「甘い水」

講談社 ヤングマガジンKCピース上下巻

松本剛(原案協力 板垣久生)


 思春期の不安定な精神状態がたまらなく的確に描写されている重厚で濃密な漫画が松本剛(原案協力 板垣久生)「甘い水」である。北海道・道東を舞台とした少年と少女の閉ざされた日常でもがく姿が生々しく描かれている、一編の青春映画のような、静かで繊細で平凡で、かといって懐かしさに浸らない、余韻鮮やかな作品だ。  何がたまらないって、浮遊感だ。田舎の高校生の狭い世間の中で苦悶する様子がいきなり冒頭の一コマに切り取られているのだから唸ってしまう。上巻9頁4コマ目、ブランコに乗っている眞千子の真横からの描写、輝きなく焦点の定まらない目よりも印象強い(これが185頁の目になると強烈過ぎて戦慄すらしてしまう)のが、ふわふわと浮いているような、実際は地面から数十センチしか離れていないのに空の上でずっと静止しているような姿がとても切なくて、たったこれだけで悲劇しか予測できなくなってしまう、それほどのいわゆる地に足がついていない十代の心象が詰まっていると感じた。今にでも自殺しそうな勢いをも秘められているとも思い、もう数頁で劇中の二人の動向が気になって仕方がなくなっていた。吸引力がすさまじい。
 十代のどうにもならない気持ちを切々と綴った映画というと、最近だと「まぶだち」と「リリイ・シュシュのすべて」なんてのを私は思い出すんだが、どちらも田舎が舞台で、その中で抜けようと思えば実際抜け出せるのに閉じ込められたと思い続け、ひとり悶々としたまま悲劇的な結末に至ってしまうという、やるせなさが詰まってて、観る側まで窮屈な気持ちに陥ってしまう寸前のところで、鮮やかに緑あるいは青が強烈な風景を画面いっぱいに映して、心を開放してくれる。同時に世界はこんなに広いことに気付かない登場人物たちに一種同情めいたまなざしを送り、必至になって幸福な結末を望むがそれも当然かなわず、エンドロールを虚しく寂しく眺める……上巻27頁の会話から28頁の見開きへ。この展開が、そんな映画の諸々の感動を想起させた。広い世界で野生動物の保護を夢見る夏生の台詞の後に描かれる川沿いの風景の広さ、十分広い土地なのに、住む人々のなんという狭さ、これが田舎なんだよな。しかも映画とは違って綺麗じゃない、むしろ汚い。
 無駄のない描写の数々も見逃せない。もっとも、この作品では登場人物についての説明描写を避ける代わりに、わりと画一的な人物を所々に配し(担任の教師とか頑固親父とか)、物語の構図の簡素化を図っている向きがあり、物語の展開の仕方には慎重さがにじみ出ている。落ちないポールのパラドックスから夏生が語る言葉(第4話)が、作品のひとつの鍵になっていることもたやすく汲み取れるし、眞千子の潔癖めいた性質の理由も多くの読者がほぼ同じことを想起するに違いないし、作品から理解できる最低限の出来事だけでも物語の内容が掴めるような作劇が施されているのである。はっきし言って、かなりのストーリーテラーである、作者は。87頁から88頁の流れがその典型だろう、もちろん解釈は異なることもあるけど、ここで読者は眞千子がしきりに運命だからしようがないと言うのを少なくとも感覚的に理解するだろう(細かく言えば78頁5コマ目で子猫の運命は暗示されている)。この曖昧な解釈を許しながらも物語の軸を損なわない点が素晴らしい。これは何よりも多くの読者が登場人物たちの時代を経ている点に依拠しているが、だからこそ感情移入することもあれば保護者然と少年少女の行動を見守り、主観的にも客観的にも自在に読みやすくなっている。同年代の子が読めば、おそらく自分の現在の状況を省みて主観的な語り口が中心になるに相違ないだろう、私が彼女の立場ならこうするとか、僕が彼の立場ならああするとか。
 さてしかし、いろいろと理屈をつけてきたが、私が一番惹かれるのはなんといっても背景だ。風景と人物の心象風景の融合具合がたまらない、貯木場で寄り添っていた二つの木材が後に離れて描かれるといった小道具の描写以上に、もうなくてはならないものとなっている。下巻34頁から51頁の二人の長い会話、その背景として描かれる土手の芝生のトーンが終始二人を囲み続ける。冒頭で感じた浮遊感が二人をどんどん追い詰めていく、50〜51頁の見開きだ。現実的な景色がここで一気に抽象的な夕闇の景色に変貌するのだ(いや、ほんとにこの作品は現実的な土地の感覚の描写が多い、時折頭上を過ぎる飛行機とか虫の音、かもめ、人々の喧騒は時に具体的に描かれることもあるし、土地の匂いが画面からびしびしつたわってくる)。そしてそれは181頁から次の見開きにも通じている、時間の経過とか事態が収束する予感とか、いろんなものが全て雪に覆い隠されて閉ざされてしまう。だからその後数頁で物語が終わってしまうのも、なんとなく受け入れられてしまう。二人はどうなったんだろうかっていう気がかりはあるかもしれないが。
 それに関連して何気にこの作品のキーメイカーとなっているのが眞千子の妹・順子である。彼女の存在はでかい、クライマックスにおける役割は足手まといどころか二人のふわふわした感覚を確かなものにするための重石にさえなっている。上巻193頁2コマ目で眞千子は手首でも切っちまうんじゃなかろうかとも私は思ったが、でも妹がいるし、そんなことはせんだろうと思わせてもくれた。両親の喧嘩に震える描写とか、夏生が訪れたときの顔の輝きとか、眞千子にとってどれほど大きな存在かってのがじっくりと伝わってきた。多くのサイトがこの作品をある言葉で形容したが、あえてそれを避けて書いてきたけどここで思いっきり言おう、妹がいたからこそ、この物語は痛いのだ。痛くて済んだのだ、苦くて済んだのだ。画一的な配役と指摘しながら、それでもなお特別な役目を負わされていたのだ。妹がいなければ、その役目は母が負っていたに違いない、しかし、父親というこの土地に縛り付ける磁力から解放されるには父とつながっている存在は断ち切らなければならないのだ。そもそも怯える母が描かれたとしたら、あんなクライマックスは描けないだろ。
 でも泣けるね。「甘い水」だよ。また思いっきり野暮なこと書くけど、甘いんだよ、あれが。二人とも涙流してるのに、甘いんだ。甘いんだよ。

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