長田悠幸 町田一八「SHIORI EXPERIENCE ジミなわたしとヘンなおじさん」10巻

もうすでに伝説

スクウェア・エニックス ビッグガンガンコミックス



 高校の地味な英語教師の本田紫織のもとに、ある日突然、ジミ・ヘンドリックスを名乗る アフロもじゃもじゃのおじさんが現れ、ジャックイン!と首の後ろにコードを差し込んで彼女に憑依すると、超絶技巧のギターテクを披露し、 彼女の中に眠っていた音楽への憧れを突き動かすことになった。死んだはずのジミヘンが幽霊となって現れ、主人公に乗り移って行くという展開から、蘇ったジミヘンが若い女性となって現代の音楽界に旋風を巻き起こす……というような物語も考えられただろうが、この作品では主人公の紫織が兄の影響を受けて元々ギターに興味がありながら、言い訳しつつ本当にやりたいことを現実の生活と言う切実な問題により断念し、ジミ先と生徒に陰口言われながら、その性根・内向的な性格が災いして、自分の好きな道に思い切って踏み出すことができなかったことを悔やんでいた。けれども、家族は兄のバンド資金のために残された莫大な借金の返済に追われ、父のバンドアレルギーは相当なものだった。
 序盤こそ突拍子もない展開だが、物語が進むにつれて、バンドのメンバーが集まり成長していく過程を丁寧に描写し、バンド活動に魅せられていくキャラクターたちを演奏場面の解放感を山場にしながら、物語の土台を一つずつ一つずつ積み上げていく。その手際は、多少まどろっこしいところはあるものの、一つの挿話をクリアしていくたびに一段階ステップアップしたことが物語の中にしっかりと落とし込まれ、読む者を納得させるに十分な構成となっている。  特に最も大きな飛躍のきっかけとなるのが、四巻の初ライブだろう。ギターの紫織、ボーカル兼ベースの五月、キーボードの忍、サックスの茜、ドラムの初範、五人のキャラクターが満を持して作った曲を演奏する、渾身の回であると思われた。だが、彼らの作った曲は、狭いライブ会場を一つも盛り上げることなく、素人のお遊びにしては頑張ったんじゃない? 程度の冷たい反応を観客から浴びることになる。盛り上がっていたのは、自分たちだけ。嘲笑するジミヘン。この挫折を経て、メンバーは個々に猛練習に励み、さらなる高みを目指すのである。
 さて、物語としては、紫織にはジミヘンの亡くなった年齢である27歳を終えるまでに伝説を残さなければならないというタイムリミットが設けられ、単行本の最後には残り時間が「○○日」と明記されはするものの、サスペンス感は薄いものとなっている。だからといって好機がいくつも転がっているわけではなく、おそらく二つの山場が絡まり合って展開していくだろう物語が想起できよう。高校生バンドの大会と、ジミヘンと同じく27歳で死んだカート・コバーンに憑依された青年とその黒幕を中心に進められる27クラブ(27歳で死んだロッカーたちが蘇り、時代を超えた、本当の伝説のバンドを作らんとする)との対バンである。
 27クラブには紫織の兄も関わっており、並行して描かれつつ、物語はまず、高校生大会での優勝を目指す紫織たちの戦いに焦点を当て、10巻において、いよいよ最初の大きな山場を越えたと見てよいだろう。ついにメンバーが揃ったのだ。  挫折ライブの後、初期メンバーだったプリンスくんがベースとして復帰すると、いよいよレベルアップしたメンバーが「SHIORI EXPERIENCE」というバンド名を掲げて大会の予選としてデモテープを作成すると、物語は、サックスの茜を通して、吹奏楽部との確執に展開するのである。
 この物語には当初からメンバーに加わりそうなキャラクターがいた。吹奏楽部のエースにして顧問のすばる先生の絶対的な信頼と部員たちからの畏敬を統べる、光岡である。彼女は、トランペッターとして吹部を引っ張り、全国大会金賞獲得の原動力であり推進力であり、中心であった。だが、何かと軽音部に絡み、時には元吹部の茜との関りもそれなりに描かれていた。すばる先生からは蔑視されながらも地道に軽音部顧問とメンバーを兼ねた紫織は、だからといって光岡をメンバーに誘うわけでもないし、そのような方向に話を持っていくわけでもなかった。ただ、おそらく多くの読者が彼女も加わって最強のバンドが結成されると思っただろう。
 ここからは意見が分かれるだろうが、物語が進むにつれて私は、光岡はメンバーには加わらず、すばる先生とともに憎まれ役として・良きライバルとして、紫織たちの前に立ちはだかりながらも、活動を支援していくのではないかと思い始めた。もちろん、茜のサックスの特訓に付き合う光岡やすばるが描かれていく点も大きな理由であるが、光岡がメンバーに加わる隙間が、少しもないような思えたからである。
 すでに六人揃っているのだ。これ以上、何が必要であろうか。デモも完成し日々レベルアップている。そして、みんなと違って今一歩伸び悩んでいた茜が、光岡を介してすばる先生にしごかれる様子を描く。さながら連載中に公開された映画「セッション」のフレッチャーのスパルタ特訓を想像させるほどの苛烈さで、すばるが初期から抱えていた吹部顧問としての軍隊めいた光景とモチベーションが、フレッチャーの持つ雰囲気と偶然にも合致したこともあるだろう。茜は徹底的に痛めつけられては這い上がることを繰り返すことで、他のメンバーに遅れつつも成長していく様子をつぶさに描ききるのだから、もう光岡の役割は、とりあえず終了したのではないか。勝手にそう考えた。
 8巻の挿話「音」で、光岡に焦点があてられる。彼女は、メトロノームが刻むような毎日の規則正しい生活と、恵まれた音楽的家庭環境を存分に活かし、日々のレッスンを生活の一部としていた。そんな時に舞い込んできた茜が、紫織が作曲しメンバー全員で仕上げた最高の曲「JACK in!」をCDに焼いてお礼代わりに持ってきたのである。
 この作品では、既存の曲を背景とし、BGMにしながら読んでもらうことを想定しているかのような挿話がいくつかある。ジミヘンやカート・コバーンの代表曲はもちろん、デイドリームビリーバーやTRAIN-TRAINでは歌詞をほぼ引用しながら物語を展開し、劇的な場面を作り上げる(特にデイドリームビリーバーを歌う場面では、この曲を聴きながら読むと感動が増幅する挿話が3巻にある!!)。紫織たちの作った曲は、当然オリジナルである。誰も聞いたことのない、現時点で最高の仕上がりだろうと想像できる。しかし、この曲の演奏場面では、当然ながら背景として何を思えばよいのかは読者に任せられている。これまでの血と汗、実際に血まみれになり血反吐を吐く茜の特訓が生々しいくらいだが、そうした努力の結晶を丹念に描いたからこそ、読者はその曲の素晴らしさを信じている。信じるしかないのだ。
 では、その信頼は何によって担保されるのか。すばると光岡だったのである。彼女たちには、過去の確かな実績がある。物語序盤から描かれた実力は全国大会金賞というこれ以上のない成果がある。すばるの指導が吹部を著しく成長させたのだから、彼女が認めるということは、それだけ力があることの証左に他ならない。憎まれ役でしかなかった当初こそ紫織の活動を妨害していたが、「JACK in!」の一端を触れた刹那に茜への接し方をより厳格にしたように、二人の評価が読者の信じる思いを確信に変えてくれるだろう。
 「JACK in!」を聞いた光岡の生活リズムが、崩れ始めていく。演奏を少しずつ狂わせ、メトロノームの音が、五線譜が歪んでいく。曲の奴隷と自称するほどに正確に音の表現に拘っていた彼女は、ある日、些細なきっかけで紫織のバンドとセッションをすることになる。光岡の母親も音楽家であり、娘の小さな変化に気付きつつ、これまでなかったリズムパターンによるセッションに喜んだのもつかの間、光岡は五線譜の中に閉じこもった。
 5巻の時点で光岡は自分の演奏を「曲の奴隷」と表現していた。ひたすら忠実に、ひたすら指揮者の思うリズムと音を奏でる。それが自分の役割。……ひょっとして、光岡の心の解放を描こうとしている? それってつまり、彼女をトランペッターとしてメンバーに加える展開ってこと?
 私はすっかり忘れていた。紫織が何者なのかを。彼女がこれまでメンバーを大事にしてきた理由を。すばる先生に嫌味を言われても、そこから本意を引き出し、自分の未熟さを痛感したことを。初ライブの挫折は、メンバーの結束力と努力を扇情した展開としての通過儀礼という側面もあるだろうが、彼女は元から、教師なのだ。挫折した生徒がいたら労り、落ち込んだいた生徒がいたら励まし、ともに悩みともに苦しみともに笑う。そして今また、紫織は光岡という生徒の心の苦しみの声を聴いたのである。紫織の勧誘は私にとっても意想外だったし、すばるにとっても他のメンバーにも光岡自身にも同様だった。ただ一人、彼女は真摯に光岡の今後を思っていたのだ。これまでの怒涛の展開によって周縁に追いやられた感のある紫織の家族の物語もあるせいか、ジミやカートの競演と共演によって忘れがちだった教師としての立場だけは損なわずに、物語はいまだメンバー集めの助走期間に過ぎないことを「軽音部に きませんか」という言葉で宣言したのである。そしてそれは、長い長い序盤の終わりが近いことも意味していた。光岡とすばるの過去が回想されるのである。
 9巻の回想によって、すばると光岡の強固な関係が描かれると、キャラクターの関係も変化していく。対立構図だった吹部と軽音部は、そのまますばると紫織の対立でもあったが、ここにきて一人の生徒をどのように導くべきなのか、教師としての本分が問われるのである。二人の絆を詳細に描くことで、読者はすばるの意外な一面を知りえた。ここまで描いて今更二人を別々の道に歩ませることなんてできるのか。紫織は光岡をバンドに加えるために、すばるに最後通牒とも言える言葉をぶつける。「最高の仲間たちと 最高の演奏がしたい」。決定的だった。
 光岡を五線譜で縛り付ける象徴的な場面が描かれる。すばるにとって最良の選択だと思った正しさは、コンテストで結果を残すためのものだった。光岡の高校入学前の音楽に触れる楽しさを思い起こせば、彼女がメンバーに加わる下準備はとっくに整っていたと今なら気付けるが、すばるの内面を明らかにされると、これ以上メンバーを増やす必要はないのではないかという私の漠然とした思いは、作品としてキャラクターの頭数はすでに揃っているじゃん、という単なる手前勝手な作品分析であり、驕りであったことを思い知るのである。
 キャラクターは物語の奴隷ではなかった。私の中に巣くっていた、すばる先生的な物語として適度な姿があるべきという物語観は、紫織が光岡を仲間として必要だと宣した瞬間、紫織的なもっと自由で自律すべき物語観として再起動し、キャラクターは物語の原動力となって読者・私を導いていくのである。
 10巻の、いや、もうこの作品の白眉とも言えるライブシーンがいよいよ描かれる。「JACK in!」を引っ提げ、地元のフェスに吹部とともに参加する軽音部は、観客からは単なる吹部の前座と思われていたが、最初の一音から、演奏が爆風となって観客の心をふっ飛ばしていく。ここで流れてくる曲は、既存曲ではない。どんな曲が流れているのだろうか。
 必死に想像する。きっとこんな展開のロックに違いない。こんな感じの演奏に違いない。これまで各キャラのアップとコマの両端の擬音で演奏場面を演出していた手法が、ここでは、擬音そのものが弾丸のように風のように、ボーカルの声は見えない波動のように、すべての音が混然一体となって見えない音圧が観客に向かって吹っ飛んでいく。次の場面では擬音が消え、一瞬の表情が切り取られる。ドラムの初範、ベースのプリンス、キーボードの忍、サックスの茜、 ボーカルの五月、ギターの紫織。圧倒される観客たちの顔顔顔。擬音のない場面がさら続く。各キャラに均等に1頁使ってキャラクターたちの演奏する姿をさらに描く。彼らを取材するカメラマンの存在も大きい。彼の視線を通すことで、擬音がなくとも、読者は躍動感だけで音を感じるだろう。音が聞こえてくるようなマンガ、とは、音楽漫画の一つの評価軸に置かれることがあるけれども、私がこの作品から感じるのは、聞こえてくるのではなく、キャラクターの熱量に圧倒されて、むしろ聞こえるはずの音が聞こえないような錯覚がある。個人的な感覚だ。けれども、私にはこの表現がぴったりくる。そして確信めいて言えることがある。「SHIORI EXPERIENCE」のライブシーンの演出は、音がかき消されることにより、失われた音を読者は全神経を集中して、自分の記憶の中に眠っている音楽を思い出すのである。だから必死なのだ。本来聞こえるはずの音を、キャラクターの表情から、視線から、真っ暗闇の中であてもなく手繰り寄せようともがくように。ヒントはある。過去に描かれた既存曲だ。それらをもとに、きっとこんな音楽に違いないと、読者は演奏されている音を想像する思索を促され、キャラクターたちに先導され、音楽を奏でるのである。それは読者だけが獲得した、そのマンガから発掘したオリジナルの曲だ。作者のものでも誰のものでもない。読者ひとりひとりが得られた音楽が、このライブシーンを最高の曲に仕上げてくれるのだ。
 紫織たちの思いは、やがて音と視線が混じり合って一人のキャラクターに集められる。会場の後方ですばると並んで演奏を聴いていた光岡である。吹っ飛びまくる観客の中、彼女ただ一人が、紫織たちのメッセージを受け取る。どんな言葉か? この場に擬音が必要ないよう、この場の音は読者が過去の展開から想像するように、この時の言葉も読者は想像するだけで足りる、紫織たちと光岡の過去の経緯を思い出すだけでいい。すばると光岡の過去を揺るがすことはない。だって、二人の強い絆は誰にも侵すことが出来ないことは、過去の物語だから当然だ。けど、未来は違う。この先、光岡がどんな音を奏でてくれるのか? まだ描かれない物語を想像するだけで感極まる。光岡の背中を押す、文字通り、すばるは光岡の背中を押す。教師の本分が発揮された。紫織とすばるは同じ立場なのだ。
 4頁カラーで演出された光岡の演奏。1頁目でこれまで彼女を縛り付けていた五線譜や譜面が全身に描かれる。身体にしみ込んだ音楽によって失っていた演奏の楽しさを、 一瞬、読者をはっとさせるかのように、ドラムの音がドコダカパァンと入る。久しぶりの擬音が、次の起爆剤だ。見開きで全身に刻み込まれていたメトロノームのようなリズムパターンとしての五線譜が音符が弾け飛ぶ。このような表現でライブシーンを説明すると、ロックと吹奏楽・クラシックとの違いを自由と規律のように単純化していると思われるかもしれない。けれども、それは大きな間違いだ。光岡の身体の中に染み付いたリズムは、単なる自由へのあがきではない、奴隷からの解放ではない。彼女は、五線譜そのものもさえ自分の仲間として受け入れてしまう。それらは対立関係にあるわけではないのだ、それがすばると紫織の対立から融和へと物語が転換した理由でもある。土俵は違えど同じ音楽を志す二人の共闘の始まりでもある。4頁目、青い空に掲げられるペットが、解放感のすべてを表現する。「視野が広い」というモノローグが、あれほど広々と大ゴマを使って演出されていた会場の広さが、小さなコマにすべてを収めてしまう。光岡にとっては、この程度の広さを苦にもしないかのように。青が鮮やかだ。マンガにとってカラーは情報過多になって失敗することも多いし、単行本化でモノクロかそれに近い色合いにされることも多いだろう。だが、過剰な情報として黒く精緻に細かく細かく描いた五線譜が効果的で、それらが消え去ったことで、むしろさっぱりとした印象をもたらす、効果的なカラーとなった。
 そして、弾け飛んだはずの譜面たちが立ち上がる。「次は どんな音を 聞かせてくれるの?」と、わくわく感を光岡に語り掛ける。ここに物語の楽しさがある。前述の対立ではなく融和が、これまで縛っていた存在さえも楽しくさせる音楽の力が、彼女の音から発せられたのである。
 第一話で吹奏楽の演奏にジミヘンが憑依された状態で紫織が飛び込み、ギターの超絶テクを披露して演奏を台無しにした代わりに、ここでは吹奏楽のトランペッター光岡がバンドに飛び込んで超絶テクを披露して借りを返したことで、物語としては一回りした感がある。ここから本格的に伝説のバンドの物語が始まるのだろうけど、私にとっては、このライブシーンだけで、もうすでに伝説。

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