと定義し難いし、付け焼刃でどうこう言えるものではないので、私の解釈による「物語」の定義であることを前提にしたい。で、物語は大きく4つに分けることが出来る。
 まず「ストーリー」。プロットとかエピードの塊である。起承転結やら序破急やらの話もこれになる。
 次に「キャラクター」。登場人物と同義、混同して使われてても意味に差はない。萌えやらかっこいいなんかの話はここになる。
 第三が「世界観」。前二者が働くための土俵であり、作品を支える骨格である。現代物の作品の多くがこれをあまり考えずに作られるのは、描かれた時代・作品の発表時期の社会が世界観に反映されていることを前提にしているからで、読み手もそれを無意識裡に了解しているからだ。
 第四が「読者」。前三者は読者に能動的に解釈されることで成立するし、どんな素晴らしい作品も読者がいて初めて発見される。作り手も読者への期待を考慮した上で物語を構築し、発表後は作者も読者になる(作者の死っていうことかな)。
 これらをマンガに適用してみる。私がかつて夢中になって読んだ鳥山明「ドラゴンボール」を例にしよう。世界観は作者の好みでもある中華を意識した西遊記風の設定だ。これでキャラクターも自ずと決まってくる。この世界観の中にドラゴンボールという「7つ揃うと願うがかなう石」を加えると自然にこの石を巡るストーリーが浮かんでくる。掲載紙の読者層を意識し、石を揃えて悪巧みを狙うキャラクターも加えると、ストーリーのおおまかな流れは出来上がる。これに作者の趣味をさらに投入して世界観もいよいよ固まってくると、後はキャラクターの詳細な性格付け・格好や描かれ方を詰めていく。連載が始まると読者と編集者側(これも読者ということになる)の要望との折衝が本格化する。またそれ以前から大ヒットした前作(ドクター・スランプ)の次回作という期待感も作者に圧しかかっている。物語を構成する4つの要素は複雑に絡んでいる。どれを重視した考察をするかで物語の評価も変わってくるだろうし、どれかひとつだけでもって評価することの難しさも作品が描かれた背景を俯瞰することで理解できよう。4つの要素を無視して物語について考えることは(私には)出来ないのである。

すべては国民のために
 相田裕「GUNSLINGER GIRL」という作品がある。世界観はイタリアである。現実の情勢を意識した設定でもあり、テロ組織・反政府組織などが登場し、これと戦う政府のある組織が中心に据えられる。秘密の組織で働く男たち・「公社」と呼ばれるそれは、武装勢力との抗争に備えて自ら武装するはもちろんのこと、およそ戦力になるとは思えない外見の少女をパートナーとして協働する。その少女たちが義体と呼ばれる強化体である。「彼女」たちは、それぞれなんらかの理由で選ばれた、可憐に描かれた少女たちで、改造手術によって常人を凌ぐ筋力を持ち、訓練によって銃器の扱いにも長けた戦闘体でもある。「彼女」と括弧書きにしたのは、少女たち自身も自覚しているが、義体が人間と認識されていないからである。義体は筋力の維持や、薬物によるパートナーへの擬似恋愛感情の強制(劇中で「条件付け」と言われる)や短命であることが語られ、少女たちもそれらを受け入れている。こうした設定から、少女やそれらを取り巻く男たちのキャラクターが個々に決定されていく。
 ……この説明はおそらく間違っているだろう。この作品が世界観からではなく、キャラクターから設定されているからである。強引に簡潔に言うと、「銃器を持って暴れ回るかわいらしい少女(できればイタリアで)」という設定がそれである。作者の嗜好によってキャラクターの設定のみが優先されているのである。結果、どのような歪みが生じたかは、たとえばここ(以下「kaien論」と言えば、リンク先の文章を指す)を参考に出来る。現在(2006年3月)まで6巻刊行されているが、kaien論は2巻まで発売された段階で書かれたものであるけど、個人的に「GUNSLINGER GIRL」を考える上で無視できない文章だと思う。「すくなくとも僕の目にはすさまじくグロテスクな物語に思える。」という言葉に、この作品のねじれ具合が表明されている。倫理上民間にこの組織の存在が知られてはならないという掟は当然ありながら街中で派手に行われる銃撃戦、実在のイタリアという国家を舞台にしたことで現実的にスリリングな設定となっている反政府組織(特にアルバニア系組織)の扱い等、少女たちの描写を今の世界・少なくとも今に限りなく近い世界観の中で立ち居振舞わせようとしたために生じた亀裂が、この作品には常に付きまとっているのである。
 これら設定上の歪みは劇中で隠されることもなければ言い訳もされない。現実のイタリアとは違うどこかにあるイタリアという架空世界でもない。故にこの作品を語るときに必ず話題にせざるを得ないのが、劇中のキャラクターと現実との道徳的関心であり、時に作者の倫理観が問われることすらある。だが、それら諸々の指摘は野暮な突っ込み・不粋だと言われることだろう、この作品はフィクションに過ぎないのだからと。劇中の設定全てを受け入れたとしても、さてしかしこの作品には見逃せないエピソードがある。1巻第2話である。kaien論はその瑕疵を鋭く突く。
「本編第2話では、義体少女のひとりリコが、彼女のフラテッロ(引用者注:兄弟。パートナーの意味合いで劇中で使用される言葉)であるジャンの命令にしたがって、知り合ったばかりの少年を殺害してしまう。哀しくも冷ややかなエピソード。だが、このときリコが殺したのがこの少年ひとりだったことは偶然にすぎない。彼女は、ふたりに見られていればふたりを、十人なら十人を殺していただろう。」
 「GUNSLINGER GIRL」の歪みを見抜いた文章である。目撃者は殺せと命じられたリコは、仕事中(その仕事とは要人の暗殺)に以前親しくした少年と偶然会ってしまい、「ごめんね」と笑って銃口を向けるのである。この話(ストーリー)が哀しいとすれば、暗殺者として生きなければならない限られた生活の中で小さな楽しみに喜びを感じている少女のささやかな幸福(恋愛さえ予感させる幸福)を自ら断ち切らなければならない悲劇、ということであろうか。
 この作品が物語を崩壊させずに成立しているのが、この錯覚である。違う角度から見れば、少女はどこまでも人殺しでしかないし、それを命じた大人たちは殺人の先導者に過ぎない。ところが、物語はイタリアという舞台を用意しながらも現実とのリンクを拒んでいるために、kaien論のような批評を受け入れないのである。それが政府を描かない、という点である。
 劇中のさまざまな事件が世間でどのような反応をされたかはほとんど描かれない。テレビニュースの映像や新聞等で少女たちは自分たちがした行為の結果を知ることがないし、知る必要のないものとして描かれている。読者も少女同様に知らされることはない。テロを未然に防げた、というところで落ち着くくらいである(秘密機関だから仕事の結果も秘密にされているということもあるが、暗殺者の少女という噂については第1話から触れながら世間にまでその噂が流れているのかは判然としていない)。政府の機関でありながら政府の要人はほとんど登場しない、政治的話題は禁忌であるかのような無関心さで、仕事によって政府は何を得るのか知らされない。ただ反政府組織・それに関わる人間が死んだ、という事実であり、彼らの死が政治的にどのような意味を持つのかは深く考えられていない。公社は政府の命令で動いているのだが、どのような命令系統なのか責任者は誰なのということもはっきりしていない(徐々に明らかにはされている)。だから「もしこの犯罪(引用者注:少女を義体化した人体実験と暗殺行為)が発覚すればイタリア政府を転覆させることは確実だが、作中の「公社」は組織の存在をしっかりと隠しているようには見えないのだ。」というkaien論の指摘は、この作品にとってはどうでもいいことになる。政府は政府という名だけであり、それ以上でもそれ以下でもないし、世界観の中には存在しないに等しいのである。実在する人物(イタリア現首相シルヴィオ・ベルルスコーニ(2006年3月現在))をモデルというかまんまの政治家が首相として5巻に登場するが、これなんかもテロ組織の扱い同様に架空のイタリアが舞台というにはあまりに無神経かと思われる。では、この作品にとって政府とは何か、単刀直入に言って、作者そのもののことなのである。だからいくら世界観・キャラクター設定に自己撞着があったとしても、全て政府がどうにかしてくれるわけである。
 そして、このことによって物語は錯覚を正当なものに変容させる。少女は命令に従っただけであり、命令に従うよう条件付けされている。だから少女に罪はない。パートナーは上司に命令されただけであり、命令に従わなければこの国で生きてはいけない。だからパートナーに罪はない。上司は政府に命令されただけであり、命令に従うのが仕事なのだから、上司だけを罪に問えない。では少女を暗殺者にした悲劇を問い詰められるべきは政府なのか? 政府はこう言うだろう、「国民のためにやったのだ」と。国民とはすなわち読者のことである。

その笑顔は誰のために
 劇中の少女たちは実に多くの人間を殺す。それらは命令によって行われる。たとえ命令に反して殺してしまっても、パートナーを守るためという大義があり、少女たちは忠実に実行しているだけである。けど、私にはこれが怖いときがある。2巻21頁2コマ目はナイフを腹部に刺したままの義体クラエスが二人の男の死体を両手に引きずってパートナーの前に現れた場面である。私には、まるで血だらけの鼠をくわえてきたかわいい飼い猫のように見えたのである。少女は少女らしい趣味や嗜好を持っており、それが暗殺という仕事とのギャップから普通の挙動が一層かわいらしいものとして際立たせる。この場面はその究極と言えよう。あるいは、かつて血まみれの中で犯罪者に暴行を受け続けた果てに義体となったヘンリエッタは、今は血まみれになりながら銃器を振り回して人を殺している、というのはいじわるな説明だろうか。
 さて、政府という作者によって現実を隠蔽していたはずのこの作品は、3巻から暴走し始める。ピノッキオの登場である。彼は義体ではない、鍛え上げた肉体と超人的な反射神経によって暗殺を行う反政府組織の少年である。彼が義体と対比関係にあるのは言うまでもない。
 彼は最初の仕事で義体のように速やかに依頼された人を殺すが、立ち去ろうとした現場に殺した男の子供が現れてしまう。第2話と似た状況で、彼は子供の頭を撃ち抜く。第2話では悲しみを煽るような演出が施されながら、ここでは返り血を浴びる彼の姿や倒れた子供の姿も描かれ、無垢な残酷さが強調される。そしてもちろん「ふたりに見られていればふたりを、十人なら十人を殺していただろう。」という言葉も通用する。命令されれば誰でも殺す義体と同じような設定でありながら、彼は物語の登場時に無慈悲な人間として印象付けられる描かれ方をされるのだ。これは悲劇的な生い立ちが最初に描写される義体と明確に区別されている。まるで人間は残酷だ少女は純粋だとでも言わんばかりに。
 彼のこの行為は後の義体トリエラとの戦いにおける伏線となる。だからストーリーに起伏を与えるために必要な演出と言えなくもない。トリエラを打ち倒した彼は、とどめを刺そうとするときに至って自分が手をかけた子供を思い出しためらい、殺さずに去っていく。敗れたトリエラは猛烈に悔しがり、これもまた再戦を予感させ、事実5巻で二人は再びあいまみえることになるわけだが、その前にこの場面が逆の立場で描かれていたらと想像したとき、少女は迷わず少年を撃ち殺しただろう。そういう作品なのである。殺人への無邪気さを悲哀・悲劇ととるか恐怖・残酷ととるかは人それぞれだろうが、私には怖くて仕方ない。というか、もう殺人行為そのものを楽しんでいるようにしか見えないときがある。「条件付け」という設定が、少女たちの行為を正当化しているのではないか。読者もそれを受け入れてしまっているのではないか。そんな疑問が常にあるのだ。
 私のこの疑問は作品の評価になんら影響しない。あくまで私がそういう読み方をしてしまった結果に過ぎない。このような読まれ方が許されるとすれば、この物語が現実世界を規範とした世界観を持っているからだろう。先のkaien氏が述べた「グロテスク」なものも、私が怖いと感じたものも、世界と規範の一部を共有しているからである。つまり、イタリアという実在する国家が登場することにより、物語は否応なく現実とつながっており(少なくとも私を含む一部の読者はそれを意識している)、所詮虚構の話として片付けられない苛立ちがあるということだ。そして人間の暗殺者ピノッキオに殺しをためらわせる情動を描写することにより、義体の無慈悲がかえって強調される結果を招きながらも、この作品はなお「萌え」という観点であるいはキャラ/キャラクター論として語られていることに、私は漠然と危惧する。kaien氏は論の前書きでこう語る、「いったいこの物語はどこへ着地するのでしょうか。それは「萌え」とよばれる文化そのものの行末をも占なうものなのではないかと思います。」。
 もっとも少女たちは自らの残酷さを自覚していない。義体は命令に従っているだけに過ぎない。飼い主への愛情をネズミを捧げることで表現する飼い猫と同じようなものだろう。少女たちは、ただパートナーの情愛を得たい・独占したいがために、何も考えずに殺戮を続けているが、その行為の冷酷さは巻を追うごとに自覚的に描かれていく。4巻ではオペラの上演中に仕事をする場面がある。仕事を終えたリコはクラエスにオペラはどうだったかと聞かれて仕事で見られなかったと言い、さらにこう付け加える、「すごい音でびっくりしたよ」。この音は、クラエスにとってはオペラの音響であり、読者にとっては仕事で人の首をへし折ったときの「パキィ」である。オペラの演目について何も知らないリコに他のキャラクターに解説を行わせることで、この仕事がストーリー上仕方ないものであるかのような演出(こういう見方自体がいじわるかもしれないけど)を施し、またも読者にこれはやむを得ない行為なのですと錯覚させようとする(殺害される人物も武器の横流し等の悪事を働いているわけだが)。それらは徒に少女たちの残酷さをあらわにしていくだけだろう。
 5巻のピノッキオとトリエラの再戦は克明に描かれる。彼を化け物と罵るトリエラ自身もまた義体という化け物である。命令に従って戦っている化け物同士、ピノッキオは「お互い様か」と自嘲さえする。だが両者の戦いの目的は違う。トリエラは命令どおりに敵を倒すためであるのに対し、ピノッキオは自らの意思なのである。逃げるための車のキーを武器として利用した瞬間は、彼が死を覚悟したことを多分意味し、同時に敗北をも意味していた(補足すると、このキーは第22話のトリエラの訓練の成果も踏まえている)。彼が致命傷を負ったコマの背景にピエタ像(だと思う)が飾られているところや、その前の126頁にサヴォナローラの火刑図を描いたり、「受胎告知」の前でピノッキオの親代わりであるクリスティアーノの確保を命じたり、作者の意地の悪さというかイタリア趣味の一つなんだろうけど、申し訳ないが私は悪意を覚えてまう。露悪趣味なんじゃねーのと勘繰ってしまう。
 人間と義体の戦いを描いた後に作者は6巻において、その中間とも言えるキャラクターを登場させる。ペトルーシュカ(ペトラ)である。彼女、というべきかは迷うところだが、とりあえず彼女は従来の小学校高学年から中学生くらいと思しき義体とは違い、年齢も高校生に相当し薬物の量も抑えた義体である。おそらく彼女はピノッキオのような感情を持ち合わせているかもしれない。またそれまでの義体よりもより詳しく彼女の義体になる以前の話が描かれる点も、義体としての彼女に悲劇性を強調する上で(成否は置いといて)役立っているのだろう。そして公社という組織そのものに疑いを持っているサンドロの登場も見逃せまい。人間的な義体のペトラ、公社への不信感を抱くサンドロ。二人の登場は、この少女たちやパートナーに本気で感情移入していいのだろうかと迷っている読者のために用意されたかのような、まさに義理の登場人物だろう。そうすると、ペトラの義体以前のエピソードは読者の感情を汲んでのことなのかもしれない。これだけ不運な女の子が義体になることで幸福になるという皮肉、のつもりなのか。どちらにしろ私には気味の悪さが付きまとっているものの、最後まで見届けたいという思いもあり、複雑だなー。けど、これまでキャラクターに特化していた作品に読者を意識している節がある設定を加えたことで、物語がどううねっていくかは見物だ。

 義体の行為に残酷さや何かしらの悲哀を感じているとすれば、それは無機物のものロボットのような感情を持たないものに抱く愛着と表裏であろう。義体の言葉がどこまで人間的感情かは推し量れないとは言え、義体が笑ったからといって殺人を楽しんでいるのではなく、命令を守れたことへの喜び・パートナーからのご褒美を期待する嬉しさであろう、だが端から見れば、そんなものは関係ない。少女が人を殺したあとに笑った、この乾いた描写が読者が受け取る全てである。ストーリーによってキャラクターの心情を表現しようという試みはあまりにも雑多な情報を詰め込んでいるために、また仕事中の義体の心理描写も控えめなので、個人的に失敗していると思う。それでもこの作品が魅力的なのは、ストーリーが綿密に練られているからである。設定から抱かれるだろう読者の好悪を補うに十分なストーリーが、実はこの物語の肝なのである。
 というわけで第19-2回にすぐ続く。
(2006.4.7)
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