「9時から5時までのチャコ」

集英社 クイーンズコミックス「東京膜」より

渡辺ペコ



 音が面白い。特に工夫された擬音ではないけれど、朝方のカラスの鳴き声、会話の間に目立ち始める始発電車の音、大きくなっていくその音は、それに導かれるようにして歩く彼らの足音のような錯覚があって、今日の始まりを告げる代名詞が、彼の次の人生への出発の門出となり、彼女にとっての希望なのだ。
 渡辺ペコの初短編集「東京膜」に収載の「9時から5時までのチャコ」は、彼氏に振られた女と妻に逃げられた男の一夜の物語と言うと何か波乱がありそうだが(劇中でも、読者のその期待を見透かした演出あり。面白。)、互いに愚痴りあったり何となくだらだらしたりしながら、きっと独りだったらただ泣いていただろう夜を、新しい自分の始発駅に変えた偶然の出会いに感謝するという読後さわやかな佳品である。
 表題作「東京膜」をはじめ、各作品は「家」「部屋」というものがひとつの鍵になっている。膜とは細胞膜の膜で、つまり仕切られている空間ということか。たとえば短編「リビングルーム」では、アパートの部屋を空き巣に荒らされてしまい、他所で泊まることを余儀なくされた主人公が、知り合いの男性宅に泊めてもらうのだが、そこには男性の彼女が同居してて、居心地の悪さを感じながらも、自分の帰る場所を再確認するというお話であり、本作も家に帰りたくない気分の主人公チャコがサラリーマンらしい男性と徹夜する中で、互いの帰る場所を確認するというお話になっている。
 家に帰りたくない気分なのは男もそうで、家に帰るとテーブルの上に置かれていた饅頭(妻の置き形見)を大事に抱えながら、居酒屋で酒を煽っていたところにチャコに酒をこぼされ、多少の酔いも手伝ってか身の上話をし合っているうちにずるずると営業時間が終わるまで飲み続けいた。店を出た二人は、卓球をする(24時間卓球出来るとこが新宿にはあるの?)。汗いっぱいかいて、松本大洋「ピンポン」のような描写で、ここはあれかな、筆名のペコっていうのはやはり「ピンポン」のペコなんでしょうかね。男のほうは眼鏡かけているのでスマイルみたいで。ところで、本作はこの場面がひとつの見せ場になっている。妻が置いていった饅頭に込められたメッセージが明らかにされるのである。
 これが二人の出会いを特別なものにする。なかなか憎い演出ですよ、えー。チャコと男しか出てこない物語で、粋な置手紙を残した男の妻の姿がおぼろげに浮かんでくるのである。チャコには待っている人はいない、チャコを振った男は「晴れて新しい恋人と めいっぱいエロいことするに決まっている」と思われ、よりが戻る気配もなく、涙を堪えるための「建設的な2つの動作」もおかしさよりも切なさが前に来る。男と卓球して汗を流しても、一時の逃避でしかないことをチャコは知っていた。それは読者である私の浅はかな期待を裏切りもする。
 男は礼を兼ねて朝食を定食屋みたいなところでご馳走し、チャコと歩道橋を渡る。朝を迎えた街の姿が、カラスなどの鳴き声によって顕わになると、二人は歩道橋の真ん中で別れの前の言葉を交わす。互いに名乗ることもない。ここまで私は、男同様にチャコも気分を入れ替えていると思っていた(いやもちろん男も気を取り直しているとは限らないんだが)。それをほのめかすような描写はないんだけど、なんとなく気が紛れていくうちに、振られたことを忘れはしないけど乗り越えていると。でも違ってたんだな。なぜチャコが主人公であるのかが、ここから明瞭になるのだ。これで互いに気分が晴れて朝を迎えていたら、なんにも印象は残らなかっただろう。つまり、一夜の出会いによって彼女は新しい日々を迎えるだろうという予想を、見知らぬ他人の笑顔を想像することで乗り越えようとするっていう彼女の気持ちが実に切なく、心地いい裏切りなのだ。
 彼女は如何に建設的な言動をとろうとも、振られたという現実の受け止め方に苦難をしていた。始発に乗ると、いちゃつくカップルや徹夜明けらしい若者に居眠りするおっさんが、それぞれの音を発している(特におっさんがびくってなって目を覚ますところは笑ったな)。彼らも、徹夜をともにした男も、名前を知らない。彼らはそれぞれでそれなりの悩みを抱えているだろう。男から見ればチャコも名前を知らない他人にすぎないけれど、二人は今後の互いの姿を想像することが出来る。チャコは男が妻と再会して仲直りするだろう姿を想像し、再会場所の自然環境に思いを馳せて微笑む。ではチャコの姿は誰が想像するの? それは読者だろう。彼女のほんの少しの希望に、私は大きな喜びを見たのである。「チャコごめん」という振った男のセリフがよみがえっても、電車の走行音をBGMに彼女はいい夢を見るに違いない、見てほしいね。
 絵も好きだし展開も一筋縄ではないし、なかなか好印象な作家だ。さてしかし、余計な描写もないわけじゃない。間白もなく断ち切りばかりで、登場人物たちの言動が枠に収まっていないから、全体的に散漫な印象が付きまとっている(それはまあ少女漫画全般に言えるけど、いかんせん人物描写が地味でコマを突き破るほどの力がないんだな、実際そういう絵も描かないから、コマ割にメリハリが生まれていないような)。この作家の特徴ではあるんだけど、せめて断ち切りは必要か否かの計算がほしいよ。また本作では時刻の表示が鬱陶しいね。タイトルから何時から何時までの話か察しがつくんだけど、1コマ使って今何時何分か素っ気無い文字で挟まれてて興が削がれてしまった。それでも、私には魅力的な話と作画ではあるんで、「チャーミング」なマンガを描き続けてほしい。主舞台の雑誌の廃刊にめげずにがんばれ! (今調べたらコーラスに無事移籍らしい、よかったよかった)。

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