「ZNTV東京支局」

2011年夏 四季大賞

井上文月



 井上文月「ZNTV東京支局」は、未来の日本を舞台にSFの体裁を借りながら現代のマスコミのあり方を痛烈に批判する。元テレビマンだと自己紹介する作者の想いが詰まりに詰まったメッセージ性の強さに溺れることなく、主人公の性格はもちろん主要キャラクターの設定に堅実で確かなストーリー性に根ざした力作だ。拙さが目立つ筆致もあるけれども、物語は約180頁という単行本一冊分に及び、伏線ばっちし読み応え十分なのは間違いない。
 2037年、ZNTVという全国ネットのテレビ局に勤める芹沢は、東京支局への「左遷」を命じられる。東京を含む首都圏は2019年の隕石落下という惨事により壊滅し、再建不可能と判断された東京は、巨大な壁によって封印されていたのだ。そんな情報も何もかも遮断された東京にあるという支局には、何かあるのが? そもそも東京は今どうなっているのか? さまざまな不安の中、芹沢は壁の中に入っていった……そこは、想像以上に日本と隔絶された、巨大なスラム街だったのである。
 すぐ近くで行われている銃撃戦や闇取引、機能しない警察機関、アンテナの基地もないからテレビといえば衛星放送のみ。そんな中で、東京の中で起きる様々な事件を取材し報道を続ける支局員たちの姿は、決して報われる当てのない虚しいものであった。何故なら、東京の中の情報は、日本にとっては「トラウマ」でしかなかったからである。
 主人公芹沢を案内人に私たち読者は、東京の現在を目の当たりにすることになる。廃墟だらけのビル群で銃の携帯が許可されるほどの治安、そんな中でもニュース映像・番組として放映されることのない取材を飄々と続ける彼等に、自分の記者としての自負が揺らぐのに時間はかからない。
 そんな芹沢の着任早々に事件が起きた。10歳の女の子が強姦された挙句裸のまま放置され、凍死したのである。事件性はないと判断する警察に憤る芹沢、いつものことだという表情をする同僚たち、そして、死んだ女の子の仲間だった子どもたちの静かな怒り。これら3つのキャラクターの心情は、この事件をきっかけにして思いもよらぬ形で交錯し、発火する……
 黙殺される現場の声は、同時に、関心を寄せない人々を生む。これは多くの事件報道を見ていれば自ずと気付かされることであろう。今年の東日本大震災にしても、報道されなければ、人々は果たしてそれほどの関心を寄せたのかどうか疑わしい。現にほぼ同時期に起きた栄村大地震は、多くの家屋が倒壊し農業に至っては今もなお再建の目処が覚束ない現状をどれだけの人が知っていようか。もちろん知らないことを責めているわけではない。むしろ当然だ。何故なら、報道されないからだ。
 この作品の中では、テレビと対極にある情報メディアとしてインターネットを取り上げる。利用者が意志を持っていなければ接することが出来ない情報がネットの世界である。対してテレビは情報を不特定多数に確実に伝えることが出来る強みと視聴者の意志を自分たちの思う方向に向かわせる力も同時に備えている。何か事件が起きた時、誰かが伝えなければならないという使命感を抱いたとしても、それを伝えるにはテレビの影響が絶大だ。たとえネットでその件を伝えたとして、いったいどれだけの人々に届くのだろうか? 物語は、女の子の死から怒涛の展開によって意想外の大事件へと発展する。報道マンとしての自尊心と子どもたちの意志が一致すると、伝えたいという衝動は誰にも止められない形・報道番組となって、日本全国に届けられることになった。
 だがしかし、終盤、絶叫に近いような主張がところ狭しとフキダシの中で活字となったとき、違和を感じたのが正直なところである。別に作者の伝えたいことを否定するつもりはないし、むしろ多くの人々にテレビやマスコミのあり方を考えさせる牽引力がこの作品にはある。私は子どもたちの声に納得できなかったのである。
 彼等少年たちの主張、自分たちの存在が認められないことへの恐れと憤りは本物かもしれない。だが、生まれたときから惨事後の東京で暮らしているという彼等に、そもそも本当の意味で自分の存在意義を問う自覚が生まれるのだろうか。死と隣り合わせの労苦を強いられる日々の生活で、教育も満足に受けていないだろう。彼等が手にしていたのは銃だった。身を守るために皆で力を合わせて入手した銃は、人を脅し、殺す道具である。彼等が主張できる手段は、それしかなかったのである。だからこそ少年たちが最後に銃口を向けた時、伏線を踏まえつつ予感はあったので、やはりそれしかないのかという思いがあった。だからこそ、作者の大人としての思いを子どもの声に乗せたことと、子ども達らしい決断に違和が生じたのであるが、むしろそれこそが歪んだ環境下で育ったからこその彼等の言動なのだと捉えることもできるかもしれない。
 さて、作者が忘れているメディアがある。映画だ。ネットみたく、映画で伝えたいことは求めた者にしか伝わらないかもしれないが、それでも世界を動かす力があることを忘れてはならない。2005年のアカデネー賞最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した「未来を写した子どもたち」が、まさにそれだ(日本公開は2008年。私は後にDVDで観た)。私は「ZNTV東京支局」を読んで、すぐにこの映画を思い起こした。
 カルカッタ(現コルカタ)の売春窟で暮らす子どもたちは、この町で生まれこの町で死んでいく。小さい頃から労働力として働き詰めで、女の子はやがて売春婦となり、男の子もそれに関わる仕事に就く。彼等の母も祖母も……売春婦なのだ。そんな町を知ったカメラマンのザナは、現状にいてもたってもいられず町に住み、子どもたちと交流をすることになる。彼女は子どもにカメラを与え、好きなように撮ってきなさいと写真教室を始めるのだ。売春窟という閉じた世界しか知らない子どもたちが教室での活動を通じて外の世界を知っていく。そして、子どもたちが撮る写真は、こんな環境下で育った子どもの写真とは思えないほど新鮮なのだ。8人の子どもたちをこの苦境から(苦境と言うか、やがて売春婦になるだろう自分を致し方ないと受け入れている女の子もいるんだよな……)救うために、映画は子どもたちの写真を各地で展示し、収益金を彼等の進学に役立てようと奮闘する。いくつも立ちふさがる困難、思いがけず写真の才能を見出される少年、子どもたちの未来は果たして……。写真展や映画公開をきっかけに売春窟の子どもたちの救済運動は世界中の支援を今現在も受け続けている。
 「ZNTV東京支局」に登場した6人の少年たちに持たせるべきは銃ではなかったもしれないけれども、物語として彼等は死を賭して未来を切り拓いた。6人もの子どもたちを救えたと読むか、彼等は5万分の6に過ぎないと読むか。確実に伝わることは、現実を見て、いてもたってもいられないという主人公の強烈な蹴りに込められた思いの強さだ。
(2011.9.5)

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