拝啓 手塚治虫様第19-2回

「GUNSLINGER GIRL」試論2 本を読むクラエス




前回はこれ。さて今回は。
物語の個人差
 「GUNSLINGER GIRL」を採り上げるにあたってネット上のいろんな批評を読みまわったが、第19-1回のような倫理批評に対する個々の捉え方の差がとても面白かった。もちろんありがちな一言感想も含めて、公社が行う犯罪性や暗殺という手段の正当性への問い掛けや、虚構の解釈の仕方・解釈のされ方が十人十色、賛否両論とはこのことなのかと実感した。というわけで前回の文章について反感を抱いた方もいるだろうが、いくつもの批評の中で非常に気になったのが・賛否渦巻いたまま混迷した原因が、物語という言葉の受け取り方だと感じた。
 大雑把に分けると、否定側が言う物語は、前回私的に定義付けた「物語」に近い意味で物語を捉え、虚構といえどもそれはねーだろうみたいな作品全体を見据えた上で一部を指摘しているのに対し、肯定側は物語をストーリーという狭義の意味で用いており、ストーリーの緻密さはそのまま設定の緻密さに通じているよみたいな、作品の一部を読み解いていくことで全体を指摘するに至る、というような印象を抱いた。
 両者の意見は、おそらくどちらも真っ当なものだろう。作品の設定から物語を考えると倫理面が気になってしまう、ストーリーから物語を考えればそれは気にならない、というのは乱暴なわけ方だけど、実に「GUNSLINGER GIRL」の魅力はストーリーにある。世界観から物語を見た前回に替わり今回はストーリーから物語を見ていく。

サンドロは何故テルミニ駅に行ったのか
 「GUNSLINGER GIRL」のストーリーは大きく二つに分けられる。一つ目が、公社の仕事を通して語られるテロとの抗争である。これがストーリーの全体を覆っており、劇中の人物にさまざまな影響を与えることになる。作品全体から見たときに真っ先に目が向くのがこれである。二つ目が、個々のキャラクターごとに設定されているストーリーである(この二つ目も義体に限ればさらに二つに分けられるがそれは後述)。キャラクターの魅力からこの作品を見ていくと、こちらがまず目に付くのである(区別するために一つ目をストーリーなり全体のストーリーと言おう、二つ目はエピソードとか各キャラクターのストーリーと言う)。
 もう少し詳しく見ていこう。一つ目の対テロ作戦が具体性を帯びるのは、フランコとフランカの登場の第7話からである。漠然としていた公社の活動にはっきりと敵対する側の存在として登場し、以後たびたび顔を出すことになる。第9話ではピノッキオの育ての親となるクリスティアーノも登場し、義体たちと関わりあう対抗勢力として静かに物語に入り込んでくる。第13話からピノッキオが登場し、テロ・反政府組織に属する側のストーリーが動き始め、個々のキャラクターのストーリーとして描かれるようになる。つまり、各キャラクターは全体のストーリーの中から生まれ、それぞれ独立した背景を持つ存在として描写されることになる。だから二つ目と切り離して考えるのは難しいんだけど、もう少し強引に一つ目だけを見ていくと、第17話で義体たちが所属する課の部長・モニカが登場する(課長は第1話から登場している)。命令に従っているだけだった登場人物に具体的な指示を下すモニカの登場で、公社が相手をする存在、公社の必要性にまで言及されると、義体たちの戦う理由が明確になっていく(前回、徐々に明らかになっていく、と述べたことがこれ。モニカとイザベラの会話(3巻149頁)におけるモニカの言葉は作者の本音が見え隠れしていると思う)。明確になったといっても「憎みというか… 殺す理由は十分に」という程度で、十分に何なんだよと思ってしまうが、ヘンリエッタとイザベラの会話(3巻160頁)やニノとフランカの会話(3巻174頁)から、戦う者と戦わない者の差が語られることにより、義体のように何も考えないあるいはパートナーのため・フランカのように復讐のため、というように各キャラクターのストーリーが補強される。
 第20話に至ると、仕事の対象が今までよりも瞭然とする。テロ組織に武器を横流ししている将校の暗殺である。第21話も含めて、公社の活動が社会に微妙に影響しつつあることをうかがわせる。将校の死によってテロ組織は武器の仕入先の一つを失い、これによって第23話の首相の暗殺未遂事件から首相の登場もストーリー上必然的となり、ここでようやく公社の全体像が見えることになる。首相―作戦本部長(モニカ)―作戦2課長(ロレンツォ)―ジョゼら2課員(義体を含む)という縦の関係が浮上する。公社そのものは首相府主催という設定ではあったが、首相が実際に登場したことで組織の陣容や対外関係が見えてきている。また同話では一部の報道関係者にも公社の秘密が知られていることがほのめかされ、2課員のマルコーと出版社に勤めるパトリツィアの関係が今後どうなっていくかも見逃せないし、第24話でフランカはパトリツィアと学生時代の友人であり、なおかつマルコーとも顔見知りであることが判明し、キャラクターと全体のストーリーが絡み合ってほどけない状態になっていくと、エピソードを読むには全体のストーリーを考えるような意識が読者に芽生えてくることになる。
 さらに劇中の首相は現イタリア首相(2006年3月現在)同様に国内メディアの70%を掌握しているという設定で、これまでの街中の派手な銃撃戦や大捕物が報道されない理由もこれで説明がついてしまう。個人的には釈然としないけど、報道が管理されていることが伺われる(ベルルスコーニ首相の就任は2001年6月。連載開始が2002年7月なので、当初からこの設定は考えられていたと思われる)。
 全体のストーリーとエピソードは当初こそバラバラに見えていたが、エピソードを積み重ねる傍らで公社を取り巻く環境を描き続け、両者はひっそりと接近し、切っても切り離せない関係に至ると、第28話・第29話でようやくクローチェ兄弟の心理が描写され、彼らの言動には常に過去のテロ事件との関わりがあることが読者に示される。今まで距離を置いて接していたジョゼとヘンリエッタが寄り添って砂浜に佇む姿は、まさに全体のストーリーとエピソードの融合の象徴なのである(なんちて)。
 ここで6巻に着目すると、第32話でサンドロがペトラとテルミニ駅に行った理由が見えてくる。義体となる以前のペトラ(エリザヴェータ)のエピソードがさんざん描かれ、またサンドロがエリザヴェータと面識があることから(ペトラは顔も整形されている)、サンドロはいつかペトラの素性を知ってしまうのではないかという緊張を読者に与えつつ、それ以前のストーリーとのつながりも無視せずに盛り込んでいる。すなわち4巻83頁のセリフ「テルミニ駅のホームで爆弾と手引書が渡されるって噂」がそれである。ペトラに殴り倒される過激派が持っていた爆弾がおそまつなのも、爆弾作りの名手ニノの退場(もちろん後に再登場する可能性もあるわけだが)、同じくフランコとフランカの退場(ニノ同様に。二人は生死不明の状態)もあるかと思われ、公社の活動がテロ組織にダメージを与えているだろうことをうかがわせる一端でもある。また同駅にクローチェ兄弟たちが来ていたのも、サンドロの監視という名目もあるだろうが、その噂もあったからこそ義体を連れていたとも考えられ、第二期の義体の登場は、全体のストーリーとエピソードを結びつけ終えた後の展開ということになり、ここからがいよいよ作者のストーリーテリングが問われることになる(だからキャラクターのエピソードだけで今まで連載が持っていたということに驚かされる。それだけ義体という設定は読者にとっても目が離せないものなのだろうか)。

クラエスは何を読む
 各キャラクターのストーリーは、各挿話ひとつひとつに濃密に描きこまれている。
 義体のパートナーたる担当官のエピソードは、全体のストーリーとの関わりが深く、彼らが公社で働くことになった経緯や、義体との接し方、担当官としての誇り、私生活など、公社のあり方や劇中のイタリアの政治状況などを踏まえており、世界観との関わりも深い。彼らのエピソードを語るには、前節の話題が欠かせないし、前回のような倫理的に批評も成立しよう。読者にとって語りやすい存在であり、読者が感情移入しやすい立場でもある。
 一方、義体のエピソードは特殊な設定と全体のストーリーとの関わりの薄さのために、それのみを採り上げて語りやすい代わりに物語にまで及んで論じ難い。特殊とは、義体が義体化以前の記憶をほとんど失っていることと、条件付けによる副作用で記憶に障害を生じていることである。このため義体が主役となるエピソードは各話とのつながりが意識されにくく、実際に記憶を失っているために義体たちが過去から何かを連想する描写が控えめである。だがこれにより、義体の悲劇性というか悲哀が強調される結果になっている。読者が義体の言動を記憶しているからだ。
 義体というキャラクターの特殊性は第1話から積極的に語られる。ヘンリエッタは昼間に担当官のジョゼとライフルスコープで星(金星)を見るが、後に夜、望遠鏡で星を見るときに「星を観るのは初めてです」と言う。また「良い仕事は全て単純な作業の堅実な積み重ねだ」と言われるが、第5話で言葉は覚えているものの誰に言われたのかは忘れている。義体たちにとっては「ど忘れしちゃいました」という程度のことだが、読者には義体という存在の儚さみたいなものが感じられるかもしれない。「彼女」たちの生活は、担当官と同じ仕事をしても、担当官と同様の積み重ねを得られないわけだ。重ねてもどこかからボロボロと崩れていく「彼女」たちの人生は、ジョゼのように日記や写真に記録しておかなければならないと思われたり、クラエスのように無為に過ごす喜びに意味を見出すかもしれない。
 義体の各エピソードと読者が覚えているストーリーの2つが義体をめぐる話となる。キャラクターの造形にかわいさを感じるだけでも十分ではあるが、たとえばクラエスを例に、2つの話の交錯模様を見ていく。
 クラエスの読書好きは第1話から示唆されている(トリエラもそれなりに本を読んでいることが窺える)。彼女(面倒なので括弧書きにしない)の担当官は第6話の回想で亡くなっていることが明かされる。この挿話は同時に公社の機密保持の厳しさをほのめかしているが、中心になっているのは、彼女の過去の描写によってその後の挙措に何かしら意味を与えようという伏線のようなものである。いくつか拾ってみると、クラエスがフランス人らしいこと(2巻10頁)が担当官が読む資料の人間の頃の写真で明かされる、胸に抱える「トムソーヤの冒険」と担当官の言葉から、義体になる前から本好きであることがわかる。6巻でペトラが柔軟体操を何気にするように、クラエスも改造前の習慣・興味を知らず行っていたわけだ(きっかけは担当官の勧めだけど、読書家の資質もあったと思われ)。担当官と釣りに行くのも後の彼女のエピソードを読む上で忘れられない。レンジ内の一騒動も同様である。彼女はこれら出来事を全て忘れてしまうが、担当官たちは(当然読者も)覚えている。この記憶が、本作品の鍵のひとつになっていると思う。
 この物語をストーリーから眺めると、さまざまな見えない線によって繋がっていることに驚かされる。見えない・見えていないのは義体が記憶を失っているためで、それがストーリーの希薄感を一方でもたらしてしまっている。読者にとっても、義体が今まで何をしてきたのか、何をしているのかに注視し記憶しておくことが必要なのかもしれない。第18話はクラエスのある一日を描いた話だが、第6話を踏まえているために、この挿話を読者側が記憶していないと彼女が「リバー・ランズ・スルー・イット」を鑑賞することや、射撃訓練中のレンジに入るときの担当官たちの反応や、「懐かしい匂い」の感覚、10番レンジの修復箇所さえも、意味のない描写になってしまう。能動的な姿勢が読者にも求められているのだ(まあね、そういうのを忘れていても、担当官のいない義体がどのように一日を過ごしているか、次の挿話からテロとの戦いが本格化するので、その前の一休みみたいな感じもあって、ほっとして読める話でもあるんだけど)。
 で、劇中の今のクラエスが何を読んでいたのかに注目すると、2巻32頁、バルザック「谷間の百合」である。第12話のいわくの品・万華鏡の解説でクラエスが語るいわく話も「谷間の百合」であり、彼女の記憶が話をまたいで繋がった瞬間である(ついでにトリエラも「あ」と反応し、同じく読んでいることがわかる)。
 伏線はミステリ物みたいだけど、ストーリーの各エピソードを繋げる接着剤みたいなものだと考えると、物語の理解を深めてくれる作者が明かすヒントみたいなものだろう。受け手である読者は、もちろん受身らしくただ与えられた描写をなぞるだけでも十分かもしれないけど、物語の表面に浮上してくるのは、マンガなら絵ということ・特にキャラクターになるわけで、そこに注目しがちなのはやむを得ない。「GUNSLINGER GIRL」にとって不幸なのは、おそらくマンガという媒体ゆえのキャラクターへの偏愛・偏向なのであろう。しかし、マンガだからこそ、さりげない描写が可能なのである。言葉で説明できないストーリーも表現できる。「GUNSLINGER GIRL」の場合は控え目過ぎるけれど、物語の分析に「読者」を加えることで、この作品から物語の深みを感じられたように思える。

 というわけで今回は前後編になったわけだが、単なる「GUNSLINGER GIRL」の感想になっちまったのはいつものこととして、物語ってやはり読者抜きには語れないなってつくづく感じた。マンガに描かれる情報量の制御は全て作者にかかっているものの、その情報をどれだけ汲み取ることが出来るかが読者に問われるところだし、また汲み取りやすいような描写がなされているかが作者に問われるところなのかな。10ある情報のうち私はいくつの情報を読み取っていたのか? 全ては読み取れないだろうし、読み取った情報が正しいとも限らない。読解は常に疑心の上に成り立っている。
 えー次回も私的物語論の考察を続けるつもり。書いてる途中で考え変わるかもしれないし。
(2006.4.7)
戻る