「GUNSLINGER GIRL」15巻

偽りの希望

アスキー・メディアワークス 電撃コミックス

相田裕



 13巻から続いたジャコモ=ダンテ率いるテロ組織との激闘を終え、15巻をもって「GUNSLINGER GIRL」は長い物語に終止符を打った。多数の主要キャラクターの死は一読者である私にとって衝撃的だったが、建設中の原発を占拠したジャコモが周到に対義体用のトラップを張り巡らせた結果であること・長年に渡り主人公たちと敵対していたキャラクターにとって、このくらいの死は当然だったのかもしれない。フィクションでありながら、ジャコモの手強さに幾度も震撼したものである。生半可な結末なんて用意されていないことは、義体の余命が数年であることを考慮すればわかりきったことではあるのだが、長年親しんできたキャラクターの死というものは、やはり悲しいものであった。
 だが劇中の彼らは、復讐のために一度は死んだ身として自らを亡霊と呼び、ジャコモの戦いに臨んだ。実際に死地から「救済」された義体たちと、社会的公的に追放され地位身分を失った福祉公社の者たちが、いささかの自嘲を込めた亡霊という自称は、本編では「Fantasma(亡霊)」という副題でその真意を覗かせていた。最初のFantasmaは6巻だった。クローチェ兄弟の兄・ジャンが見る妹・エンリカの亡霊である。2度目は12巻、弟のジョセが見た、同じくエンリカの亡霊だった。亡霊というにはあまりにはっきりとした姿で、エンリカは知るはずもないこと・自分の死んだ後のことを語り、自分の身代わりとなった義体ヘンリエッタを挙げてジョセの身勝手を責めた。そして「ジャコモを殺して」とジョゼに迫った。
 兄弟にとってジャコモは家族を殺した仇である。だがエンリカはヘンリエッタもジャコモも知らない。これらの亡霊は兄弟が作り上げた妄想であり、彼らが封印している本心に他ならない。義体への愛情は本物だろうし、ジャコモへの復讐を果たすために義体を必要としている・利用しているのも事実である。生きているのに死んでいるような自己撞着から解放されるには、死しかないのだろうか? 矛盾を抱えたまま、最後の戦いは多くの血を流して始まった。
 テロ組織との戦いを描く以上、無名のキャラクターの死は避けて通れない。原発を占拠する組織は、職員や警備員をためらいなく撃ち殺して行く。この冷徹さは義体のそれとさして差がない。かつてリコは、暗殺の任務中に顔を見られたという理由だけで無関係の少年を殺した(1巻)。殺し屋ピノッキオは、トリエラとの最初の戦いでトリエラを気絶させ止めをさせる状況を得るが、過去の殺人の記憶が蘇ってためらい、殺さずに逃したが、結果的に彼はトリエラとの再戦で敗れて殺された。組織の維持や任務のためなら同情は不要である、それが社会福祉公社という架空の組織を貫く哲学だった。
 物語はジャコモとの戦いに決着を付けることで幕を引いた。「戦いはなくならない 人は争うことをやめられない」と、ジャンは語ったが、その考えがどこまで本心なのかは定かでない。様々な思い出が去来する中、彼は改めて「どうだろう……」と呟いた。
 長い物語を締める最終話「希望」は、そんなジャンの思いを引きずったまま始まる。舞台をアメリカに移し、天才少女と映画監督志望の青年による伝説の幕開けとなる一週間を描いた。天才少女の母はグエルフィであり、もちろん彼女はヒルシャーの遺志を受け継いだわけなのだが、私には、この最終話がどうにも不快であった。
 可愛らしいキャラクターが銃を持って躍動する姿は、義体という設定によって、作り物という意識を強くさせた。実際、義体は不調を訴えると、医学によって「修復」され、最悪「リセット」された。ロボットが少女という姿態で描かれているといっても過言ではない。そんな「彼女」たちが、フラテッロとともに戦い生活していくことで、もともと義体になる前に備えていた彼女自身を取り戻していった。アンジェリカの死がそうであったように。そして、公社を囲む軍の前に、一人立ちはだかったクラエスが過去の思い出に涙して銃をおろしたとき、軍の銃撃を「撃つな」と制した公社の職員たちはこう叫んだ、「彼女はもう兵士じゃない! 静かな日常を愉しむただの女の子だ!」
 義体たちは、もともと市井の少女たちだった。事故や事件に巻き込まれることがなければ、義体として戦うことなく、イタリアの街角を友達と仲良くおしゃべりしながら学校に通っていただろう。だが、トリエラの分身である希望を意味するという名を与えられた天才少女であるスペランツァは違った。確かにトリエラが平穏に過ごしていれば成し得た伝説かもしれない。なにしろ、この長い物語におけるヒロインなのだから、トリエラが物語を締めずして誰が締めるというのだろう?
 スペランツァはトリエラの卵子(トリエラは生理痛を訴える義体だったことを思い出す)と、ヒルシャーの精子による人工授精によって誕生したと思われる。グエルフィとヒルシャーが肉体関係を持っていたことは十分に示唆されていたのだから、スペランツァの父親は誰かってなったら、ヒルシャーしかいないだろう。さてしかし父親が誰であるにせよ、彼女はトリエラ本人ではない。あくまでその子どもだ。もちろん、ヒルシャーは10巻において、トリエラが犯罪に遭わず成人したらどうなるだろうかと語っている、「高名な学者……政治家……あるいは優秀な医者にもなれただろう」
 何度も言うが、スペランツァはトリエラの子であり、同一人物ではない。トリエラと同じ器量を持ち合わせているというのは、それこそ希望的観測に過ぎない。けれども、劇中の彼女は天才として新聞に載るような有名人であり特別な存在なのだ。フラテッロにとって義体が単なる戦闘用少女から愛情めいた感情を抱くことで、義体は「少女」へと変異したわけだが、スペランツァは名もなく散っていった兵士たちの一人ではないし、サッカーに興ずる女の子たちの中に混じっていた一人でもなく、ヒロインだった。トリエラと同じ遺伝子を持っているから、トリエラの生まれ変わりと考えるのはわかるが、才能までそっくり受け継ぐとしたら……それこそまさに「修復」して「リセット」された義体か亡霊のように思えてしまう。
 学者にも政治家にも医者にもなれる、いろんな可能性をうかがわせる市井の・無名の少女の日常を描いてこそ、義体の身代わりではない、人間である少女の、将来に対する本当の希望なのではないだろうか。
(2013.1.28)

戻る